7-5
軽やかな羽音をたて飛び回っていたヴォイミがいなくなり、室内には再び雨音だけが響いていた。
ヒロミはぼんやりと窓の外を眺めた。陽の光は相変わらず遮られているが、雨足は若干弱まったように見える。ヒロミはそこでふと、まだ自分で窓を開けることができるのかを試してみようと思った。立ち上がり手を触れると、これまで滑るようにスライドしていた窓はびくともしない。強く引いても同じだ。
やはりだ。既に心韻によりロックされた状態になっている。これは入口ドアも同様だろう。この仕組はおそらくネーリで一般的なものだ。これまでは生体認証的な機構で、ヒロミの手でも開閉が出来ていただけなのだ。権限を持つネーリアの命令があれば、すぐにその認証は通らなくなるのだろう。そして、フェイミは何と言っていただろうか?必要なものは自分かヴォイミが届けるという話だっただろうか。反乱以降フェイミも忙しそうに動いているのは見てとれる。届けものは主にサポートヴォイミが受け持つということになるのだろう。ヴォイミには、どうやって自分の意志を伝えればいい?勿論、心韻があればやり取りができる。これまではヴォイミの意図をむしろヒロミが汲み取って対応していたに過ぎない。ヒロミの側から何らかの意思疎通ができた記憶はない。当然だ。ヒロミは心韻が使えない。つまり――、これは完全に軟禁状態にあるということだ。
――当然だろう……。
いや、当然だろうか?フェイミのことだ。このような事態にも抜け目なく対応するに違いない。ヒロミがこのまま黙ってこの状態を受け入れるわけはないことも承知しているだろう。そしてそのための対策も考慮の上で、この状況を維持するための措置を講じるはずだ。
今ヒロミに何が出来るのか、冷静に考える必要がある。勿論、フェイミが悪意をもってこうした行動に出たわけではないのは分かる。むしろヒロミのためでもあるだろう。対外的にはユーフの侵攻が本格化し、城内、国内では明確にヒロミに対し敵意を向ける者もいる。ここでこれ以上の悪評が広まったとしたら、命が狙われてもおかしくはない。しかし、ではここにいれば安全だろうか。王城が直接ユーフに攻撃されるという可能性もある。彼らの主目標が聖蛹であることは遺跡でも確認した。だが軍備がある以上その確率は低いと言える。より可能性が高いのは、この国の執行機関がヒロミに何らかの刑を科し、その処刑が実行される、ということだ。ここでの生活を見る限り、他の星からの客人であろうが容赦なく殺害する可能性は十分にあり得る。どちらもいつ起こるか分からないうえに、ただここに閉じ込められているだけではどうすることも出来ない。出来ることと言えば、逃げ出す以外ないのではないか。
楽観的に想像すれば、フェイミがうまく交渉し、ヒロミに向けられた敵意を和らげつつも、今後も研究が続けられるような何らかの方法を見つけてくれるということもあるかもしれない。有能なフェイミであればある程度はそうした道も模索はしてくれるだろう。だがヒロミとしてもそんな僅かな可能性だけを望んで何もせずただ待つという選択肢は取っていられない。同じ危険であれば、そして同じ可能性の低さであれば、何か行動を、何か自らの意思表示をしてからにしたい。ヒロミはそう思った。
無謀だろうか。ヒロミにそんな自由が与えられる立場ではないのかもしれない。ここまで、自分のやりたいようにやり過ぎたのだろうか――。
ふと、ヒロミがまだ素肌にローブを羽織ったままの状態だったことを思い出した。そして散らかったままのベッドの周りから、自分の下着と衣服を拾い上げた。この部屋に充満する花の香り、そして行為の後の蒸れた残り香が、ヒロミの本能的な部分をどうしても刺激してしまうのが分かった。――確かに、大変なことをしてしまったのだろう。自制は出来なかったのか。自分にも理由は分からない。そうしたい、と思った以上の理由はなかった。もし――、これが地球人の立場だったらどうだろうか。誰もが憧れるような気高く優秀な人物を、余所の星からやって来た異星人がいきなり奪ってしまったとしたら、そして肉体関係を持ってしまったとしたら――……。いや、逆にそこまでの人物だとしたら得体の知れない宇宙人くらいでないと釣り合わないのかもしれない。ヒロミは突飛な妄想に思わず乾いた笑みを浮かべた。もとより、ヒロミはそうした誰もが羨むようなモノや存在をあえて欲しがるようなことはしなかった。人気者は縁遠い存在だと思いがちだ。自分にとって必要か、大事か、あくまでそこが重要なのだ。今回はその対象が、トワというネーリアだった、ということだ。
