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10-3

 ヒロミはほっとしていた。


 隣には、目を細め満足げな表情でヒロミに体を預けるトワがいる。彼女の周りには明らかに穏やかな空気が流れていた。それは長い髪の先から時折溢れ落ちているスケイルヴェールの暖かい色味からも伝わる。


 ここまで自分の衰えを悟りつつも、一人では抱えきれぬほどの重圧を背負って戦ってきたのだろう。その重みから一気に解放されたかのような安心しきった表情を浮かべている。


 同時に、ヒロミは恐れていた。


 トワの陥っている思考は明らかに危険に思えるからだ。今、一刻も早く適切な再生処理に入れば、彼女は比較的安全に再生を終え無事代替わりを達成できるのではないだろうか。再生にかかる時間がどのくらいのものかヒロミは正確には聞いてはいなかった。ヒロミの行った移植手術のように1日で終わるということはあり得ないだろう。確か数週間~1ヶ月ほどの期間だったはずだ。ユーフとの戦闘が日に日に激化していることを思えば、今彼女がそれだけの日数戦線から離れるというのも国としては避けたいことなのかもしれない。


 だが、もし再生を先延ばしにし処置が失敗するようなことになれば――失敗の度合いにもよるだろうが――、稀有で圧倒的な才能を持つ彼女の存在が未来永劫失われるということにもなりかねない。おそらくは多くの者にとって、より大きな損害が生じるのはそちらのケースではないのか。反乱を起こしたピナや、何かと敵意を向けてきたリュクリなど、隙あらば彼女の座を狙おうと思っている者が多いのも間違いない。だがその力の差については彼女たちも身をもって体感しているはずだ。首席操士が空位となれば、誰かがその座につくことは確かだろう。しかしトワ以外の者がその責務を全うできるほどの力を備えているかについては、ヒロミは懐疑的にならざるを得なかった。より多くの者にとって、望まれる状況とはどのようなものなのか。ヒロミが、今彼女自身がとる行動や態度が、トワの今後や可能性を定めてしまう。それは同時にこの国の今後すらも左右することに繋がるだろう。決して大げさなことではない。


 ヒロミに決断できるだろうか――。


 自分自身はどうしたいのか。ヒロミは自問した。トワと会いたかった。話がしたかった。いや、しかし今考えるべきはその先のことだ。彼女に寿命が近付いているのならば、蛹室へ入り無事に再生を終えてほしい。記憶と能力を受け継ぎ、新たなトワとして生まれ変わってきてほしい。――その思いは間違いない。


 だがトワは言った。「絶対に離れたくない」と……。そう主張する彼女に、再生を促すことは容易ではないはずだ。ヒロミは理解している。詳細までは覚えていないが、わずか1日の移植手術であっても、その間に体感する"夢"を乗り越えるのは、決して簡単なことではないということだ。少なくとも数回、ヒロミは死の淵をさまよっていたはずだ。その際に抱いた感情は比較的鮮明に思い出される。もし自分が少しでも生きるのを諦めたら、立ち上がり前に進むのをためらったら、周りの者の助けがなかったら――、ヒロミの手術は確実に失敗していただろう、ということだ。その経験だけは身をえぐるように体に刻まれている気がした。移植に対し特に消極的な感情などは持っていなかったヒロミでもそうなのだ。この世に、今身の回りにどうしても別れたくない人がいる、そんな状況で、あの夢を、幾日も続く得体の知れない暗闇を、突き抜けることが可能だろうか?――難しいだろう。先へ向かうという意志がなければ、おそらく目覚めることはできまい。それはネーリアにとって十分に承知していることのはずだ。


 つまり、トワを再生に向かわせるためには、彼女の意向を否定しなければならないということだ。今は共にいることはできない、と。戦線は他の操士らが確実に維持する。王城は移転し、新たな聖蛹で安全に再生できる。安心して蛹に還ってよい、と――。


 そんなことができるだろうか――?


