8-10
――ヒロミは明るさを感じた。
そして暑さを、いや蒸し暑さも感じられた。水の流れる音がする。
ラー、ラ、ララ、ラー……
水とは別に、周囲に音が響いている。音の高低は、あるメロディーを連想させた。それはもう少しでぴたりと繋がりそうで、途切れてしまう。ヒロミも完全には覚えていないのだ。しかし記憶には鮮明に残っている。歌声と、そこに集まる虫たち、そして伸び広がる植物――。それはヒロミが目にした中で最も美しい光景かもしれない。ヒロミはもっと聞いていたかった。正確にその旋律を思い出したかった。だが、周りを取り囲む音はヒロミの記憶を断片的にしか呼び起こさなかった。歌は、近付きそうで離れていってしまう。耳元に寄り添い、ささやくように再現されたその声の正体を、ヒロミはどうしても確認することができなかった。ヒロミは急に不安に襲われた。このまま冷たい水底に沈んでいってしまうように感じられた――。
――違う、こんなけたたましい音ではない。いや、それどころか、そもそもこの音に高低などないのではないか?この音は――
ヒロミは目を覚ました。そこは昨日案内された、クスンの研究棟に接した小屋のような実験施設の準備室部分だ。そのベンチに、ヒロミは横たわっていた。足の先端が水たまりに浸かっている。ヒロミは体を起こした。実験室の下部に設けられた給水口が開けられているのだろうか。湿地の水がゴボゴボと鈍い音を立てて流れ込み、準備室側にやや溢れるくらいの水位になっている。そして周囲の音は、眼前に広がる湿地の虫たちのものだ。正確にはカエルのような両生類や、虫以外の生物もいるのかもしれない。昨夜とは比べものにならないほど多くの種類の鳴き声が、盛大に響き渡り、ヒロミの聴覚を覆っていた。
ヒロミは記憶をたぐり寄せた。ベンチで寝ていたせいか、体の節々が痛んだ。外は快晴のようだ。机に目をやると、カード状の物体が1枚置かれているのが目に入った。ヒロミはゆっくりと起き上がり、机へと向かった。クトゥアとの間で幾度も話題に挙がった、ここでの身分証を兼ねたポイントの精算をするためのカードだろう。ヒロミの名前と、ポイントらしき数値が表面に表示されているのが分かる。自分宛てに届けられたものということだろう。ヒロミは手にとった。ヒロミの認識が正しければその表記の示す数値は「-31」だ。なんとなく予想はしていたが、既にヒロミの所持するポイントはゼロですらないようだ。苦笑する余裕すらなかった。
大丈夫だ。記憶には問題がなかった。ヒロミは思い出した。映像だ。王城では嫌でも目に入ったあの広報用モニターに、シーロトワミが映っていたのだ。そしてある研究員の部屋で、ヒロミは意識を失った。おそらく警備用ヴォイミの放った薬品によるものだろう。ちょうどネーリの到着時に消毒薬をふりかけられたのと同じかたちだろう。
ヒロミの中に徐々にそのときの――自身の体調からしておそらく昨夜の出来事だろう――感情がよみがえった。そして焦燥感を強く掻き立てられるのを感じた。
(また、行動が制限されたりしてしまうのだろうか――)
ヒロミは懸念した。突発的な行動だったとはいえ、これではどこへ行っても勝手なことばかりしていると捉えられかねない。しかし、情報がないのだ。ヒロミは心韻が使えない。そしてここでは何をするにもポイントが必要だ。――では、どうすればいいというのか……
ヒロミは室内を見回した。水が流れ込み、カードが置かれていたということ以外は昨日と何も変わらない。相変わらずガランとした室内で、ヒロミがしなければいけないことの手がかりすらも与えられていない状況だ。かと言ってクトゥアを問い詰めても仕方がないだろう。彼女も最低限の必要な情報しか知らされていないはずだ。彼女自身の仕事もあり、そちらを優先すべき状況ということも理解できる。ただ彼女は言っていた。この地でヒロミにしてもらいたいことについてプランがあると。であれば、次に会ったときには何としてもその話を進めねばならないだろう。だが……。だが、何よりもまずは――
そのとき、準備室と研究棟とを繋ぐ扉が開いた。
「あー、あー、起きましたね、んふ、んふふ」
背後にサポートヴォイミを数体引き連れ、クトゥアが室内へと入ってきた。
「あ、あの!おはようございます……、お騒がせしてしまって……」
「まぁ、もう、昼ですけどね、んふ、笑える」
クトゥアは答えた。
「あー、それね、はい、はい。ここで使える、カードですね、えぇ。使ってください、と」
そしてヒロミの手にしたカードを示して続けた。
「ありがとうございます!あ、あの……、クトゥアさん、今お忙しいですか?」
ヒロミは尋ねた。
「んー、まぁ、今、お昼の休憩中ですのでね、えぇ。部屋に戻る途中に、寄ったんですけどね、はい」
「あ、あの、よかったら色々聞かせてください!」
ヒロミは強めの勢いで迫った。
「え、えぇ、はい。かまいませんよ、はい」
クトゥアは了承した。ヒロミは彼女を椅子へと促し、自分は再びベンチへ腰を下ろした。ヴォイミたちは部屋の外で待たせることにしたようだ。
「あぁ、それね、昨日の、警備にかかった費用も、請求する、とかで、ね。もう引かれちゃってますね、んふ、んふふ」
