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7/9

俺が直します

■1


「母さん!」


サリアが人混みをかき分け、地面に倒れたマーサへ駆け寄った。


慎吾も、そのすぐあとを追う。


マーサは倒れた柵のそばに仰向けになっていた。


顔は青ざめている。


左脚の作業ズボンが裂け、その下から血が流れていた。


「母さん! 聞こえる?」


サリアがマーサの肩へ手を伸ばす。


「動かさないで!」


鋭い声が飛んだ。


品評会の救護テントから、二人の救急スタッフが走ってくる。


一人がマーサの首元へ手を当て、もう一人が脚の傷を確認した。


「意識はありますか」


マーサの唇が、わずかに動く。


だが、声にならない。


サリアの顔から血の気が引いた。


「母さん。私よ。サリアよ」


救急スタッフが作業ズボンを切り開く。


傷を見た周囲の人々が息をのんだ。


太腿に深い傷がある。


救急スタッフが傷口を強く押さえた。


「担架を!」


別のスタッフが無線機を取る。


「成人女性。大型家畜との接触。左大腿部に重度の外傷。出血多量」


サリアはマーサの手を握ったまま離さない。


「母さん、大丈夫。すぐ病院だから」


言い聞かせる声が震えていた。


マーサが、かすかに目を開ける。


「子どもは……」


「無事よ」


サリアが答えた。


少し離れた場所で、母親に抱かれた子どもが泣いている。


マーサはそれを確認すると、再び目を閉じた。


「母さん!」


「意識はあります。呼吸もしています」


救急スタッフが答える。


担架が運ばれてきた。


マーサの体が慎重に固定される。


「病院へ運びます!」


地域病院は、道路を挟んだすぐ向かいにある。


人々が道を開けた。


担架が走り出す。


サリアもあとを追おうとする。


その背中へ、品評会の係員が声をかけた。


「サリア!」


サリアが振り返る。


逃げ出した牛は、農場主たちによって別の柵へ追い込まれていた。


「牛はこっちで何とかする! 行け!」


サリアは一度だけうなずき、担架を追った。


慎吾も、そのあとへ続いた。


■2


地域病院の廊下。


白いカーテンの向こうで、医師と看護師たちが慌ただしく動いていた。


慎吾とサリアは、長椅子に並んで座っている。


サリアの作業着には、マーサの血がついていた。


両手にも、赤黒い跡が残っている。


慎吾は何度か声をかけようとした。


だが、何を言っても軽く聞こえる気がして、口を閉じた。


サリアは自分の両手を見つめている。


「私が、牛のそばにいればよかった」


慎吾はサリアを見る。


「それは違うでしょう」


「母さんは牛に慣れてる。でも、もう若くないのに」


「子どもを助けたんです」


「だからよ」


サリアは唇をかんだ。


「私が近くにいたら、母さんが行く必要はなかった」


慎吾は返事を探した。


だが、廊下の奥から医師が現れる。


サリアが立ち上がった。


「母は?」


「出血が多いです」


医師はマスクを外した。


「ここでできる止血処置は行いました。輸血も始めています」


「助かりますか」


医師はすぐには答えなかった。


「太腿の血管が損傷している可能性があります」


「ここでは手術できないんですか」


「応急処置まではできます。しかし、血管外科のある病院へ移す必要があります」


慎吾が尋ねる。


「どのくらい遠いんですか」


「車で二時間弱です」


サリアが息をのんだ。


「救急ヘリは?」


「別の救助に出ています。戻るまで待てません」


医師は廊下の向こうを見る。


看護師たちが、搬送用の器材を運んでいた。


「搬送中も輸血と処置を続けます。すぐに出発します」


「私も乗れますか」


「一人なら」


「乗ります」


医師はうなずき、処置室へ戻っていった。


サリアは慎吾を見る。


何かを言おうとしたが、声にならない。


慎吾が先に口を開いた。


「行ってください」


「シンは?」


「ここにいます」


サリアは一瞬迷ったあと、慎吾の腕をつかんだ。


「母さん、大丈夫よね」


慎吾は答えられなかった。


大丈夫だと言える根拠はない。


それでもサリアは、慎吾の言葉を待っている。


「向こうの病院まで行けば、手術できます」


慎吾はサリアの目を見た。


「今は、ついていてあげてください」


サリアは小さくうなずいた。


そのとき。


病院の外から、エンジンをかける音が聞こえた。


