97.モントーのトー(ฑ)【前編】
カエルが「เทพนิยาย(テープ二ヤーイ)〔神話〕」と口にした直後、なにかが起こった。
緑がかった茶色の皮膚を持つカエルから目を離し、俺は立ち上がった。
誰になにをされた実感もないのに、どこかおかしい。
「อัลไล(アンライ)〔……なんだ?〕」
クマリーもチャーイハートもどこにもいない。
湿地のように広がっていた浅い川もいつの間にか消え失せ、あたり一面が白い地面の殺風景にすり替わっている。
俺は視線を落とし、足もとのカエルを見つめた。
(そもそもこのおかたは……?)
直後、自分のほおを冷や汗が伝う。
(……待て。なんで俺はカエルを「このおかた」と呼んだんだ)
そう考えつつも無意識のうちにひざまずき、目の前のカエルに礼をしていた。
カエルはカエルでもその目は慈愛に満ちており、全身から高貴なオーラがほとばしっている。
(このカエル、ただ者じゃない。カエルに礼を尽くすという意味の分からない状況にあっても俺自身に違和感が生じていないのがそもそもおかしい。チャーイハートの仕業とも思えないが……)
ここでカエルが鳴き、後ろを向いた。
俺もそちらに目を向けると晴れた空から茶色の風呂桶が降ってきた。
(洗面器のオー(อ)を持つジャムークなら出せそうな容器だけど彼が近くにいるわけでもないよな?)
あらためて周囲を見回すも、やはりジャムークどころかほかに人は見当たらない。
またカエルの前方を見やると地面が揺れた。
茶色い牛の群れがのんびりと近づいてきているのだ。
(多いな。五百頭ってところか。全員メスのようだが)
牛たちは風呂桶の前でとまった。
うち一頭が桶のそばで身を沈めた。
その牛に別の牛が乗る。
ついでカエルが飛び跳ねて俺から離れる。
上に乗った牛の腹側に張り付き、カエルは乳をしぼり始めた。
白い液体すなわち牛乳とおぼしきものがしたたる。
風呂桶の上部には雨樋のようなものが取り付けてあった。
牛乳がそこに落ちてすべったあと、桶のなかに流れていく。
乳しぼりが終わった牛はその場から離れ、別の牛と交代する。
こうして次から次へとカエルは乳しぼりに精を出し、ついに風呂桶が白い液体でいっぱいになった。
足場を務めていた牛も別の牛とその役割を代わってもらい、カエルの乳しぼりを受ける。
(……この謎の光景はなんなんだ。もしかして夢か。マレットの水牛乳を飲んだからこんな夢を見ているのか)
カエルの乳しぼりの手がとまったところで牛たちは桶から少し離れた。
俺から見て右前の地平線から何者かが現れる。
知り合いではない。
露出の多い服を着た仙人らしき男が、ゆったりとした足取りで桶へと接近する。
続いて俺の左前、左後ろ、右後ろからも新たに三人の男が出現した。
いずれも凡人からはかけ離れた雰囲気を持つ。プラトゥ風に言えば、すさまじい魂が感じられる。
(仙人といえば仙人のソー(ษ)を持つジウを連想するが……この四人の仙人も一人一人が規格外……!)
