act24
この人の顔を本当に見ずに済むようになるのは、いつなんだろう。
act24.体育祭は大波乱(後)
これは相当怒っていらっしゃるのだろうか。いつまでも立ち上がることのできないあたしをあざ笑うでもなく、心配して手を差し伸べるでもなく、ただ、見下ろしている。この人の感情がさっぱり読めない。これまで一緒にいて、ひたすらニコニコしている時も何を考えているのかよくわからないと思っていたけれど、今の方がもっとわからない。喜怒哀楽の何も伝わってこない。
そんなことはどうでもいい。この人が怒っていようと喜んでいようと関係ない。
なぜ彼が今この場所にいるのかのほうが問題だ。
まず、最初にあたしを見つけてくれたのは女の人だった。あんなに高く、柔らかい声を持つ男性がいたらお目にかかりたい。もちろん篠田先輩の声は、どう聞いても女の人と間違えることのない、明らかに男の人の声だ。しかし今この場にいるのは、あたしのほかには篠田先輩だけ。女の人の影も形もない。
次に、この人、選抜リレーに出ていたはずではなかったのか。はっきり確認したわけではないけれど、陸上部の部員は毎年ほぼ全員が体育祭では選抜リレーのメンバーに選ばれるのが通例だと二年の先輩たちから聞いていた。そして選抜リレーでの順番は、一年生が最初で三年生は一番最後。きっと篠田先輩はアンカーだったはずだ。
選抜リレーはついさいっき終わったばかりだ。選手が解散して、さっきの女の人から報せを受けてからどんなに急いで来たとしても、こんなに早くこの場所に来られるはずがない。そして、リレーで走った直後に急いでこちらに来たにしては、汗ひとつかいていないし、息も全然乱れていない。
最後に、昼休みにきっちりはっきり、誰の目にも明らかに、あたしはこの人を振った。付き合っている振りを解消したいと言った。少しは棘のある発言をしている自覚があったから、最後は彼の顔を見ずに言うだけ言って逃げてきてしまったけれど、本来の篠田先輩はあれだけ言われて黙っている人ではない。気分を害さないわけがないのだ。いっそ嫌われたいぐらいだったから、何と思われても構わないと思っていたけれど、それはもう二度とこの人とこうして顔を合わせない前提での話だった。
そんなわけで、なぜこの人が今、わざわざ倉庫の鍵を持って、この場所に立っているのか。
お互いに無言、無表情で見つめ合うこと数秒間。
先に口を開いたのは先輩のほうだった。
「一人で隠れんぼでもしてたのか。楽しかった?」
「ええ、スリル満点でした。タイミングさえ悪くなければもう一回やってみてもいいかも知れません」
瞬きをすると、目の縁に溜まっていた涙がつっと流れ落ちた。慌てて手の甲で拭い取ったけれど、頭の上からはかすかに鼻で笑う声が聞こえた。見上げると、想像通りの意地悪そうに口元を歪めている顔。
「怖くて泣いてたくせによく言うね」
「どうしてこんな所にいるんです? 先輩、リレーに出てたんじゃないんですか?」
どうにか話を逸らしたくて、先輩の言うことを無視するように質問をかぶせかけた。あたしが泣いてようが笑っていようがそんなのどっちでもいいじゃないか。いびつな関係は清算したのだ。あたしはこの人とは無関係の、関係があるとすれば単なる部活の先輩後輩というだけの、赤の他人だ。
「リレーには出てないけど」
「……そうですか」
「それより早く立ちなよ。せっかく鍵開けてやったのに、いつまでそこで座り込んでるつもり?」
「…………」
腰が抜けて立てないんですよ! 言わせないでよ恥ずかしいな!
