act22
一日の幕開けからして前途多難でした。
act22.体育祭は大波乱(前)
九月も中旬になって、暑さもほんのり和らいできた今日、体育祭の当日だ。天気は晴れ、ときどき曇り。一日体を動かすには程よい気候となった。
結局篠田先輩とは廊下ですれ違うこともないし、顔を合わせることもないし、もちろん口もきいていない。たまに、遠くにいるのを見かける程度で、快適な毎日を過ごしてきた。
一年三組は赤組側で、各自教室から持ってきた椅子を応援席に運んできたところだ。他の学年、クラスも同じようにして綺麗に並べている。
「あー……今からでもお腹痛くならないかな」
「まだ言ってるの? 悠美、もう諦めて学校行事楽しみなよ。授業もないし、明日は学校休みだし」
「いや。今なら化学の石井先生の授業のほうが楽しい気がする」
数学や理科の苦手な悠美がそこまで言うのだから、よっぽど運動が嫌いらしい。たしかに体育の授業でもよくボールを落としたり、バレーボールなのに体に当てたり、何もないところで転んだりしているけれど。それでも体育の授業に大人しく出ているのは、ほんの一時間で終わるからだろう。たぶん。
「あ、篠田先輩だ」
「え?」
「ほらほら白組側で椅子運んでる。肩にタスキもかけてるから、応援団やるのかな。似合いそうだね」
こういうときばっかり目が利く悠美は、わざわざ聞いてもいないことまで教えてくれる。
部長は篠田先輩が気落ちしていたと言っていたけれど、ここから見る限りそんな様子は一切感じられない。いつもどおりというか、普通に声をかけられたクラスメイトらしき人たちと話して笑っているし。なーんだ、やっぱり何の心配もなさそうだ。
開会式とか校長先生の話とかが終わると、さっそく競技が始まる。
まず一発目は、一年生女子の徒競走。これが終わったら一年生男子、それから二年生、三年生と学年が上がっていく。名前の順にスタートしていくから、頭文字が「か」のあたしの順番は比較的早いほうだ。他のクラスに運動部がいなければ、一等か二等ぐらいにはなるだろう。
でも。
「依子ちゃん」
「あれ。舞、もしかして走る順番いっしょ?」
「そうみたいだね。女子の五番目」
舞の苗字は菅原。カ行とサ行はそんなに離れていないから、そうか、同じ順番で走ることになっても不思議ではないのか。徒競走で走る距離は百メートル。普段から短距離ばかり走っている舞のほうが、中距離のあたしよりもスピードも瞬発力でも勝っているのは、部活での記録を見るまでもなく明らかだ。
仕方ない、一等は譲ろう。二人とも赤組だから、高得点を敵に持っていかれる心配はないわけだし。
なんて暢気に考えているとあっという間に走行順がやってきた。
パァン! と小気味よく響く銃声を耳に、あたしはほとんど反射的にコースに飛び出した。
さすがに速い舞のすぐ後ろをなんとか付いていく。グラウンドのサイズの関係で、百メートルを真っ直ぐ走るのではなく、トラックを半周するようになっている。走りなれている学校のトラックとはいえ、カーブを全力疾走するのは辛いな、と感じた瞬間、あたしは見事にすっ転んでいた。
「……」
恥ずかしいとか悔しいなんてもんじゃない。あたしが陸上部だということで、昨日までの間に散々、クラス中から期待の声をかけられていたのだ。痛む膝を叱咤しながらすぐに起き上がり、また走り始めたけれど、結局三位までしか追い上げることができなかった。
ゴールして「3」と書いてある札を受け取り、待機列につく。痛い、痛いと思っていたら、両膝にはじんわりと血が滲んでいた。こんなことなら短パンじゃなくて下だけでもジャージを穿いてくるんだった。その辺は自由だったから選べたのに。
くっそう、悔しい。何が一番悔しいって、クラスの人たちに見られていたことじゃなくて、陸上部の同期や先輩たちにばっちり見られていた(と思う)のが悔しい。絶対、あとでみんな冷やかしに来るんだ。
順位の書かれた札を同じクラスの子に預かってもらって、あたしは保健室に直行した。
「せんせーい、すみません。徒競走で転んじゃいました」
よく見たら肘のあたりもすりむいていたので一緒に手当てしてもらってクラスの応援席に戻ると、男子も半分ぐらいが走り終えて戻ってきていた。
「依子ちゃん、大丈夫だった?」
「お前、三組女子で一番の期待の星なのに、初っ端から何してんだよー!?」
「ごめーん! 他の競技で挽回するから許して!」
何人かに笑い半分、心配半分で声をかけられ、あたしも笑って応じる。
「体操着が大変なことになってるよ。前半分が黄土色」
「あ、ほんとだ! やだなーもう、早く言ってよ」