こうべを垂れたまま、俺は仙人たちの動向を見守る。
彼らは俺に目もくれず牛乳で満たされた桶のまわりに集まった。
それから両手で牛乳をすくい、口もとに持っていく。
「いやあ~、いつもながらアロイな」
「やべえわ」
「そういえばおぬし、最近修行のほうはどんな感じよ?」
「ぼちぼちかなー」
……談笑まで始めた。
(さすが仙人だな。もう俺の到達できる領域じゃない)
声をかけるのもはばかられる。
(そういえばカエルはどこに行った)
俺がそう思うと同時にあたりが暗くなった。
だがすぐに明るさを取り戻す。
仙人や牛、白い液体で満ちた桶は消えている。
代わりにカエルが白い地面を跳ねていた。
しかしすぐにカエルはとまり、息を殺す。
カエルの視線を追うと、蛇がいた。
その蛇は、下半身が蛇で上半身が人である生き物と見つめ合っている。
(あれはナーク……蛇の精霊か。見たところ女性だが、蛇との逢瀬の最中のようだな)
ここで足音が響き、先ほどの四人の仙人が蛇とナークの前に姿を現した。
予定外のことだったようで仙人は驚いている。
まずいところを見られたらしくナークの女も慌てており、蛇と共に遠くへと逃げた。
仙人たちが口々に言う。
「あれ? さっきのナーク、どっかで見たような」
「もしかしてあのおかたの娘さんじゃないかね」
「しかしあの蛇と密会していたのは問題ではないか。さっさと父親に知らせたほうがいい」
「いや誤解の可能性もある。すぐに知らせるよりは事実関係を明らかにして一報するのがよかろうぞ」
話がまとまったところで、またあたりが暗くなる。
周囲が明るさを取り戻したとき、再び風呂桶が現れた。
牛たちはおらず、白い液体でいっぱいの桶のそばにカエルが行儀よく座っている。
(新たに乳しぼりを終えたところかもしれないな)
仙人たちも見当たらない。
どうやらカエルは仙人が牛乳を飲みに来るのを待っているようだ。
桶に近づく者が現れる。
カエルは飛び跳ねようとしたが、急にとまって気配を殺した。
現れたのが仙人ではなくナークの女だったからだ。
桶の死角に隠れたカエルには気づかず、ナークの女がいまいましげにつぶやく。
「仙人どもめ……絶対に始末してやる」
蛇との逢瀬を目撃されたため、それを父親に知らされる前に仙人たちの口を封じようと考えたらしい。
本来なら彼女をとめるべきだが、俺はひざまずいた状態のまま手も口も動かせない。
向こうも俺を認識していないようだ。よってただ見ていることしかできない。
ナークの女は口をあけ、蛇のような細長い舌を伸ばした。
女の舌から透明な液体が四滴したたり落ちた。
(おそらく無味無臭の毒だな。これが溶けた牛乳を飲めば仙人といえども死ぬだろう。四人全員を確実に始末するつもりなら飲んで五分後くらいに効く毒を使ったか。即死級の毒なら一人が死んだ時点でほかの三人が危険に気づくし、反対に遅効性がすぎれば彼らが死ぬ前に女のことを父親に知らせる可能性がある。そのような毒を使用できるからこそ、女も再び見つかるリスクを負ってまで仙人たちの桶に近づいたと考えられる)
女は毒液とおぼしきものを桶の牛乳に垂らしたあとニヤリとし、すぐにその場から去った。
そのあと隠れていたカエルが死角から出てきて、困ったように周囲を飛び跳ねる。
(……人間の言葉をしゃべれないとすれば、仙人たちに毒のことを伝えることは不可能。見たところ牛乳自体に変化はなく、飲む前に仙人たちが自力で毒に気づく見込みも薄い。かといってカエルの力では仙人たちをとめられない。この状況でどうするつもりだ)
俺はじっとカエルの様子を見つめた。
しばらくカエルは慌てていたが、仙人たちの足音が遠くから聞こえてきた瞬間に意を決したように風呂桶のふちに飛びついた。
そしてカエルはみずから毒入り牛乳に身を投じた。
(驚いたな……仙人たちが飲む前に自分の体で毒を証明するのか)
カエルの持つ慈愛に満ちた目と高貴なオーラは、俺の気のせいではなかったようだ。
確かにそのカエルは、高潔な心を持っていた。
そして四人の仙人が桶を取り囲む。
仙人たちは白い液体に浮かぶカエルの遺体を見下ろした。
「な……っ! こやつ、われわれの前に牛乳を飲もうと思ったのか、なかにダイブして溺れ死んでおるぞ!」
