10-2
「やっ……!!」
ヒロミは首周りを隠すように両手で胸元を覆った。トワはその腕を押さえつけ、ヒロミの動きを封じた。そしてヒロミのローブと検査着を共に荒っぽく剥ぎ取るように脱がせ、上半身を顕わにさせた。
「ま、待って……!トワ……」
ヒロミは恥じらい体を振って抵抗したが、トワは既に馬乗りの状態でヒロミの上に跨っていた。ヒロミの背面は湿地の浅瀬に浸っており、抵抗するほどに体は泥に飲まれていった。
「ヒロミ……!!」
トワは勢いを止めなかった。受容器が移植されたヒロミの顎関節付近と、そしてまだ乾ききっていない充血した発音器付近に顔をうずめ、その周囲に舌を這わせた。
「待って……、トワ、……まだ、私……!」
「ヒロミ……!ヒロミ……!」
トワはそのままヒロミの胸にもむしゃぶりつき執拗に舐め回した。
ヒロミはまず伝えたかった。自分がなぜこのような体になっているのか。今それがどんな状態か。自分にとって心韻の体験はどのようなものだったか。そして何よりも、トワに強く会いたかったということを――。しかしトワはそれを許さなかった。久々に触れた互いの肌の感触を確かめ合おうという感じでもない。ヒロミに迫り愛撫するトワの腕の力は強く、ヒロミの名前をひたすらにつぶやくように呼びながら、まるでトワ自身のためだけにヒロミを求めている、そんな印象すらあった。――何か様子がおかしい。ヒロミはそんな感想を抱いた。しばししばらくはトワのなすがままに体を任せていた。
頭上には飛び立った虫たちの放った大量のスケイルヴェールが舞っている。2人の体表にも降り注がれたそれらの粉末は、夕日を受け鮮やかな色に輝いていた。対して、ヒロミの眼前で揺れるトワの長い髪から放たれるスケイルヴェールの色は、決してこれまでに見た燃えるような色味ではない。どこか沈んだ、重苦しいものを抱えているようにも思えた。わずかに体も震わせているようだ。それでもヒロミの方から何か声をかけることは出来ずにいた。
「ヒロミ……」
小さく声がした。顔を密着させ体を擦り付けるトワの様子は、まるで自分の感情や表情を悟られないようにでもしているかのようだった。ヒロミの腹部に顔を伏せたまま、トワはそっと動きを止めた。その時、林の向こうから現れた黒い雲が急速に上空を覆い始めた。山々に迫っていた雨雲がこの湿地にも到達したのだ。周囲に撒き散らされた大量のスケイルヴェールは一気にその色を失い、灰が積もったかのように一帯を薄暗く塗り替えた。そこへ、ポツリ、ポツリ、と大粒の雨が落ち始めた。
「近付いている……」
雨音に紛れ、トワがぼそっとそうつぶやいた。
「……え?」
ヒロミははっきりと聞き取れなかった。雨脚は強まった。
「私は……近付いている……」
「な、何が……?」
ヒロミは尋ねた。
ザアアアアアアアッ――
激しい夕立が降り出した。ヒロミの体にも雫が打ちつけ、周囲の水面は一斉に水しぶきを上げ始めた。
「何!?」
ヒロミは再度、雨音に負けぬよう声を張った。
トワはようやく顔を上げた。その目には涙を浮かべているようにも見えた。
「私は……死に、近付いているのだ!!」
「!?」
トワはヒロミの瞳を見つめ、叫ぶようにそう言った。
ヒロミは何も返せなかった。
トワは再びうなだれたように力なく頭を垂れた。トワの髪をつたい、ヒロミの頭上にも雨が注がれた。ヒロミはしばしその水滴を受け流した後、トワの肩を掴んで上体を起こした。
「……何が、あったの……?」
ヒロミはトワに顔を寄せ、そっと尋ねた。
「ヒロミ……」
トワはうつむいたままだった。その声のトーンはヒロミが久しく耳にしていなかった、あの怯えたようなどこか甘えたような繊細さをあわせ持った声色だ。
「ニュース……見てた?」
そして上目遣いでヒロミを見つめ、続けた。ヒロミはトワの肩に添えた手にやや力を込めた。
「うん……」
「……私ね……」
そこまで言ってトワの言葉はふたたび詰まった。ヒロミはゆっくりと立ち上がり、湿地を抜け地表が露出している木々の根元まで行こうと促した。この場で雨に打たれ続けるよりは、幾分かは落ち着いて話が出来そうに思えたからだ。
ヒロミは肩を落とし弱々しい様子のトワを抱きかかえるように進み、並んで座るのにちょうどよさそうな気根を見付け腰を下ろした。猛烈な通り雨もここではある程度凌ぐことが出来るだろう。トワは下を向いたままだった。雨音だけが低い轟音となって響いていた。
ヒロミは不意をつかれたかたちとなった。自身は動揺していたが、どうやらそれはヒロミだけではなかったようだ。トワも、いやトワの方がはるかに重大な思いを抱えているのだろう。自らの悩みは浅く、それにとらわれていたことに恥ずかしさすらも覚えた。今は自分のことはもはやどうでもいいだろう。「死に近付いている」、そうトワは言った。その真意を確かめる必要がある。だがヒロミには話の切り出し方が分からなかった。
