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8/9

一生いればいいじゃない

■1


借りていた四輪駆動車は、すでに町の提携店へ返却していた。


マーサが牧場へ戻ってきたのは、事故から十日後だった。


手術は成功した。


左脚にはまだ厚い包帯が巻かれ、しばらくは松葉杖が必要だったが、自分の足で家の中を歩くことはできる。


マーサが入院している間も、修理の依頼は途切れなかった。


「母さん、座ってて!」


サリアが椅子を引く。


「お茶は私が入れるから!」


「さっきから座ってるわよ」


「立とうとしたじゃない」


「砂糖を取ろうとしただけよ」


「私が取る!」


マーサは慎吾を見る。


「退院してから、ずっとこれなの」


慎吾は苦笑した。


「心配なんですよ」


「シンまでそっちの味方?」


「無理をしないほうがいいです」


サリアが勝ち誇ったように胸を張る。


「ほら!」


「あなたは少し落ち着きなさい」


「どっちなのよ」


マーサは笑いながら、サリアが入れた紅茶を受け取った。


慎吾は窓の外を見る。


納屋の前には、古い農業機械が停まっていた。


発電機。


ポンプ。


ピックアップ。


トラクター。


慎吾は毎朝、今日は見るだけだと言いながら納屋へ入り、日が暮れるまで何かを直していた。


その代わり、台所には肉や野菜やパンが増え続けた。


冷蔵庫には入り切らない。


納戸にも入り切らない。


ついには、マーサが入院している間に使われなかった客室の一つが、食料置き場になっていた。


「シン」


サリアが呼ぶ。


「何ですか」


「明日は何を直すの?」


慎吾は窓の外を見る。


納屋の前には、まだ二台の車が残っている。


「あのピックアップと、給水ポンプですね」


「その次は?」


「その次まであるんですか?」


「たぶん」


「たぶんで増やさないでください」


納屋には、慎吾が最初に使った工具箱のほかに、いつの間にかいくつもの工具が増えていた。


古いスパナ。


大きさの違うレンチ。


テスター。


油圧ジャッキ。


誰かが置いていった溶接機まである。


「これ、誰のですか」


「シンのじゃない?」


「違いますよ」


「みんな、シンに使ってほしいのよ」


「だからって、勝手に置いていかれても困るんですが」


「でも使ってるでしょう?」


慎吾は答えに詰まった。


実際、どの工具がどこにあるか、もうほとんど覚えていた。


サリアは笑った。


慎吾も少しだけ笑う。


その表情を見て、マーサが静かに尋ねた。


「いつまで、こちらにいられるの?」


慎吾の笑顔が止まった。


テーブルの上には、スマートフォンが置かれている。


画面には、日本のニュース記事が表示されていた。


■2


大手中古車販売・整備チェーン、デッカモーター。


経営破綻。


慎吾は、記事を最初から読み直した。


不正請求。


保険金の水増し。


顧客車両への故意の損傷。


社内での過剰なノルマ。


幹部による威圧的な指導。


記事には、社内で使われていたメッセージの画像も掲載されていた。


『目標達成に必要な部下の生殺与奪権を与える』


慎吾は画面を見つめた。


「……これ、俺に来たやつだ」


隣でのぞき込んでいたサリアが首をかしげる。


「何て書いてあるの?」


「昔の会社が潰れたそうです」


「シンがいた会社?」


「ええ」


サリアはニュース記事と慎吾の顔を交互に見る。


「……嫌な会社だったんでしょう?」


「嫌な会社でしたよ」


「でも、あまりうれしそうじゃないわね」


慎吾は少し考えた。


店長の顔を思い出す。


会議室。


数字。


枯れた街路樹。


老人夫婦へ勧めたタイヤとバッテリー。


ゴルフボールの入った靴下。


退職届を出した日のこと。


「別に、うれしくはないですね」


慎吾は画面を閉じた。


「でも、働いてた人は大勢いますから」


店長だけが会社ではない。


受付の社員もいた。


洗車担当もいた。


部品を運んでいた業者もいた。


整備しか知らない若い社員もいた。


スマートフォンが振動する。


日本からのメッセージだった。


送り主は三浦。


デッカモーターで、店長からゴルフボールを渡されかけた若い整備士だった。


『ニュース、見ましたか』


慎吾は短く返す。


『見た』


すぐに返信が来る。


『俺、久世さんが辞めたあと、会社辞めました』


慎吾は少し驚いた。


『今は?』


『小さい整備工場にいます』


続けて写真が送られてくる。


古い工場。


油で汚れた作業着。


