96.小僧のノー(ณ)【後編】
「キサマら、とりあえず座るといい」
チャーイハートはスカートの裾を太ももまでたくし上げたあと、浅い川面に正座になった。
ついで腰の円盤を引っ張る。
円盤は固さを維持したまま外側に伸び、直径二メート程度の円に戻った。
まるでベンチに座るのを勧めるときのように、チャーイハートが灰色の面をポンポンたたく。
ことわるのも悪い気がしたので俺は彼女の腰から延びる円盤に乗ってあぐらをかいた。なお靴は脱いでいる。
さらに俺の足首にクマリーが座ったがチャーイハートは少しも苦しそうではない。
(ノーネーン(ณ)の力のおかげで、自分と接続する円盤に負荷がかかっても平気というわけか)
はたから見れば、女性の上半身が生えた円盤に男と精霊が座っているというなんとも奇妙な光景だ。
(拷問と勘違いされかねないな)
そして俺は鐘のイヤリングを渡す。
チャーイハートは説明を受けると、迷わず自分の右耳にイヤリングをつけた。
次にクマリーがチャーイハートの文字をなぞらせてほしいと頼む。
快くうなずいたチャーイハートは左手の平の赤いณの字を見せた。
クマリーが前のめりになり、ノーネーン(ณ)をなぞる。
左下に時計回りで小さな丸を書いたあと、丸の左側から線を持ち上げる。
途中で少しだけ右に寄り、すぐ左に戻す。
右に進みつつ上に張り出す弧をえがく。
それから線をまっすぐ下ろす。
ここまではトゥアムのトートゥン(ถ)やンゴットガームのチョーガチュー(ฌ)に似ている。
ノーネーン(ณ)の場合は線が底に達してから右斜めに上昇する。
さらに左下の丸と同じ高さに新しい丸を時計回りで追加する。
すでに書いた斜めの線を突き抜けてやや右に寄ったのち、まっすぐ線を上げて右上でとめる。
これでノーネーン(ณ)の文字は完成だ。
「ハーチャお姉さん、学びをありがとうございますっ!」
灰色の円盤にクマリーが何度もノーネーン(ณ)をえがく。
「トゥアムさんのトートゥン(ถ)にキアさんのノーヌー(น)が隠れている感じがして、なんとなくノーネーン(ณ)には探究心をそそられますね~。音はノーヌーと一緒なんでしょうかっ」
「しかり。拙の文字もキアの文字も『低子音単独字』であるぞ」
樺色の髪を揺らし、チャーイハートが不敵に笑う。
「低子音や単独字についてはキサマがすべての子音字をマスターしたときに分かりやすく教えよう。拙の趣味は性格分析。それをもとに『子音字型性格診断』を拙は開発した。この診断を聞けば四十二ある文字についてますます理解を深めることができるはずだ」
「楽しみですっ!」
子音字型性格診断がなんのことかは不明だが、クマリーの勉強に役立つものであればいいと思う。
このあとクマリーはチャーイハートに名前の書き方を教えてほしいと言った。
ただしチャーイハートの最初の子音字はまだクマリーの学習していないチョーチャーン(ช)なのでこの字については俺がクマリーの手を取って書いてみせた。
以降の文字列は難しくない。「アー」の音をあらわすために母音記号のラークカーン(า)を続けたあと「ヤイユエヨ」の「イ」としてヨーヤック(ย)を置く。
加えて「ハー」の音を示すためホーヒープ(ห)と二個目のラークカーン(า)を添える。「ハヒフヘホ」の音としてはホーノックフーク(ฮ)も存在するが、単語に使われる率が高いのは圧倒的にホーヒープのほうである。
最後の「ト」にはドーデック(ด)を用いる。
すでにクマリーはマレット(เมล็ด)の「ト」をドーデック(ด)で表記しているため、引っかかることなく末子音のドーデックを受け入れることができた。
声調記号もなかったので、今までの名前よりもスムーズに「チャーイハート(ชายหาด)」という文字列がクマリーによって書かれた。
「ハーチャお姉さん、重ねてコープクンです」
灰色の面にくりかえし指をすべらせ、記憶する。
「ラークカーン(า)二つのリズミカルな響きと整った文字配置がクマリーの心をクギ付けにしますっ!」
「痛み入る。まさに円盤で分かたれた拙の上半身と下半身のようであろう」
チャーイハートは円盤に置いた両手を愉快そうに振った。
「ともあれ強さを秘め、かつ勉強熱心でもあるクマリーを見せつければ……同志ファも気づくかもしれんな。トータハーン・アーティットを堕落させた存在など最初からどこにもおらず、したがって肝心のアーティット自身も腑抜けようがなかったと」