いや、言えない。言いたくもない。知られたくない悟られたくない。この人に弱みなんて見せた日にはもう、そのネタで一生都合よく利用されてしまうのではないだろうか。
「もしかして、立てない、とか」
この瞬間のこの男の顔、あたしは一生忘れない。にやぁ、と擬態語がそのまま具現化したら絶対こんな顔になる。一番知られたくない奴に一番知られたくないことを知られてしまったのが悔しくて悔しくて、こいつ、後で回復したら覚えてろよ。
「少し休憩してるだけです! 鍵開けてくれて感謝してるので早くあっち行ってください。閉会式始まっちゃいますよ」
「またまた強がって」
また鼻で笑う声。こいつは鬼か。悪魔か。早く行ってっていったら行ってくれ。
どうしていちいち突っかかるようなことしか言えないんだろうか。それはあたしが単純にこの人に対してよい感情を持っていないから、それから、昼休みにきつい言葉でこのひとを切り捨てる発言をしてしまった直後でこの人と堂々と相対するだけの心構えがしっかりできていなかったからだ。
それでは先輩はどうなのだろう。
自分で思い返してみても、数時間前にあたしが吐き出した暴言は酷い内容だったと断言できる。本心から出た言葉で、後悔も反省もするつもりはないけれど。けれどその直後にこうして涼しい顔であたしの前に顔を見せたこの人の神経がわからない。頭の中身がどうなっているのかわからない。
腹が立つことはなかったのだろうか。―――いや、腹を立てている。少なくとも今、あたしを見下ろしているこの人の目は笑っていないどころか氷のように冷たい。あんな噛み付き方をされて喜ぶような人間はまずいない。
では、傷つきはしなかったのだろうか。それほどまでに蛇蝎のように嫌われているならばもういい、俺だってお前なんてごめんだ、金輪際顔を見せてやるものかと、そう思うことはなかったのだろうか。まあ、思わなかったから、今こうしてこの場所にいるのだろうけれど。
「ほら」
少し腰を屈めて差し出された手を、絶対に取るものかと思った。
もう十分に休憩した。腹の立つことに、こんなに殺伐とした会話でも、話をしているうちに冷静さを取り戻すことができた。だから今ならきっと自力で立ちあがれるはずだ。床に両手をついて前屈みになり、片膝を立てる。ゆっくりと体重を足の裏へ移動して―――。
「あっ」
結局あたしは再び無様に転がることになる。かっこ悪い面ばかり、こんな人に見せたくて見せているんじゃないのに。気づけば足に張り付いているガーゼも土と埃で汚れてしまっていて、みすぼらしいことこの上ない。やんちゃ盛りの小学生男子並の薄汚れぶりだ。
ああ、泣きたい。でもこいつの前で泣きたくない。
「もういいだろ、怖い思いしたのはわかってるから無理して強がるなよ。ほら、捕まって」
ついにしゃがみ込んだ篠田先輩が強引にあたしの手を取った。
いかにも聞き分けのない子供を諭すような口ぶりに乗せられて抵抗することを忘れたまま、あたしの体は今度はきちんと直立することができた。足元も安定しているから、もう歩いて大丈夫だろう。
立ってみると、午前中に擦りむいた膝や肘、それから力の限り扉を叩きまくって腫れた拳の痛みも蘇ってきた。これは忘れたままでよかったんだけど。拳もそうだけど手の平も腫れているようで全体が真っ赤になっている。これは早く冷やさなければ。
こっそりため息をつくと、手を握った感触と温度から何かを察したらしい先輩が「保健室に行くぞ」と言った。顔を上げると心底面倒くさそうに目を細めている顔があった。
「は?」
「手が腫れてる。それから、肘と膝のガーゼも換えてもらわないと雑菌が入るから」
有無を言わさず、手を引かれて校庭とは反対方向、保健室のある校舎に向かって歩きはじめる。
「もう一人で大丈夫ですけど」
実際に掴まれているのは手首だけれど、端から見たら普通に手を繋いでいるのと変わらない。妙に気恥ずかしくて、相手が篠田先輩であることが更に居心地が悪くて、堪らなくなってささやかな抵抗を試みた。
「この鍵を職員室に返すついでだからいいの。それに俺、さすがに泣きそうな女の子を放ってどっか行っちゃうような人間じゃないよ」
あんたがいるから泣けないんだよ。涙が出そうなの必死で我慢してんだよ。あんたの騎士道精神は立派だけど時と場所と場合と相手を考えろよ。
