想いは加速して(2)
翌朝、かすかな物音で目を覚ましたのは、いつもより少し早い時間だった。小さく聞こえたドアの閉まる音に、エッジが外出したのだと気付く。一瞬、こんな早い時間から仕事に向かったのかと驚いたけれど、そうではなく、恐らくエッジは走りに行ったのだろう。
見習いとしてお城に上がる前、エッジはいつも朝食の前に走りに行っていたのを思い出す。その習慣は、今も続いているのかもしれない。
二度寝できるだけの時間はあったけれど、せっかく目が覚めたのだからと私は起き上がり、わざわざ帰ってきてくれたエッジのために張り切って朝食を作ることにした。
あたためた小さな丸パンの上に切り込みを入れ、そこに炒った卵とこんがり焼いたぶ厚いベーコン、ルアシャの実を載せる。卵の甘みとベーコンの塩気、そこにみずみずしいルアシャの酸味がうまく混ざり合う、定番の家庭料理のひとつだ。小さなパンなので何個か作って、私の分とエッジの分をそれぞれお皿に乗せる。サラダと一緒に机の上に並べていると、タイミングよくエッジが帰ってきた。
「あれ、飯作ってくれたんだ? うまそう」
エッジは机の上の料理に気が付くと、嬉しそうにそう言って、すぐに手を洗いに行った。張り切った割にはシンプルな朝食になってしまったけれど、喜んで貰えたようだ。
すぐに戻ってきていそいそと席に着いたエッジと向かい合って座ると、なんだか凄く懐かしい気分になった。家でエッジと一緒に朝食を食べるだなんて、随分と久しぶりな気がする。
「そういえば、騎士見習いになってからも、走るの続けてたんだ? 凄いね、えらい」
「……凄くないし、鍛錬するのは当たり前のことだろ」
エッジは少し恥ずかしそうにそう言って、視線を逸らした。どうやら、褒められて照れているらしい。こういうところは幼い頃と変わらないままだ。可愛いところもあるものだと頬が緩む。
「姉ちゃん、いつもこんな時間に起きてんの?」
「ううん、今日はちょっとだけ早く目が覚めたかな」
「ふーん。……今日も仕事?」
エッジは二つ目のパンを持ち上げた手を空中で止めて、不思議そうに首を傾げた。
「うん」
「そっか。じゃあ、スペイトまで送ってくよ」
エッジはなんてことないようにそう言って、それからパンを口に運んだ。
エッジの分は多めに作ったつもりだったけど、あっという間にたいらげていく様子を見るに、もしかしたら足りなかったかもしれないな。
「え? いいよ、大丈夫」
そんなことを思いつつ、大丈夫だよと首を左右に振ると、エッジはもぐもぐと咀嚼しながら苦笑を浮かべてみせる。
「遠慮すんなって、どうせ通り道じゃん。あんまり人気の無い時間に、一人で出歩くなよ」
どうやらエッジは、私の心配をしてくれているらしい。
私とニーナを攫った人たちは捕らえられた訳だし、もう安全だろうとは思うのだけれど、心配してもらえるのは素直に嬉しい。
「ありがとう」
なんだか胸がいっぱいになった私は、自分の皿からパンをひとつ手に取り、エッジの皿の上に移した。
「もう一個食べる?」
「なに、姉ちゃんもうおなかいっぱいなの?」
不思議そうなエッジに頷きを返すと、エッジはやったあ、と笑った。
「俺、これ好き」
知ってる。だから作ったんだよ、と内心で答えながら、私もエッジに笑みを返した。
朝食を食べた後、エッジはスペイトまで送ってくれた。別れ際に、晩御飯のメニューまでリクエストされたので、どうやら本当に暫くは家にいてくれるつもりらしい。エッジにとって負担になるのではと思うのだけれど、大したことじゃないと一蹴されてしまったので、その言葉に甘えることにする。事実、やっぱりまだ少し心細かったので、エッジの存在は心強かった。
