一生いればいいじゃない
■1
借りていた四輪駆動車は、すでに町の提携店へ返却していた。
マーサが牧場へ戻ってきたのは、事故から十日後だった。
手術は成功した。
左脚にはまだ厚い包帯が巻かれ、しばらくは松葉杖が必要だったが、自分の足で家の中を歩くことはできる。
マーサが入院している間も、修理の依頼は途切れなかった。
「母さん、座ってて!」
サリアが椅子を引く。
「お茶は私が入れるから!」
「さっきから座ってるわよ」
「立とうとしたじゃない」
「砂糖を取ろうとしただけよ」
「私が取る!」
マーサは慎吾を見る。
「退院してから、ずっとこれなの」
慎吾は苦笑した。
「心配なんですよ」
「シンまでそっちの味方?」
「無理をしないほうがいいです」
サリアが勝ち誇ったように胸を張る。
「ほら!」
「あなたは少し落ち着きなさい」
「どっちなのよ」
マーサは笑いながら、サリアが入れた紅茶を受け取った。
慎吾は窓の外を見る。
納屋の前には、古い農業機械が停まっていた。
発電機。
ポンプ。
ピックアップ。
トラクター。
慎吾は毎朝、今日は見るだけだと言いながら納屋へ入り、日が暮れるまで何かを直していた。
その代わり、台所には肉や野菜やパンが増え続けた。
冷蔵庫には入り切らない。
納戸にも入り切らない。
ついには、マーサが入院している間に使われなかった客室の一つが、食料置き場になっていた。
「シン」
サリアが呼ぶ。
「何ですか」
「明日は何を直すの?」
慎吾は窓の外を見る。
納屋の前には、まだ二台の車が残っている。
「あのピックアップと、給水ポンプですね」
「その次は?」
「その次まであるんですか?」
「たぶん」
「たぶんで増やさないでください」
納屋には、慎吾が最初に使った工具箱のほかに、いつの間にかいくつもの工具が増えていた。
古いスパナ。
大きさの違うレンチ。
テスター。
油圧ジャッキ。
誰かが置いていった溶接機まである。
「これ、誰のですか」
「シンのじゃない?」
「違いますよ」
「みんな、シンに使ってほしいのよ」
「だからって、勝手に置いていかれても困るんですが」
「でも使ってるでしょう?」
慎吾は答えに詰まった。
実際、どの工具がどこにあるか、もうほとんど覚えていた。
サリアは笑った。
慎吾も少しだけ笑う。
その表情を見て、マーサが静かに尋ねた。
「いつまで、こちらにいられるの?」
慎吾の笑顔が止まった。
テーブルの上には、スマートフォンが置かれている。
画面には、日本のニュース記事が表示されていた。
■2
大手中古車販売・整備チェーン、デッカモーター。
経営破綻。
慎吾は、記事を最初から読み直した。
不正請求。
保険金の水増し。
顧客車両への故意の損傷。
社内での過剰なノルマ。
幹部による威圧的な指導。
記事には、社内で使われていたメッセージの画像も掲載されていた。
『目標達成に必要な部下の生殺与奪権を与える』
慎吾は画面を見つめた。
「……これ、俺に来たやつだ」
隣でのぞき込んでいたサリアが首をかしげる。
「何て書いてあるの?」
「昔の会社が潰れたそうです」
「シンがいた会社?」
「ええ」
サリアはニュース記事と慎吾の顔を交互に見る。
「……嫌な会社だったんでしょう?」
「嫌な会社でしたよ」
「でも、あまりうれしそうじゃないわね」
慎吾は少し考えた。
店長の顔を思い出す。
会議室。
数字。
枯れた街路樹。
老人夫婦へ勧めたタイヤとバッテリー。
ゴルフボールの入った靴下。
退職届を出した日のこと。
「別に、うれしくはないですね」
慎吾は画面を閉じた。
「でも、働いてた人は大勢いますから」
店長だけが会社ではない。
受付の社員もいた。
洗車担当もいた。
部品を運んでいた業者もいた。
整備しか知らない若い社員もいた。
スマートフォンが振動する。
日本からのメッセージだった。
送り主は三浦。
デッカモーターで、店長からゴルフボールを渡されかけた若い整備士だった。
『ニュース、見ましたか』
慎吾は短く返す。
『見た』
すぐに返信が来る。
『俺、久世さんが辞めたあと、会社辞めました』
慎吾は少し驚いた。
『今は?』
『小さい整備工場にいます』
続けて写真が送られてくる。
古い工場。
油で汚れた作業着。
