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8-9

 研究棟外周に張り出した実験施設の足場部分に、ヒロミは一人佇んでいた。


 施設の大きさは長めの貨物用コンテナくらいだろうか、3分の2ほどは湿地側に向けガラス張りになっており、一見するとビニールハウスのようにも見える。残りの部分に準備用のスペースが設けられているようだ。ヒロミの降ろされた足場は、荷物や器具、ヴォイミを水に浸らせないためのものだろう。見回した限り施設全体にあまり使用された形跡がないことからも、実験、研究用としてはさほど使い勝手がよくなかったのかもしれない。


 クトゥアの言ったとおり、ドアのロックは解かれていた。準備室部分には小さい机と椅子、棚、そして椅子兼ベッドにもなるものだろうか、折りたたみベンチのような簡素な長椅子も置かれている。ここはあくまでも記録をつけたり器材を整えるためのスペースなのだろう。そしてどうやら水道施設は屋外の足場部分に設けられているもののみのようだ。ヒロミはクトゥアから言われた通り、そこで靴を脱ぎ、足についた泥を念入りに洗い落とした。これではよほど羞恥心を捨てない限り、体を洗うシャワー代わりに用いることは不可能だろう。部屋を与えられたのは勿論感謝すべきことだが、何日も滞在するのに適しているとは言い難く思えた。


 ヒロミは室内へと入った。研究棟へ直接通じる扉も、確かにロックが解除されているのが確認できた。湿地を経由しなくても棟内へ行き来できるのはヒロミにとっては有り難い。施設は水耕の実験用と聞いていたが、奥のスペースに何かが植えられているわけでもなかった。実験室部分は床面が屋外の地面よりも一段低くなっており、給水口から直接湿地の水を引き入れることができる構造のようだ。栽培に用いるものであろう、養液を循環させる仕組みを備えた栽培用ラックと思しき設備もあるが、こちらも全てが空だ。いずれも今回は使用しないものなのだろう。ヒロミの仕事はヴォイミが記録したデータをモニターし、あるいは一定期間ごとにまとめてというかたちだろうか、改めてレポートとして作成するものになるはずだ。ただし現状でそのための器具はこの部屋には一切用意されていない。


 ヒロミはベンチに腰を下ろした。相変わらず詳しいことは分からないままだが、諸々は明日改めてクトゥアに聞くしかないだろう。日が暮れ、周囲はようやく闇に包まれ始めた。夜行性の虫たちがところどころで様々な色に輝きながら活動し始めているのが見える。ジリジリという複数の虫たちの鳴き声のようなものも響いていた。穏やかな光景を目にし、ヒロミの心はようやく少し落ち着きを取り戻した気がした。


 王城でも郊外のエリアや、城外の遺跡などではこうした自然に触れることも可能だっただろう。しかしヒロミの居室の周囲では、日夜大小様々なヴォイミやヴォイアクーが飛び回っており、日々誰かが、何かが、寝室の窓や扉を叩き、訪ねてきたという記憶しかない。勿論それも悪い記憶ではなかった。そして音は――


 「…………?」


 ヒロミの中で重要な何かがにわかに思い出された。音は、そう、王城でもいつも響いていただろう。広報用モニターからのものだ。クスンへ来てからはまだ一度も見聞きしていない。最後に目にしたのはいつだったか……。今日の早朝、港へ行く道中で見たものだろう。内容は確か連日のユーフ侵攻のものだったはずだ。その時はおそらく、ついさっきクトゥアに見せられたようなユーフのスケイルヴェール抑制の効果などについては触れられていなかった。今は――、どうなっているのか。何か情報が更新されているだろうか。当然のようにどこへ移動するにも視界に、そして耳に入ってきたものだ。王城ではむしろ煩わしくすらも感じられていた。そもそもあの映像が王城でのみ流されているものなのかもヒロミは知らない。都合のいいように誇張され、ありのままの真実であるとは思ってはいなかったことも確かだ。だが――、今は知りたかった。このクスンの地で同様の情報を得る手段はあるのだろうか。ヒロミの中で急激に不安が、嫌な予感がこみ上げてくるのが感じられた。


 送られてきた負傷者――おそらくは死亡が確定している操士――は誰なのか。


 研究室で映像を見たときにはすぐに不安がよぎったのというのに、なぜ先程はただ聞いていただけだったのか。巨大な生物の出現で気が動転していたのかもしれない。日も暮れかけた業務時間後に、クトゥアが予定を切り上げて優先するほど重要な人物なのではないか。――いや、さすがにそれは考えすぎだろうか。急ぎ処置をしなければいけない状態だったことだけは確かだ。それが誰かなど、クトゥアがヒロミに知らせる必要など当然ない。たとえそれがヒロミと関係のある者だったとしても、彼女にその義務はないだろう。だが、ユーフは現在まで驚異的な速度でその活動範囲を広げているはずだ。スマーリ国の操士は全面的に彼らとの戦闘に向かわねばならない。ルルアは気にしないでと伝えた。しかし既にただ動かない相手を焼き払えば済むという状況でもなくなっている。そして明確な対処法はいまだ打ち出せていない状況だ。気にしないでいられるだろうか……。現にこうして負傷者が出ているというのに――!


