act21
どれほどの期間、わだかまりを抱えていれば、このモヤモヤに慣れることができるんだろう。
act21.いてもいなくても
篠田先輩が毎日のように教室までやってくることがなくなったので、あたしは休み時間をゆっくり教室ですごせるようになった。見たくもない顔を見なくて済むようになったし、何よりもわざわざ移動しなくていいのが一番嬉しい。貴重な休憩時間、何が悲しくてあの男と二人で毎日のように生徒会室で二人きりで食事をしなければならなかったのか。何を言ってものらりくらりとかわされるから、そのうち文句をつけるのも面倒になって大人しく連れて行かれていたけれど。その状態から解放されてみてこれ以上ないスッキリ感を味わった。昼休みに限らず、一日のうちで一度も姿を見なくていいのだからもう、笑いが止まらない。授業にも力が入るというものだ。
そんなある日の昼休み。
「あー、憂鬱」
「何で? 楽しいじゃん、体育祭」
「依子ちゃんは楽しいだろうけど、あたしみたいに運動ができない人にとっては憂鬱な行事でしかないよ。走るの苦手だからクラスの足引っ張っちゃうだけだし。当日だけ風邪ひいて休みたい」
弁当箱を片付けながら、悠美が唇を尖らせて反論してきた。憂鬱の言葉は嘘ではないようで、溜息をつきながら窓の外の景色をぼんやり眺めている。次の時間のホームルームでは、二週間後に行われる体育祭の種目決めを行うことになっているから、クラス中どこでもその話題で持ちきりになっている。組み分けがどうとか、応援合戦がどうとか、変わった種目があるとかないとか。
もちろんあたしはやる気満々で、当日のことを考えると(まだ出場する種目も決まっていないのに)今から楽しくて仕方ない。
「まあまあ、人間誰だって得意なものがあれば苦手なものがあるものだし。みんなわかってるからクラスみんなで苦手な人たちはフォローするって」
「でもなぁ……」
まだアヒルのような顔をしている悠美をなんとか説得しようとしたところで、チャイムが鳴った。
「朝言ったとおり、この時間は体育祭の種目決めやるから。委員長に司会頼むから後はよろしくな~」
ひょいっと顔を出した担任は、号令をする間もなく言うことだけ言うとすぐに教室から出て行ってしまった。特に用事などはなさそうな様子だったので、あれはきっと自分が楽をしたいだけだ。
「何だあれ担任ってあんなんでいいのかよ? まぁいいや。ちょっと皆こっち向いて」
悪態をつきながら前に出てきた委員長は、苗字を福山くんという。文句を言うわりに、面倒臭がっているわけでもなく、黒板に次々と体育祭の種目を羅列していく。決して綺麗な字とはいえないけど、読めればまあ良し。
「俺らの出る種目はここに書いたとおりなんだけど、決めていく前に知らない人もいると思うから基本的な情報な。まず、体育祭は赤組と白組に分かれて点数を競い合う。奇数クラスが赤で、偶数クラスが白。俺たちは三組だから、赤組ね」
ということは、陸上部の中では一年二組の三人が一気に敵になるわけだ。舞は五組だから味方。ちなみ先輩も二年三組と言っていたから味方。他の同期や二、三年生の先輩たちもだいたい半々の人数で赤と白に分かれる。よく出来ているものだ。
篠田先輩は三年二組だから、敵になるのか。ほっとしたような、残念なような。
(あれ?)
どうして残念と思うことがあるんだ! 全然、同じ側じゃなくてよかった! 一緒になったらまた、まとわり付かれるかもしれないし、そんなのこりごりだし!