後悔はまったくしていないし、したくもない。何より全身がその事実を受け入れているように感じられた。体の奥では、まだ軽い異物感を伴いながらも、熱い何かが沸き上がり尚も"それ"を求めているのが分かる。そしてそれはトワも同様であろうと、疑いもなく信じられた。あの高貴な態度を崩さないトワが、自分の前では心の壁を完全に取り払い、欲望を剥き出しで甘えてくる。それは逆らい難い誘惑であり、自らも応えたいという気持ちしか起こらなかった。たとえそれが生物的な、生理的なものだとしても――……。ヒロミは着替えもせず、再び下半身に、胸に手が伸びた。ここへ来て以来、まったく自慰行為に及んだことはなかった。そう、あのときはまだ――
――いや。いや、違う!今はこんなことをしている場合ではない。ヒロミは大きく首を振った。
このままでは、この環境のままでは、ごく自然に思考が乱されてしまう。場所のせいにはしたくないが、聖蛹に行ったときもずっとそんな感覚だった。鼻の奥にまとわりつく匂いが脳内にまで広がり、正常な感覚を奪っているようにしか思えなかった。今この感情に浸っている場合ではない。直ちに体を洗い流し、計画を練るべきだ。ヒロミは慌てて着替えを済ませ、ベッド周りを整えた。シーツの上に砂のように積もっていた、トワから放出された大量のスケイルヴェールが床に流れ落ちていった。その先にトワが脱ぎ捨てたままのローブも置かれていた。陰にはスプレー缶のような容器が一つ転がっているのが見える。
ヒロミは容器をそっと取り上げた。それは昨夜の話で触れられたものだ。あのとき、博士と初めて会ったときに取り出そうとしていたもの、それがこのスプレーだ。ヒロミが武器か何かだと勘違いしたものだ。実際には周囲のヴォイミらが撒いたものと同様、消毒液が入っているらしい。黙らせるためにさらに吹きかけようとした、ということだった。2人は恥ずかしそうに笑い合った。ヒロミは壁に向けそれを軽く噴射してみた。地球人の感覚でも扱えるものだ。勢いよく粉状の消毒薬が飛び出した。トワは他にも普段は光剣のような武器も携帯しているが、ローブを纏っているときには更に、研究棟から逃げるときに使用したような撹乱用の小型ヴォイミなども持ち歩いているということだった。
ヒロミはローブと、その容器をじっと見つめた。――これを利用しない手はないのではないか。何より出会いのきっかけにもなったアイテムだ。何らかの力を与えてくれはしないだろうか。他には置き忘れたものはなさそうだ。理想を言えば、自分の思い通りに動かせるヴォイミがあればよかっただろう。だが命令を伝える手段がない。スプレーであればヒロミにも使える。フェイミとの連絡用のブレスレットを届けに来るであろうヴォイミに対してであれば、これは目くらまし程度の役に立つのではないか――。
……いや、無理だろう。研究棟で足を引きずりながらも激闘を展開したヴォイミのことを思い出した。あの瞬発力、跳躍力が備わっていたら、この程度の速度で放たれる薬品をかわすことなど造作もないだろう。ヒロミの視力でターゲットを追いきれる自信もない。それならばまだ、このローブでヴォイミの全身を覆ってしまう方が効果がありそうだ。ヒロミは自らの浅い考えに落胆した。警備用のヴォイミも交代させると言っていたが、それは完了したのだろうか。窓の外を巡回していたヴォイミらの姿は、今は雨のためよく見えない。逃げ出すのであれば、なるべく警備の手薄なタイミングがいいだろう。フェイミの指示で配備されるのであれば、対外的だけではなく、ヒロミ自身をも捉えるように命令が変更されているはずだ。出来ればその相手はしたくない。
そして、仮に逃げ出せたとして、その先はどうする?誰かと連絡をとる必要があるだろう。ヒロミの知っている範囲で、居場所を知っているネーリアなどいない。トワの自室は危険すぎるうえに道順が分からない。キュイオが無事であればずっと研究室にいるだろうが、今しばらくは治療中のはずだ。フェイミや、そして出会った他の操士らも、普段どこでどんな生活をしているのかは聞いていなかった。重ね重ね、せっかく外部とヒロミを繋ぐ頼もしい道具としてその活用法を理解しつつあったブレスレットを失ってしまったことは、大きいように思えてならなかった。これではたとえ連絡先を聞いていたとしても意味がない。
――連絡先……。誰かが端末に入力していなかっただろうか……?ヒロミはしばし記憶を辿った。そして思い出した。セイニだ。あの目つきの鋭い、緑色の瞳をした、労働局の職員だ。彼女の居場所ならば分かる。労働局への道順も分かる。そして彼女はトワとも繋がっている。これだ!この部屋から逃げ出し、彼女と接触するしかないだろう。最も、いやほぼ唯一と言っていいくらい可能性が残されているとしたら、その選択肢しかない。ヒロミは心を決めた。




