9-8
「ヒロミさん!おはようございます!」
(――……?)
それはこれまでの感覚とは違う。耳を通して直接聴覚で受け取った"声"だった。ヒロミはゆっくりと目を開けた。
ヒロミの体験は――、移植手術は終わっていた。実験室内の照明がまぶしく輝いて見えた。
ヒロミは体を起こそうとした。
「あぁ!まだです、はい。もう少しで、麻酔、切れますからね、えぇ。もう少し、じっとしていてください、んふふ、んふ!」
クトゥアの声だ。随分と久しぶりに、そして鋭く鮮明な音声として耳に響いてくるように感じられた。彼女は手術台の脇に立ち、満面の笑みを浮かべながらヒロミの顔を覗き込むように立っている。ヒロミは眼球だけを動かし左右を見回した。枕元のヴォイミらが観測しているモニターには、自身の生命兆候が示されている。どうやら正常に動いているようだ。
「いやぁ、ぐっっっすり、眠られてましたね、んふふ、んふふ!手術は大成功だと思います、はい!!」
クトゥアは両腕を大きく振り回して拳を握り、力強く言った。
「……え……?」
ヒロミは口を動かし、そう言葉を発した。
声は普通に発声できることが分かった。全身に痺れたような感覚が残っているが、体の末端にまで脈が、熱が通っていることが分かり、ヒロミはなぜかひどく安心感を得た。……なぜだ――?
「そ、そう!クトゥアさん、ありがとうございます!……その、何度も助けてくれて……!」
「……、んー、何のことです?」
「え、何って、ほら――」
(――!?)
そこまで言って、ヒロミは言葉が続かなかった。何も思い出せなかった。ヒロミは目を見開いた。
「あ、あぁ、んふ、夢の話ですね?んふふ」
「う、ううん!違うの、夢じゃなくて……!!」
ヒロミは左右に軽く頭を振りながら何かを思い出そうとした。「助けてくれた」と自身が今発言したことすら、何のことか分からなくなっていた。
「うそ!うそ……!!」
「んふふ、笑える。えぇ、それがネーリアの、夢なんですね、はい。なかなか、覚えていること、できないんです、えぇ」
「ううん、違う!私、何度も……、ほら、そう、苦しくて、体が壊れてしまって……、その度に必死に起こしてくれたんです!」
ヒロミは遠くを見つめながら、なんとか記憶をたぐりよせるようにしてそう話した。
「それが、私だったんですか?んふふ、大活躍ですね!んふ、笑える!」
「うそ……、それも……夢……なの?」
「えぇ、えぇ。ヒロミさんは、ぐっすり眠りについてましたから、はい。私は経過を見ていただけです、んふ。それはもう、順調に進みました。そして、きちんと目を覚ましてくれたわけです、はい!私は、とても嬉しいです!ヒロミさんなら、きっと無事乗り越えてくれると、信じてましたから!んふふ、んふ!」
「そんな……」
興奮状態のクトゥアに対し、ヒロミは何か大きなものをなくしてしまったような喪失感を感じていた。
「夢は、苦しいだけでしたか?」
「……」
ヒロミはやや考えて続けた。
「最後は……何か明るい感じだったと思います。温かくて、希望があったような――」
「よかったです!えぇ、それ、大事ですね!はい。それはきっと、ヒロミさんがこれから、切り開きたいと思っている、未来ですから、んふふ!」
「そ、そう……」
ヒロミの心にはどこか釈然としないものが残った。「助けてくれた」のははっきりと感じていたことだ。決してヒロミ一人の力で生き抜いたわけではない。そのことだけでもなんとかして伝えたいと思ったが、どうにもうまく言葉にならずにいた。
「私、どれくらい眠っていたんでしょう……」
体の感覚が戻りつつあるヒロミが、そう尋ねた。
「んー、予定通り、ちょうど1日くらいですよ、えぇ。もうすぐお昼です」
「そうなんですか……」
ヒロミにはよく分からなかった。何か一瞬の出来事のようにも思えたが、時間的にも距離的にも遠い世界を幾日もかけて旅してきたような、そんな感覚もある。密度の濃い、強いインパクトが与えられたことは間違いないように感じられた。ひどく疲労感が残っている。はっきりと思い出せてはいないが、もしヒロミが少しでも諦めていたら、クトゥアの言うように未来や希望がイメージできていなかったら、この手術は簡単に失敗していただろう、――そんなふうにしか思えなかった。確か頻繁に生死の境をさまよっていたはずだ。そして記憶の継承も、何か納得できるシステムがあるようにも思えたが、決して確実に引き継げるわけでもないという実感があった。不安定で不確実なものの上に、この蛹室の仕組みは成り立っている、そんな思いだけは残っていた。
