◆6 兄の婚約者は、自ら紅茶をかぶっておいて、被害者ぶる女性でした。
三歳上の兄オジェが留学から帰って来てから二年ーー。
おかしくなった兄の行状は、ちっとも改まる気配がなかった。
帝王学の授業から頻繁に逃げ出し、王都の繁華街で怪気炎をあげていることは、平民たちの間でも話題になっていた。
国王になるための基礎修練を怠っているのだが、王家の血筋を伝える唯一の若い男子ゆえに、王位継承を脅かす存在が皆無なのだ。
それゆえ兄が好き勝手に振る舞っても、その地位が揺らぐことはなかった。
留学前は、正室であるカドリー王妃や、その娘であり、妹の私、ソルニア王女が存在する手前、殊勝に勉学に武道に励んでいた。
ところが、留学を機に、一気に放蕩を始めるようになった。
そればかりか、「女性であるソルニアが王権代理となっている現状はおかしい」「次期国王である自分の生母であるシャロワ妃を王妃に据えないのはおかしい」と訴え始めていた。
だが、シャロワを王妃にしなかったのは父王サウルスの決定であった。
正室のカドリー王妃が亡くなった際、側室のシャロワ妃が王妃になるかと思いきや、「踊り子あがりの彼女には教養がない」と父王様が断言し、さらには留学が決定していた兄のオジェを押し除けてソルニアが王妃代理、引いては王権代理にした経緯がある。
その父王様の決定を、今頃になって、兄のオジェは非難し始めたのだ。
おそらくは兄の婚約者パスワケレスに唆されてのことだろう。
マルチノ王国にとって、迷惑の根源である彼女が、いきなり海を渡って我がマルチノ王国へと来訪してきた。
ソルニア王女による歓待がなければ、マルチノ王宮に入るのが憚られる、という。
奥の院でソルニア王女を出迎えたのは兄のオジェであった。
整えられた金髪をわざわざ掻き上げ、必要以上にラフに振る舞う三歳年上の兄に、妹である私は苦言を呈した。
「私がいろいろと忙しいのを承知で呼びつけて。
何様のつもりよ」
兄はどこか得意げに鼻を鳴らす。
「何様って、決まってるだろ?
俺は将来のマルチノ王国の国王陛下だ。
そして俺の婚約者パスワケレスは王妃殿下というわけだ」
「だったら、お兄様の許可だけで、彼女に王宮でも何処でも入り込ませたら良いじゃない?
お兄様は次期国王陛下なんでしょ?」
「ああ。
だからもうすでに、彼女には中庭テラスで待ってもらっている。
ぜひ、王権代理であるおまえに挨拶がしたいんだと。
礼儀正しいだろ、俺の婚約者は。
じゅあ、あとは任せたから。
俺はすぐ近くの屋内におられる母上に呼ばれていて、これから向かうから」
「わかったわ」
王権代理としては、彼女の実家であるバンシェル帝国と要らぬ摩擦を起こすわけにはいかない。
片手を挙げて立ち去る兄の背中を見送ったあと、私は中庭に向けて歩を進めた。
緑に囲まれた白いテラス席には、真っ赤なドレスを身にまとった桃色髪の女性ーーパスワケレス・バンシェル皇女が先着していて、ティーカップに口を付けていた。
私、ソルニアが一礼して向かいの席に腰を下ろすのを認めると、黄色い瞳を細めた。
わざとらしく、「はあ」と溜息をつきながら、カップを皿の上に置く。
「貴女の国のお茶、あまり美味しくないわね」
「失礼しました。
で、何の御用ですか皇女殿下?」
「前から言っているでしょう。
あなたのその胸飾りとブレスレットをちょうだいと」
私は青いドレスに白い百合の花をあしらった胸飾りと、黄金色のブレスレットを左腕に嵌めていた。
私は静かにティーカップを口に運びながら返答する。
「ですから、その件については、何度もお答えしておりますでしょう?
これは母の形見ですので、お渡しすることはできません、と。
母の実家であるオクシタニアのものなんです。
皇女殿下もご存知でしょう。
古くは独立国家であって、皇女殿下のお国とも交易関係にあったはずです」
「ええ。オクシタニア……知っているわ。
バンシェル帝国とマルチノ王国とに挟まれた、海に浮かぶちっぽけな島国でしたわね。
たしか今ではマルチノ王国に属しておられるとか」
「私の母がマルチノ王国の王妃になりましたから」
「ほんと、あんな小さな島国、海産物ぐらいしかないかと思っていたのに、こんな綺麗な装飾品を作っているだなんて知らなかったわ」
「ご謙遜を。
皇女殿下のお国には遥かに精緻なデザインをした装飾品があることは存じております。
殿下はただ単に私のお気に入りを奪い取りたいだけなのでしょう?」
パスワケレス皇女は眉を吊り上げて、テーブルの下で、思い切りソルニア王女の脚を蹴りあげる。
(痛ッ!?)