「……チャーイハート」
俺は彼女の名前をゆっくり呼んで目を合わせた。
「君はそのことを明らかにするためにクマリーの力量を見てくれたんだな。クマリーがファの計画にとって邪魔かどうか判定するためじゃなく、俺たちにとってクマリーが立派な精霊であると証明するために」
思えばチャーイハートは勝負のさなか、あおるふりをしてクマリーに戦い方のヒントを的確に与えてもいた。
相手のことを気づかいながら、チャーイハートはクマリーと真剣に向き合ってくれたのだ。
「……ありがとう」
「分からんぞ、クマリーと戦った理由はもっと私情に関わることかもしれん」
一瞬だけチャーイハートが目を伏せる。
「拙はウォーウェーン(ว)の継承者をしっかり見ておきたかった。個人的な趣味で同志ファやアーティットの新たな側面を観察したいとも思っていたが、一番はスーンさまのウォーウェーンが正しい者に渡ったかどうか不安だったのだ」
ノーネーン(ณ)を見つめ、しばらく黙る。
話したいことがあるなら聞きたいと俺が促すと、チャーイハートは静かに言葉を継いだ。
「あるところに双子の姉妹がいた。一人はチャーイで、もう一人はハートという名前だった。だがある日、崖から二人同時に落ちて大ケガを負った。チャーイの下半身はほとんど砕け、ハートの上半身はつぶれてしまった。そこに一人のおじいさんが通りかかった」
彼女の言うそのおじいさんが誰であるかはすぐに分かった。
「おじいさんはチャーイに言った。『このままだと二人とも死ぬ。治すこともかなわん。そこで私がくっつけてあげよう。それぞれ無事な上半身と下半身をピッタリとね』と。チャーイの上半身とハートの下半身は奇跡的にきれいなままだったから。ハートもほとんど聞き取れない声で『そうしてほしい』と同意した。おじいさんはチャーイにノーネーン(ณ)を刻み付け、ハートの下半身と接合させた。その際、チャーイの上半身とハートの下半身のあいだに灰色の円盤状の石を入れた。こうして誕生したのが拙だ」
スーンがウォーウェーン(ว)の力を使って双子の体を癒着させたらしい。
「ただ、拙には分からなくなった。自分がチャーイなのかハートなのかどちらでもあるのかどちらでもないのか。そんな拙におじいさんは――スーンさまは『チャーイハート』という名前を与えてくれたんだ。それから彼は拙の心の揺らぎを肯定してくれた。『その揺らぎこそがチャーイハートの人格なのだ』と」
チャーイハートがあごを引いたまま、樺色の目を俺に限りなく近づける。
「アーティット、キサマは彼の本性とじかに接したそうだが……それでも拙のスーンさまへの感謝は消えんし、そのウォーウェーン(ว)が今後適切に使われることを願っているぞ。だからこそスーンさまのウォーウェーンを継承したクマリー・トーンがどのようなピーであるかもハッキリさせておきたかったわけだな。……もちろんスーンにとどめを刺したというキサマを恨みもしない」
「どうしてだ」
「スーンさまの人格もまた、揺らぎのなかにあったのだと思うゆえ」
軽く笑って、チャーイハートは天に両腕を伸ばした。
「はあ~……話した話した話したぞー」
脳に直接響くような声でそう口にしたあと、腕をひらいて静かに下ろす。
「さてクマリーにアーティット。拙が腰の円盤を上流方向に転がしてキサマらを南に誘導したのには理由がある。下りて川面を見てみるがいい」
そんなチャーイハートの言葉に従い、俺とクマリーは礼をしたあと川面に着地して周囲を観察した。
俺はしゃがんで靴をはきなおしながら、さらに上流の川面になにかがいるのを見つけた。
それは緑がかった茶色の皮膚を持つ両生類だった。
「カエル……?」
大きさは俺のこぶしと同等である。
カエルがパシャパシャ跳ねて俺のもとに寄ってきた。
ついで口を大きくあける。
「เทพนิยาย(テープ二ヤーイ)」
慈しむような声がカエルの口の奥から聞こえた。
次回「97.モントーのトー(ฑ)【前編】」に続く!
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
チャーイ(ชาย)→端
ハート(หาด)→砂浜
テープニヤーイ(เทพนิยาย)→神話