 ヒロミは立ち上がった。無性に心がざわついて仕方がなかった。あの広報用映像が見たい。その内容が、――そう、ルルアも言ったように、自分と彼女が並んで不自然な笑顔で話す、今朝の発着場のあの映像のような呑気なものであればいい。そんな思いに駆られた。


 ヒロミは研究棟へ通じる扉を開けた。棟内の廊下は既に非常灯のようなわずかな照明のみになっている。天井ではなく、ところどころ壁面に取り付けられた発光植物のような鈍い明かりが灯っているだけだ。それでも照明施設がなく、おそらくは付け方が分からないだけであろうが、真っ暗なヒロミのいる実験室よりは明るく感じられた。ヒロミは裸足のまま、歩き始めた。誰かに、会うことができないだろうか。そしてクトゥアともう一度話をしておきたい。研究棟はもはやヴォイミの移動する駆動音すらもまったく聞こえない状態だった。耳をすませても、ヒロミの足音が響くのみとなっていた。


 記憶を頼りに、ヒロミはひとまずは第一研究室へと戻ることにした。方向感覚に問題があるヒロミであっても、来た道を戻るだけなら可能ではないだろうか。階段を3~4階上り、少し進んだところのはずだ。降り立った発着場と同じ高さ、多分その辺りの階にクトゥアの研究室はある。ドアをノックすれば、彼女でなくともヴォイミが出てきてくれるかもしれない。試していなかったが、ブレスレットで行ったような音声やジェスチャーの指示もヴォイミには有効かもしれない。それでなくとも――、そう考えているうちに、早速ヒロミは自分の居場所を見失っていた。思った以上に通路が暗く、距離感がつかめなくなっていたようだ。確か第一研究室は外周に面していたはずだ。だが――、ヒロミには既に復路も分からなかった。大丈夫だ。王城に比べれば比較にならないくらいこのクスンの施設はシンプルな構造をしている。そして今日はさほど距離を歩いていない。階段を下りれば先程の実験室には戻れるはずだ。そしてヒロミは、かなりの距離を歩き回った。もはや階段の場所すらも見つけられなかった。似たような構造が続き、完全にヒロミは迷っていた。


 だが、大丈夫だ……。ヒロミは自分に言い聞かせた。幸いヒロミは健康体で、ここは王城のように危険な目に遭う機会もないだろう。軟禁状態にあるわけでもなく、行動の自由は保証されているはずだ。たとえこのままどこかで倒れることになっても、誰かが、もしくはヴォイミが見つけて助けを呼んでくれるはずだ。安心できる。……いや、研究者は皆基本外出しないとクトゥアが言っていたような気もする。ましてもう夜だ。そしてヴォイミはポイントがなければ自分から助けることなどしないのではないか――。暗い廊下を進みながら、ヒロミの心を徐々に不安が支配し始めた。既に本来の目的も見失いかけていた。


 その時、通路両側に並ぶ入り口のうちの一つ、左前方の扉が開き、眩しい光が漏れた。そしてゆっくりと、ヴォイミの姿が後退しながら現れるのが見えた。しめた!これは第一研究室にヒロミの荷物を運んでいたのとちょうど逆の状況だ。これから室内の何かをどこかへ運び出すということだろう。それも、速度から察するにそれなりに大型の荷物のはずだ。つまり扉の開いている時間はそれなりに長い。


 ヒロミは駆け出した。そしてゆっくりと部屋を覗き込んだ。ヴォイミは梱包された箱をいくつも積み上げ、崩さぬよう慎重に後ずさりしている。その脇から、ヒロミは室内の様子を探れないか試みた。人がいるかは確認できないが、壁際に一枚のモニターがある。その演出のクセから、映像はまさに広報用と思しきものを映し出しているのが分かった。ヒロミは凝視した。黒いもやが撒かれる映像が確認できた。ユーフだ。クトゥアに見せられた映像ともまた違う新たな場所の映像が、既に使用されているようだ。


 「……あ?あ?」

奥から1人のネーリアが現れた。王城下層の部屋で会ったキエリという女性に似たゴーグルをはめた姿の小柄の研究員だ。既に眠ろうとしていたのか、動きは緩慢だった。どうやらヒロミが扉付近にいたことで、ヴォイミが進めなくなっていたようだ。ヒロミは全く気付いていなかった。


 「あ、あの、ごめんなさい!私、地球人で、あの……」

「え?」

「場所が分からなくなっちゃって、クトゥアさんに会いたいんです!で、今、その映像が目に入って……、え!?やあああああああ!!!!!」

ヒロミは急に叫び声を上げた。映像には、制御を失ったヴォイアースが何体も墜落する様子が映されていた。そしてその最後に一瞬、シーロトワミが映り込んでいた。嫌な予感が的中した。ヒロミはそうとしか思えなかった。両手で頭を覆い、ヒロミはその後も何かを2~3言叫んだ。


 「あ?何?あ?」

状況が分からない研究員が映像とヒロミを交互に見ている中、ヒロミは背後から何か粉末が噴霧されるのを感じた。ヒロミはそのまま意識を失い、倒れ込んだ。


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