クトゥアは座りながらヒロミのポイントについて言及した。
「え、あの……はぁ、それはかまいません。あとで直接お詫びに……。あ、いえ、あの!よかったら教えてください、クトゥアさん。昨日送られてきた操士の方は、どういう方なんでしょうか……!」
ヒロミはいささか納得できていない様子ながらも、最も知りたかったことを聞くことにした。
「んー、あぁ、まぁ、詳しくは分かりませんけどね、えぇ。ヒロミさんの、知ってる方ではないでしょうね。はい」
「そ、そうですか……!」
ヒロミは両手で顔を覆った。
「えぇ、あの」
クトゥアは話を続けようとしたが、ヒロミが同じ姿勢のまま静止しているのを見てためらったようだった。
「……あ、はい、すみません!あ、ありがとう、ございます……!」
ヒロミは声を震わせた。
「え、えぇ。どこか東の都市出身とか、言ってましたかね。はい。親族の引き取り手も、ないとかで。えぇ」
「あ、あの……!不謹慎で、すみません。昨日、映像で、シーロトワミが、ユーフのニュースの中で、映っていたのを、見てしまって……、それで、もしトワに何かあったらって……!私……!」
「んー、あぁ、あれ、そんな名前でしたかね、はい。私、ヴォイアースの名前も、見た目も、全然分からなくて、えぇ。見分けつかないですね。んふふ、笑える」
ヒロミも顔を覆ったまま小さく笑った。
「あ……、ごめんなさい、笑い事ではないですよね。負傷されたというのに……」
「えぇ、まぁ、戦闘はまだ、これから、という感じですからね、はい。今後はもっと、こうしたこと、増えていくでしょうね、はい。笑えないですけどね」
ヒロミはゆっくりと頷き、姿勢を正した。
「クトゥアさん……」
そしてクトゥアの方へ向き直り、語りかけた。
「私、戻ることはできるんでしょうか」
「ん、地球に、ですか?」
「王城にです!」
「んふ、んふふ!」
クトゥアは吹き出したように笑った。
「なんで、んふふ!ネーリアか!あなた。んふふ!ここの、人じゃないのに、んふふ!笑える。ネーリアか!んふふ!んふ」
クトゥアは繰り返した。
「私、気になって仕方ないんです!昨日も、映像を見て、居ても立ってもいられなくなってしまって……。今も、少しはほっとしていますけど、なぜ首席操士の彼女が前線に行かなければいけなかったのかって、すごく、すごく知りたいし、できることなら、聞きたいんです、直接!」
ヒロミは訴えるように言った。
「んー、まぁ、んー、出来ることとしたら、ここの通信官に、頼む、とかですかね、まぁ」
クトゥアの返答をヒロミは黙って聞いていた。
「それも、ポイント必要ですけどね、んふ」
「はい……、あとは、居場所が正確に分からないといけないんですよね……」
「えぇ、えぇ」
通信官を挟んで、ヒロミがトワの私室の場所を伝えるわけにはいかない。そして通信用のヴォイミを中継するにしても、ポイントと心韻での指示が必要になるのは明白だ。ヒロミは悔しそうに顔を歪めた。
「まぁ、仮に、王城に行っても、ヒロミさん、もう、部屋はないですし、ですよね?ね。ポイントじゃなくて、お金、普通に、必要ですから、はい」
強く意識してはいなかったが、それも間違いないことだ。以前博士の部屋から荷物を運び出す際にも、有料だと告げられたことがあった。自身の日頃の飲食や交通にかかる費用はすべて、IDも兼ねた許可証で自動的に行なっていた。それがない場合、同じような行動をするために果たしてどのくらいの金額が必要になるのか、ヒロミは考えたことがなかった。
「直通便も、滅多にないですから、ね。まず行くの、大変です。すごく高いです。それか、ゆっくり、東海岸を通ってく、安い、大型貨物船ルートですかね、はい」
ヒロミは床をぼんやりと見つめたまま聞いていた。
「この地方ね、天然の樹脂の、宝庫なんですね、はい。ネーリにも、虫たちにも、ヴォイミやヴォイアースにも、必要なものです、えぇ。私達の家系、この下に元々住んでてですね、代々、それを――」
「時間はどのくらいかかるんですか?」
ヒロミは尋ねた。
「えぇ、えぇ、それを沿岸の都市に、供給しながら、王城に向かうんで、3週間とかですかね、はい」
「……」
ヒロミは無言で応じた。
王城に戻るのが現実的ではないのはヒロミにもある程度は予想できていた。だが、ではどうすれば――。日々、この部屋で研究を続けることで、いつか再会できるときが来るというのだろうか。いや、それしか手段がないのであれば、当然そうするべきだ。だが――……。夜が明け、虫たちが騒がしく鳴き始めるたびに、ヒロミは思い出すだろう。夢で見た彼女の歌声のことを。心を震わされた幻想的な光景のことを。大雨の研究棟でじゃれ合うようにはしゃいだ日のことを。強く求め合った夜のことを――。ヒロミは耐えられるだろうか。このままその記憶を過去のものとして生きていくことに。まだ出来ることはあるのではないか。せめて、今やれることはやっておきたい。そう思い、ヒロミは口を開いた。
「クトゥアさん、1人、居場所が正確に分かる人がいるんです。一度でいいんです。彼女と話をさせてください」