三浦は、同僚らしい男たちと並んで笑っていた。
『給料は下がりましたけど、ちゃんと直したら褒められます』
慎吾は写真をしばらく眺めた。
それから文字を打つ。
『次は、ちゃんと直す会社へ行け』
打ってから、少し考える。
もう三浦は、そこへ行っていた。
慎吾は文章を消した。
代わりに、
『よかったな』
と送った。
「シン」
サリアが慎吾の顔をのぞき込む。
慎吾はスマートフォンを伏せた。
「明後日、ここを出ます」
サリアの表情が止まった。
マーサもカップを置く。
「明後日?」
「そろそろ帰国のことを考えないといけません」
「もう少しいればいいじゃない」
サリアがすぐに言った。
「これ以上いると、本当に帰れなくなります」
「帰らなきゃいけないの?」
「旅行者ですから」
「……空港まで送るわ」
「往復で一日つぶれますよ」
「一日くらい、なんとかするわ」
慎吾はマーサへ向き直った。
そして、頭を下げる。
「大変長らく、お世話になりました」
マーサは静かに微笑んだ。
「こちらこそ」
サリアが慎吾を見つめる。
「何よ、その会社を辞めるみたいな挨拶」
慎吾は顔を上げた。
「こういうときの日本語です」
「英語では?」
慎吾は少し迷った。
「サンキュー・フォー・エブリシング」
サリアの眉が下がる。
「そっちのほうが寂しいじゃない」
慎吾は答えられなかった。
■3
翌日。
慎吾は、町の農業用品店へ借りた工具を返しに行った。
カウンターの上へ、レンチとテスターを置く。
店主は工具を見ると、首を振った。
「持っていていい」
「返します」
「いいよ、また使うだろ?」
慎吾は困ったように笑った。
「ああ、すみません」
「何だ?」
「俺、明日ここを出るんですよ」
店主の動きが止まる。
「出る?」
「はい」
「牧場を?」
「日本へ帰ります」
店主は慎吾を見た。
それから、カウンターの工具を見る。
「……明日?」
「朝に出ます」
「そうか」
店主はそれ以上、何も言わなかった。
慎吾は工具を残し、店を出る。
通りを歩いていると、昨日ポンプを直した農場主に呼び止められた。
「シン!」
荷台には、古い小型エンジンが載っている。
「今度、これも頼むよ」
慎吾は荷台をのぞき込む。
「キャブレターですね」
「直るか?」
「部品があれば」
「じゃあ、来週持っていく」
「ああ、すみません。俺、明日帰るんですよ」
農場主は笑顔のまま固まった。
「帰る?」
「日本へ」
「いつ戻る?」
「戻る予定はないです」
農場主はしばらく慎吾を見ていた。
「そうか」
それだけ言って、車へ戻る。
慎吾は町を歩き続けた。
パン屋の前。
ガソリンスタンド。
消防署。
品評会の日にマーサが運び込まれた地域病院。
道ですれ違うたび、誰かが手を上げる。
「シン!」
慎吾も手を上げ返す。
明日には、もうこの町にいない。
そう考えると、見慣れたはずの通りが少し違って見えた。
牧場へ戻ると、サリアが柵を修理していた。
慎吾は車を降りる。
「手伝います」
「いいわよ」
「一人だと大変でしょう」
「明日帰る人に仕事させられないわ」
サリアは柵へ針金を巻きつける。
いつもの調子で笑っている。
だが、慎吾のほうを見ようとしなかった。
「サリア」
「なに?」
「怒ってます?」
「怒ってない」
「怒ってますよね」
「怒ってないってば」
力を込めすぎた針金が、途中で切れた。
サリアは切れた針金を見つめる。
「……別に、シンの家はここじゃないもの」
慎吾は何も言わなかった。
サリアは新しい針金を取り出す。
「旅行が終わったら、帰るのは普通でしょう?」
「ええ」
「だから、怒ってない」
慎吾はサリアの隣へしゃがんだ。
切れた針金を受け取る。
「ここは俺がやります」
「帰る人なのに?」
「帰るまではいますから」
サリアは少しだけ笑った。
「変なの」
二人は並んで、日が暮れるまで柵を直した。
■4
翌朝。
慎吾の旅行鞄は、母屋の玄関に置かれていた。
来たときより、荷物は大幅に増えている。
服。
土産。
マーサとサリアが持たせてくれた、道中の食べ物。
慎吾は荷物を見下ろした。
「これ、全部載りますかね……」
「うちのピックアップを何だと思ってるの?」
サリアが答える。
ピックアップは納屋に停めてある。
