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突然の通り雨によって、湿地の水かさは増していた。
元々完全に乾ききった地面が露出していたわけではない。だがこの林の根本部分を固めていた土台も水分を含みほとんどがぬかるみへと変わっている。ヒロミは注意深く歩き、トワがそれに続いた。トワの運動神経であればこうした場所を移動するのはたやすいのかもしれない。ヒロミはそうも思ったが、今はヒロミの提案に力なく従うかたちの彼女を引き連れている立場だ。しばらくは彼女の手を取り先導するつもりでいた。
視界の先の水際にはここへ来るのに使用した待機中のアメンボ型ヴォイミが見えた。その様子からはただ何もせずじっとしていたわけでもないことが伺える。時折大粒の雫が木々から落ちてくるのをさっとかわしたり、水面に浮かぶ何かへ向けアームを突き刺したりしていた。エサとなる食料を摂取しているのかもしれない。そしてヴォイミの更に先には、トワの乗ってきたヴォイアクーの姿があった。夕日を受けて浮かび上がるその鋭角な機体と尖った羽のシルエットは、この研究都市に来て以降目にすることがなかった威圧感のようなものを放っているように見えた。
「あのヴォイアクーは……どうする?」
ヒロミは振り返って尋ねた。トワはしばらく機体と研究棟の方を眺め、答えた。
「……一応、発着場に停めておこう」
発着場とはヒロミが最初に降り立った研究棟地上部分の外周上に張り出して作られた空間だ。6区正面のものに比べればかなり狭いが、大型輸送機クラスのヴォイアクーならば数体は停められそうな広さをもっている。トワの乗ってきた戦闘機タイプの機体であれば、停めておいてもこの施設の運用にとって妨げにはならないだろう。
「じゃ、機体まではヴォイミで行こうか」
ヒロミはそう言って心韻を送った。アメンボ型ヴォイミは即座に反応して向きを変え、長いアームを一掻きし水上を滑るよう移動すると、2人のもとで静止した。ヒロミが前に乗り、後部にトワが跨った。ヒロミが操る機体にトワを乗せるというのはヒロミにとっては新鮮な経験に思えた。ヒロミの指示でヴォイミはゆっくりと前進を始めた。
「――ほら、見て、トワ」
ヒロミは周囲の水面が再びいたるところでギラギラと輝いているのに気付いた。
「さっき飛び立った虫たちがまた戻ってきてるんだね、……あれ、なんて言うんだっけ、えーっと」
「――あぁ、イカダバネか……」
「ぷっ……!」
ヒロミは思わず吹き出した。
「……?、何が可笑しい?」
「ふふ、だって……!全然違うんだもん、ふふ!クトゥアさんが言ったの、シロ~……とか、カガミ~……とか、一つも合ってないじゃない、ふふ!」
ヒロミはそう言って声を上げて笑った。
「確か、水に浮かべるイカダのようなハネだからと、そんな理由じゃなかったかな」
「そうなんだ、ふふ。クトゥアさん、本当に興味ないんだね、ふふ、あはは!」
「確か毒もあったはずだ。あまり植物にいい影響はないと聞くが」
「へぇ、そうなんだ……」
不意にトワがヒロミの腰に手を回し、後ろから抱きついて体を寄せた。
「?」
「……ヒロミには……やはり笑顔が似合う……」
トワはつぶやくようにそう言った。
「トワ?」
ヒロミは軽く驚いて笑い止んだ。
「私は……その笑顔を守りたい……」
そのトーンは真剣だった。まるでトワ自身に向けて発した決意のようなものにも思えた。ヒロミはトワの腕に自らの手をそっと重ね、握り締めた。
ほどなくしてヴォイミはヴォイアクーの操縦席の下辺り、ハチのような形状の機体の頭部付近に到着した。トワは腰を浮かせ、飛びついて乗り移ろうとしているようだった。
「あ……じゃ、私はこれで戻るね」
ヒロミがそう言いかけたとき、トワが止めた。
「いや、その子は帰してこれに乗っていけばいい」
「え……」
ヒロミはそう答え、機体を見回した。その選択肢も確かにあるかもしれない。ヒロミはまったく考えていなかった。トワはただ離れたくないだけなのかもしれないが、どのみち目的地までは視界に入るほどの距離しか離れていない。わざわざこの、ヴォイミに比べてはるかに大型の乗り物を利用するまでもないだろう。だが、ヒロミは興味をひかれた。厳密にはヒロミが、――ではないのかもしれない。むしろ乗ってみたいという意欲が高まっているようにも感じられた。
「うん……、じゃ乗せてもらおうかな」
ヒロミはそう答えた。
トワが先に機体に乗り込み、昇降用の簡易ラダーを下ろしつつ、手を伸ばして引き上げる姿勢をとった。ヒロミは慎重に立ち上がり、しがみつくようにラダーに手足を乗せ、トワの手を借りて後部座席まで上りきった。ヒロミはそのまま振り返り、ヴォイミへ命令を解くための心韻を送った。ヴォイミは目を光らせ一瞥すると滑るように一気に距離を広げ、そのまま研究棟の方へと去っていった。ヒロミは改めて姿勢を整え、狭い操縦席の後部座席へとその身を収めた。
ヒロミがこうした戦闘用の機体へ乗るのは2度目だ。以前はシーロトワミに乗せられたことがある。あの時は極めて低速での移動だったこと、そしてヒロミ自身もまだただの"地球人"だったこともあり、窮屈な場所という印象しかなかった。だが今回は色々と状況が違う。後部座席にも操縦席と同様スピーカーのように機体の情報を発し、フィードバックを受け取るための円形の受容器と発音器が左右に何対も設置されている。今ならば、ヒロミはこの機体の情報を受け取れるかもしれない、心韻のやり取りが出来るかもしれない。――いや、むしろ知っている。機体が起動する前の緊張感のようなものが、ヒロミの心をしきりに踊らせた。操れるはずだ。ヒロミの体は、――勿論分かっている、この発音器と受容器の"元々の"持ち主は――、確かにそう思っているのだ。
――ドクン!!
