季節の狭間
結局、九月になっても裕美はバスに乗れなかった。
おばあちゃんとお買い物に行くときは乗れる。
だけど、家に帰ろうとすると乗れない。
こんなのは、ただの我がままだ。そう思うけど、体が動かないのだ。
たぶん、きっかけは、友達が私立中学を受験すると言ったから。
その子は、一緒に通っていたスポーツクラブを辞めた。
塾に行くようになり、そちらで友達ができたみたい。
裕美はそこまで勉強が好きなわけじゃないし、私立に通えるほど裕福でもない。
小学五年生にして、お金がある家と、そうじゃない家の差を知ってしまった。行ける場所も、できることも違うみたい。
その日、裕美は十一時前に、午前中の勉強を終えた。算数のドリルだ。自分で答え合わせまでした。
ママが学習計画表を送ってきた。そのノルマをこなせば、なんとなく安心できる。
おじいちゃんとおばあちゃんは喫茶店が忙しくなる前に、お昼を作ってくれる。それまで、三十分くらいか。
一人で居間にいるのが寂しくて、喫茶店で勉強したこともあった。
夏休みの間は良かったけど、九月になると「あれ、学校は?」と言われるようになる。
裕美はごまかすように笑って、奥に引っ込むことしかできなかった。
「お昼が来るまで、ちょっと散歩に行こうかな」
勉強は一人でも進められるけど、みんなでやるスポーツはできない。
そう思うと、「それなら帰ればいいのに」という考えが浮かんでくる。
わかっている。帰った方がいいことは。
スポーツのメンバーを募集するポスターやコミュニティー冊子を、見かけることがある。
だけど、また何か言われるのは怖い。
ここに住んでいない人間が参加して良いのかも、わからない。
それに、そういうのに参加したら、本当に帰る気がないと思われそうだ。
帰りたいのか、帰りたくないのか、自分でもわからない。
海岸では、大きな平べったい岩に、波が打ち寄せている。
波の音は不思議だ。
来るとわかっている波がざっぱーんとぶつかる。寄せる姿を見ているのに、その音にどきりとする。
すうっと引いていく波には、自分の心も吸い込まれそうになる。
その妙な魅力に抗うように、裕美は足裏に力を入れた。
サラリーマン風のおじさんが、ぼーっと立っていた。
裕美がいる場所よりも、海に近い。
細かい波飛沫が飛んでくるだろうに、微動だにしない。その姿に嫌な予感がして、背筋が冷えた。
ドラマだったら声をかけるところだけど、知らない人に親切にしたら危険だと教わった。
車に乗ったまま「道を教えて」と声をかけられたら、すぐに逃げろ――とか。
でも、もし、人生に絶望していたら……?
ちょっと他人事ではない気がする。
「おじさーん! お腹が空いたら、そこの喫茶店のナポリタンが美味しいよ!」
そう声をかけて、裕美は喫茶店に向かって走った。
走っているときに猫とすれ違った。茶色に黒い縞があるキジトラだ。
猫はそのおじさんの方へ向かって、歩いて行く。
釣りをする人と勘違いしたのかな。どう見ても、お魚はもらえないと思うけど……。
気ままなにゃんこは、尻尾を揺らし音もなく進む。足元に摺りつかれて、おじさんはびくっと肩を揺らすかもしれない。
裕美は振り返らなかったが、そんな情景が頭に浮かんだ。
あのおじさんが来るか、ちょっと気になったので喫茶店の端っこの席に座った。
「裕美、今日はこっちで食べるのかい?」
おばあちゃんがニコニコと話しかけてくる。
「うん。平日だからいいでしょ?」
「もちろん、いいよ。今日の賄いは、マグロ丼だ。切れっ端だけどね」
お昼は喫茶店のメニューのこともあるけど、メニューにないものの日もある。今日はメニューにない方の日だった。
常連さんや観光客がちらほらと入ってくる。
午後一時が近づくと、職場に戻る人たちがさっと帰って行った。
カラン、コロン。
カウベルが鳴った。
おじさんだ。
ずいぶん長い時間、海を見ていたことになる。
その足元にはキジトラの猫がいて、先にお店の中に入ってきた。
おじさんはうつむき加減で、裕美がいることに気がつかない。
おじさんは二人がけの席に座り、ナポリタンとホットコーヒーを注文する。
ほっとした。
さっきの裕美の言葉は、届いていたようだ。
おじいちゃんが手際よく調理を始める。
おばあちゃんが珈琲を入れて、おじさんの前に置いた。
なぜか、カリカリを入れた小皿をトレイに乗せている。
「お兄さん、猫は大丈夫?」
「……あ、アレルギーとかですか? ないですけど」
少しぶっきらぼうに、おじさんが答える。
「もし、嫌じゃなかったら、あのキジトラと相席しませんか。猫カフェの気分で」
おばあちゃんが、そんなことを言う。
「ね、猫カフェ……。まあ、いいですけど」
一緒に入ってきたのだから、猫が苦手ということもないだろう。
ことん。小皿が向かい側に置かれる。
椅子の上には、さっとフリースの布が敷かれ、ずり落ちないようにおばあちゃんが洗濯ばさみで止める。
「にゃ~ん」
猫はそれを確認してから椅子に乗り、お行儀良くカリカリと食べ始めた。
おじさんの眉尻がへにょりと下がり、泣き笑いのような顔になる。
「は、ははは。なんだこれ」
おじさんは珈琲を飲んだ。
「俺、就職活動してて、また『お祈りメール』来たんです。もう、何やっても駄目だなって」
話の流れから、断られたということかな――と推測できた。
「学生さんかい?」
「いえ。スポーツでプロチームに入れたんですが、トップチームに上がれなくて……。普通に就職しようかと。でも、その普通が難しくて……」
おばあちゃんはおじさんの話を遮った。
「何のスポーツ?」
「サッカーです」
「もし時間があるなら、うちの孫と蹴りっこしないかい? そうしたら、珈琲の分はただにしてあげるよ」
「おばあちゃん!」
裕美は驚いて声を上げる。
おじさんは裕美がいることに気付いていなかったから、もっと驚いた顔で振り返った。
誤字報告ありがとうございます。
主人公の漢字変換が違ってた(汗)