荷物を積み終えたら、サリアが空港のある町まで送ってくれることになっていた。
マーサは居間の椅子に座っている。
松葉杖は、テーブルの横へ立てかけられていた。
「忘れ物はない?」
「たぶん」
慎吾は室内を見回した。
何週間も使った客室。
毎朝座った食卓。
食べ切れない食料が詰まった棚。
そして、窓の向こうに見える納屋。
慎吾は小さく頭を下げた。
「……お世話になりました」
マーサが微笑む。
「気をつけてね」
慎吾は旅行鞄を持ち上げた。
サリアが玄関へ先に向かう。
「重いほう、持つ?」
「大丈夫です」
「無理しなくてもいいのよ」
「これくらい、自分で持てますよ」
慎吾は玄関の扉へ手をかけた。
「じゃあ、行きましょうか」
扉を開ける。
朝の光が差し込んだ。
慎吾は、足を止めた。
母屋の前に、人がいた。
一人ではない。
十人。
二十人。
その後ろには、車と農業機械が並んでいる。
古いピックアップ。
四輪駆動車。
発電機。
ポンプ。
小型トラクター。
消防署の作業車まで停まっていた。
慎吾は旅行鞄を持ったまま、動けなかった。
見覚えのある顔もいる。
知らない顔もいる。
町の農場主。
店主。
消防署員。
パン屋の老婦人。
品評会に来ていた家族。
誰も拍手はしない。
ただ、慎吾を待っていた。
「……何ですか、これ」
慎吾が尋ねる。
最前列にいた農場主が答えた。
「予約だ」
「予約?」
男は、荷台のエンジンを指差す。
「来月、見てほしい」
隣の女性も手を上げる。
「うちは再来月」
別の男が言う。
「俺のトラクターは急がない。三か月後でもいい」
慎吾は人々を見る。
「いや、俺、今日帰るんですよ」
「知ってる」
「日本へ帰ります」
「それも知ってる」
「じゃあ、来月はいませんよ」
「戻ってくればいい」
慎吾は言葉を失った。
誰かが紙を差し出した。
そこには、名前と機械と故障内容が書かれている。
修理予約表。
何十件もの名前が並んでいた。
慎吾は紙を見る。
「こんなに直せませんよ」
「急がなくていい」
「部品だって必要です」
「店に頼んである」
「仕事をするには、手続きも必要です」
今度は、町役場の職員が手を上げた。
「それは、こっちで調べる」
慎吾は周囲を見回す。
「どうして、そこまで……」
誰もすぐには答えなかった。
やがて、誰かが言う。
「壊れたら困るからだ」
別の誰かが続ける。
「シンなら直せる」
慎吾は修理予約表を見下ろした。
日本では、達成できない数字を渡された。
ここでは、直してほしいものを渡されている。
日本では、壊れていないものまで壊せと言われた。
ここでは、壊れたものを直してほしいと言われている。
慎吾は何度か口を開いた。
だが、言葉が出てこなかった。
■5
慎吾の隣で、サリアも外を見つめていた。
並んだ車と農業機械を見て、最初は目を丸くしていた。
だが、修理予約表をのぞき込むと、すぐに事情を察したらしい。
小さく笑う。
慎吾はサリアを見る。
「知ってたんですか」
「知らなかったわよ」
「じゃあ、驚いてくださいよ」
「驚いてるわ」
「楽しそうに見えますけど」
「だって、みんなシンに帰ってほしくないのよ」
慎吾は、もう一度人々を見る。
「俺、帰るんですよ」
「聞いたわ」
「旅行者です」
「知ってる」
「ここで働けるかどうかも分かりません」
「役場の人が調べるって」
役場の職員が、大きくうなずいた。
慎吾は額を押さえる。
「住むところだってありません」
サリアは背後の母屋を指差した。
「あるじゃない」
「ずっと客室に住むわけにはいかないでしょう」
「じゃあ、家を建てればいいわ」
「簡単に言いますね」
「納屋の横、空いてるわよ」
「もう建てる場所まで決まってるんですか」
「日当たりもいいわよ」
「そういう問題じゃないんです」
「じゃあ、どういう問題?」
慎吾は手にした修理予約表を見る。
「こんなに仕事があったら、いつまでかかると思ってるんですか」
「さあ?」
「半年でも終わりませんよ」
「じゃあ、半年いれば?」
「その間にも、また壊れます」
「じゃあ、もっといればいいじゃない」
慎吾はサリアを見る。
「もっとって、どのくらいですか」
サリアは一瞬だけ黙った。
それから、頬を少し赤くしながら笑う。
「……一生いればいいじゃない」




