103.象のチョー(ช)【前編】
喜ぶウィサーハを横目に、スープパンが鐘のイヤリングでホーノックフーク(ฮ)と連絡をとる。
(……チュアモーンのイヤリングは順調にみんなのもとへ行き渡っているようだな)
スープパンは俺とウィサーハの争いが収まったことを伝えたあと、これから鱗山の頂上に向かうと言った。
なおイヤリングを介した通話の場合、真実を閲覧するホーノックフークの力は発動しないようだ。相互の認識にずれを生じさせないよう慎重に確認をおこなっている。
ついでホーノックフークが俺と話したいと言うので、俺はスープパンの右耳に下がる鐘に近づく。
吐息を多く含んだ声が鐘から響く。
『ほー、トータハーン(ท)。そのほうはコーラカン(ฆ)のイヤリングを配りつつ、クマリーの文字学習を進めているそうじゃな。そこでなにか、わしに手伝えることはあるかの』
「ありがとう。でも、とくにない」
ファのことを伝えようかと思ったが、余計なことを言えば左肩の旗が俺のいのちを奪いかねない気がした。
「ところでホーノックフーク。リアンゲを復活させたのはあなたの指示なのか」
『しかり。現状リアンゲがもとのポジションに戻ったわけじゃあないが、それでも利用できるなら利用させてもらう』
私情を廃したホーノックフークの言葉を聞き、箱のなかのリアンゲが苦笑を漏らす。
一方ウィサーハは魚のしっぽを萎縮させ、スープパンのイヤリングに向かって話しかける。
「リアンゲさまを利用だなんて。やっぱりわたし、あなたへの殺意が消えそうにないわ、ホーノックフーク」
『まあトータオ(ต)がそのほうの口をふさいで無理やり大部屋から連れ出していなければ、そのほうはわしかノーヌー(น)を殺す勢いじゃったしのう』
イヤリング越しに衣ずれが聞こえる。
きっとホーノックフークは図書館塔の館長室で首を左右に倒しているのだろう。
『ともあれわしは殺意を向けられることにも慣れとるし、気にしとらんよ』
「気にしなさいよ、あなたのそういうところが腹立つのよ。まあ、もういいわ。キアに代わって」
『――なんだ、ポープラー(ป)』
か細く、甘ったるくもある声が通話に出る。
ウィサーハはすぐに言い返す。
「ずっと聞きたかった。不意打ちでリアンゲさまの首を落として、なにをあなたは思ったの」
『われはなにも思わない。貴様に詫びる気もない』
「……やっぱりあなたも気に食わないわ、キア」
『存分に嫌え』
キアの鋭い眼光が音だけで伝わってくるようだ。
『人に好かれたいなら、最初から暗殺者などやっていない』
「もっともね」
なまめかしく、ウィサーハの口もとがほころぶ。
「ただ、ホーヒープ(ห)から聞いたのだけどリアンゲさまのお首をきれいに落としてくれたことだけは感謝するわ」
『するな。ンゴーングー(ง)を殺したのはわれ自身だ』
「そう。最後に、あなたとリアンゲさま……実際はどっちが強いと思ってる?」
『ンゴーングーに決まっているだろう。必殺の不意打ちを一発で成功させる以外にわれに勝ち目はなかったのだから』
「さすがキア。暗殺一本で食べてきただけあって、力量を見抜く目も大したものね」
そして通話が切れたあとウィサーハがつぶやく。
「にしても相変わらずかわいげのないネズミとフクロウだこと」
あやめ色の瞳を細め、リアンゲの頭部にほほえんでみせる。
「でも二人ともリアンゲさまの価値を知っている。そういうところは嫌いじゃないかもしれません」
* *
続いて俺は医者の兵隊を呼び出してウィサーハと俺の体を治してもらった。
そんななか、リアンゲの頭部を収めた半透明の箱を左手に持ちながら、スープパンがやる気なさげに声をかけてくる。
「เอ้อ มันคืออะไร(うー・まん・くー・あらい)〔ところで、それなに?〕」
半分閉じた目を俺の左肩に刺さった旗に向けた。
色はだいぶ赤に近づいてきている。
(このままスープパンに教えたらホーノックフークにも伝わるな。その場合、ファはどうなるんだ)
俺はごまかすことにした。
「ただの趣味だ」
「น่าสงสัย(なーそんぐさい)〔あやしい……〕」
スープパンがこちらの真意を確かめようとじっと見てくる。
ここで溶岩の湖の周辺がズシンと揺れた。
宙を泳ぐ小さなナーングアック(人魚)の精霊たちは慌てふためいていたが、彼女らをウィサーハがなだめてくれた。
向かって左に生えた木々のあいだから大きな動物が姿を現す。
体高三メートほどの灰色の象だ。
