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5/9

見るだけって言いましたよね?


■1


翌朝。


久世慎吾が母屋を出ると、牧場の入口に古い四輪駆動車が停まっていた。


車の横には、日に焼けた大柄な男が立っている。


慎吾は足を止めた。


「……どなたですか?」


サリアが、羊の餌を入れた袋を抱えて歩いてくる。


「隣の牧場のビルよ」


「おはよう、シン!」


ビルは大きな声で挨拶し、慎吾の手を握った。


慎吾は勢いよく手を振られる。


「お、おはようございます」


「坂を上ると、車の力が出なくなるんだって」


サリアが車を指差す。


慎吾はサリアを見る。


「どうして俺に?」


「昨日、町で話したから」


「町の誰にですか?」


「何人かに」


「何をですか?」


「日本から来たメカニックが、うちのトラクターを生き返らせたって」


「生き返らせてはいませんよ」


ビルが慎吾の肩を叩く。


「見るだけでいい!」


慎吾は顔をしかめた。


「その言葉、昨日も聞いたんですが」


「じゃあ、お願いね」


サリアは羊の餌を抱え直した。


慎吾が目を丸くする。


「えっ?」


「私は羊を移さないといけないの」


「ちょ、ちょっと待ってください」


「終わったら、納屋に工具を戻しておいて!」


「俺、今日出発するつもりなんですけど」


サリアは歩きながら振り返る。


「それまでに終わらせればいいじゃない!」


「そういう問題では――」


「ビル、シンをよろしく!」


ビルが親指を立てる。


「任せろ!」


慎吾は二人を交互に見た。


「いや、よろしくされるのは俺のほうでは?」


サリアは笑いながら、牧場の奥へ走っていった。


慎吾は遠ざかる背中を見送る。


隣で、ビルが車のボンネットを叩いた。


「シン!」


慎吾は大きく息を吐いた。


「……見るだけですからね」


ビルは満面の笑みでうなずいた。


■2


ビルの四輪駆動車は、平地では問題なく走った。


だが、坂道でアクセルを踏み込むと、エンジン音が乱れる。


慎吾は一度だけ音を聞き、ボンネットを開けた。


吸気ホースの一部に亀裂が入っている。


「ここですね」


ビルがすぐ横からのぞき込む。


「近いです」


「ホワット?」


慎吾は両手で距離を示した。


「バック。リトル」


ビルが一歩下がる。


慎吾は納屋にあった補修材で亀裂を塞いだ。


「これで、しばらく走れます」


「直ったのか?」


「テンポラリー。パーツ、チェンジ」


試運転を終えたビルは、満面の笑みで車から降りてきた。


財布を取り出す。


慎吾は首を振った。


「ノー・マネー。アイム・ツーリスト」


ビルは少し考えたあと、慎吾の肩を何度も叩いた。


「ありがとう、シン!」


「背中を叩かないでください」


ビルは笑いながら牧場を出ていった。


慎吾は荷物を確認する。


今日こそ出発する。


そう思って運転席へ向かったとき、牧場の入口から別のピックアップが入ってきた。


荷台には、小型の発電機が載っている。


運転席から降りた老人が、慎吾へ大きく手を振った。


「日本人のメカニック!」


慎吾は額へ手を当てた。


「あの人、どこまで話したんだ……」


■3


昼過ぎ。


納屋の前で、発電機が規則正しい音を立てていた。


老人は、慎吾の手を両手で握る。


「助かった! 井戸のポンプが止まって困ってたんだ!」


慎吾は老人の勢いに押されながら、うなずいた。


「燃料を入れたまま長く置かないでください」


老人は分かっているのかいないのか、何度も笑顔でうなずく。


財布を取り出した老人へ、慎吾は首を振った。


「お金は受け取れません」


慎吾は同じ説明を繰り返した。


旅行者。


仕事ではない。


老人は少し残念そうな顔をしたあと、発電機を荷台へ積んで帰っていった。


慎吾は今度こそ四輪駆動車へ向かう。


しかし、納屋の入口に別の男が立っていた。


手には、故障した電動工具。


その後ろには、古い農業用ポンプ。


慎吾は口を開く。


「どちらか一つにしてください」


男は両方を指差した。


慎吾はため息をつく。


「ですよね」


そこから先は、ほとんど流れ作業だった。


回らなくなったポンプ。


異音のする発電機。


エンジンのかからない古いピックアップ。


切れた配線。


腐食した端子。


外れたホース。


