7-4
コンコンコン
ヒロミ様!
――そう、もう分かる。これはフェイミがドアをノックする音だ。名前も呼ばれているし。間違えようがない。昨夜は何か――そう、新たな刺激と、とてつもない幸福感に満たされたまま、眠りについたはずだ。
コンコンコン
ヒロミ様!!
そしてこの香りだ。初めて口にしたときは翌日まで酔いが残ったネーリの酒の匂いに満ちている。この酒は深い眠りをもたらすが、相変わらず寝覚めはよくない。しかし、漂う香りはそれだけではない。意識がはっきりするにつれ、軽い頭痛と、他の、より強い匂いの存在に気付いた。それは鼻をつく、部屋の植物の花の香りと、そして――!
ヒロミ様!!
そうだ――。目が覚めた。目の前には一糸まとわぬ姿でトワが横たわっている。ベッドの上は既に、昨日からトワが放出し続けたスケイルヴェールの欠片と、酒と、ネーリで使われている油と、そして2人の体液とがぐちゃぐちゃに混じり合って、盛大に乱れ、得体の知れない匂いを発していた。
コンコンコン
「ヒロミ様!いらっしゃいますか?ヒロミ様!!」
フェイミが何度も呼んでいる。外はやや明るいが雨は降り続いているようだ。おそらくは朝なのだろう。そうだ、ブレスレットは……。昨日行為に及ぶ前に外してヘッドボードに置いたままだった。ずっと振動を続けている。何度も呼び出したが反応がないため、慌てて訪ねて来た、ということだろう。
しかしこの状況を見られるわけにはいくまい。――いや、むしろ隠すこともできないのではないか。
「――トワ、起きて……!」
あまりに気持ちよさそうに熟睡しているトワを起こすのは、ためらわれた。相変わらず全身の表皮はキラキラと輝き、長い髪もスケイルヴェール由来の鮮やかな色彩を放っている。触れてはいけない、妖精か何かのような、そんな幻惑的な存在に思えた。しかし昨夜は彼女と、いや、夜ではない。昨日の昼間から半日以上もずっと、2人は存分に愛し合ったのだ。そのことがにわかに現実とは思えなかった。
「ご、ごめんなさい!今出ます!!」
ヒロミは階下に向けて声を上げた。トワは目を覚まさなかった。
「起きて、トワ」
そう言って体を揺らした。すぐに荷物をまとめて出て行ってもらえばなんとかこの場は取り繕えるだろうか。しかし、ヒロミの体や髪にはトワが執拗にこすりつけたスケイルヴェールや樹脂の香りがはっきりと残っている。すぐには消せそうもない。フェイミが、いやネーリアがこの匂いの意味に気付かないわけはないだろう。
「どうかされましたか?開けますよ」
「待って!!」
勘のいいフェイミのことだ。いることは分かったうえで、何かがおかしいということに気付いているのだろう。ヒロミは焦った。だがもはや隠し通せることでもないと、覚悟を決めた。
「トワ、起きて。フェイミさんが来てるの。私出るから」
「ん……うん……?」
トワもようやく目を開いた。ヒロミは慌ててローブを拾い上げ、羽織った。
「え、……どうしたの……」
トワは体を起こした。
「フェイミさんが来てるの」
「え?」
まだ状況が飲み込めていないようだ。
「ドアのところでなんとかするから、じっとしてて」
ヒロミはそう言って、寝ぼけ眼のトワをあとに、階下へと降りた。素肌、素足にローブをぐるっと巻いただけという容姿は、誰が見ても不自然だろう。それでも、首元など、特に念入りにトワが体を擦り付けてきたところは極力隠すようにした。
「お、おはようございます、すみません、熟睡しちゃって……」
ドアが開くと同時に、外の冷めた空気がすっと室内に入り込むのを感じた。同時に、この部屋のあまりに蒸れた、すえた臭気が室外に漏れるのも感じざるを得なかった。
「おはようございます……!?」
フェイミはすぐにその異変に気付いたようだった。
「あの、植物がすごく伸びちゃって!花もどんどん咲き始めて……」
そしてヒロミの言には耳も貸さず、ヒロミの全身の様子を一瞥すると、フェイミは急に顔つきを変え部屋の中へと入ろうとした。
「待って!!あの……部屋、汚くて!」
ヒロミは制止しようとしたが、フェイミの動きは素早かった。さらりと身をかわすようにして、植物のはびこる室内へと突き進んでいった。そして、部屋の中央付近で、中二階の寝室を見上げた。そこにはシーツにくるまったトワの姿があった。
フェイミは一瞬動きを止めたが、すぐにヒロミの方に向き直った。
「ヒロミ様、」
全身から言いようのない感情が溢れ出しているように感じられた、珍しく言葉が続かなかった。状況を整理しているのだろう。だが、そのしばし押し黙ったフェイミの様子には、いつになく気圧されそうなほどの力が溜められているようにも見えた。ヒロミも何も言えず立ち止まった。フェイミは大きく息をし、続けた。
「私が……出来ることは、多くはありません」
「は、はい……」
ヒロミは恐る恐る返事をした。
「ヒロミ様がこちらでの生活をお楽しみになりたいのでしたら、私もなるべく止めようとはしません。止められないことも多いでしょう。――しかし……、もしもそのお相手が要職に就かれている方だとしましたら――」