鼻は太く体は豊満であり、牙も長い。
背中に取り付けられた鞍に何者かが乗っている。
騎乗者は俺たちの近くに象をとめ、とろけるような声で言う。
「あれ、ウィサーハさん。アーティとの戦いは終わったんです?」
象に乗っていたのは、さび色の髪と瞳を持つ女だった。
ジグザグに伸びた髪の一部をまとめ、左右に垂らしている。
鼻が高い。瞳だけでなく、耳も大きい。
耳たぶからは象牙らしきイヤリングがぶら下がっている。
格好は白い半袖のブラウスに、ゴワゴワした赤茶のベスト。
下半身をおおうのは丈の短い黒いプリーツスカートと、毛皮のような灰色のレギンス。
黒い厚底の靴はあぶみを踏み、赤茶の手袋をつけた両手は手綱を握る。
そんな彼女が、さび色の瞳でスープパンを凝視する。
「……なんで不思議ちゃんがここに。というかあなたが持ってる箱に、リアンゲさんの顔が入ってるように見えるんですが」
「ネーティさん、それには事情がある」
象にまたがった女――ネーティにスープパンが事情を説明した。
「近くの鱗山の頂上で気性の荒いナーングアックが出たとの目撃情報が寄せられた。これにはリアンゲさんの縄も関わっているみたい。だから彼と共に鎮めに来た」
「あー、はいはい」
ネーティは手綱をつかんだまま何度もうなずく。
ついで俺へと視線を移す。
「それはそうとアーティ、連戦だろうけどあたしとも戦います?」
「構わない」
「あとにして」
スープパンが半分閉じた目で俺とネーティをねめつける。
「二人にも協力してもらうから」
* *
溶岩をたたえた湖を離れ、俺たちは斜面を登っていく。
メンバーはスープパン、リアンゲの頭部、俺、クマリー、ネーティ、ウィサーハである。
ンゴーングー(ง)の力を失ってもなおリアンゲはかつて放った縄が近くに存在することを感じ取れるらしく、そのガイドをもとにスープパンが俺たちを先導する。
下半身が魚である手の平サイズのピーたちは、まわりにほとんどいなくなっている。
全員の歩調に合わせるため、俺はタハーン・ボックを引っ込めている。
そしてネーティの体高三メートほどの灰色の象は――。
ネコみたいに小さくなり、彼女の頭に香箱座りで乗っていた。
取り付けられていた鞍も消えてしまっている。
クマリーが興味深そうに、小さくなった象を見つめた。
「かわいいな~。お名前は象さんでいいんですよねっ」
「ぼくはルイだっつーの」
……わんぱく小僧みたいな声がした。
不思議そうにクマリーがネーティに話しかける。
「あれ? 今しゃべったのはネーティさんですか」
「いいえ、あたしじゃなくてルイくんです。この象さんの名前がルイなんです」
ネーティは両手を持ち上げ、ネコみたいになった象――ルイの脇腹をさわった。
「この子は鼻をなでられると喜びますよ」
「そうなんですか……っ」
クマリーはルイの鼻に手を伸ばそうとしたが、さすがに初対面でそこまでやるのはよくないと思ったのかなんとか自制した。
「初めましてクマリーです。よろしくお願いします、ルイくんっ」
「……ふん。お子さまには興味ねえよ」
ルイはツンとして鼻であしらう。
「んなことよりクマリー、ぼくと勝負しようぜ。気性の荒いナーングアックを先に鎮めたほうが勝ちな」
「受けて立ちますよ、ルイくん!」
「こらこらルイくん、なにをいきなりケンカ売ってるんです」
やんわりとネーティが口を挟む。
ただし、たしなめるというよりは心配しているかのような口ぶりであった。
さび色の瞳を向けて、右隣を歩く俺に謝る。
「ごめんねアーティ。うちの子が生意気で」
「そんなことないよ。愛嬌があってかわいいじゃないか」
「――見て」
ここでスープパンが前方の山の頂を指差す。
草木のほとんどない赤っぽい円すい形の岩肌のまわりを、ナーングアック(人魚)が飛んでいる。
頭部から魚の尾びれまでの長さは二メートほど。
そのナーングアックが俺たちを見つけるや否や、勢いよく宙を泳いでこちらに向かってきた。
次回「104.象のチョー(ช)【後編】」に続く!
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
ルイ(ลุย)→勇敢だ
ウー(เอ้อ)→ところで
マン(มัน)→それ
クー(คือ)→○○である
アライ(อะไร)→何/「มันคืออะไร(マン・クー・アライ)」で「それは何?」という意味になります。
ナーソングサイ(น่าสงสัย)→あやしい