そうこうしているうちに閉会式が始まったようで、先生も生徒も校庭に集合していたから誰にも見られずすれ違わずに済みそうだから、まだよかったとしても。恥ずかしいんだか、単純に一秒でも早くこの人から離れたいだけなんだか、もうわからない。
「お昼にあたし、だいぶ酷いこと言いましたけど」
沈黙すると悪い居心地が更に悪くなるので、破れかぶれな気持ちで口を開くと、一歩前を歩いていた先輩が振り返って笑顔を見せる。どこからその爽やかな笑顔を出したんだ。
「ああ、あれ。反省した?」
「いえそれは全然。本心なので」
「傷つくなー。俺こんなに葛西さんに尽くしてるのに。わざわざ助けに来て、この仕打ち」
再び前を向いて歩を進める声のトーンが低くなろうが知ったことか。保健室に着いたら今度こそ二度と会わないと誓ってやる。こっちだって本当は無闇に人を嫌うなんてしたくない。この人の嫌みったらしさと強引さがもう少し減れば、あたしだって少しは態度を軟化させても構わないと思ってはいるのだ。
保健室の前で篠田先輩とは別れた。
養護の先生に事情を説明して「女の子なんだからもっと自分の体に気を遣いなさい、上から下まで傷だらけになって……!」というありがたいお叱りの言葉をいただきながら、あちこち手当てをしてもらった。傷だらけになりたくてなってるわけではないのだけれど。
肘と膝のガーゼを取り替えてもらって、新たに両手の手当てもしてもらって、クラスに合流する頃にはかなり落ち着きを取り戻していた。
「葛西さん、やっと戻ってきた! どこに行ってたんだよ!?」
「リレーの集合時間になっても来ないし、電話かけても出ないし、心配したよ~」
「ていうかその手、どうしたの? 朝よりも怪我増えてない?」
「依子ちゃん、大丈夫?」
「みんなで探したんだよ」
「リレーには明日香ちゃんが代わりに出たんだよ」
口々に心配やら文句やらを述べながら迫ってくるクラスメイトにはもう、平謝りだ。
特に一緒にリレーに出るはずだったメンバーと、それから代役として出てくれた明日香ちゃん。彼女も運動部だし、足の速さだってあたしとほとんど変わらないタイムを持っているから、結果の心配はなかったけれど。
「ごめん。本当にごめん! 体育倉庫に閉じ込められててさ」
「えぇ!?」
正直にこの身に起こったことをかいつまんで話すと、クラスメイトたちはさらに詰め寄ってきた。
探してくれていたのはありがたいけれど、誰が、人気のない体育倉庫にいると思うだろう。
「ちょっと、さすがにやりすぎなんじゃない……?」
「葛西さんの話したとおりなら、犯人、ぜったい篠田先輩の取り巻きの人たちだよね」
「女ってこええ」
本当に怖い生き物だと思います。女の人って。あたしもその女の一人だけれど、あんな風に自分の利のためなら集団で人に危害を与えても良いなんていう考えにはなりたくない。
「依子ちゃん、これからはあんまり一人にならないようにしてね。また同じようなことが起こるかもしれないし」
「あたしたちも気をつけて、できるだけ誰か一緒にいるようにするから」
これまで、というより夏休み前までの間に、似たような騒ぎが起きなかったことのほうが不思議なぐらいなのだ。ちょっとした隙をついて目立たない場所に呼び出されて嫌味を言われたり、突き飛ばされたり、下駄箱に画鋲だとか得体の知れないものが入っていた程度で済んでいたのは今思えば奇跡だ。
「葛西さんが篠田先輩のこと好きじゃないのは見てわかるし、これから先、エスカレートして何をされるかわからない。クラス全体で気をつけていよう」
委員長がまとめると、周囲のクラスメイトみんなが一様に頷いた。
守られるなんて柄じゃないけれど、優しい彼らの気持ちは、かさついた心にじんわりと浸透していった。
結局、体育祭は白組の優勝で幕を閉じたのだそうだ。
リレーにあたしが出なかったことはさして点数には影響しなかったけれど、午後の競技で全体的に白組のほうがリードしていた結果だという。騎馬戦も、選抜リレーも、あと一歩のところで届かなかったと聞いたけれど、それを聞いてもさして悔しさは感じなかった。
それ以上のハプニングが起こったことで、身も心も疲れ果てていた。




