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第9話 夏至祭の夜

 夏至祭の夜がやってきた。


 日が沈む頃には、フィオラ村は柔らかな灯りに包まれていた。


 家々の軒先には花飾りが揺れ、広場にはたくさんの灯籠が並んでいる。


 風が吹くたびに花の香りが漂い、人々の笑い声が夜空へ溶けていった。


 村中が、この一年で最も特別な夜を迎えていた。


 カイロスは広場の端に立ち、その光景を静かに眺める。


 王都の祭りはもっと華やかだった。


 けれど、どこか遠い。


 ここは違う。


 誰もが楽しそうで、誰もがこの夜を待っていたのだと分かる。


「カイロス!」


 聞き慣れた声に振り返る。


 その瞬間、カイロスはわずかに息を止めた。


 ミーナが駆け寄ってくる。


 蜂蜜色の髪は下ろされていて、白と淡い青の花で編まれた花冠が乗っていた。


 風が吹く。


 長い髪がふわりと揺れる。


 蛍の光がその横を流れた。


 いつものミーナなのに、少しだけ違って見えた。


「待った?」


「いや」


 短く答える。


 それだけだった。


 それ以上、何と言えばいいのか分からなかった。


「良かった」


 ミーナは安心したように笑った。


 その笑顔を見ていると、不思議と胸の奥が静かになる。


 二人は広場を歩き始めた。


 花飾りの店。


 手作りの小物。


 村の子どもたちの笑い声。


 どこも賑やかだった。


「見て」


 ミーナが足を止める。


 屋台の前だった。


 甘い香りが漂っている。


 焼きたての蜂蜜菓子だった。


「これ好きなの」


 嬉しそうに言う。


 店主の女性が笑った。


「ミーナちゃん、今年も来てくれたのかい」


「もちろん」


 ミーナは慣れた様子で頷く。


 そして菓子を二つ買った。


 一つをカイロスへ差し出す。


「はい」


「僕はいい」


「だめ」


 即答だった。


「夏至祭なんだから」


 意味は分からない。


 だが断れる雰囲気でもなかった。


 仕方なく受け取る。


 一口かじった。


 外は少し香ばしく、中は柔らかい。


 蜂蜜の優しい甘さが口の中へ広がった。


「どう?」


 ミーナが覗き込む。


「……悪くない」


 そう答えると、


 ミーナは嬉しそうに笑った。


「良かった」


 それから二人は並んで菓子を食べながら祭りを歩く。


 ミーナは知り合いを見つけるたびに手を振っていた。


 誰もがミーナへ笑顔を向ける。


 その様子を見ながら、カイロスは思う。


 フィオラは村そのものがミーナによく似ている。


 優しくて、温かい。


 やがて夜が深まる。


 村人たちは灯籠を持って川辺へ集まり始めた。


 カイロスとミーナも川へ向かう。


 無数の灯りが川面に浮かぶ。


 一つ。


 また一つ。


 光はゆっくりと流れていく。


 まるで星の川だった。


「綺麗……」


 ミーナが小さく呟く。


 翡翠色の瞳が灯りを映している。


 カイロスも川を見た。


 確かに綺麗だった。


 けれど。


 気付けば視線は別の場所へ向いている。


 灯籠を見つめるミーナ。


 花冠。


 風に揺れる髪。


 柔らかな横顔。


 なぜか目を離せなかった。


 胸の奥が少しだけ落ち着かない。


 その理由はまだ分からない。



 灯籠を流した後。


 二人は人混みを離れ、フィオラの丘へ向かった。


 丘の上は静かだった。


 遠くに村の灯りが見える。


 川には光が流れ続けている。


 空には無数の星。


 いつもの場所へ腰を下ろす。


 自然と並んで座る。


 それもいつの間にか当たり前になっていた。


 しばらく二人は黙って夜空を見上げた。


 風が吹く。


 草が揺れる。


 蛍がゆっくりと飛んでいく。


「ねえ、カイロス」


 ミーナが小さな布袋を取り出した。


「これ」


 差し出された袋を受け取る。


 中には一本のミサンガが入っていた。


 白と青の糸で編まれた細い紐。


 ところどころに銀糸が織り込まれている。


 夜空のような色だった。


「作ったのか」


「うん」


 ミーナは少し照れながら頷く。


「夏至祭だから」


 そう言って笑う。


 カイロスはミサンガを見つめた。


 剣より軽い。


 魔道具より小さい。


 それなのに、妙に大切なものに思えた。


「願い事を込めたの」


 ミーナが言う。


「願い事?」


「うん」


 少しだけ考えてから、


 柔らかく微笑んだ。


「また会えますように、って」


 風が吹く。


 蛍が光る。


 遠くで灯籠の光が流れている。


 カイロスは手の中のミサンガを見る。


 胸の奥が少しだけ温かかった。


 こんな感覚は初めてだった。


「……そうか」


 それしか言えない。


 けれど嫌ではなかった。


 むしろ、失くしたくないと思った。


 カイロスはゆっくりとミサンガを手首に結ぶ。


 慣れない手つきだった。


 それを見てミーナがくすりと笑う。


「ふふ」


「何だ」


「似合うなと思って」


 カイロスは答えない。


 だが外すつもりもなかった。


 夜は静かに更けていく。


 二人はいつものように並んで星空を見上げた。


 願い事は口にしない。


 それが二人だけの習慣だった。


 風が吹く。


 草が揺れる。


 遠くでは川を流れる花灯籠の光が、ゆっくりと夜の中を進んでいた。


 ミーナはその光を見つめながら、小さく微笑む。


「ねえ」


 カイロスは隣を見た。


「なんだ」


 ミーナは少しだけ目を伏せる。


 そして、


「今日、来てくれて良かった」


 そう言った。


 静かな声だった。


 けれど、不思議と胸の奥へ届いた。


 カイロスは答えに少し困る。


 そんなことを言われたことがなかった。


 王都では、


 強くなれ。


 守れ。


 勝て。


 そんな言葉ばかりだった。


 だから、


 ただ来てくれて良かったと言われることが、


 少しくすぐったかった。


「……そうか」


 それしか言えない。


 ミーナは嬉しそうに笑った。


「うん」


 風が吹く。


 花冠が揺れる。


 蛍がふわりと飛んでいく。


 カイロスは手首のミサンガに触れた。


 白と青の糸。


 小さな願い。


 その温もりを確かめるように指先でなぞる。


 夜空には無数の星が輝いていた。


 その景色を見上げながら、


 カイロスは静かに思う。


 ――この夜を、覚えていたい。


 夏の風が、丘の上を優しく吹き抜けていった。


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