慎吾は納屋にある工具を借り、直せるものを直した。


完全に直せないものには、必要な部品を書いた紙を渡した。


慎吾の英語は拙かった。


村人たちの話す英語も速かった。


それでも、壊れた場所を指差し、工具を持ち、音を聞けば、仕事の話は何となく通じた。


夕方が近づくころには、納屋の前に故障品はなくなっていた。


慎吾は腰を伸ばす。


「終わった……」


ようやく四輪駆動車へ戻る。


荷室の前に、大きな保冷箱が置かれていた。


慎吾は眉をひそめる。


蓋を開ける。


中には、羊肉が入っていた。


その隣には、ジャガイモとタマネギの袋。


助手席には、卵の入った籠。


後部座席には、丸いパンとジャムの瓶。


慎吾は車内を見回した。


「いつの間に……」


さらに運転席の足元には、ビールの箱まで置かれている。


慎吾は羊肉を見る。


野菜を見る。


卵を見る。


パンを見る。


誰がどれを置いていったのか、まったく分からない。


慎吾は羊肉の入った箱を持ち上げようとした。


重い。


「これ、どうしろっていうんだ……」


遠くから、トラクターの音が聞こえてきた。


■4


夕日を背に、サリアがトラクターで戻ってきた。


荷台には、作業を終えた牧羊犬が二頭乗っている。


サリアは納屋の前でトラクターを止めた。


慎吾の四輪駆動車を見る。


その周囲に積まれた肉、野菜、卵、パン、ジャム、ビール。


サリアは運転席から飛び降りた。


「すごいじゃない、シン!」


慎吾は保冷箱を抱えたまま振り返る。


「何がですか」


「一日でこんなに稼いだの?」


「お金は受け取ってません」


「じゃあ、もっとすごいわ!」


「どうしてそうなるんですか」


サリアは保冷箱をのぞき込む。


「いい羊肉ね」


「誰が置いていったんですか」


「たぶんビル」


「野菜は?」


「ビルかも」


「卵は?」


「ミセス・ブラウンね」


「パンとジャム」


「エドナおばさん」


「ビールは?」


「それは分からないわ」


慎吾はビールの箱を見る。


「分からないものまで飲めませんよ」


「村で売ってるビールなんて、三種類くらいしかないわよ」


「そういう問題ではなくてですね」


サリアは食料の山を見回し、満足そうにうなずいた。


「みんな喜んだのね」


慎吾は答えなかった。


朝から何度も握手をされた。


肩を叩かれた。


英語で礼を言われた。


言葉はすべて分からなかったが、表情は分かった。


慎吾は保冷箱を地面へ下ろす。


「でも、こんなに食べ切れませんよ」


サリアは当然のように答えた。


「食べ終わるまでいればいいじゃない」


慎吾はサリアを見る。


「何日かかると思ってるんですか」


「さあ?」


「俺、今日出発する予定だったんですよ」


「もう夕方よ」


「誰のせいですか」


「村のみんな?」


「あなたでしょう」


サリアは笑った。


「じゃあ、明日の品評会を見てから出ればいいわ」


「品評会?」


「肉牛の品評会。町中の牧場が集まるの」


「俺、牛のことは分かりませんよ」


「見れば分かるわよ」


「分からないです」


「私だって車のことは分からないけど、見てたでしょう?」


「あれは壊れていたからです」


「うちの牛だって、優勝するかもしれないわ!」


「故障と優勝は、同じ話なんですか?」


サリアは慎吾の四輪駆動車からパンを取り出す。


「明日は町のお祭りみたいなものよ。見ていって」


慎吾は荷室を見る。


すでに旅行鞄より、食料のほうが多い。


日程は決めていない。


行き先も決めていない。


一日遅れたところで、困る人はいなかった。


サリアが慎吾の顔をのぞき込む。


「ね?」


慎吾はため息をついた。


「品評会を見たら、出発します」


サリアの顔が一気に明るくなる。


「決まりね!」


「明日までですからね」


「分かってるわよ!」


慎吾は、昨日も同じ返事を聞いた気がした。


サリアはパンを抱え、母屋へ向かう。


「今夜は羊肉にしましょう!」


慎吾は食料の山を見下ろす。


「食べ終わるまでって、本気じゃないだろうな……」


サリアが振り返る。


「何か言った?」


「何も言ってません」


慎吾は羊肉の入った保冷箱を持ち上げた。


一晩だけのはずだった滞在は、二日目へ延びようとしていた。


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