三浦は、同僚らしい男たちと並んで笑っていた。


『給料は下がりましたけど、ちゃんと直したら褒められます』


慎吾は写真をしばらく眺めた。


それから文字を打つ。


『次は、ちゃんと直す会社へ行け』


打ってから、少し考える。


もう三浦は、そこへ行っていた。


慎吾は文章を消した。


代わりに、


『よかったな』


と送った。


「シン」


サリアが慎吾の顔をのぞき込む。


慎吾はスマートフォンを伏せた。


「明後日、ここを出ます」


サリアの表情が止まった。


マーサもカップを置く。


「明後日?」


「そろそろ帰国のことを考えないといけません」


「もう少しいればいいじゃない」


サリアがすぐに言った。


「これ以上いると、本当に帰れなくなります」


「帰らなきゃいけないの?」


「旅行者ですから」


「……空港まで送るわ」


「往復で一日つぶれますよ」


「一日くらい、なんとかするわ」


慎吾はマーサへ向き直った。


そして、頭を下げる。


「大変長らく、お世話になりました」


マーサは静かに微笑んだ。


「こちらこそ」


サリアが慎吾を見つめる。


「何よ、その会社を辞めるみたいな挨拶」


慎吾は顔を上げた。


「こういうときの日本語です」


「英語では?」


慎吾は少し迷った。


「サンキュー・フォー・エブリシング」


サリアの眉が下がる。


「そっちのほうが寂しいじゃない」


慎吾は答えられなかった。


■3


翌日。


慎吾は、町の農業用品店へ借りた工具を返しに行った。


カウンターの上へ、レンチとテスターを置く。


店主は工具を見ると、首を振った。


「持っていていい」


「返します」


「いいよ、また使うだろ?」


慎吾は困ったように笑った。


「ああ、すみません」


「何だ?」


「俺、明日ここを出るんですよ」


店主の動きが止まる。


「出る?」


「はい」


「牧場を?」


「日本へ帰ります」


店主は慎吾を見た。


それから、カウンターの工具を見る。


「……明日?」


「朝に出ます」


「そうか」


店主はそれ以上、何も言わなかった。


慎吾は工具を残し、店を出る。


通りを歩いていると、昨日ポンプを直した農場主に呼び止められた。


「シン!」


荷台には、古い小型エンジンが載っている。


「今度、これも頼むよ」


慎吾は荷台をのぞき込む。


「キャブレターですね」


「直るか?」


「部品があれば」


「じゃあ、来週持っていく」


「ああ、すみません。俺、明日帰るんですよ」


農場主は笑顔のまま固まった。


「帰る?」


「日本へ」


「いつ戻る?」


「戻る予定はないです」


農場主はしばらく慎吾を見ていた。


「そうか」


それだけ言って、車へ戻る。


慎吾は町を歩き続けた。


パン屋の前。


ガソリンスタンド。


消防署。


品評会の日にマーサが運び込まれた地域病院。


道ですれ違うたび、誰かが手を上げる。


「シン!」


慎吾も手を上げ返す。


明日には、もうこの町にいない。


そう考えると、見慣れたはずの通りが少し違って見えた。


牧場へ戻ると、サリアが柵を修理していた。


慎吾は車を降りる。


「手伝います」


「いいわよ」


「一人だと大変でしょう」


「明日帰る人に仕事させられないわ」


サリアは柵へ針金を巻きつける。


いつもの調子で笑っている。


だが、慎吾のほうを見ようとしなかった。


「サリア」


「なに?」


「怒ってます?」


「怒ってない」


「怒ってますよね」


「怒ってないってば」


力を込めすぎた針金が、途中で切れた。


サリアは切れた針金を見つめる。


「……別に、シンの家はここじゃないもの」


慎吾は何も言わなかった。


サリアは新しい針金を取り出す。


「旅行が終わったら、帰るのは普通でしょう?」


「ええ」


「だから、怒ってない」


慎吾はサリアの隣へしゃがんだ。


切れた針金を受け取る。


「ここは俺がやります」


「帰る人なのに?」


「帰るまではいますから」


サリアは少しだけ笑った。


「変なの」


二人は並んで、日が暮れるまで柵を直した。


■4


翌朝。


慎吾の旅行鞄は、母屋の玄関に置かれていた。


来たときより、荷物は大幅に増えている。


服。


土産。


マーサとサリアが持たせてくれた、道中の食べ物。


慎吾は荷物を見下ろした。


「これ、全部載りますかね……」


「うちのピックアップを何だと思ってるの?」


サリアが答える。


ピックアップは納屋に停めてある。


荷物を積み終えたら、サリアが空港のある町まで送ってくれることになっていた。