指摘されて初めて、体の前半分が上から下まで土で汚れていることに気がついた。慌ててバタバタと払い落とすけれど、細かい土の色はなかなか綺麗になってくれない。男子みたいに騎馬戦や棒倒しといった汚れてなんぼの競技があるわけでもないのに、朝一番から一日この格好で過ごさなければならないのは……少し恥ずかしい。
「着替えも用意しておけばよかった」
「まあまあ、名誉の負傷っていうことで」
朝に見たときよりもずっと明るい表情で、悠美は競技を眺めていた。校庭では二年生の女子が走り始めていて、赤組からも白組からも声援が飛び交っている。ここぞとばかりに登場する放送部の実況も声が弾んでいる。あれだけ早口で喋っていて、どうして噛まないんだろう。
それからはプログラムどおり、特にトラブルもなく競技は進んでいった。
お昼になった時点で、赤組のほうが少しだけ白組をリードしている状態だ。とはいえ、午後に控えているのは綱引きに騎馬戦、最後の選抜リレーと、点数が大きく動く種目ばかりだ。油断はできない。
午後にあたしが出る種目はリレーだけなので、お弁当を食べたら比較的ゆっくり観戦していられる。
そのはずだった。
「葛西さん」
「はい?」
お弁当を食べに教室へ戻る道すがら、いつの間に近づいてきていたのか、振り向くと篠田先輩がいた。
返事をしたのは良いけれど、相手が不意打ち過ぎてそのまま固まってしまった。何であんたがここにいるの、これまでずっとあたしのことを避けていたくせに、何で今日、このタイミングであたしに声をかけてくるの。
「この後、時間ある? あるよな? 弁当取ったらいつもの場所に来てくれる?」
「……行くと思いますか?」
満面の笑みに向かって剣呑な視線を返す。
「五分待って、来なかったら、教室まで迎えに行くけど」
「……」
「じゃあ、待ってるから」
返事もしていないのに、篠田先輩は最初と同じ笑顔のままで三年生の下駄箱へと手を振りながら消えていった。
なんでこう、人が忘れかけた頃にあの人は不意打ちでやってくるのだろう。たまの学校行事のときぐらい余計な感情を入れずに楽しみたいのに、そうは問屋がおろさないとばかりにあたしの感情を波立たせにくるのだ。決して小波などではない、大波だ。ビッグウェーブだ。心の中にいるサーファーさんは大喜びだけどあたしは全然嬉しくない。
「……」
「依子ちゃん?」
「あ、何?」
思考停止していたらしい、あたしの目の前で、一緒に歩いていた悠美の手がひらひらと揺れた。
「大丈夫? 手も足も止まってるけど」
思考だけじゃなくて体も止まっていたのか。慌てて一年の下駄箱に駆け寄り、靴を履き替える。
「今日は一緒にお昼、食べられなそうだね」
「そんなこといいから、早くお弁当篠田先輩のところに行ってきなよ。せっかくの機会だから思ってること全部吐き出してきちゃえば?」
悠美はごく軽い調子であたしの背中を押す。押して欲しくないのに、容赦なく押す。
この間はあんなに真剣に話を聞いてくれたのに、そのときと同じ人とは思えない。そりゃ、あたしが篠田先輩に最終的には逆らえない以上に、悠美が何か言われたら無条件で従うしかないからなんだけど。
せめて教室までゆっくり行こう、と思っているときに限って、あっという間に自分の教室に着いてしまうもので、あたしは溜息とともに鞄から自分の弁当箱を取り出した。汚れた体操着のまま歩き回るのは嫌だったから、少しでも誤魔化しになればとジャージの上着も羽織った。
「……行ってくる」
「はーい、行ってらっしゃい。また後でねー」
悠美は強い。
生徒会室に近づくと、ガラス張りの壁の向こうに篠田先輩がいるのが見えた。
夏休み前までは比較的整然とした生徒会室だったけれど、さすが学校行事中だ。机と言わず床と言わずそこらじゅうに体育祭のプログラムの余りらしきプリントや、よくわからない紙や道具が散乱している。ホワイトボードも何が書いてあったのかわからない、乱雑な書き込みでいっぱいになっている。
その中で篠田先輩は適当な椅子に座って、食事のできるスペースを作ろうとしているようだった。
そうやって黙々と仕事っぽいことをしていれば、少しは見られるんだけど。口を開いたらもう駄目だ。
「五分ギリギリ。もう少ししたら迎えに行くところだった」
内側からもあたしが来ているのは見えたことだろう。ノックをせずに部屋の中に入ると、開口一番、篠田先輩は言った。
「何の用事ですか? 言いたいことが済んだら、すぐクラスのほうに戻りたいんですけど」
「まあ、久しぶりなんだからそう言わずに。とりあえずそこ、座れば」
「……」
言われるままに、本当に「とりあえず」指し示された場所に腰を下ろす。
