俺、ただの観光客なんですが?
■1
翌朝。
久世慎吾は、サリアの運転するピックアップの助手席に座っていた。
後ろには、大型の家畜用トレーラーがつながれている。
トレーラーの中では、品評会へ出す肉牛が、ときどき低い声で鳴いていた。
「揺れ、問題ない?」
サリアが尋ねる。
慎吾はサイドミラーでトレーラーを見る。
「今のところは」
「今のところ?」
「昨日、タイヤと連結部分は確認しました。変な音も出てません」
「じゃあ大丈夫ね!」
「だから、急に飛ばさないでくださいよ」
サリアはアクセルを緩めた。
「飛ばしてないわよ」
「今、制限速度を越えてました」
「少しだけ」
「牛を乗せてるんですよ」
「分かってるって」
慎吾はサリアを見る。
「その返事、信用できないんだよなぁ」
サリアは笑った。
道路の先に、小さな町が見えてくる。
赤い大地の中に、低い建物が集まっていた。
ガソリンスタンド。
食料品店。
パブ。
役場。
消防署。
その奥には、白い壁の地域病院が建っている。
町の端には、家畜市場を兼ねた広い催事場があり、その周囲にはすでに多くの車が集まっていた。
大型ピックアップ。
家畜運搬車。
トレーラー。
農場名の入ったトラック。
慎吾は駐車場を見回した。
「すごい数ですね」
「この辺の牧場、ほとんど全部来るわよ」
「そんなに大きな品評会なんですか」
「この町ではね」
サリアは胸を張った。
「一年で一番、牛が多い日!」
「人じゃないんですか」
「人も多いわよ」
「基準が牛なんだなぁ」
サリアは会場の搬入口へ車を進めた。
係員が手を振り、トレーラーを所定の場所へ誘導する。
車が止まると、サリアはすぐにシートベルトを外した。
「じゃあ、私は受付して、牛を降ろして、体を拭いて、番号札をもらってくるから」
「ずいぶんありますね」
「シンは、その辺で待ってて!」
「手伝わなくていいんですか」
「牛、扱える?」
慎吾はトレーラーを見る。
大きな牛が、柵越しにこちらを見ている。
「……無理ですね」
「でしょう?」
サリアは運転席から飛び降りた。
「終わったら探すから!」
「どこにいればいいんですか」
「その辺!」
「範囲が広すぎません?」
サリアはもう走り出している。
「サリア!」
慎吾が呼ぶ。
サリアは振り返り、片手を上げた。
「迷子にならないでね、シン!」
「それは案内する側の台詞でしょう!」
サリアは笑いながら、人と牛の間へ消えていった。
慎吾は助手席に一人残された。
しばらく会場を眺める。
「また放り出されたなぁ……」
慎吾は車を降りた。
■2
品評会場には、干し草と土と家畜の匂いが混ざっていた。
柵の向こうには、毛並みを整えられた牛が並んでいる。
農場主たちは牛の背中を拭き、脚の泥を落とし、番号札を確認していた。
慎吾には、どの牛も大きく見えた。
体格。
毛艶。
脚の形。
背中の線。
それぞれ違いがあるらしいが、慎吾にはほとんど分からない。
会場の端では、簡易テントが並んでいた。
コーヒー。
焼いた肉。
パン。
農業用品。
子ども向けの小さな遊具。
慎吾はコーヒーを買おうと、テントの列へ向かった。
「シン!」
背後から大声で呼ばれる。
慎吾が振り返る。
昨日、四輪駆動車を直したビルが手を振っていた。
「おはようございます」
ビルは慎吾の肩を勢いよく叩いた。
「車、絶好調だ!」
「部品は交換しましたか?」
慎吾が尋ねる。
ビルは笑顔で親指を立てる。
慎吾は眉をひそめた。
「その顔、交換してませんね?」
ビルは笑いながら、慎吾へコーヒーを差し出した。
「どうしてコーヒーでごまかすんですか」
慎吾は受け取った。
少し歩くと、今度は発電機を直した老人が声をかけてくる。
「シン! 井戸のポンプ、動いてるぞ!」
「それはよかったです」
老人は慎吾の手を握り、隣にいた男へ何かを話し始めた。
男が慎吾を見る。
「あなたが日本人のメカニックか」
慎吾は老人を見る。
「どこまで広まってるんですか」
老人は笑うだけだった。
その後も、慎吾は何度も呼び止められた。
車を直してもらった。
発電機が動いた。
ポンプが使えるようになった。
パンは食べたか。
ビールは冷やしたか。
慎吾は、全員の名前を覚えていなかった。
しかし、相手は慎吾の名前を知っている。
「シン」
「シン」
「シン!」
そのたびに慎吾は立ち止まり、礼を言われ、肩を叩かれた。
サリアはいない。
それでも誰も、慎吾を知らない旅行者としては扱わなかった。
会場の奥へ歩くと、道路を挟んだ向かいに地域病院が見えた。
平屋に近い、小さな建物だった。
入口の脇には、医療搬送車が停まっている。
その隣には消防署。
少し先には役場。
慎吾は周囲を見回した。
「本当に、全部ここにあるんだな」
都会なら離れた場所にある機能が、この町では一か所へ集まっている。