「は、はい……あの」
ヒロミはなんとか口を挟もうとしたが、フェイミは構わず続けた。
「例えば、有力な操士に似た方だったとしたら、その影響は少なくないということは、ご自覚いただく必要があります」
「分かります、あの――!」
「例えば!」
フェイミはヒロミを制して言った。
「その立場上認められてきた特権の数々が、失われる可能性があることも考慮すべきだということです!」
その言葉はかつてないほど大きな声で発せられた。それはヒロミに向けてだけではない、寝室にいるトワにも聞こえるようにという意図だろう。ガサッという音が聞こえた。トワが背筋を伸ばし、どこかへ心韻を送っているようだ。そして急にシーツを引っ張り上げ体を覆うと、ヒロミのもとまで駆け下りてきた。
「あの子たちの返事がない。行かないと!」
トワはそう言ってヒロミに口づけをした。
「またね、ヒロミ、愛してる」
そして一瞬甘えたような眼差しでヒロミをじっと見つめると、すぐに振り返って階段を駆け上がり、ベランダのヴォイアクーに乗り込んでいった。
ヒロミは呆然と立ち尽くしていた。
「え……と、あの、もう、何か動きがあるということですか……?」
ヒロミは怯えるように、側で顔を伏せるようにしていたフェイミに向け尋ねた。
「可能性がある、というお話です。私も知らなかったんです。おそらくまだ何もないとは思います」
「よ、よかった……」
ヒロミは一気に恐怖を感じた。リチイにイムリ、アーネイたちはきっとまだ朝早くて眠っていた、というだけだろう。そうであってほしい。ヒロミは強く願った。
トワの乗るヴォイアクーはスケイルヴェールを放ち飛び立っていった。ヒロミは見送りにも行かずその様子を見上げていた。泣きたいような心境だった。
「おそらくは、ですよ。ヒロミ様」
そうだ、何かあったとして、いきなりトワの私室が暴かれるというようなことまでは、さすがにないだろう。ましてあの子たちの存在が知れ渡り、引き離されるようなことになったとしたら――、トワにとっては生きる希望すらも失うことになりかねない。フェイミの指す特権というのは、勿論他にもいくつもあるはずだ。
「ヒロミ様?しっかりしてください。そのことだけではありません。あなたの置かれている状況のことをお話に来たのです」
だが多少なりとも、彼女のここでの生活に不利益を与えることになるのは間違いないだろう。いや、そんなことは分かっていたはずだ。それがどの程度のことなのか、自覚がなかったということだ。それもまた確かなことだ。
「ただちょっと、失礼ながら想像を超えていました……。私が見て見ぬふりをするのにも限度があります」
しかしヒロミも決して勢いにまかせただけというわけではない。少なくともヒロミ自身はそう思っている。
「――ま、待って、説明させてください」
「説明!?出来ますか。この状況で!」
フェイミは怒りを顕わにした。
「私はあなたの状況を少しでも良くできればと思い来たんです。なぜ自らより立場を悪くするようなことをなさるんです!これはもう命を狙われてもおかしくないような事態です。私も、フォローしたくてもしきれないことがあります。出来ることと言えば、これ以上あなたが余計な行動を起こさないようにすることくらいです」
ヒロミは耳が痛かった。フェイミはひとしきり言い切って、部屋を見回した。そして寝室へと向かった。
「あ、あの、フェイミさん……」
ヒロミはその後に続いた。フェイミは散らかったベッド周りの様子はあえて視界に入らないというふうに、ヘッドボードのブレスレットだけを取り上げた。そして変わらず室内を飛び続けているヴォイミを見上げた。
「こちらは回収します。あのヴォイミも」
「え!?」
「警備のヴォイミも交代させます」
フェイミはそう言い放った。
「ま、待って、どうして?」
「私とのみ連絡可能な端末を後ほどお送りするようにします。ヴォイミは少しでもトワ様の記憶が残っていては面倒ですのですべて処分いたします」
「そ、そんな……!」
それにトワの連絡先はいまだ聞きそびれたままだ。
「ヒロミ様!どうか分かってください。あなたの置かれた状況は大変厳しいものになりました。ユーフの侵攻が本格化し、国内では反乱が起き、地球の植物がこの星ではあり得ないくらいに生長を続け、そして、それを送り込んだ地球人が、あろうことか我が国の首席操士を籠絡させた、などという噂が広まりなどしたら――!!」
フェイミは嘆くようにヒロミに訴えかけた。ネーリアの中でも特に普段感情を抑えて見えるフェイミだけに、その言葉はヒロミには響くものがあった。
「これでは研究どころか、本当にあなたの命が危ぶまれます。どうか、お願いです。必要なものは私かサポート用のヴォイミがお届けするようにいたしますので。どうか、事態が収まるまで、ここでじっとしていてください!」
フェイミはそう言うと、ヴォイミを呼びつけ、抱えるようにして部屋を出ていった。ヒロミは力なくベッドに座り込んだ。