朝、私と一緒に現れたエッジに不思議そうにしていたライラに、暫く家に居てくれるのだと経緯を説明したところ、エッジもそんなしっかり者になったのねえ、となんだかしみじみされてしまった。私たちとは幼馴染であり、まだよちよち歩きの頃からエッジを知っているライラからすれば、不思議な感覚だったのだろう。
そしていつもと同じ昼下がり、ヘルはいつものように、小脇に魔術書を抱えてスペイトにやって来た。昨日とは違い、今日は魔術書を開いていない。カウンター前に立ったヘルと、目が合ったことにほっとする。
「こんにちは、ヘル。昨日はありがとう」
「なにが」
いつものように別に、って返ってくるのかなって思っていたら、ヘルはカウンターに銅貨を置きながら、不思議そうにそう言った。
「家まで送ってくれたのと、エッジに声かけてくれたこと」
「……ああ」
そんなことすっかり忘れていた、とでも言うように、ヘルは気の無い返事を返してきた。なんだか、上の空って感じだな。
「あいつ帰り、来るの」
「あ、うん。寄ってくれるって」
朝同様、どうせ通り道なのだからということで、一緒に帰ろうということになったのだ。ヘルは私の言葉に、そう、と返すと、出来上がったフルーブを持って去って行った。
その日、ヘルは早い時間に帰って行った。私は仕事終わりに迎えに来てくれたエッジと共に、家に帰ったのだった。
次の日も、エッジはスペイトまで私を送ってくれた。お昼にフルーブを買いに来たヘルは、昨日と同じように、エッジが迎えに来るのかと訊ねてきた。私がうんと答えると、ヘルはそう、と答えて、やっぱり早い時間に帰って行った。
もしかして来ないと答えたら、送ってくれるつもりだったのかな、なんて思うのは、私の希望的観測で、ただの自意識過剰なんだろうけれど。
ーーそれ以来、ヘルと会話する機会は前よりめっきり減ってしまった。ヘルは変わらず毎日のようにフルーブを買いに来てはくれるけれど、フルーブを買いに来る一瞬の間に話せることなど限られているし、ヘルはルーインのようにカウンター脇に寄って、他愛も無い雑談に付き合ってくれるようなタイプじゃない。マスターがフルーブをくれた日のように、休憩の間にヘルのところへ行こうかと考えたりもしたけれど、結局何の口実も無いのに傍に行く勇気が無くて、実行には移せなかった。
◆
数日経った日の朝、スペイトまで送ってくれたエッジは、「今日は遅くなると思うから先に帰っといて」と口にした。
「あ、うん。ごめんね」
ここのところ毎日送り迎えをしてくれているけれど、結構負担になっているのだろうと思う。思わず謝ると、エッジはなんとも言えない表情を浮かべた。
「先に帰っててって言ってんのに、なんで姉ちゃんが謝ってんだよ。ちゃんと人通りの多い道通って、気をつけて帰れよ」
「分かってるよ」
まるで心配性のお兄ちゃんみたいな口調がおかしくて、私は思わず笑ってしまった。あんなに小さかったエッジがこんなに頼もしくなるなんて、不思議だなあとつくづく思う。
「あ、なんだったら、あいつに頼めよ。どうせ毎日来るんだろ?」
「え?」
「こないだだって送ってくれたんだろ? 今日も送って貰えばいいじゃん」
その口ぶりからして、恐らくヘルのことを言っているのだろうとは思うけれど、なんで毎日来ていることを知っているんだろう。
というよりもう何の危険も無いのに、流石にそんな厚かましいお願いをする勇気は無い。一人で大丈夫だよと告げて、お城へ向かうエッジを見送った。
