俺が直します
■1
「母さん!」
サリアが人混みをかき分け、地面に倒れたマーサへ駆け寄った。
慎吾も、そのすぐあとを追う。
マーサは倒れた柵のそばに仰向けになっていた。
顔は青ざめている。
左脚の作業ズボンが裂け、その下から血が流れていた。
「母さん! 聞こえる?」
サリアがマーサの肩へ手を伸ばす。
「動かさないで!」
鋭い声が飛んだ。
品評会の救護テントから、二人の救急スタッフが走ってくる。
一人がマーサの首元へ手を当て、もう一人が脚の傷を確認した。
「意識はありますか」
マーサの唇が、わずかに動く。
だが、声にならない。
サリアの顔から血の気が引いた。
「母さん。私よ。サリアよ」
救急スタッフが作業ズボンを切り開く。
傷を見た周囲の人々が息をのんだ。
太腿に深い傷がある。
救急スタッフが傷口を強く押さえた。
「担架を!」
別のスタッフが無線機を取る。
「成人女性。大型家畜との接触。左大腿部に重度の外傷。出血多量」
サリアはマーサの手を握ったまま離さない。
「母さん、大丈夫。すぐ病院だから」
言い聞かせる声が震えていた。
マーサが、かすかに目を開ける。
「子どもは……」
「無事よ」
サリアが答えた。
少し離れた場所で、母親に抱かれた子どもが泣いている。
マーサはそれを確認すると、再び目を閉じた。
「母さん!」
「意識はあります。呼吸もしています」
救急スタッフが答える。
担架が運ばれてきた。
マーサの体が慎重に固定される。
「病院へ運びます!」
地域病院は、道路を挟んだすぐ向かいにある。
人々が道を開けた。
担架が走り出す。
サリアもあとを追おうとする。
その背中へ、品評会の係員が声をかけた。
「サリア!」
サリアが振り返る。
逃げ出した牛は、農場主たちによって別の柵へ追い込まれていた。
「牛はこっちで何とかする! 行け!」
サリアは一度だけうなずき、担架を追った。
慎吾も、そのあとへ続いた。
■2
地域病院の廊下。
白いカーテンの向こうで、医師と看護師たちが慌ただしく動いていた。
慎吾とサリアは、長椅子に並んで座っている。
サリアの作業着には、マーサの血がついていた。
両手にも、赤黒い跡が残っている。
慎吾は何度か声をかけようとした。
だが、何を言っても軽く聞こえる気がして、口を閉じた。
サリアは自分の両手を見つめている。
「私が、牛のそばにいればよかった」
慎吾はサリアを見る。
「それは違うでしょう」
「母さんは牛に慣れてる。でも、もう若くないのに」
「子どもを助けたんです」
「だからよ」
サリアは唇をかんだ。
「私が近くにいたら、母さんが行く必要はなかった」
慎吾は返事を探した。
だが、廊下の奥から医師が現れる。
サリアが立ち上がった。
「母は?」
「出血が多いです」
医師はマスクを外した。
「ここでできる止血処置は行いました。輸血も始めています」
「助かりますか」
医師はすぐには答えなかった。
「太腿の血管が損傷している可能性があります」
「ここでは手術できないんですか」
「応急処置まではできます。しかし、血管外科のある病院へ移す必要があります」
慎吾が尋ねる。
「どのくらい遠いんですか」
「車で二時間弱です」
サリアが息をのんだ。
「救急ヘリは?」
「別の救助に出ています。戻るまで待てません」
医師は廊下の向こうを見る。
看護師たちが、搬送用の器材を運んでいた。
「搬送中も輸血と処置を続けます。すぐに出発します」
「私も乗れますか」
「一人なら」
「乗ります」
医師はうなずき、処置室へ戻っていった。
サリアは慎吾を見る。
何かを言おうとしたが、声にならない。
慎吾が先に口を開いた。
「行ってください」
「シンは?」
「ここにいます」
サリアは一瞬迷ったあと、慎吾の腕をつかんだ。
「母さん、大丈夫よね」
慎吾は答えられなかった。
大丈夫だと言える根拠はない。
それでもサリアは、慎吾の言葉を待っている。
「向こうの病院まで行けば、手術できます」
慎吾はサリアの目を見た。
「今は、ついていてあげてください」
サリアは小さくうなずいた。
そのとき。
病院の外から、エンジンをかける音が聞こえた。
