第10話 また夏が来たら
夏至祭が終わってから数日。
フィオラ村には、少しだけ静かな時間が戻っていた。
広場の花飾りは片付けられ、川を流れていた灯籠ももうない。
けれど、村にはまだ祭りの余韻が残っているようだった。
夏の風。
川のせせらぎ。
遠くで鳴く鳥の声。
カイロスは丘の上に立ち、村を見下ろしていた。
今日で王都へ戻る。
それは最初から決まっていたことだ。
なのに。
胸の奥が少しだけ重い。
理由は分からなかった。
ただ、この景色をもう少し見ていたいと思った。
風が吹く。
手首のミサンガが小さく揺れた。
◇
「本当に今日なんだね」
昼過ぎ。
村の入口でミーナが言った。
翡翠色の瞳が少しだけ寂しそうに見える。
けれど彼女は笑っていた。
泣きそうな顔はしない。
引き止めたりもしない。
それがミーナだった。
「うん」
カイロスは頷く。
言葉がうまく出てこない。
王都へ帰ることは何度も経験してきた。
任務のために移動することも珍しくない。
なのに今回だけは違った。
なぜなのか、自分でも分からない。
「また手紙書くね」
ミーナが言う。
「押し花も入れる」
少し誇らしそうな顔だった。
カイロスは思わず口元を緩める。
「そうか」
「うん」
風が吹いた。
蜂蜜色の髪が揺れる。
夏の光を受けて、金色にも見えた。
◇
荷馬車の準備は終わっていた。
ハーラルドは少し離れた場所で待っている。
村人たちも見送りに来てくれていた。
「カイロス」
ミーナが呼ぶ。
「なんだ」
彼女は少し迷ったように視線を落とした。
それから顔を上げる。
「また会えるよ」
柔らかな声だった。
まるで当たり前のことを言うように。
不安もない。
迷いもない。
ただ信じている。
その言葉に、カイロスは一瞬だけ目を見開いた。
なぜだろう。
その言葉は妙に胸へ残った。
「……そうか」
短く答える。
ミーナは笑った。
「うん」
その笑顔を見ていると、
本当にそうなのかもしれないと思えた。
◇
荷馬車がゆっくりと動き始める。
フィオラ村が少しずつ遠ざかっていく。
村人たちが手を振る。
ミーナも手を振っていた。
風が吹く。
長い髪が揺れる。
白い花が咲く道。
夏の空。
川の光。
その景色が少しずつ小さくなっていく。
カイロスはずっと後ろを見ていた。
見えなくなるまで。
◇
その夜。
王都への道中にある宿だった。
窓の外には星空が広がっている。
見慣れた景色のはずだった。
なのに。
どこか足りない。
静かすぎる。
カイロスはベッドへ横になる。
いつものように眠れないと思った。
目を閉じる。
風の音はない。
川のせせらぎも聞こえない。
ミーナの声も聞こえない。
それなのに。
不思議なことが起きた。
胸の奥に残っている。
川の音。
蛍の光。
花灯籠。
丘から見た星空。
そして。
蜂蜜色の髪を揺らしながら笑う少女。
『今日、来てくれて良かった』
あの声を思い出す。
手首に触れる。
ミサンガがあった。
白と青の糸。
小さな願い。
また会えますように。
カイロスは静かに目を閉じる。
すると。
ゆっくりと意識が沈んでいった。
驚くほど自然に。
まるでフィオラの丘で星を見ている時のように。
◇
翌朝。
窓から差し込む光で目が覚めた。
鳥の声が聞こえる。
しばらく何が起きたのか分からなかった。
そして気付く。
夜中に目を覚まさなかった。
朝まで眠っていた。
初めてだった。
カイロスはゆっくりと起き上がる。
手首のミサンガが朝日に照らされていた。
白と青の糸が静かに輝いている。
窓の外には夏空が広がっていた。
その空を見上げながら、
カイロスは小さく呟く。
「……眠れた」
誰にも聞こえない声だった。
けれどその言葉は、
彼にとって何より大きな変化だった。
夏の風が窓から吹き込む。
その風はどこか、
フィオラの匂いがした。