 いや、いや、ヒロミにはできない。とてもできそうにない。何一つ確かなことなどないのだ。ヒロミに腕を絡め、安らかにくつろいでいる彼女に、先程まで死や別れや再生への恐怖に怯えていた彼女に、そんなことを告げるなど、到底できるわけはなかった。


 雨脚は弱まりつつあった。やがて夕日が差し込み、再び水面を照らすことになるだろう。


 ヒロミはトワに対し、抱える不安を晒すわけにはいくまいと思った。会えて嬉しいのはヒロミも同じだ。そのために移植手術までしたのだ。離れたくないのは、ヒロミも同じだ。しかしそれをヒロミが口にし態度に出して応じてしまうには、あまりに考慮しなければならないことが多すぎる。感情に任せ自分を貫いてしまいたい。そんな思いもある。だが、だが――、この感情を押し通すことは、トワを危険に晒し、その身を滅ぼすことに導くだけだ。余所からやってきた異星人がそんなことに加担するのは、あまりに身勝手で無責任な行為ではないか。ヒロミにはどうしても踏み込むことの出来ない領域に思えた。ただただ、これ以上彼女を不安にさせぬよう、刺激せぬよう、今は笑顔で迎え入れて対応するしかないだろう。そんなふうに思索を巡らせた。


 誰か事情を知る人であれば、相談できるだろうか――。ふとヒロミはそんなことを考えた。いるだろうか。トワとヒロミの関係を知り、彼女が不調であることに素直に救いの手を差し伸べてくれるような、そんな存在が――


 「「ヒロミさん――?」」

そのとき心韻が届いた。ヒロミはビクッとして背筋を伸ばした。この感覚だ。そう、これまで見てきたネーリアは心韻を送り合う際このような特徴的な姿勢をとっていたはずだ。無意識に体が動いたかたちとなったが、ネーリアにとっては自然な反応なのかもしれない。これまでは脳内にぶつかってくるような感覚だった心韻が、脊髄を通り、大地に染み込んでいくかのような滑らかな流れとして受け止めることができた。どのような姿勢であっても心韻のやり取りは可能ではあるが、最も受け取りやすく、送りやすいのがこの背筋を伸ばした姿勢ということかもしれない。

「「はい」」

ヒロミは返事をした。

「「んふ、んふふ、ヒロミさん、心韻使えるようになってますね、んふふ!笑える」」

「「え、えぇ、おかげさまでなんとか!」」

その様子にトワも気付き、ヒロミの方へ顔を向けた。心韻の送り主はクトゥアだ。

「クトゥアさんです、手術を担当してくれて。6区のキュイオさんのご親族の方なんです」

「へぇ……」

トワはぼんやりとした返事をした。


 目の前に人がいるのに、その場に居合わせない人と会話をするという感覚はヒロミには慣れないものだった。しかも明確に会話を交わしているかどうかは傍目には分かりにくい。なんとなく後ろめたいものを感じながらヒロミは心韻を続けた。

「「体調は、問題ないですか?」」

「「はい、今、王城からトワが来てて、話をしてたんです」」

そう言ってヒロミはトワの方を見た。


 「「えぇ、ぇぇ、そのことなんですけど、はい。セデイさんがですね、ものすごく興味があるみたいで、んふふ。ぜひ会いたいと、言ってるんです、トワ様に、んふふ、笑える」」

「「え、はぁ、聞いてみますね」」

ヒロミはそう返事をした。あらかじめヴォイミを通じて居場所を知らせていたせいもあり、何の問題もなくクトゥアと会話することができたのはヒロミには有り難かった。特に彼女の居場所を強くイメージしたりする必要もなかった。ただ返事をする、ということを意識しただけだ。むしろそれがよかったのかもしれない。改めてこちらから心韻を送る際、クトゥアがまだ地下の実験室にいるのか、あの場所は正確にはどうやって行ったか、などと考えてしまっては、おそらく意思疎通することは出来ないのだろう。正確な場所の把握は勿論重要ではある。だがより重視すべきはその対象と繋がっているという感覚のようにも思えた。そうした認識が結果的に正確な居場所をイメージすることにも繋がるようだ。


 「トワ、もう一人研究員の方がいてね、あなたにすごく会いたがってるみたいなの。行ってみない?」

「ふーん、いいけど」

トワは視線を逸らし、湿地の方を見つめながらそう返した。

「「じゃ、彼女を連れて戻ります」」

「「はい、有難うございます、んふ」」

ヒロミはクトゥアにそう伝え、立ち上がった。


 「行きましょう」

そしてトワへと手を差し出した。雨雲は去り、傾きかけた日の光が、研究棟のドームと、眼前に広がる水面を眩しく照らし始めた。


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