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目を閉じるという行為が自発的なものだったのか、既にヒロミには定かではなかった。
容器内を満たしていく液体に何らかの催眠、麻酔的な効果が含まれていたのかもしれない。もとより、液体呼吸へ移行する瞬間や、自身の体が溶解するさまを体感したいとは思っていなかった。視界を閉ざすのと同時に全身の感覚は失われ、液体が満ちていくというその過程までしか、ヒロミには認識できていなかった。体が水中に浮いているのか、変わらず手術台の上に寝ているのか、その感覚すらもなかった。
突如、ヒロミは息苦しさを感じ目を開いた。苦しい……!!吸っても、吸っても、空気が足りない。全身の力は抜けている。かろうじて手足の末端にしびれを感じた。思い通りに動かすことはまったくかなわない状態だ。肺を、胸をかきむしりたい、なんとかもがいてこの状況を脱したい。目は――、開いているはずだが、よく分からない。闇が広がっているだけのように感じられる。空気の泡が立ち上っていく様子すら見られない。どちらが上かも……、今、本当に目を開いているのかすらも分からなかった。液体中に溶け込ませる酸素量が地球人向けに最適化されていなかったのではないだろうか。いや、綿密にクトゥアと打ち合わせた上で行われていることだ、そんな初歩的なミスは起こらないだろう。そう思いたい。
――ボンボン、ベコ、ベコ
音が響いた。誰かが外側からこの容器を叩いているのだろう。生物的素材を用いているからか、頑丈さはありながらもある程度しなやかに弾力をもって跳ね返しているような感じの響き方だ。それでも強く、その音は続けられた。まるでヒロミの眠りを覚まそうとでもするかのようだ。
やがて光が差し込んだ。ぼんやりと、その光を人影が遮った。人影はこちらを覗き込んでいる。それはクトゥアのものだ。両目を機械仕掛けの眼鏡で覆っているが、あからさまに心配そうな様子で何やら叫びながらカバーを叩いている。叫びながらというのは想像だ。ボンボンという鈍い音以外に外の音はまったく聞こえない。ただ激しく口を動かし時折首を左右に振っている。左側から覗き込むのは先程まで足先にいたはずの、立会人として呼ばれたセデイだ。彼女は先程とは異なる、見たことのない小型の武器――広義ではナックルダスターのような拳での打撃を強化するものだろうか、ただ外周は拳よりも一回り大きくその先端に棘が複数本外を向いて並んでいる――を左手に持ち、右手で首の辺りを横に切る仕草をして見せた。クトゥアはそれを見てまた激しく慌て、両手を大きく動かしながら彼女を制止しようとした。
どういうことだ……。
手術で何らかのミスが発生し、自分を殺すべきだ、とでも言いたいのだろうか。ヒロミは思った。なんてこと……、ただそれならば別に物騒な武器など使わなくてもいいのではないか。液体に毒を混ぜるでも、いくらでもやりようはあるだろう。それに――
それに、なんとなく予想もできた。既に夢は始まっているのだろう、と――。
だがこの感覚は妙にリアルでもある。カバーを外側から叩けば、確かにこんな音になるとも予想できる。セデイの手に持っている武器も見たことすらないものだ。形容する言葉も知らないし、かつて想像したこともない。ただ、夢ではそうした人生で経験したこともない未知の存在が詳細に描かれることもある。それに全身麻酔であればそもそも目も見えず音も聞こえないはずだろう。――では、麻酔が効いていなかったら……?