お昼過ぎ、いつものようにフルーブを買いに来たヘルは、何故だかカウンター越しにじっと私を見上げてきた。穴が開くほどってこういうことだろうかって思うくらい、じいっと見つめられてなんだかいたたまれない。
「へ、ヘル……? どうかしたの?」
思わずそう問い掛けると、ヘルは無表情のままでべつに、と素気無く言った。
ヘルはここ数日は、いつもフルーブを買いに来る度、帰りにエッジが迎えに来るかどうかを聞いてくれていた。今日も、聞いてくれるのだろうか。一瞬、そんな疑問が脳裏を掠めたけれど、ヘルはフルーブを受け取ると、そのまま何も言わずに去って言ったのだった。
その日の閉店後、マスターやライラと別れた私は、一人で帰路に着いた。一人で帰るのが久しぶりすぎて、なんだか変な感じがする。果てしなく感じられる家への道をとぼとぼと歩いていると、道の先に、見覚えのある後姿が見えた。たとえ背中からでも、間違えたりはしない。風にふわふわと揺れている、あの柔らかそうな薄茶色の髪は、間違いなくヘルのものだ。一瞬声を掛けようかと思ったけれど、すぐに隣に誰かがいることに気付く。ヘルの隣を歩いている小さな人影は──ニーナ、だ。私は無意識に、小さく息を呑んでいた。
並んで歩くと、丁度いい身長差に見える。ニーナはヘルに、一心に何か話しかけているようだ。ヘルはうんざりしたような目で、ニーナを見下ろした。何か答えているようだけど、流石に遠すぎて聞こえない。
ニーナがもう一度何かを口にすると、ヘルは一瞬きょとんとしたような顔をした後で、ふっと頬を緩めた。微かに浮かんだ笑みを見た瞬間、胸の奥がぎゅうと掴まれたように痛くなった。
──以前にヘルが風邪を引いた時に、私の作ったレイシェを食べながら見せてくれた、優しい微笑。あの一度しか向けてくれたことの無い笑みを、他の人に向けている。
当たり前だ。私はヘルの特別なんかじゃないのだから、何もおかしくない。
分かってる。
でも、──なんだか、痛い。
胸の奥がもやもやして苦しくて、どうにかなってしまいそうだ。
二人の姿を、見ていたくない。
私は二人に気付かれないように踵を返すと、元来た道を早歩きで戻って行った。今、なんてことない顔をして、二人の隣を通り過ぎて行く勇気は無かった。
ヘルよりも少し低いニーナの背。並んだ後姿は、やっぱり可愛らしいカップルのように見えた。ヘルが微笑んでいたから、尚更だ。
二人とも魔術師で、きっと共通の話題も沢山ある。ニーナはちょっぴり素直じゃなくて、言葉のきついところもあるけれど、根は優しくて可愛らしいとっても素敵な女の子だということを、私はもう知っている。──だからこそ、余計に辛い。
広場に戻ってきた私は、いつもヘルが座っている噴水の縁に、ふらふらと腰を下ろした。今、ヘルとニーナには会いたくない。だけど、流石に以前男の人に声を掛けられた、あの近道を通って帰る気にはなれない。
まだそんなに遅い時間では無いし、ここならそれなりに人気もある。暫く待って、ヘルとニーナがいなくなった頃に帰ろう。
そんな風に考えて、ぼんやりと空を見上げた。ヘルとニーナは何を話していたんだろうとか、気がついたらまたそんなことを考えている。私には、関係無いことなのに。
まだあんな幼い女の子にヤキモチを妬いている情けない自分を自覚して、殊更に気分が落ちていく。
ため息交じりに風景を眺めていたら、ふいに、正面に影が落ちる。耳慣れない声が頭上から降ってきた。
「ねえねえ、誰か待ってんの?」
「え?」
顔を上げて、声のした方を見る。見覚えの無い男性が、へらへらと笑みを浮かべて私を見下ろしていた。
「暇してんなら、遊びに行かない?」
これってもしかして、ナンパ?
