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102.魚のポー(ป)【後編】

 湖畔(こはん)に現れたクリーム色の髪(かみ)の女の子は、オレンジ色の直方体の箱を左手に持っていた。


 そこに入(はい)っている緑がかった長髪(ちょうはつ)とは(・)虫(・)類(・)のような目を持つ壮年(そうねん)男性の頭部をみとめた瞬間(しゅんかん)、ウィサーハが俺(おれ)から目を背(そむ)けて自分のまわりの壁(かべ)を破り、一直線(いっちょくせん)に女の子――の持っている男性の頭部めがけて宙を泳いだ。


 なまめかしい涙声(なみだごえ)を響(ひび)かせる。


「ああ、リアンゲさま。なんてお姿に!」


 頭部の収められた箱にだきつき、ほおをすり寄せる。

 すると箱のなかから聞き心地(ごこち)のいいガラガラ声(ごえ)が返ってきた。


「久(ひさ)しいね、ウィサーハ。わたしも君の元気な姿を見られてうれしいよ」

「……え、夢でしょうか」


 最初、ウィサーハは戸惑(とまど)ったかに見えたが、すぐに声を落ち着かせる。


「いいえ。その素晴(すば)らしいお声は、まさしく本物ですね……。リアンゲさま……ウィサーハはあなたと会えなかったときも変わらずお慕(した)いしておりました……」

「心配をかけてすまない。まあ見たとおり首から下(した)はなくなってしまったが、君としゃべれる頭は残っているから安心してほしい」


 男性の頭部が箱のなかで破顔(はがん)する。

 それを見ていたクマリーが驚(おどろ)きの声を上げた。


「え……え、スープパンさんに……リアンゲさんじゃないですかっ!」


 湖のほとりに現れたクリーム色の髪を持つ女の子がスープパンで、彼女(かのじょ)の箱に収められた頭部だけの男性がリアンゲである。


 それぞれホーヒープ(ห)、ンゴーングー(ง)の文字保有者にあたる。


(確かスープパンは切り落とされたリアンゲの首を自分の「箱」にしまっていたな。……だがまさか頭部だけになったリアンゲがいまだに話せる状態にあるとは)


 ここでスープパンが「ばーん」と唱えると、俺を取り囲んでいた箱が割れるように消失した。

 俺は剣(けん)を左手の平のトータハーン(ท)に納(おさ)め、アーガートに運んでもらってから湖畔に着地する。


 リアンゲのは虫類のような瞳(ひとみ)が俺に向けられる。


「傷ついているようじゃないかね、トータハーン(ท)」


 ついで泣きはらしているウィサーハをちらりと見て、うなずく。


「มิน่า(ミナー)〔なるほど〕……わたしの暗殺に関与(かんよ)したということで、君はウィサーハの復讐心(ふくしゅうしん)を正面から受けようとしたわけか」

「そうだ」


 答えつつ、俺はアーガートとユアックに消えるよう命じた。

 ウィサーハが俺のほうにあやめ色の視線を突(つ)き刺(さ)す。


「リアンゲさまの頭が健在なのは分かったわ」


 少ししぼんだ魚のしっぽを跳(は)ねさせる。


「だけどホーノックフーク(ฮ)とキアとアーティットがリアンゲさまを殺そうとして、彼(かれ)の首から下(した)をまるまる奪(うば)ったのは事実よ。やっぱりわたしは許せない」

「それなんだけど」


 くわえているアメの棒をスープパンが口(くち)から抜(ぬ)き、会話に加わる。


「リアンゲさんの首から下の胴体(どうたい)も『箱』に保存してあるから、いずれくっつけることはできると思う」

「いずれ……?」


 ウィサーハがスープパンをにらむ。


「やれるなら今すぐやりなさいよ、ホーヒープ(ห)」

「くっつけられるのはいろんなものを着脱(ちゃくだつ)できる力(ちから)を持つウォーウェーン(ว)だけ。でも今のクマリーには無理な話」


 半分閉(と)じた目で、スープパンがひるまずに視線を返した。


「あと胴体と頭部が再結合できる状態にあるのはキアさんがリアンゲさんの首をきれいに切断(せつだん)してたから。ラートリーさんの指示で」

「ウソ。偶然(ぐうぜん)に決まってる」

「キアさんにはその技量がある。ラートリーさんにはそれを指示する頭脳がある」


 確かにホーノックフーク・ラートリーなら、暗殺という強硬(きょうこう)手段に訴(うった)える以上いざというときの保険を用意していてもおかしくない。


 しばらく黙(だま)ったあとウィサーハは俺の前に歩み寄ってきた。


「アーティット。リアンゲさまが完全に死んだわけではないことが分かったとはいえ、わたしはキアもホーノックフークもあなたも絶対に許すつもりはないわ。体をなくすのはつらいし、首が飛ばされたときはとっても痛かったはずよ。たとえリアンゲさまが恨(うら)まなくても……正当な殺しであったとしても、わたしは死ぬまで恨むと思う」