「せっかく楽しみにしていたのにー」
「待て待て、カエルなら泳げるであろう。なんかあったんじゃないのか」
「確かに。もしや先日のナークの娘も関係しているのかも……おや」
このタイミングで俺の体が動けるようになった。
しゃべることはできないが、なにかに突き動かされるように桶のそばに寄り、牛乳をすくった。
四人の仙人が見守るなか、俺はそれを口に含んだ。
そして倒れた。地面に右半身がぶつかり、音を立てた。
見ていた彼らは目をギョッとさせる。
「ネズミが死んだ。まさか毒か!」
「カエルは溺死ではなく毒で死んだっぽいな」
「ナークの娘の仕業だな。逢瀬を見られたからわれらの口封じを図ったのだ」
「もしかしてカエルはナークが毒を仕込むところを目撃し、われらのいのちを守るためにおのれのいのちを捧げたのではないか……!」
気づいた四人は涙した。
仙人たちは同時に言う。
「なんて美しい心を持つカエルだ。このまま死なせることはできん」
四人はカエルの遺体が浮いた桶を取り囲んだまま互いに手をつないだ。
なにか呪文のようなものを唱えている。
すると死んでいたはずのカエルの体がピクリと動いた。
それから毒入り牛乳が光る。
光が収まったあと、牛乳の代わりにきれいな水が風呂桶にたたえられていた。
倒れた俺の角度からは見づらいものの、桶から透明な液体がこぼれ落ちる。
そしてあまりにも完璧な美貌を持つ女がカエルの代わりに桶から出てきた。
慈愛に満ちたまなざしと高貴なオーラから、彼女こそがあのカエルだったのだと瞬時に分かる。
(自分の身を犠牲にしたカエルの生きざまに感銘を受け、仙人たちがそのいのちを転生させたということか)
四人の仙人は喜び、カエルだった女にみずからの服を差し出した。
女も仙人たちにほほえみ、感謝の言葉を伝えた。
生まれ変わり、人の言語を話せるようになったらしい。
五百頭の牛たちもやってきて、祝福するように鳴き始めた。
このシーンに来たところで、またまた周囲が暗闇につつまれる。
美貌を持つ女も仙人もなにも見えない。
(話はいったん終わりか。ナークの女と蛇がどうなったかは気になるけど、このあと仙人たちが父親に知らせることを思えばこれ以上首を突っ込むのは野暮だろうな)
* *
だが物語が途切れたならやることがある。
「出てこい……俺にこの物語を見せた脚本家」
闇のなかで立ち上がり、俺は口をひらいた。
「でなければタハーン・プルーンで空間を焼きつくす」
「安いおどしだ」
真上から、慈しむような声が落ちてくる。
「しかし、いかにして隠された脚本を見抜いた」
「暗転と共に次々と変わる場面に、カエルの乳しぼりといった現実感のない光景を見れば明らかだろう」
「足りんな。人知を超えたピーによる現実だった可能性もあろう」
「いいや、これは演劇だ。なぜなら牛乳に毒を入れられたときカエルは人の言葉をしゃべらなかった。『ナークの娘が毒を入れていた』と仙人たちに伝えるべき場面で。だがカエルは俺をこの世界に引きずり込む前に『เทพนิยาย(テープ二ヤーイ)』すなわち『神話』とはっきり口にしていた。つまりカエルは人の言葉を話せるくせに話せないふりをしていた『演者』だったというわけだ」
声の聞こえる上を向き、俺は続ける。
「それが分かったから俺は毒入り牛乳を口に含んだ。案の定、俺は死ななかった。これこそが、この世界がリアルの劇物を廃した演劇だという証拠だった」
「ではなぜ毒のない液体を飲んで倒れた」
「言う必要があるか?」
あたりの闇が次第にかき消えていく。
「この世界に入ったからには、俺も演者としての役割をまっとうしたかったんだよ。そうしないと、物語の結末が見られないと思ったからな」
そして――。
ひらけた闇の向こうから、クマリーたちのいる浅い川面が再び眼前に広がった。
見回したところ、もうカエルはどこにもいないようだ。
次回「98.モントーのトー(ฑ)【後編】」に続く!
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
アンライ(อัลไล)→なに?
ナーク(นาค)→ナーガ/蛇神