ご丁寧に二人分の食事スペースを作って待っていてくれたらしい。変なところで律儀だ。
「プリント汚すと今の生徒会長がうるさいから」
そんなことよりも、こんなイベント当日に現在の生徒会役員たちがどこにいるのかが気になる。普通なら、こういう日は現場と生徒会室とを行ったり来たりで忙しいんじゃないのだろうか。
「まずは腹ごしらえしよう。それから話があるなら聞くから」
ほとんど会話のないまま、それぞれの食事は終了した。さっきまで体を動かしてめいっぱい応援して、十分にお腹が減っていたのに、この人を目の前にすると一気に食欲が失せるのが不思議だ。でも午後も走らなければならないからと無理やり自分に言い聞かせて、なんとか弁当箱の中身をすべて胃の中に収めた。
「徒競走で派手に転んでたけど、大丈夫だった?」
「たいした傷じゃなかったので」
おもむろに尋ねられた。あの瞬間、この人にもやっぱり見られてたんだ。あーやだやだ。
「なら良かった。ところで俺に何か言うこと、ない?」
「はい?」
すっとその場の温度が下がったような声色に顔を上げると、正面に座る篠田先輩の表情からもまた笑顔が消えていた。眼鏡の奥からあたしを見据える瞳は冷たく冴えていて、初めて図書室で会ったときのようだと思った。
「だから、俺に言うことがあるだろう」
「いや別にないですけど」
いきなりこんな場所に呼び出されて、言うことはないのかと尋ねられても。ない、としか答えられない。そもそも三週間以上も顔を合わすことすらなかったのに、何を言えというのだ。何を言って欲しいのかわからないから、うかつなことを言えない。
「じゃあ、俺から」
「……」
「葛西さん、何で俺のところに来ないわけ? 連絡の一つもないし、教室にも来ないし。俺は十分に待ったと思うんだけど」
腕を組んで椅子にふんぞり返る姿が妙に似合っている。声と共に絶対零度の視線があたしにつきささる。どうしてあたし、この人に呼び出されてこんな場所に二人きりで、怒られてるんだろう。
けど先輩のところに行く理由が見当たらないし、十分に待ったとか言われても、何の打ち合わせもなく勝手に待たれてても、困る。困る以上に、いらっとする。だから返事に棘が混ざっても仕方ないと思う。
「そんなこと聞かれる意味がわからないんですけど」
「花火大会の日にあれだけ言い捨てておいて? 俺、それなりに傷ついたんだけど」
「ああ、そのことですか。あんまり覚えてませんけど、言いすぎたかもしれませんね。どうもすみませんでした」
誰か、誰でもいいから、早くこの空間からあたしを解放してください。
けれどそんなに都合よく「誰か」が現れてくれるはずもなく、生徒会室は相変わらずしんと静まり返ったままだ。先輩の溜息が驚くほどはっきり聞こえる。
「謝るにしてはずいぶんな態度だな」
「謝っただけいいと思ってください。あのときからあたしの気持ち、あんまり変わってません。先輩から恋人の振りをしてくれって言われて、次の日には当たり前のように『一年の葛西と付き合い始めた』って言いふらされて周りからもそう思われて。取り巻きの人たちからもあれこれ嫌な思いをさせられて、毎日見たくもない顔見せられて一緒にいさせられて、せっかくできた友達一人なくしかけて、どうやってあなたに欠片でも好意を持てって言うんです? 何かしら利害が一致してるならまだしも、利があるのは先輩だけで、あたしには害しかないのに」
かちんときた勢いで、溜まっていたものを全部吐き出した。
「あたし、何をするにもその都度嫌だって言ってたはずです。先輩は一回もあたしの言うこと聞いてくれませんでしたね。どうして嫌なのか、その理由も聞いてくれようとしませんでしたね。人の気持ちや都合を無視して好きなように連れ回されてばっかりいたら誰だって堪忍袋の緒が切れると思いませんか?」
「傷つけられたのは自分の方だと?」
「違いますか? あたしは今言いたいことを全部言いましたけど、何か反論ありますか? ないなら、もう行きます。付き合ってる振りも、今、この瞬間で解消させてください」
これだけはっきり言えば、どんな人だってあたしの感じていたものを少しぐらいは読み取ってくれるだろう。机の上で一つにまとめていた弁当箱と水筒を手にすると、あたしはさっさと生徒会室をあとにした。
言い逃げだろうとなんだろうと構わない。理解してもらうことは望んでいない。今後よほどの用事がない限り顔を合わせなければ十分だ。
早足で廊下を歩いていると視界がぼやけてきたけれど、ジャージの袖で乱暴に目元を拭って、教室に戻る前にはその涙をなかったことにした。




