act14
無償で与えられるものはないと思ってください。
ハイリスクハイリターン。これ常識。
act14.定位置は彼の隣
六月の関東大会も終わって、三年生は部活を正式に引退した。まあ、様子見だとか気分転換だとかで練習に顔を出す先輩も何人かいるけれど。
篠田先輩もその一人で、引退なんて嘘なんじゃないかと思うぐらいに毎日練習しにくる。高飛びだけではなくて、気まぐれにランナーと一緒になって校庭のトラックを何週も走りこんだりしている。
三年生が引退さえしてしまえば彼の顔を見る時間が減ってハッピーと思っていたあたしの思惑は、見事に打ち砕かれたことになる。
七月になって、そろそろ定期試験の季節だ。
試験一週間前になると部活動も停止になって、学校全体が試験ムード一色になる。
「明日からは別々に帰りましょう」
あたしが提案したのは、試験前最後の部活が終わった帰りだった。
「どうして別々に帰る必要がある?」
珍しくあたしが口を開いたから、先輩は少し驚いた顔であたしを見下ろす。
「放課後、学校に残って勉強していきたいんです。明日からテスト期間で部活もないし」
あたしはまるっきり理系人間だった。それでも中学校の頃までは全部それなりに良い成績を取れていたけれど、さすがに高校レベルになってくると文系科目がだんだん怪しくなってきた。
普段走ってばかりで、学校から帰ったら宿題ぐらいしかしないから。テストでそれなりの点を取るためにはこの期間に頑張らなければいけない。でも家にいる と怠けてしまうから、学校で勉強することを思いついた。ここで少しでも苦手科目をカバーしておかないと悲惨な結果になる。
「何か苦手な科目でもあるのか?」
「英語とか、古文とか、色々……」
目をそらしたまま答えると、隣から「はっ」と馬鹿にしたような声が降ってきた。
うん、いや、実際酷いものですけどね。いつでも成績優秀な先輩じゃ絶対に考えられないような点数を、中間試験のときはたたき出しましたけどね。だからこそ今回は少し危機感もあるのだ。
だからこの人に勉強の話を振るのが嫌だったんだ。絶対馬鹿にするし笑うから。見せなくてもいい弱みをわざわざ見せ付けるみたいでさ。
「俺が教えるよ」
眼鏡の奥で先輩の目が意地悪く光るのを見てしまったら、それは拒否権のない印だ。
そしてそれ以上に、苦手科目を教えてもらえるという餌に、あたしは是も非もなく飛びついてしまったのだ。相手がよろしくないけれど、それには目をつぶってしまえるぐらいに。
翌日の放課後、ホームルームが終わると先輩はわざわざあたしの教室に顔を出した。
「葛西、彼氏のお迎えだぞ」「いいなー葛西さん、あんなに優しそうな人と付き合って」
彼が教室に来るたび、クラスの何人かが必ずあたしをはやし立てる。噂が出始めた当初ほどではないけれど、やっぱり学校中の有名人とその彼女に皆興味津々なんだ。
もう、こんなの慣れた。どうでもいい。
急いで教科書を鞄にしまって教室を出ると、先輩はあたしを誘導するように歩き始めた。
「そういえば勉強、どこでやるんですか?」
「図書室」
答えは簡潔だ。あれ、でも図書室って試験前は放課後は締めちゃうんじゃなかったっけ。図書委員の係も、試験期間はお休みになるから。
「大久保さんに言ったら鍵貸してくれた」
大久保さんとは、司書さんの名前だ。あたしは四月に何度か会って以来、彼女の顔を見ていない。本当にあの人、毎日学校に来てるのかな。放課後になると図書委員に丸投げしてさっさと帰っちゃうなんて職務怠慢もいいところだ。
四階にある一年の教室から、一階の図書室へ。当番日以外の日にここへ来るのは初めてだ。
いつもどおりかそれ以上に人気がないように感じる。仕方なく毎週通ううちに見慣れてしまった、本棚にぎっしりの本と、いくつかの机と椅子。当番の日しか見ていないけれど、これを使って勉強している人を見かけたことがない。
「この辺でいいか。座って、教科書出して。試験範囲どこ?」
適当な机についた先輩の向かい側の席に、あたしは腰掛けた。終始この顔が真正面にあるのはあまり良い気分ではない。でも、まあ、仕方ないか。苦手な勉強を教えてもらえるんだもんね。
「そっちじゃない、葛西さんはここ」
さっそく鞄から英語の教科書を出そうとしたら、そう言われて顔を上げた。彼は自分の隣の椅子を指差している。
「いや……ここでもいいじゃないですか」
そんなに大きな机ではないのだし、正面に座っていればあたしの手元も十分に見えるし、特に不便ではないはずだ。それに篠田先輩だって自分の勉強があるんだから、二人並んで教科書を広げたらお互い邪魔になるだけだし。
「逆さまだと教科書読みにくいし、教えにくい。横に来て」
パタパタと隣の椅子を叩いて、物覚えの悪い子供をしつけるように「ほら早く」と促す。
あたしは犬か。
でも逆らえない。だって上下関係は完全にあたしのほうが下なんだもん。学年が下なのも、勉強を教えてもらうのもあたし。先輩はそれに付き合ってくれてるだけ。
大人しく示された場所へ移動して英語の教科書を出した。篠田先輩もてっきり同じようにするのかと思っていたら、彼は勉強とは関係ない小説みたいな本を出して読み始めた。
「わからないところがあったら言って」
「先輩は、ここで勉強しないんですか?」
ここでこう訊くのは当然だよね。だって今、テスト前ですよ。
するとこの男、余裕綽々とこう答えるんだ。
「俺は切羽詰ってないから。今は葛西さんの勉強を見る時間」
むーかーつーくー!