急に体の表面が熱くなってくるような感覚を覚えた。いや、やめてほしい。このまま溶解が始まって、意識が残っていたら、一体どんなことになるのか……。呼吸は大分楽になったがまだ十分に出来ず、異物感のようなものが体内に残っているように感じられる。頭上では相変わらず2人が何か話を続けているようだ。液体呼吸へ移る際の違和感から脳内が見せている映像、というだけのことであればよい。そう思いながら、再びヒロミは意識を失った。
――熱い……!次にヒロミに訪れた感覚はそれだった。上空に光が見える。ヒロミはその光めがけて、熱から逃れるように全力で暗闇を突き進んだ。
そうして、遂にヒロミは地上へ出た。そう感じた。ボタボタと全身から水が滴り落ち、水面に波紋を作っている。ヒロミは四つん這いの状態で、浅い水面にいるようだ。ゆっくりと顔を上げた。
――どうやら、ここは川のようだ。これは夢だ。ある意味安心した。不思議なことにはっきりと夢だという自覚もできた。それがどういう意味をもつのか、ヒロミにも分からなかった。
ただ川という場所はヒロミにとってあまりポジティブなイメージを抱かせるものではない。地球のヒロミの文化圏では、川を渡るということは死後の世界へ行くことを意味するからだ。ただし川岸のどちらかにいるというわけでもなかった。ヒロミは既に川の中ほどにおり、下流へ向けて佇んでいる。そちらへ向かう途中なのだろうか。周囲には濃い霧が立ち込めていてはっきりとは見えないが、川幅もさして広いわけではない。少なくともヒロミの左右では浅瀬が続き、歩いて渡れそうな距離だ。だが下流のはるか先には、何かが見える。ヒロミの見ている先に滝のようなものがあるのか、もしくは海へと流れ込む河口になっているのかは分からない。ただ進んだ先は急激に川幅が広がり、流れも速くなっているであろうことが予想できた。そして前方に見えるのは、大きな影のようなものの姿だ。山や岩のような自然物か、人工的な建造物なのかは分からない。何か、ヒロミにとって意味のある存在のように思えた。
どういうわけか、ヒロミには立ち上がるほどの体力は残されていないようだ。そして、流れる水はある程度冷たいが、体から発せられる熱はまったく冷やされていなかった。ヒロミはゆっくりと上体を起こそうとした。体の節々が痛み、熱が体内にも浸透するように感じられた。激しい痛みだ。自分で自分の体を保持できるかも自信が持てない。まるでうまく扱えなかった。川底についている両手は、ぴくりとも動かせないままだ。体中に広がる熱はその温度を上げている。やがて体が崩れていくように感じられた。
いや、やめてほしい。ヒロミにははっきり夢だと自覚できているが、同時に今のこの感覚ははっきりと知覚できる現実でもある。体中に痛みが走っているのだ。自身の体を維持できていないのが分かる。体から滴る水に、徐々に赤い色が混じっているのが見えた。溶けているというような感じではない。表面から、そして内部から熱で焼き切られているというような感覚だ。皮膚の一部や髪がはがれ落ちるというのとも違う。ごっそりと、骨から肉が落とされるようだ。肩から、胸から、表皮と肉塊がボトリと落ちて、自分の視界の前を流れていった。同時に大量の血液が溢れ出し周囲に広がっていく。やがて足が、内臓が、次々とヒロミの体から崩れ落ちて、川の下流へと流されていくのが見えた。ヒロミは叫びたかった。だが既に叫ぶことを可能にする人体の部位は残されていない。片方の眼球が落ち、すぐに視界も失われた。
――ボンボン、ボンボン、ベコッ
また、あの音だ。誰かが容器を叩き、揺さぶっている。ヒロミは意識を取り戻した。
――どういうことだ。これが、ネーリアが再生時に体験するという長い"夢"なのか?夢というのとも、少し違うのではないか。身体に実際に起こっている変化に伴う、何らかの体験をしているという表現に近いようにも思える。今、おそらくヴォイミが移植すべき器官を容器内に入れ、自身の体は溶解を始めているということなのだろう。もしくは、そのことに対するヒロミの恐怖心が見せている映像、ということなのかもしれない。ヒロミはぞっとした。あと何度、この夢を繰り返せばいいのか。体には、いやその内部にも、"夢"の感触はありありと残っている。全身の熱は、まだ冷めていないように感じる。
不意に赤い照明が点滅を始めたのに気付いた。ヒロミは振り返った。再び息苦しさに襲われた。
そこは、小さな宇宙船の内部のようだ。――ここは、このときのことは、忘れもしない。ヒロミが開発局の研修期間中に共同宇宙ステーション内で行った研修のうちの一つ、閉鎖空間での実習に使用した施設だ。色々な意味で重大なきっかけになる出来事となった。このときのヒロミのパートナーはクロード・バルロー、ヒロミの婚約者だ。