「君の言葉を胸に刻むよ」


「謝(あやま)らないのね」

「君の気持ちが正しいように……俺はあのときの選択(せんたく)が間違(まちが)っていたとは思っていない」


「……ウィサーハ。わたしもトータハーン(ท)たちを恨んでいないよ」


 リアンゲの頭部がなだめるように言った。


「ノーヌー・キアほどの暗殺術を持つ人間がいなかったらわたしは君(・)も(・)含(・)め(・)て(・)文字保有者たち全員を殺していた」

「わたしは」


 振(ふ)り返り、ウィサーハが彼の頭部に向きなおる。


「あなたになら殺されても本望(ほんもう)です」

「そうか。だが旧ウォーウェーン……スーンの自殺をほう助(じょ)して、わたしがそれを忘れていたこともホーノックフークたちからすでに聞いた。おかげでいろいろ迷惑(めいわく)をかけたわけだ。本来ならわたしの罪は、首を飛ばされただけでは済まないんだよ」


 肩(かた)を落とすウィサーハに、リアンゲが優(やさ)しく声をかぶせる。


「でもウィサーハ。君がわたしのためにおこってくれるのは、とてもうれしい。コープクン」

「リアンゲさま……っ。もったいないお言葉です……」


 もう一度(いちど)ウィサーハはリアンゲの頭部が入(はい)った箱に駆(か)け寄り、魚のしっぽを震(ふる)わせ泣いた。


* *


「アーティット……リアンゲさまに免(めん)じて、今は矛(ほこ)を収める」


 涙(なみだ)をぬぐい、ウィサーハがなまめかしい声で意思を伝えた。


「だけど勘違(かんちが)いしないでちょうだい。心の整理がついたわけじゃないの。ただ……もしあなたがこれを逆恨(さかうら)みと思うなら、わたしを一発(いっぱつ)殴(なぐ)り飛ばしてもいいわ」

「なら殴ることはできないな」


 俺はウィサーハのまわりに集まる手の平サイズのピーたちを見つめた。

 彼女らは脚部(きゃくぶ)の代わりに魚の下半身(かはんしん)を持ち、宙を泳ぐように舞(ま)う。


 おそらくナーングアック(人魚)の変異種なのだろう。

 みんなウィサーハを慕(した)っているようで、その場を去ろうとするそぶりを見せない。


 ウィサーハは俺から鐘(かね)のイヤリングを受け取ったあと、クマリーを手招(てまね)きする。


「あなた、クマリーと言うらしいわね。わたしはウィサーハ。魚のポーを意味するポープラー(ป)の文字保有者」

「ウィサーハお姉さん、よろしくお願いします」


 互(たが)いに近寄り、礼をする。

 自嘲(じちょう)気味(ぎみ)にウィサーハがほほえむ。


「クマリー。大切な人が傷つけられて許せないのなら、あなたはわたしをぶったたいてもいいのよ」

「ぶったたきません。そうしたらウィサーハお姉さんの気持ちもお兄さんの意思も傷つけてしまいます」

「……そう。では、なぞりなさい。あなたのウォーウェーン(ว)がスーンのレベルにまで覚醒(かくせい)してくれないとリアンゲさまの体が戻(もど)らないわ」


 ウィサーハが後ろを向き、魚の尾(お)びれを持ち上げる。

 うろこのない部分が付け根近くにあり、そこにป(ポープラー)の字が赤く浮(う)かんでいる。


 ただし、魚のしっぽは戦闘時(せんとうじ)よりもしぼんでいるようだ。

 どうやらウィサーハが興奮したときに膨張(ぼうちょう)し、落ち着いたときに縮小する性質を持つらしい。


 いつもの流れでクマリーの右人差し指がポープラー(ป)をすべる。


(だがこの光景もあと少しで、残り数個の子音字をコンプリートすれば終わる……)