一度。
二度。
しかし、始動しない。
慎吾が顔を上げた。
■3
病院前。
白い医療搬送車の後部扉が開いていた。
マーサはすでに車内へ収容され、医師と看護師が処置を続けている。
運転席では、救急スタッフが何度もキーを回していた。
スターターモーターは動いている。
だが、エンジンはかからない。
「何で今なんだ!」
運転手がハンドルを叩いた。
品評会に参加していた人々が、病院の前へ集まり始める。
消防署の職員。
農場主。
病院の職員。
誰も声を出さず、搬送車を見つめていた。
サリアが運転席へ駆け寄る。
「どうしたの?」
「エンジンがかからない」
「別の車は?」
消防署員が首を振った。
「輸血と処置を続けながら運べる車は、これしかない」
「普通の車では駄目なの?」
「必要な設備がない」
サリアは動かない搬送車を見る。
「じゃあ、どうするの?」
誰も答えなかった。
車内から医師の声が飛ぶ。
「急いでくれ。血圧が下がっている」
サリアの表情が固まった。
「待ってください」
慎吾が言った。
全員が慎吾を見る。
慎吾は搬送車の前へ歩いた。
「俺が直します」
医師が慎吾を見た。
「直せるのか」
慎吾は答えず、ボンネットへ手をかける。
「サリア。ライト、持って」
サリアは無言でうなずいた。
消防署員が工具箱を慎吾の横へ置く。
慎吾はシャツの袖をまくった。
周囲から音が消える。
遠くで、牛の鳴き声が聞こえた。
車内では、モニターの電子音だけが続いていた。
■4
慎吾は燃料系統を調べた。
配線をたどる。
ヒューズ。
リレー。
接点。
――壊れてないないなら、壊せばいいだろ。
小田切の声が、ふいに蘇った。
――修理する理由を作るんだ。
あの店では、壊れていない車を壊せと言われた。
慎吾はペンチを握り直す。
違う。
修理する理由なら、今ここにある。
慎吾は焼けたリレーの端子を見つけた。
「これか」
接点を整え、リレーを元の位置へ戻す。
「キーを回してください」
運転手がキーを回した。
スターターが回る。
エンジンに火が入った。
低い振動が、車体全体へ広がる。
搬送車のエンジンが始動した。
誰も拍手はしなかった。
慎吾はすぐに運転手へ言う。
「エンジンを切らないでください」
「このまま持つのか?」
完全に直ったわけではない。
「病院までは、絶対に止めないでください」
「分かった」
慎吾はボンネットを閉めた。
医師が後部扉から顔を出す。
「出るぞ!」
集まっていた人々が、一斉に道を開ける。
サリアが搬送車へ乗り込もうとした。
その直前、慎吾の腕をつかんだ。
「シン」
慎吾が振り返る。
サリアは慎吾の目を見た。
「ありがとう」
慎吾は車内のマーサを見る。
「まだです。行ってください」
サリアは強くうなずき、搬送車へ乗り込んだ。
白い車体は速度を上げ、町の外へ向かっていく。
慎吾は道の端に立ち、遠ざかるエンジン音を聞き続けた。
音が完全に聞こえなくなるまで、その場を動かなかった。
■5
夜。
品評会場は、昼間の騒ぎが嘘のように静かだった。
牛も人も、すでにほとんど帰っている。
慎吾は病院前のベンチに座っていた。
搬送車が出発してから、三時間近くが過ぎている。
完全に直したわけではない。
焼けた接点を整え、どうにか動かしただけだ。
「エンジン、持ったかな……」
慎吾は何度目か分からないほど、スマートフォンの画面を確認した。
消防署員や農場主たちも、病院の周囲に残っている。
誰も話しかけない。
ただ、帰ろうともしなかった。
スマートフォンが振動する。
サリアからだった。
『手術、終わった』
続けて、もう一件。
『助かるって』
慎吾は画面を見つめた。
肩から力が抜ける。
長く息を吐いた。
近くにいた消防署員が、慎吾の顔を見る。
「マーサ?」
慎吾はうなずいた。
「助かったそうです」
消防署員が周囲へ大声で知らせる。
「マーサは助かった!」
人々の顔が一斉に緩んだ。
抱き合う者。
帽子を取って空を見上げる者。
慎吾はベンチに座ったまま、夜空を見上げた。
赤い大地の上には、数え切れないほどの星が広がっていた。