一度。


二度。


しかし、始動しない。


慎吾が顔を上げた。


■3


病院前。


白い医療搬送車の後部扉が開いていた。


マーサはすでに車内へ収容され、医師と看護師が処置を続けている。


運転席では、救急スタッフが何度もキーを回していた。


スターターモーターは動いている。


だが、エンジンはかからない。


「何で今なんだ!」


運転手がハンドルを叩いた。


品評会に参加していた人々が、病院の前へ集まり始める。


消防署の職員。


農場主。


病院の職員。


誰も声を出さず、搬送車を見つめていた。


サリアが運転席へ駆け寄る。


「どうしたの?」


「エンジンがかからない」


「別の車は?」


消防署員が首を振った。


「輸血と処置を続けながら運べる車は、これしかない」


「普通の車では駄目なの?」


「必要な設備がない」


サリアは動かない搬送車を見る。


「じゃあ、どうするの?」


誰も答えなかった。


車内から医師の声が飛ぶ。


「急いでくれ。血圧が下がっている」


サリアの表情が固まった。


「待ってください」


慎吾が言った。


全員が慎吾を見る。


慎吾は搬送車の前へ歩いた。


「俺が直します」


医師が慎吾を見た。


「直せるのか」


慎吾は答えず、ボンネットへ手をかける。


「サリア。ライト、持って」


サリアは無言でうなずいた。


消防署員が工具箱を慎吾の横へ置く。


慎吾はシャツの袖をまくった。


周囲から音が消える。


遠くで、牛の鳴き声が聞こえた。


車内では、モニターの電子音だけが続いていた。


■4


慎吾は燃料系統を調べた。


配線をたどる。


ヒューズ。


リレー。


接点。


――壊れてないないなら、壊せばいいだろ。


小田切の声が、ふいに蘇った。


――修理する理由を作るんだ。


あの店では、壊れていない車を壊せと言われた。


慎吾はペンチを握り直す。


違う。


修理する理由なら、今ここにある。


慎吾は焼けたリレーの端子を見つけた。


「これか」


接点を整え、リレーを元の位置へ戻す。


「キーを回してください」


運転手がキーを回した。


スターターが回る。


エンジンに火が入った。


低い振動が、車体全体へ広がる。


搬送車のエンジンが始動した。


誰も拍手はしなかった。


慎吾はすぐに運転手へ言う。


「エンジンを切らないでください」


「このまま持つのか?」


完全に直ったわけではない。


「病院までは、絶対に止めないでください」


「分かった」


慎吾はボンネットを閉めた。


医師が後部扉から顔を出す。


「出るぞ!」


集まっていた人々が、一斉に道を開ける。


サリアが搬送車へ乗り込もうとした。


その直前、慎吾の腕をつかんだ。


「シン」


慎吾が振り返る。


サリアは慎吾の目を見た。


「ありがとう」


慎吾は車内のマーサを見る。


「まだです。行ってください」


サリアは強くうなずき、搬送車へ乗り込んだ。


白い車体は速度を上げ、町の外へ向かっていく。


慎吾は道の端に立ち、遠ざかるエンジン音を聞き続けた。


音が完全に聞こえなくなるまで、その場を動かなかった。



■5


夜。


品評会場は、昼間の騒ぎが嘘のように静かだった。


牛も人も、すでにほとんど帰っている。


慎吾は病院前のベンチに座っていた。


搬送車が出発してから、三時間近くが過ぎている。


完全に直したわけではない。


焼けた接点を整え、どうにか動かしただけだ。


「エンジン、持ったかな……」


慎吾は何度目か分からないほど、スマートフォンの画面を確認した。


消防署員や農場主たちも、病院の周囲に残っている。


誰も話しかけない。


ただ、帰ろうともしなかった。


スマートフォンが振動する。


サリアからだった。


『手術、終わった』


続けて、もう一件。


『助かるって』


慎吾は画面を見つめた。


肩から力が抜ける。


長く息を吐いた。


近くにいた消防署員が、慎吾の顔を見る。


「マーサ?」


慎吾はうなずいた。


「助かったそうです」


消防署員が周囲へ大声で知らせる。


「マーサは助かった!」


人々の顔が一斉に緩んだ。


抱き合う者。


帽子を取って空を見上げる者。


慎吾はベンチに座ったまま、夜空を見上げた。


赤い大地の上には、数え切れないほどの星が広がっていた。

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