「じゃ、行くぞ」
トワがそう言って機体に心韻を送り起動させたのだろう。低く重い塊のような心韻が、全身を取り囲むように配置された発音器から一斉に飛ばされたように感じた。
「――んんっ!!」
ヒロミは思わず声を上げた。それは体の芯を突き動かすような衝撃だった。指先は震え、自分の思い通りに動かせないような痺れたような感覚さえしていた。同時に機体の駆動音、高らかなモーター音が機内にも響き始めた。
「あぁ、まだ慣れてないんだったな、平気か?」
「……う、うん、大丈夫!」
トワの呼びかけに対しヒロミは答えた。だが決してこの感覚は嫌悪感を覚えるものではなかった。
「意図的に情報を遮断するようにしてくれ。すぐに着く」
「うん、分かった」
機体の羽、足先の感覚や、見えているもの、感じているもの、それら全てが、ドスン、ドスンと重低音のように体に突き刺さるのだ。機体は浮き上がり、徐々に速度を上げた。林の上空を大回りをして正面から発着場に向かうのだろう。トワの送っている操縦の指示も、全てではないが理解できるように感じられた。ヒロミは加速に耐えながらも振動に体を任せたまま、いつしか口を半開きにし、うっすらと笑みを浮かべていた。体が欲している。そんな感覚だ。ヒロミ自身も、この場に身を置くことに、それなりの心地よさのようなものを感じていることに気付いた。
すぐに眼前に発着場が迫った。機体は減速するためのスケイルヴェールを一瞬放ち、ふわりと着地した。わずかな時間の体験だったが、ヒロミは興奮状態にあった。だが当然ながらこの体を操るのはヒロミ自身だ。戦闘機やヴォイアースを操縦する経験をもつわけでもなく、そうした意志もヒロミには微塵もない。ただこの体で今後も生きていくとしたら、ヴォイミや小型ヴォイアクーの操縦程度であれば積極的に自身で行うようにするのが、精神衛生上も穏やかで幸福なのかもしれないと、そんなことを考えていた。機体のハッチが開き、トワが先に飛び降りた。ヒロミは再びラダーに恐る恐る足を伸ばし、ゆっくりとトワが両手を広げて待つ発着場へと降りて行った。
ヒロミの鼓動は早いままだった。
「こんな感覚なんだね……」
ヒロミは機体を見上げ笑いながら言った。
「あぁ、すまない……。高出力の機体は独特なんだ、嫌がる人も多い。配慮が足りなかった」
トワはそう詫びた。
「ううん!いいの、元々最初にヴォイアースに乗りたいって言ったのも私なんだし。全然嫌じゃなかったよ」
ヒロミは笑顔で返した。トワはその表情を見て少し安心したように笑みを浮かべた。
そこでヒロミに再び心韻の連絡があった。クトゥアたちは第一研究室に戻っているということだ。ここからならばヒロミも通った道だ。多少は辿り着ける自信が持てた。それに今は心韻が使える。ヴォイミを通じて地図を表示することもできるし、クトゥアに迎えに来てもらうようお願いするのもいい。誰かと繋がることが出来るというのは心強く感じられた。
「クトゥアさんたち、今第一研究室にいるって。行こ!」
だがトワは相変わらずあまり乗り気ではなさそうに見えた。意を決して王城を抜け出してきたのだ。もっと2人で過ごす時間を作るべきなのだろうか。………いや、今はせいいっぱい明るく振る舞って、少しでもトワの気を紛らすようにしたかった。あまり一つの思考に、一つの方向に凝り固まってほしくはなかった。今後についてはヒロミとしても結論が出しにくい。単純に、もう少し答えを先延ばしにしたいという思いもあった。
「クトゥアさんね、本当にキュイオさんにそっくりなの」
トワは研究棟へと入りながらそう話した。
「じゃ、リュクリにも似てるってことか……」
「だから……」
(似てないって!!)
ヒロミはその言葉を苦笑しながら飲み込んだ。