これだから勉強のできる人は嫌だ。できない人をあからさまに見下して、裏では絶対せせら笑ってるんだ。そりゃできないほうが悪いのかもしれないけど、普段から勉強しておけって話だけど、それでもこうしてはっきり態度に出されるとやっぱりむかつく。
「俺に腹立てるのは後でいいから、今は勉強するんだろ」
ほら、教科書何ページ? ここ? なんでこんなので躓いてるんだよお前。この構文は中学校でも見たはずだろ。覚えてないんなら覚えろ、今すぐ覚えろ。絶 対試験に出るからな。この例文ノートに五回書いとけ。文の成り立ちはそのうち付いてくるから今は形だけでも頭に入れろ。おい、今のちゃんと聞いてたか? メモ取っとけよ。聞き流してばっかりだからいつまでも覚えないんだ。
怒涛の勢いで進んでゆくそれはまさしく「授業」で、あたしがわからないと言った場所を一つ一つ徹底的に洗いなおしてゆく。終始眉間に皺が寄っているし口 も悪くなっているしでちょっと恐かったけれど、そんなことを考える間もなくあたしは彼の言うことをノートに書き取るのに必死だった。
気づくと外はすっかり暗くなっていた。
「今日はここまで」
時計を見ると六時半を指している。休憩もなしに三時間も机にかじりついていたことになる。
はーっと息をついて、座ったままで伸びをする。首を回すと軽く音が鳴った。肩も凝っっているみたいで、少し痛い。
先輩が最初に取り出した本はほとんど閉じられたままで、彼はずっと付きっ切りであたしに教えていた。さすがにこちらも疲れた表情で首を回したり、眼鏡を外して目頭を押さえたりしている。
いそいそと教科書とか筆記用具を片付けていると、頭をがっしとつかまれた。ちょ、痛い痛い。そしてぐりんと篠田先輩のほうを向かされる。
「葛西さん、ひどすぎ。うちの高校に入るだけの力はあるんだから、もっとできるかと思ってたけど」
あ、呆れた顔。ちょっと怒ってますか。
確かに中学時代の成績は良いほうだったけど、やっぱり高校に入るとそうもいかない。学力がバラバラだった中学校とは違って、高校は同じような学力の生徒が集まっているのだ。そこで競おうと思ったら並大抵の努力じゃ足りなくなってくる。
それにまあ、ほら、最近色々とゴタゴタがあったし、部活も忙しいし、勉強する時間も減ってたんだ。むしろ全然していなかった。その結果がこのようになるわけで。
ここは素直に謝っておこう。
「すみません」
「そう思うなら最初から勉強しとけよ」
頭を掴んでいた手は離れてくれたけど、また眉間に皺が寄った。そんなにしかめっ面ばっかりしてると癖になりますよ。そんな顔をさせてるのはあたしだけど。
先輩は少し考える顔をして、そして嫌な感じで口角が上がる。何か(先輩的に)面白いことを思いついた顔。そしてあたしにとっては悪魔の笑顔。
「これは何か代償が必要だな。何がいい?」
「何って言われても……何か飲み物買って来ましょうか」
売店の近くに自販機があったのを思い出してそんな提案をしてみる。
「却下」
どうしてこういうときだけこの人は爽やかな顔をするんだろう。一体彼はあたしに何を要求するつもりなのか、皆目検討もつかない。無理難題じゃなければいいんだけど。
不安に駆られたとき、頭の後ろに手を回されて、引き寄せられた。
何? と思った瞬間、それはもう終わっていた。
あたし、今、何された?
「一日あたりキス一つな」
唇が離れて、篠田先輩は至近距離でまた笑う。男の癖に妙に艶のある表情が却って恐い。
まず驚き。それから怒りが急速にこみ上げてきた。
人のファーストキスを何だと思ってるんだこいつ!
「断る!!」
誰もいない図書室に、顔を真っ赤にして叫ぶあたしの声がこだました。
それから一週間、あたしがどんなに拒否しても理由を言いつくろって逃げようとしても、篠田先輩は放課後になると毎日あたしを教室まで迎えに来た。本当に ホームルームに出ているのかと疑ってしまうぐらい、うちのクラスのホームルームが終わる時には必ず教室前で待機しているのだ。
一度なんか、教室から出ると同時に全力ダッシュして逃げ切ろうと思った。あたしは中距離とはいえランナー、相手は陸上部ではあるけれど走る専門ではない から、さすがに追いつかれることはないと思ったのだけど、甘かった。四階の教室から三階にたどり着く前に、あたしはあっさりと捕獲されて図書室に引きずら れてゆくことになった。
そして、毎日みっちりと暗くなるまで勉強。最後にはキス。これもどんなに嫌がって色んな代替案を出してみても、彼は絶対に変えようとしてくれなかった。篠田先輩なら綺麗な子、可愛い子よりどりみどりのはずなのに、あたしのキスなんか欲しがる意味がわからない。
初日は不意打ちだったけど、二日目からは「これからキスされるんだ」と思うと妙に身構えてしまうものだ。唇に当たる感触に慣れることができない。端正な顔を間近に見られるのはちょっと役得のような気もするけれど、でも篠田先輩だもんなあ。やっぱり嫌だ。
勉強を教えてもらってるんじゃなければ、その彼が代償として指定したのでなければ、誰がこんな人とキスなんかするもんか。
そりゃ、先輩から教わる内容はものすごくわかりやすいし、何気なくあたしのペースに合わせてくれてるし、それはありがたいんだけど。だからついつい大人しく勉強に励んでしまうわけだけど。
彼氏彼女の振りをしようと言われてから、彼の隣にいることが自分の中でもいつの間にか当たり前になってきていて、なんだかなぁと思う。
あんなに苦手で嫌いだったはずなのに。