「……それから、男女それぞれの100メートル徒競走は全員参加。それ以外の種目も合わせて、一人あたり二種目は出ること。ただし、運動部のやつらは一人四種目までね。それ以外のやつらは上限なし。ここまでで質問ある?」
明るく誰にでも分け隔てなく話のできるムードメーカー、という表現が福山くんにはよく似合う。確かテニス部だったはずだ。あたしに負けず劣らず真っ黒に日焼けしている。
そんな彼が前に出てこうやって話をすれば、横や後ろを向いて雑談に興じたり居眠りをしたりする生徒はおらず、全員がきちんと黒板を見て大人しく耳を傾ける。これってある種の才能だよなぁ。
「葛西さん陸上部だったよね?」
「そうだけど、なに?」
書き出された種目名を眺めながら、何に出ようかとぼんやり考え始めていたところで名前を呼ばれた。いくらクラスメイトとはいえ、教壇から名指しされると一瞬ぎょっとする。
すると福山くんは黒板の一番端に書かれた種目名を指さした。選抜リレー。定員は五名。
「これ、葛西さんは強制参加になるけど、オーケー?」
「どうして? クラスで五人だったら男子のタイム早い順に選んだ方がいいんじゃないの?」
「必ず女子を一人以上メンバーに入れること、ってルールに書いてあるから。女子の中で一番タイムいいの、葛西さんだろうし」
「わかった。いいよ、出る」
「サンキュー。じゃ、選抜リレーの一人目は葛西、と。じゃ、今から少し考える時間にするから」
さっそく名前を書き込んでゆく福山くんを尻目に、わっとクラス中がざわつき始める。グループをきっちり決めなければいけないものではないから、本当なら話し合いをする時間なんて設けなくてもいいはずなのに、こういうときにとりあえず周囲と相談してみたくなってしまうのは癖なんだろうか。もちろん、あたしも含めて。
放課後。着替えてグラウンドに出ると一年二組の三人がもうウォーミングアップを始めていた。
「体育祭、何に出るか決まった?」
走り寄りながら尋ねてみると、植村くんがおう、と手を挙げて応じてくれた。
「やっぱり三組も種目決めしてたんだ? 俺たちはまず徒競走に、騎馬戦に」
「植村が棒倒しに出て、早川と俺が障害物競走に出て、あとは……」
「……やっぱり三人とも選抜リレー?」
「うん」
口々に教えてくれた。やっぱり運動部は、というより陸上部は四種目めいっぱい参加するんだな。かくいうあたしもだけど。
「葛西さんは?」
「あたしは、徒競走と障害物競走と大玉転がしと、選抜リレー」
「やっぱり四種目出るよなぁ、というか嫌でも借り出されるよな。陸上部なら無条件に走るの速いって思われてるけど、実際は種目によってそんなんでもない奴もいるのに」
屈伸しながら岡崎くんがはは、と笑う。でも短距離専門にやってる彼なら、体育祭の走る種目ではほとんど敵なしだろう。
「俺なんて長距離ばっかりやってるのに、クラスの人たちに『そんなの関係ない』って一蹴されて、タイムも見ずに選抜リレーに放り込まれたんだよ」
「それは災難だねー、と言いたいところだけど、残念。あたしたち赤組だから、白組の人には同情できないんだなぁ」
いつの間にか来ていたちなみ先輩と舞が、あたしの後ろでニヤニヤ笑っていた。
「今年は女子が全員、赤組になったことだし、結束力も固まるってものね!」
「まじで! 何だよそれつまんねー!」
植村くんが頭を抱えて天を仰ぐ。全力で叫ぶ姿は漫画の一コマにでもなりそうだ。
「そっち、盛り上がってないで集合! 号令かけるから!」
いつの間にか部員は全員揃っていて、少し離れたところから部長が手招きしていた。
篠田先輩は徹底的にあたしの前に姿を現さないようにしたようだ。
火曜日には部活に顔を出していたくせに、水曜日の昨日も、木曜日の今日も、彼は来ない。篠田先輩が来なくなったので、校庭のフェンスに鈴なりだった女子の集団もぱったりと来なくなった。これが実に快適で、何かあるごとに聞こえてきていた黄色い声もないし、この場に不似合いな着崩した制服姿、風に乗ってくる香水のにおいもない。こういう環境でこそ、練習にも集中できるというものだ。そう思っていた。
けれど実際に静かになってみると、どうも落ち着かない。
しのだくーん!キャー!! なんて事あるごとに声援を送っていたあの人たちは正直なところうるさいし邪魔だったし、目が合えば鬼のような形相で睨んでくるし、早く篠田先輩が部活に来なくなって、あの人たちもフェンス裏からいなくなればいいと思っていた。なのに、この落ち着かなさは何だ。