ヒロミは首を傾け自身の体へと視線を落とそうとした。いつの間にか首から下にはフラットシーツのような白い布がかけられていた。手術台を覆っていた殻のようなカバーはベッドサイドに収納され、容器内を満たしていた液体も抜かれている。この場面だけを見れば、ただこの場で寝ていただけのようにも見えるだろう。体が濡れていないことからも、術後液体が抜かれてから全身が乾き、そして目が覚めるまでの間に既にある程度時間が経過したのが分かる。ヒロミの目覚める兆候を察知し、クトゥアが声をかけたということなのだろう。
「ベッドを、起こしましょうか、少しね、んふ」
クトゥアがそう言ってヴォイミに指示を出すと、手術台は折れ曲がり、ヒロミの上体がわずかに起こせるようになった。
「ご覧に、なりますか?」
クトゥアの問いかけにヒロミは頷いた。近くにいたヴォイミが手鏡のように映像を映し出すモニターをヒロミの前に表示させると、クトゥアがそっとシーツを下ろした。左右一対の発音器が鎖骨の辺りに移植されたヒロミの上半身がそこには映った。
ヒロミは固まった。眉間にしわを寄せ、険しい表情へと変わった。患部はまだ赤々と湿っており、周辺がケロイド状に焼けただれたようになっている。顎関節付近の受容器も同様だ。首周りに向けて、乾ききっていない患部の広がりが見えた。
「まだ、癒合が、完全には終わっていない状態ですね、はい。けれど、すぐに治りますから、はい。目立たないように、なります」
クトゥアはそう告げた。ヒロミの表情は硬いままだった。生々しい手術跡を見せられたというだけではない。ひくひくと脈づいて動いているエラのような形状の発音器部分の様子が、自分が人でない何かになったことをまざまざと見せつけているように感じられたからだ。人ではない、そんなことはとっくに覚悟し、分かっていたことだ。それよりもその先にある可能性にかけた結果だ。だが、それは視覚として、外見として認識できていたわけではなかった。王城で見たトワのそれに比べれば、まるで別物にしか見えなかった。
醜い――。
一つの生き物として、ネーリアの体に組み込まれたその器官は、スケイルヴェールの輝きをまとい、それは美しく見えたものだ。しかし、ヒロミのそれはどうだ。おぞましく、醜い、気味の悪い生物的な何かにしか見えない。――いや、いや、そんなこと、今更何を言っているのか。この体でこの先も生きていかねばならないのだ。自身の醜さなど、醜さなど――……。
「ヒロミさん、んー、あの」
クトゥアが珍しく口ごもっているようだった。ヒロミはすぐには応答できず顔を伏せた。
「あ、あの、ありがとうございます!うまくいったようで……よかったです……!」
「んー、あの、必ず治りますからね、えぇ!自然な、見た目になりますから、はい、んふ!」
「分かりました……」
ヒロミは絞り出すように答え、わずかに動くようになった手で再びシーツをかぶせた。
「えーと、では、ね、ヒロミさん、何か、今欲しいものとか、ありますかね、んふふ」
クトゥアはやや慌てた様子でそう言った。
「あの……」
そう言ってヒロミは自分でも意図しなかった言葉を口にした。
「オイルが、あの王城の浴室からも出ていた樹脂が欲しいです」
しかし、ごく自然にそう思ったのだ。体があのどろっとした液体を欲している。そのことは間違いなかった。
「え、んー、はい、分かりました、それはここでも、すぐ出せますからね、えぇ、んふふ!」
クトゥアは意外という顔をしてそう答えると、すぐにオイルの注がれた小瓶を持ったサポートヴォイミが現れた。ヒロミはそれを手に取って数口舐めると、残りを受容器と発音器の周辺に念入りに練り込んだ。何か生理的な、どうしてもしなければいけない行為というように思えた。ヒロミ自身もそんなことは、トワとふざけて体に塗り合ったとき以外に経験がない。だがそれにより、ようやく容姿のことで乱れかけた心情も落ち着きを取り戻したように感じられた。ヒロミ自身も不思議だった。何のためにする行為なのか分かっていないからだ。
ヒロミは自分の体が何か別の生物に変化しかけていることを自覚せざるを得なかった。