町の中心というより、この地域全体の中心だった。
消防署の前にいた男が、慎吾へ手を上げる。
「シン! あとで消防車も見てくれ!」
慎吾は即座に首を振った。
「今日は仕事しませんよ!」
男は笑った。
「見るだけでいい!」
慎吾は額を押さえた。
「この町で、その言葉は禁止にしたほうがいいな……」
■3
昼前。
品評会の審査が始まった。
慎吾は観客席の端で、牛を眺めていた。
一頭ずつ、番号を付けた牛が審査場へ入ってくる。
審査員が牛の周囲を歩き、背中や脚を確認する。
場内放送で何か説明されているが、慎吾にはほとんど分からない。
隣に座っていたビルが、得意そうに解説する。
慎吾は半分ほどしか理解できなかった。
「つまり、どこを見ればいいんですか」
ビルは牛の背中を指差した。
慎吾も同じ場所を見る。
「……全部同じに見えます」
ビルが大声で笑った。
やがて、サリアが一頭の牛を引いて現れた。
朝から走り回っていたのだろう。
金髪は少し乱れ、額には汗が浮かんでいる。
それでも、満面の笑みだった。
慎吾に気づき、大きく手を振る。
「シーン!」
慎吾も軽く手を上げる。
隣のビルが慎吾の脇腹をつついた。
「サリアの牛だ」
「それは分かります」
「いい牛だろ?」
慎吾は牛を見る。
大きい。
毛並みもきれいだ。
しかし、それ以上は分からない。
「たぶん」
ビルが呆れた顔をする。
「車のことなら、音だけで分かるんだろ?」
「牛にはエンジンがありませんから」
審査員が牛の周囲を回る。
サリアは真剣な表情で手綱を握っている。
慎吾は、初めて見る顔だと思った。
いつも笑い、次々と修理を押しつけてくるサリアとは違う。
牛の動きへ注意を払い、審査員の指示を聞き、立ち位置を細かく調整している。
慎吾には牛の良し悪しは分からない。
だが、サリアがこの日のために準備してきたことは分かった。
審査が終わる。
サリアが牛を連れて退場する。
しばらくして、結果が発表された。
サリアの牧場の牛は、部門二位だった。
周囲から拍手が起こる。
慎吾も拍手した。
隣のビルは、立ち上がって口笛を吹いている。
サリアがマーサと抱き合う。
マーサは笑いながら、娘の背中を叩いた。
慎吾は二人を見て、少し笑った。
サリアが慎吾を見つける。
二位のリボンを掲げ、誇らしげに叫ぶ。
「見た、シン!」
慎吾は親指を立てた。
「見ました!」
「すごいでしょう!」
「牛の違いは分かりませんけど!」
「そこは分かったって言いなさいよ!」
周囲から笑いが起こった。
慎吾も笑った。
■4
午後。
審査を終えた牛たちは、それぞれの待機区画へ戻されていた。
サリアは何人もの農場主に呼び止められ、二位入賞を祝われている。
慎吾は会場の端で、肉を挟んだパンを食べていた。
マーサが隣へ来る。
「退屈してない?」
「大丈夫です」
慎吾は紙皿を少し持ち上げた。
「食べ物もありますし」
マーサは笑った。
「サリアが無理に連れてきたんでしょう」
「ええ、まあ」
「嫌なら断っていいのよ」
慎吾は、遠くで笑っているサリアを見る。
「断っても、聞かないと思います」
「それはそうね」
マーサはあっさり認めた。
二人でしばらく会場を眺める。
マーサが慎吾へ尋ねる。
「明日、出発するの?」
「その予定です」
「そう」
マーサはそれ以上、何も言わなかった。
慎吾は少しだけ意外に思った。
引き止められるかもしれないと、どこかで考えていたのかもしれない。
会場の反対側から、牛の大きな鳴き声が響いた。
一度。
二度。
周囲の農場主たちが振り返る。
柵の中で、一頭の大型牛が激しく首を振っていた。
係員が近づき、牛を落ち着かせようとする。
慎吾は紙皿を持ったまま、その様子を見る。
牛が後脚で地面を蹴る。
柵が大きく揺れた。
マーサの表情が変わる。
「少し離れたほうがいいわね」
二人が立ち上がる。
その瞬間。
大きな金属音が響いた。
柵の留め具が外れる。
牛が体を押し込み、柵を倒した。
悲鳴が上がる。
会場にいた人々が、一斉に逃げ始めた。
牛は興奮し、目の前を走る人影を追う。
進行方向には、小さな子どもが立ち尽くしていた。
母親らしい女性が叫ぶ。
「動いて!」
子どもは恐怖で動けない。
マーサが走った。
「マーサさん!」
慎吾の声より早く、マーサは子どもへ手を伸ばした。
子どもの体を突き飛ばす。
次の瞬間。
牛の肩がマーサへぶつかった。
マーサの体が宙へ浮く。
柵へ叩きつけられ、地面へ落ちた。
慎吾は紙皿を投げ捨て、走り出した。
周囲では、農場主たちが牛を囲もうとしている。
誰かが子どもを抱き上げる。
マーサは地面に倒れたまま動かない。
脚の下から、赤い血が土へ広がっていく。
「母さん!」
サリアの叫び声が、会場に響いた。