マーサは居間の椅子に座っている。


松葉杖は、テーブルの横へ立てかけられていた。


「忘れ物はない?」


「たぶん」


慎吾は室内を見回した。


何週間も使った客室。


毎朝座った食卓。


食べ切れない食料が詰まった棚。


そして、窓の向こうに見える納屋。


慎吾は小さく頭を下げた。


「……お世話になりました」


マーサが微笑む。


「気をつけてね」


慎吾は旅行鞄を持ち上げた。


サリアが玄関へ先に向かう。


「重いほう、持つ?」


「大丈夫です」


「無理しなくてもいいのよ」


「これくらい、自分で持てますよ」


慎吾は玄関の扉へ手をかけた。


「じゃあ、行きましょうか」


扉を開ける。


朝の光が差し込んだ。


慎吾は、足を止めた。


母屋の前に、人がいた。


一人ではない。


十人。


二十人。


その後ろには、車と農業機械が並んでいる。


古いピックアップ。


四輪駆動車。


発電機。


ポンプ。


小型トラクター。


消防署の作業車まで停まっていた。


慎吾は旅行鞄を持ったまま、動けなかった。


見覚えのある顔もいる。


知らない顔もいる。


町の農場主。


店主。


消防署員。


パン屋の老婦人。


品評会に来ていた家族。


誰も拍手はしない。


ただ、慎吾を待っていた。


「……何ですか、これ」


慎吾が尋ねる。


最前列にいた農場主が答えた。


「予約だ」


「予約?」


男は、荷台のエンジンを指差す。


「来月、見てほしい」


隣の女性も手を上げる。


「うちは再来月」


別の男が言う。


「俺のトラクターは急がない。三か月後でもいい」


慎吾は人々を見る。


「いや、俺、今日帰るんですよ」


「知ってる」


「日本へ帰ります」


「それも知ってる」


「じゃあ、来月はいませんよ」


「戻ってくればいい」


慎吾は言葉を失った。


誰かが紙を差し出した。


そこには、名前と機械と故障内容が書かれている。


修理予約表。


何十件もの名前が並んでいた。


慎吾は紙を見る。


「こんなに直せませんよ」


「急がなくていい」


「部品だって必要です」


「店に頼んである」


「仕事をするには、手続きも必要です」


今度は、町役場の職員が手を上げた。


「それは、こっちで調べる」


慎吾は周囲を見回す。


「どうして、そこまで……」


誰もすぐには答えなかった。


やがて、誰かが言う。


「壊れたら困るからだ」


別の誰かが続ける。


「シンなら直せる」


慎吾は修理予約表を見下ろした。


日本では、達成できない数字を渡された。


ここでは、直してほしいものを渡されている。


日本では、壊れていないものまで壊せと言われた。


ここでは、壊れたものを直してほしいと言われている。


慎吾は何度か口を開いた。


だが、言葉が出てこなかった。


■5


慎吾の隣で、サリアも外を見つめていた。


並んだ車と農業機械を見て、最初は目を丸くしていた。


だが、修理予約表をのぞき込むと、すぐに事情を察したらしい。


小さく笑う。


慎吾はサリアを見る。


「知ってたんですか」


「知らなかったわよ」


「じゃあ、驚いてくださいよ」


「驚いてるわ」


「楽しそうに見えますけど」


「だって、みんなシンに帰ってほしくないのよ」


慎吾は、もう一度人々を見る。


「俺、帰るんですよ」


「聞いたわ」


「旅行者です」


「知ってる」


「ここで働けるかどうかも分かりません」


「役場の人が調べるって」


役場の職員が、大きくうなずいた。


慎吾は額を押さえる。


「住むところだってありません」


サリアは背後の母屋を指差した。


「あるじゃない」


「ずっと客室に住むわけにはいかないでしょう」


「じゃあ、家を建てればいいわ」


「簡単に言いますね」


「納屋の横、空いてるわよ」


「もう建てる場所まで決まってるんですか」


「日当たりもいいわよ」


「そういう問題じゃないんです」


「じゃあ、どういう問題?」


慎吾は手にした修理予約表を見る。


「こんなに仕事があったら、いつまでかかると思ってるんですか」


「さあ?」


「半年でも終わりませんよ」


「じゃあ、半年いれば?」


「その間にも、また壊れます」


「じゃあ、もっといればいいじゃない」


慎吾はサリアを見る。


「もっとって、どのくらいですか」


サリアは一瞬だけ黙った。


それから、頬を少し赤くしながら笑う。


「……一生いればいいじゃない」


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