こんな人気の多い場所でも、声を掛けて来る人って、いるんだ。
「いえ、結構です」
見たところ普通の人で、特に怪しい感じは無い。軽い気持ちで声を掛けてきただけなのかもしれないけど、どうしても体が固くなる。ここ最近に起きた色んなことを思い出して、怖くなってくる。
「そう言わずに」
伸ばされた手が、私の腕に触れた瞬間、別の誰かにパシンと払われた。
「触らないで」
今度は耳慣れた声が、割って入る。私ははっとして、斜めに目線を上げた。そこには、むっとしたような顔をしたヘルが立っていた。
「ヘル……?」
腕を払われた男の人は、「なんだよ紛らわしいな」と、謎の台詞を残して去って行った。
よく分からないけれど、ヘルが追い払ってくれたみたいだ。
一体どうして、ヘルはいつもいつも、こんなにタイミングよく現れて、私を助けてくれるんだろう。
こんなの、本当に。
──好きにならずに、いられる訳が無いと思うのに。
「なに、してるの」
呆然と見上げていたら、ヘルは憮然とした声音で言った。
「え、っと……、座ってた」
あなたとニーナの姿を見かけて逃げ出して来ました、なんて言えるはずも無く、私は見れば分かる事実を述べる。ヘルは思いっきり眉間に皺を寄せた。
「なんで」
「き、気分転換?」
咄嗟に気の利いた嘘が出て来ない自分が恨めしい。ヘルは呆れたように息を吐くと、おもむろに私の腕をぱんぱんと払い出した。
ほんの一瞬だけだけど、さっきの人の手が触れたところだ。ヘルにはあの人がばい菌でも持っていそうに見えたのだろうか。まるで汚れを払うかのように、軽く腕をはたいている。
「あいつは」
ヘルは腕を払いながら言った。
「あいつ?」
端的な疑問に首を傾げると、簡素な補足が返って来た。
「弟」
多分、エッジのことを聞いている、んだよね。
エッジがまだ迎えに来ないことを、疑問に思っているのだろうか。一瞬なんて答えようかと悩んだものの、結局私は事実を述べた。
「あ、うん、今日は……来ないの」
そう口にした瞬間、腕を払っていた手が止まる。ヘルの眉間の皺が深くなった。
「なんで、言わないの」
どうやらヘルは、今日もエッジが来るものと思い込んでいたらしい。きつい口調になんだか怒られているような気分になって、私はしどろもどろになって返した。
「え、いや、一人で、帰れるし」
「怖いから、座ってたんじゃないの」
ヘルの言葉に、内心で頭を振る。
そうじゃない。
怖かったんじゃなくて、あなたとニーナが親しくしているのを見て、辛くなって、逃げ出してきただけ。
当然そんなことを口に出来るはずも無かったし、ヘルは私のそんな内心に気付く訳も無く、私の腕を掴んだ。
「帰るよ」
その言葉が嬉しくて、自然と頬が緩んでいく。だけど、他の余計なものまで緩んでしまったから、私は声を出さずに頷いて、立ち上がった。ヘルは私の腕を引いて、家の方角に歩き出す。私は腕を引かれるままに、ヘルのすぐ後ろを歩いた。
前を歩くヘルの背中を見ていたら、ヘルのことを好きだと自覚した頃を思い出す。
あの頃から、この想いは加速する一方だ。
好きで、好きで、どうしようもない。
さっき、知らない人に掴まれそうになった時は、あんなに不快だったのに。私の腕を包むヘルの手の温もりには、驚くくらいに安心できる。
溢れそうになった涙をなんとか堪えて、私は大好きな人の名前を呼んだ。
「ねえ、ヘル」
ヘルは歩きながらも、不思議そうに振り返る。
好き。
大好き。
──この胸を占める想いは、やっぱり伝える勇気が無くて。
私はただありがとう、とお礼の言葉を口にするのが、精一杯だった。