夏休み中は篠田先輩は部活に顔を出したり出さなかったりしていて、さすがに長期休暇中まではあの取り巻きの人たちも部活を見に来ることはなかったから、校庭は静かだった。静かといっても陸上部や野球部やサッカー部の部員たちの掛け声や号令や、合図のために鳴り響く笛の音はあったけれど、余分なものが混じっていないというだけで、人の声も音も、それなりにあったけれど。こんなに快適なのは夏休み中だけで、休みが明けたらまたうるさくなるんだろうと思っていたから、なんとなく拍子抜けした。
「篠田先輩がいないと静かでいいですね。昨日から練習しやすくなりました」
「ああ、そういえばいないね」
走り終えてタイムを確認しているちなみ先輩に言うと、そういえばという感じでフェンスのほうに顔を向けた。
「この間の火曜日、依子ちゃんがいなかった日に篠田先輩が来てたけど、そのときはやっぱりキャーキャー凄かったけどね」
「火曜日は委員会があるので」
「うん、知ってる。図書委員は仕方ないよね。しっかしあの人たちの熱意には頭が下がるわ。篠田先輩のいる場所、いつでもどこでも付いていくもんね」
火曜日は図書室のカウンターからぼんやり校庭を見ていたけれど、取り巻きの人たちの姿までは目に入らなかった。いつも彼女たちが陣取っているフェンスは図書室から見ると一番遠い場所だし、さすがに本の保管のために窓を閉め切っている図書室まではあの黄色い声も聞こえてこないから、全然気付かなかった。
「けどさ、静かになったのはいいんだけど、ちょっと落ち着かないんだよね」
「先輩も?」
「あ、やっぱり依子ちゃんも?」
紙に記録を書き終えると、ちなみ先輩は困ったように笑った。
「一年以上、ほとんど毎日あったものがなくなるとねぇ。うざったいなって思ってたのに、いざなくなってみると逆に静か過ぎるっていうかね」
「確かに、そうなんですよね」
「ほらそこの二人! 記録書いたならさっさと次、行けよー! 今日のメニュー消化しきれないぞ」
「はーい」
話しているのが部長に見つかり、あたしたちはそそくさとストップウォッチを取りに走った。
九月になったからってすぐ涼しくなるようなものではなく、まだまだ残暑厳しい。日差しは少しは和らいできたかな。もう少ししたら、夕方のこの時間でもかなり涼しくなってくるはずだ。部活が終わって部長から連絡事項と号令があって、解散して、まだ流れ出る汗を拭き拭き部室に戻ろうとしているときだった。珍しく部長が、あたしを呼び止めた。
「葛西さん、ちょっと」
「なんですか?」
手招きされて、さっきまで集合していたあたりまで小走りに戻る。
見ると、部長は少し言いにくそうに片手を口元に当てている。
「昨日聞くの忘れてたんだけど、葛西さん、篠田先輩と別れたの?」
「はあ?」
元々付き合ってなんかいなかったですし。
篠田先輩が無理やり、勝手に、あたしのことを彼女って言いふらしてただけですし。
「いや、火曜日に久しぶりに篠田先輩が来てさ。元気なさそうだったから『受験勉強大変そうですね』って言ったら『葛西さんに振られた』って」
「はあ!? 振ってなんていませんよ! っていうか、そもそも付き合ってもいませんし」
そもそも部長は、あたしが篠田先輩と付き合う振りをしている経緯も知ってるはずなんだけど。やっぱり入部間もない一年よりも、付き合いの長い先輩のほうが信頼できるよね。心の中でそっと溜息をついた。
「そうなの?」
「そうです」
「けどまあ、やたら気落ちしてたから、一回様子見にいってあげてくれない? 葛西さんが思ってる以上に、あの人、葛西さんのこと気に入ってるみたいだし」
「え」
「え、って。すごい顔するな葛西さん」
思わず「はい」と言えずに眉根を寄せると、正面からあたしの顔を見ていた部長が吹き出した。
そんなにひどい顔だったんだろうか。素の顔を見て笑うとは、男の風上にも置けない人だ。
「もしかして葛西さん、篠田先輩のこと苦手?」
「はい」
苦手なんてもんじゃない。嫌いだ。
あんなに自分勝手で人のことを振り回しまくる人、好きになれるわけがない。どれだけ成績がよかろうと、顔がよかろうと、あの性格だけでゼロを振り切って余裕でマイナスだ。
「何だ、手厳しいなー。でも少しぐらいは話してやってよ。あの人が落ち込むとうざったくて仕方ないんだ」
「……気が向いたら……」
「うん、気が向いたらで構わないから」
うざったかろうがなんだろうが、知ったことではないけど、なんとなく部長が可哀想になってしまって、わりと前向きな返事をしてしまった。
自分から先輩のところに様子を見に行くなんて、絶対、ぜーったい、しない!




