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第6話 蛍の森

 夏の夕暮れは、不思議と一日を惜しくさせる。


 昼間の眩しい陽射しが少しずつ和らぎ、空が淡い橙色に染まり始める頃。


 カイロスはフローレンス家の庭で、ぼんやりと空を見上げていた。


 風が吹く。


 花壇の白い花が揺れる。


 遠くから川の音が聞こえた。


 フィオラ村へ来てから、何日が経っただろう。


 王都にいた頃は、一日が終わるたびに疲労だけが残った。


 けれどここでは違う。


 気がつけば朝になり、気がつけば夕方になっている。


 そんな時間の流れが少し不思議だった。


「カイロス」


 聞き慣れた声がする。


 振り向くと、ミーナが立っていた。


 今日は薄い水色のワンピースを着ている。


 夕日の色を受けて、蜂蜜色の髪が柔らかく輝いていた。


 普段通りのハーフアップ。


 風が吹くたびに、まとめきれなかった髪が頬をくすぐるように揺れている。


「今夜ね」


 ミーナは少し声を潜めた。


「蛍を見に行こうと思うの」


「蛍」


「うん」


 嬉しそうに頷く。


「この前よりたくさんいると思う」


 以前、夕食の席で蛍の話をしていたのを思い出す。


 夏至祭が近づくと増えるのだと。


「見たことないんでしょう?」


「ああ」


「じゃあ、一緒に見に行こう?」


 その誘い方は、いつも通り柔らかかった。


 断る理由はなかった。


「分かった」


 そう答えると、ミーナは安心したように微笑んだ。


「良かった」


 その言葉を聞くと、なぜだか少しだけ胸の力が抜ける気がした。


 ◇


 日が沈み始める頃。


 二人は村の外れにある森へ向かっていた。


 昼間とは違う風が吹いている。


 少しだけ涼しい。


 空は群青色へ変わり始め、森の影が長く伸びていた。


 小道を歩く。


 草の匂い。


 土の匂い。


 どこかで鳥が鳴いている。


 やがて森の奥へ入ると、周囲は静かになった。


 木々が空を覆い、夕暮れの光が細く差し込んでいる。


「ここ」


 ミーナが立ち止まる。


 そこには小さな川が流れていた。


 昼間に行った川よりも細い。


 けれど水は透き通り、静かに流れている。


「蛍はね」


 ミーナが小声で言った。


「静かな場所が好きなんだって」


「そうなのか」


「お父さんが言ってた」


 それから二人は川辺の草の上に腰を下ろした。


 風が吹く。


 葉が揺れる。


 水音が聞こえる。


 しばらく誰も話さなかった。


 けれど沈黙は心地良かった。


 カイロスは空を見上げる。


 木々の隙間から、最初の星が見えた。


 あの日、フィオラの丘で見た星空を思い出す。


「カイロス」


 ミーナが小さな声で呼んだ。


「なんだ」


「見て」


 指差す先を追う。


 その時だった。


 暗がりの中に、小さな光が浮かんだ。


 一つ。


 また一つ。


 そしてもう一つ。


 ふわり、と。


 夜の森の中を光が漂い始める。


 カイロスは息を呑んだ。


 まるで星が地上へ降りてきたみたいだった。


 緑がかった淡い光。


 優しく瞬いては消え、また現れる。


 蛍だった。


「……綺麗だな」


 思わず呟く。


 ミーナは嬉しそうに微笑んだ。


「でしょ?」


 その声もどこか小さい。


 この景色を壊さないようにしているみたいだった。


 蛍は少しずつ増えていく。


 川辺。


 草むら。


 木々の間。


 光がゆっくりと舞っていた。


 戦場で見る魔法の光とは違う。


 誰かを傷つけるための光ではない。


 ただそこに在るだけの光。


 それなのに、目を離せなかった。


 ミーナは膝を抱えながら蛍を見つめている。


 翡翠色の瞳に光が映り込んでいた。


「私ね」


 ぽつりとミーナが言った。


「蛍を見ると安心するの」


 カイロスは視線を向ける。


「安心?」


「うん」


 ミーナは小さく頷いた。


「今年も夏が来たんだなって思うから」


 風が吹く。


 木の葉が揺れる。


 蛍の光もゆっくりと流れた。


「毎年同じように見えるのにね」


 ミーナは少し笑った。


「でも、ちゃんと今年の夏なんだよ」


 その言葉は、どこか押し花の話に似ていた。


 今年の花。


 今年の夏。


 二度と同じものはない。


 カイロスは黙って蛍を見つめる。


 もし王都にいたら、こんなことは考えなかっただろう。


 季節は通り過ぎるだけだった。


 けれど今は違う。


 この光を覚えておきたいと思う。


 この風を。


 この森を。


 この時間を。


 そう思う自分がいた。


「ねえ」


 ミーナが空を見上げたまま言う。


「来年も一緒に見られるかな」


 蛍の光が翡翠色の瞳に映っていた。


 カイロスは少しだけ考える。


 来年。


 自分は王都にいる。


 訓練もある。


 任務もある。


 何が起こるか分からない。


 未来のことなど、本当は誰にも分からない。


 それでも。


「見られる」


 気付けば、そう答えていた。


 ミーナが驚いたようにこちらを見る。


「本当?」


「……たぶん」


 少し遅れて付け加える。


 するとミーナは小さく笑った。


「ふふ」


「なんだ」


「ううん」


 首を横に振る。


 そしてもう一度、蛍の舞う夜を見上げた。


「なら良かった」


 その声は風に溶けるほど小さかった。


 けれど、どこか嬉しそうだった。


 カイロスも何も言わない。


 ただ川の流れを見つめる。


 蛍の光が水面に映り、ゆっくりと揺れていた。


 来年も見られる。


 自分で言った言葉なのに、不思議と嫌ではなかった。


 むしろ。


 そうなればいいと思っている自分に気付く。


 夜は少しずつ深まっていく。


 蛍は静かに舞い続ける。


 川の音が聞こえる。


 風が吹く。


 隣にはミーナがいる。


 カイロスは目の前の光景を見つめながら思った。


 王都へ戻ったら、この景色を思い出すかもしれない。


 眠れない夜に。


 ふと空を見上げた時に。


 蛍の光を。


 夏の匂いを。


 そして――。


 「良かった」と笑う少女の声を。


 森を出る頃には、夜空にはたくさんの星が輝いていた。


 二人は並んで村への道を歩く。


 言葉は少ない。


 けれど不思議と寂しくなかった。


 夏の夜風が優しく吹いていた。


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