「――それでも……」
トワがようやく小声で語り始めた。
「私は、……この国を守らなければならない……」
そのトーンや話の内容も、再び操士としてのトワのものになっていた。ヒロミはゆっくりと頷いた。
「本来の私の反応速度であれば、あの黒煙を避けることなどたやすい。感覚では避けられているのだ。だが行動として追い付いていない……」
黒煙とはユーフの吐き出すものだろう。巻き込まれると即座にスケイルヴェールの制御を失い、致死性の高い病を発症させる原因にもなっているものだ。トワの口調からは悔しさがにじみ出ており、話しながら徐々に拳に力が込められているのが見て取れた。
「わずかな反応の遅れが命取りになる。操士としては致命的だ。戦闘での負傷というだけであればさほど影響はないかもしれない。全体の士気に関わるようなこともないだろう。だがこれが衰えによるものだと広まれば……、私はすぐにでも再生に入らなければならない。戦争のさなかに首席操士の座が空くことになる」
「そ、そんなに……すぐのことなの?」
ヒロミは驚いたように尋ねた。同時に周囲を見回した。この会話が漏れるのはかなり危険だろう。大雨で視界が悪いこともあるが、幸いヴォイミの類は見当たらなかった。
「大丈夫だ、私も警戒している。安心して話していい……。状態は、よくなることはない。兆候が現れれば、後は衰えていくだけだ……。先延ばしにすればするほど、再生の成功率も下がっていく」
ヒロミは急に恐ろしさを感じた。立ち上がり、トワの前にひざまずくように座り込んだ。手を握りながら話を聞きたいと思ったのだ。トワはうつむき気味のまま話を続けた。
「……しかも、聖蛹はじきに移転する。現在の再生不良の件数がもはや無視できないレベルだからだ。新女王の営巣が完了するまでの間は、一般的に再生が不安定になることが多い」
ヒロミは都度大きく頷きながら聞き入っていた。
「つまり……、どのみち今の時期の再生は危険ということだ……」
ヒロミはトワの拳を強く握りながら聞いていた。
「けど、それじゃ……」
なるべく早いうちに再生に入るしかないのではないか、そう言おうとした。彼女の再生の失敗は何よりも避けなければならない事態だろう。そこでトワは体を大きく震わせ、顔を上げた。
「私は……!」
目には大粒の涙が溢れていた。
「私は、ヒロミと離れたくない!!」
トワは大声で叫んだ。
「トワ……」
「ヒロミのことを、絶対に忘れたくないんだ!」
ヒロミは驚きながらも、大きく頷いた。いや、しかし……。
「私は、怖い!怖いの!恐れている。このまま眠りについて、もしヒロミのことを忘れていたら、どうしようと!まったく別人のトワとして生まれ変わったら、どんなことになるだろうって。想像しただけで、怖くてたまらない……!怖くてたまらないの!!」
トワは泣き叫び、崩れ落ちるようにヒロミに抱きついた。
ヒロミはその体を受け止め、強く抱きしめた。
「もう、絶対に離れたくない!」
トワの髪からは鮮烈な冷たい色味のスケイルヴェールが大量に飛び散った。こんな色はこれまでに見たことがない。ヒロミはしかし、すぐに対応できなかった。その思いまで、受け止めることはできるのだろうか?ネーリアについて知り始めたばかりのヒロミにとってさえも、彼女の思考が危険であることは明確すぎるくらいに分かるからだ。それはネーリアの種としての在り方を根本から否定することになる。同時に首席操士という存在を消失することにも繋がりかねない。生への執着は避けなければいけない、という、ネーリアの掟に完全に反する行為だ。まさに、こうした状況を回避するために守られてきた決まりだったのではないかと想像できた。
「私、怖くて……、何回もアーネイに占いをお願いしたの……」
トワの口調は再び甘えたものになった。こうなるとヒロミも自制心を抑えるのが難しい。
「でも、何もはっきりしたものは見えないって……」
泣きじゃくりながら、トワは子供のようにそう続けた。
心情は……、ではヒロミ自身の気持ちとしてはどうしたいのだ。勿論、寄り添っていたい。どんなふうに力になれるかは分からないが、自分がいることで少しでも支えになるのならば、出来ることは何でもしたい。そう思った。これまで最大の障壁だった心韻に関してはもはや使うことができる。意思疎通の過程で起こったトラブルも回避できるだろう。しかし感情的な暴走は、彼女自身を破滅に導くことにも繋がる。理性的に――、状況をよく考えた上で、慎重に対応する必要がある。
「……ねぇ、トワ。私やっと心韻使えるようになったんだよ」
ヒロミははだけた首周りを見せつけるようにして語りかけた。トワは瞳を潤ませ、じっとヒロミを見つめた。
「全部、あなたのためにしたことなの」
「ヒロミ!!」
トワは飛びつくように顔を寄せ、強く唇を重ねた。暖かい色のスケイルヴェールが、2人の周囲に舞い散った。
雨は強く降り続いていた。