 まず左上に時計回りで小さな丸を書く。

 次に丸の右側から線を下ろし、左下に来たら下(した)に張り出す弧(こ)をえがきつつ右に寄る。


 右下よりも少し上に達したところで線を上げる。

 ここまでは完全にボーバイマーイ(บ)と同じ。


 ただしポープラーについては丸と同じ高さでとめるのではなく、丸よりも高い位置まで線を伸(の)ばさなければならない。


 そうしてポープラー(ป)の字が完成する。


 やはり礼を述べつつ、クマリーが同じ字を何度も宙に書きしるす。

 字についての所感も口(くち)にする。


「葉っぱのボー(บ)からさらに飛び出すところが、雄大(ゆうだい)に泳ぐお魚さんみたいで力強(ちからづよ)さを感じますっ」

「魚が葉っぱから現れたりするかしら……?」


 疑問に思いながらもウィサーハは、ポープラー(ป)の音が息(・)を(・)出(・)さ(・)ず(・)に(・)発音する「ポー」であることを説明した。


 息を出すポープン(ผ)、ポーパーン(พ)、ポーサムパオ(ภ)とは似て非なる音ということだ。


 続いてウィサーハという名前の書き方をクマリーが知りたいと言ったが……。

 ソースーア(ส)を「サ」に、ホーヒープ(ห)を「ハ」に用いると教わっただけでクマリーは難なく名前をかたちにしてみせた。


 ウィ(วิ)はウォーウェーン(ว)とピンイ(–ิ)で、サー(สา)はソースーアとラークカーン(า)で、ハはホーヒープであらわせる。声調記号もない。


 よって「ウィサーハ(วิสาห)」という名前をクマリーは引っかかることなく宙に書くことができた。


「コープクンです。ウィサーハお姉さんのお名前はするりと耳と頭に入ってきます。なめらかできれいで、それでいて最後のホーヒープ(ห)のシメもイカしていますっ!」

「そ、そう。わたしの名前を褒(ほ)めてくれたのはリアンゲさまに続いてあなたが二番目(にばんめ)よ」


 このときウィサーハの魚のしっぽがやや膨(ふく)らんだ。

 続いてクマリーがリアンゲとスープパンの名前も書くんじゃないかと俺は思った。


(ウォーウェーンを正式に継承(けいしょう)する前に出会った文字保有者のうち、すでにジョットマーイ(จดหมาย)とエーン(เอง)の名前の書き方は本人から直接(ちょくせつ)教えてもらっているからな)


 ジョットマーイの名前は声調記号のない簡単な並びであり、エーン(เอง)についてもテーラ(แต่ละ)さんの「エー」とは異(こと)なりマーイナー(เ)を一(ひと)つだ(・)け(・)使う「エー」であることを意識すればすぐに書ける。


 だがクマリーはファを追う俺に気をつかったのか、それ以上この場で名前を教わるのを控(ひか)えた。


 代わりにリアンゲとスープパンに質問をする。


「ところで再会できたのは喜ばしいですが、お二人(ふたり)はどうしてここに?」

「凶暴(きょうぼう)なピーを封(ふう)じていたわたしの縄がこの近くに――鱗山(プーカオ・グレット)にいるかもしれないという情報を得たのでね、ホーノックフークが出動しろとさ」


「ホーノックフーク……」


 ウィサーハが顔をゆがめ、リアンゲに問う。


「もしかしてリアンゲさま。ホーノックフークはわたしがアーティットに復讐(ふくしゅう)を仕掛(しか)けるとも予想していたのですか」


 言われてみればリアンゲたちの出現タイミングは都合がよすぎた。これを偶然と片付けるのは難しい。

 この発言に伴(ともな)い、ウィサーハの魚のしっぽが縮む。


「つまりわたしたちの戦いを収めるためにホーノックフークはリアンゲさまとわたしを意図的に会わせたということ。なんか気に入(い)りませんわ」

「どうだか。君が生まれ故郷(こきょう)の近くにいる保証もなかったし、ただの運命かもしれんぞ」

「う、運命だなんて! ああ、リアンゲさまにそう言っていただけるなんてウィサーハは幸せものです……っ」


 顔を赤らめたウィサーハのしっぽが瞬時(しゅんじ)に太さ二(に)メート以上にまで膨張(ぼうちょう)し、溶岩をたたえた湖面を何度も何度も激しくたたいた。

次回「103.象のチョー(ช)【前編】」に続く!


今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り

ミナー(มิน่า)→なるほど

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