私は苦痛に顔を歪め、反射的に足を椅子の側に引っ込める。
痛みを堪えるために、唇を咬み、こめかみの血管をピクピクと脈打たせる。
が、相変わらず、ティーカップを手にしたまま、悠然と紅茶を口に含み続けた。
当然ながら、やり返したりはしない。
そうした悠然とした私の態度に、兄の婚約者は苛立ったらしい。
扇子を広げて、その裏で囁いた。
「さすがは王権代理サマといったところかしら。
我慢強いわね。
貴女の兄とは大違いだわ」
兄の婚約者は、兄が不在のところでは、平気で兄を小馬鹿にした発言をする。
兄を本心ではどう思っているのかを良く示す事例であるが、同時に、兄を完全に尻に敷いている自負が窺われる。
もし妹である私、ソルニアが、「婚約者の皇女がお兄様を小馬鹿にしていた」と告げたところで、彼女、パスワケレスが、「そんなこと、申し上げておりません」とさめざめと泣くだけで、怒りの矛先が妹の私に向かうことを、彼女は良く承知しているのだ。
「お兄様はすぐ感情的になるところがおありですから。
それに、自分を軽く見積もる人物に易々となびくところが、情けないところですわね」
「あら。
存外、辛辣ね、貴女。
でも、残念。
矯正する機会は訪れないわよ。
貴女のお兄様は今や私のものだから」
兄の婚約者はそう言って扇子をパチン! と閉じると、いきなり自ら紅茶をかぶり、キャアアア! と悲鳴をあげる。
悲鳴を聞きつけ、屋内から兄のオジェと、その従者たちが、威勢良くテラスへと駆けつけてくる。
そして、婚約者が濡れそぼった姿を見るや、
「ソルニア!
おまえ、俺の婚約者に何をした!?」
と怒鳴る。
それを見て、婚約者パスワケレスは、
「ああ、オジェ様。
ソルニア様が私にお茶を……!」
と言って、兄のオジェにしなだれかかる。
オジェは婚約者を胸元に抱き寄せて、顔を真っ赤にする。
「何たる無作法だ、ソルニア!
彼女はバンシェル帝国の皇女なのだぞ。
しかも、将来、我が王国の国母になるお方だ。
そのようなお方に、何たる無礼な!」
「お言葉ですが、お兄様。
私はその方に何もしておりません」
「ちッ、ソルニア。
おまえはそんなだから、男も寄り付かないつかないのだ。
何か彼女が粗相をしたのかもしれんが、同性にも容赦ないとは。
他者をいたわる心がないのか!」
「すみませんね、お兄様。
私は政務に忙しくて、異性と付き合ってるような暇がないので、殿方を寄り付かせる手管など、知る由もございません。
ですが、皇女殿下について一言、言わせてもらえば、殿下が自ら紅茶をかぶったのであって、私は何もしておりません。
テラスに控えていた侍女たちは皆、証人ですよ」
オジェ王太子はギロリと、周囲に居並ぶ侍女たちを睨み付ける。
侍女たちは王太子の眼差しから目を逸らすようにしながらもコクコクと頷く。
だが、兄は自分の胸元から上目遣いで見上げる美貌の皇女の瞳が涙で濡れているのを認めると、はっははは! と笑った。
「そりゃあ、我がマルチノ王国にあって、王権代理サマの言うことに逆らうことが出来る侍女など、おるまいよ。
第一、ソルニア、そのような無理のある嘘はすぐ剥がれるものだ。
自ら熱を帯びた紅茶をかぶるような者がいると思うのか!?」
私は半分、泣きたくなる思いで、無理に笑顔を作った。
「今、お兄様の胸元におられるじゃないですか。
自ら紅茶をかぶるお方が」
私、ソルニアの皮肉を込めた指摘で、居並ぶ王宮付きの侍女たちは口元を押さえて、思わず吹き出してしまうのを堪える。
中には腹を捩らせ、身を小刻みに震わせる者もいた。
侍女たちから呆れられているという空気を察して、余計にオジェ王太子は怒りを胸に宿し、歯ぎしりする。
それを許婚者パスワケレスがオジェの胸元から離れて扇子を広げる。
「あら、オジェ様。
気にしなくていいのよ。
この小賢しい妹は、すぐにでも地団駄を踏むことになるのだから。
王権代理の貴女が、王宮奥の院に来ている段階で、すでに勝負はついているのよ」
勝ち誇ったように、目を細める。
訝しく思って、
「何の勝負なの?」
と尋ねる私に、
「すぐにわかりますわ」
と言って、パスワケレス皇女殿下は扇子で自らを煽ぐ。
「???」
首を傾げる私、ソルニア王権代理の許へ、急報がもたらされた。
父王様付きの侍従が、汗を流して駆け込んできたのだ。
「王権代理!
国王陛下の容態が急変しました。
血を吐いて、お倒れになりました。
医師によれば、今夜を乗り越えることもできないだろう、とーー!」




