第5話 押し花の約束
翌朝。
フィオラ村には、昨夜の星空が嘘のような穏やかな青空が広がっていた。
窓を開けると、涼しい風が部屋へ入り込む。
遠くで川の流れる音が聞こえた。
カイロスはしばらくその音に耳を傾ける。
王都では朝を迎えるたびに胸の奥へ重たい石が落ちるような感覚があった。
だが、この村では少し違う。
目を覚ますと、まず鳥の声が聞こえる。
風が吹く。
花が揺れる。
そして今日も一日が始まる。
それだけのことなのに、不思議と息がしやすかった。
窓辺に置かれた白い花は、まだ元気に咲いている。
ミーナからもらった花だ。
カイロスはそっと花へ視線を向けた。
その時だった。
庭から聞き慣れた声が響く。
「カイロスー!」
見下ろすと、ミーナがこちらを見上げていた。
手には何か抱えている。
「今日はお手伝いしてほしいことがあるの」
カイロスは少し首を傾げた。
手伝い。
それは訓練とも任務とも違う響きだった。
◇
朝食を終えたあと。
二人は村の外れにある小さな花畑へ向かった。
風が吹くたび、色とりどりの花が揺れる。
白。
青。
黄色。
紫。
まるで絵本の中の景色みたいだった。
ミーナはその中を歩きながら、一輪の白い花の前でしゃがみ込む。
「これ」
そう言って花を指差した。
「この前、川で見た花だろう」
「うん」
ミーナは嬉しそうに頷く。
「押し花にしたいの」
カイロスは思い出す。
魚釣りの帰り道。
思い出は消えないと言っていた。
「どうやるんだ」
「本に挟むの」
ミーナは花を見つめながら言った。
「乾くまで待つと、しおりになるんだよ」
「それだけか」
「それだけ」
くすりと笑う。
「でもね」
ミーナは花びらを優しく撫でた。
「好きなものを残しておけるの」
その言葉にカイロスは黙る。
好きなもの。
自分にはあまりない気がした。
剣でもない。
魔法でもない。
強さですらない。
何が好きなのかと聞かれても、答えられない。
そんなカイロスの様子に気づかないまま、ミーナは花を摘み取った。
「これと」
もう一輪。
「これも」
さらに一輪。
白い花を集めていく。
「そんなに必要なのか」
「失敗するかもしれないから」
「失敗?」
「うん」
ミーナは笑う。
「全部うまくいくとは限らないでしょ?」
それは当たり前の言葉だった。
けれどカイロスは少しだけ考えてしまう。
王都では失敗は許されなかった。
期待されることに慣れすぎていた。
だからだろうか。
失敗してもいいと考える発想自体が新鮮だった。
◇
昼過ぎ。
二人はフローレンス家の居間にいた。
テーブルの上には厚い本が置かれている。
「ここに挟むの」
ミーナは摘んできた花を丁寧に並べた。
一枚一枚。
花びらを傷つけないように。
宝物を扱うみたいに。
その様子をカイロスは黙って見ていた。
「そんなに大事なのか」
「うん」
即答だった。
「だって」
ミーナは少し考える。
「今年の夏の花だから」
窓の外では風が吹いていた。
カーテンが揺れる。
柔らかな光が部屋へ差し込む。
「来年には違う花が咲くかもしれないし」
「同じじゃないのか」
「同じに見えても違うよ」
ミーナは笑う。
「今年の夏は、今年だけだもの」
その言葉にカイロスは何も言えなかった。
今年だけ。
そう言われると、なんだか急に大切なものに思える。
今まで季節など気にしたこともなかった。
夏も冬も関係ない。
訓練は続くし、任務も続く。
そう思っていた。
けれど。
フィオラへ来てから。
川を見て。
花を見て。
星を見て。
少しずつ考えが変わってきている。
「できた」
ミーナが満足そうに言った。
本の間に挟まれた白い花。
今はまだ普通の花に見える。
「完成はいつだ」
「しばらく先かな」
「そんなにかかるのか」
「待つのも楽しいよ」
ミーナは微笑んだ。
待つのも楽しい。
それもまた、カイロスにはない感覚だった。
◇
夕方。
二人は庭へ出た。
西日が花壇を金色に染めている。
風が吹くたび、白い花が揺れた。
ミーナはふと思い出したように言った。
「ねえ、カイロス」
「なんだ」
「しおりができたらね」
翡翠色の瞳がこちらを見る。
「一枚あげる」
カイロスは少し驚いた。
「僕に?」
「うん」
「なぜ」
「だって一緒に摘んだから」
それはあまりにも自然な理由だった。
ミーナは少しだけ照れたように笑う。
「それに」
「?」
「離れてても同じ花を持ってたら、ちょっと嬉しいでしょ?」
風が吹く。
夕暮れの光が彼女の髪を優しく照らした。
カイロスは返事をしなかった。
できなかった。
胸の奥が少しだけ温かくなっていたからだ。
同じ花を持つ。
ただそれだけのことなのに。
なぜだろう。
それがとても特別なことのように思えた。
ミーナはそんなカイロスを見て、くすりと笑う。
「完成したら渡すね」
「ああ」
短く答える。
けれど、その返事はいつもより少し柔らかかった。
夕暮れの風が二人の間を通り過ぎる。
本の中では、白い花が静かに眠っている。
まだしおりにはなっていない。
けれどそれは確かに、未来へ残る約束の始まりだった。




