見るだけって言いましたよね?
■1
翌朝。
久世慎吾が母屋を出ると、牧場の入口に古い四輪駆動車が停まっていた。
車の横には、日に焼けた大柄な男が立っている。
慎吾は足を止めた。
「……どなたですか?」
サリアが、羊の餌を入れた袋を抱えて歩いてくる。
「隣の牧場のビルよ」
「おはよう、シン!」
ビルは大きな声で挨拶し、慎吾の手を握った。
慎吾は勢いよく手を振られる。
「お、おはようございます」
「坂を上ると、車の力が出なくなるんだって」
サリアが車を指差す。
慎吾はサリアを見る。
「どうして俺に?」
「昨日、町で話したから」
「町の誰にですか?」
「何人かに」
「何をですか?」
「日本から来たメカニックが、うちのトラクターを生き返らせたって」
「生き返らせてはいませんよ」
ビルが慎吾の肩を叩く。
「見るだけでいい!」
慎吾は顔をしかめた。
「その言葉、昨日も聞いたんですが」
「じゃあ、お願いね」
サリアは羊の餌を抱え直した。
慎吾が目を丸くする。
「えっ?」
「私は羊を移さないといけないの」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「終わったら、納屋に工具を戻しておいて!」
「俺、今日出発するつもりなんですけど」
サリアは歩きながら振り返る。
「それまでに終わらせればいいじゃない!」
「そういう問題では――」
「ビル、シンをよろしく!」
ビルが親指を立てる。
「任せろ!」
慎吾は二人を交互に見た。
「いや、よろしくされるのは俺のほうでは?」
サリアは笑いながら、牧場の奥へ走っていった。
慎吾は遠ざかる背中を見送る。
隣で、ビルが車のボンネットを叩いた。
「シン!」
慎吾は大きく息を吐いた。
「……見るだけですからね」
ビルは満面の笑みでうなずいた。
■2
ビルの四輪駆動車は、平地では問題なく走った。
だが、坂道でアクセルを踏み込むと、エンジン音が乱れる。
慎吾は一度だけ音を聞き、ボンネットを開けた。
吸気ホースの一部に亀裂が入っている。
「ここですね」
ビルがすぐ横からのぞき込む。
「近いです」
「ホワット?」
慎吾は両手で距離を示した。
「バック。リトル」
ビルが一歩下がる。
慎吾は納屋にあった補修材で亀裂を塞いだ。
「これで、しばらく走れます」
「直ったのか?」
「テンポラリー。パーツ、チェンジ」
試運転を終えたビルは、満面の笑みで車から降りてきた。
財布を取り出す。
慎吾は首を振った。
「ノー・マネー。アイム・ツーリスト」
ビルは少し考えたあと、慎吾の肩を何度も叩いた。
「ありがとう、シン!」
「背中を叩かないでください」
ビルは笑いながら牧場を出ていった。
慎吾は荷物を確認する。
今日こそ出発する。
そう思って運転席へ向かったとき、牧場の入口から別のピックアップが入ってきた。
荷台には、小型の発電機が載っている。
運転席から降りた老人が、慎吾へ大きく手を振った。
「日本人のメカニック!」
慎吾は額へ手を当てた。
「あの人、どこまで話したんだ……」
■3
昼過ぎ。
納屋の前で、発電機が規則正しい音を立てていた。
老人は、慎吾の手を両手で握る。
「助かった! 井戸のポンプが止まって困ってたんだ!」
慎吾は老人の勢いに押されながら、うなずいた。
「燃料を入れたまま長く置かないでください」
老人は分かっているのかいないのか、何度も笑顔でうなずく。
財布を取り出した老人へ、慎吾は首を振った。
「お金は受け取れません」
慎吾は同じ説明を繰り返した。
旅行者。
仕事ではない。
老人は少し残念そうな顔をしたあと、発電機を荷台へ積んで帰っていった。
慎吾は今度こそ四輪駆動車へ向かう。
しかし、納屋の入口に別の男が立っていた。
手には、故障した電動工具。
その後ろには、古い農業用ポンプ。
慎吾は口を開く。
「どちらか一つにしてください」
男は両方を指差した。
慎吾はため息をつく。
「ですよね」
そこから先は、ほとんど流れ作業だった。
回らなくなったポンプ。
異音のする発電機。
エンジンのかからない古いピックアップ。
切れた配線。
腐食した端子。
外れたホース。
慎吾は納屋にある工具を借り、直せるものを直した。
完全に直せないものには、必要な部品を書いた紙を渡した。
慎吾の英語は拙かった。
村人たちの話す英語も速かった。
それでも、壊れた場所を指差し、工具を持ち、音を聞けば、仕事の話は何となく通じた。
夕方が近づくころには、納屋の前に故障品はなくなっていた。
慎吾は腰を伸ばす。
「終わった……」
ようやく四輪駆動車へ戻る。
荷室の前に、大きな保冷箱が置かれていた。
慎吾は眉をひそめる。
蓋を開ける。
中には、羊肉が入っていた。
その隣には、ジャガイモとタマネギの袋。
助手席には、卵の入った籠。
後部座席には、丸いパンとジャムの瓶。
慎吾は車内を見回した。
「いつの間に……」
さらに運転席の足元には、ビールの箱まで置かれている。
慎吾は羊肉を見る。
野菜を見る。
卵を見る。
パンを見る。
誰がどれを置いていったのか、まったく分からない。
慎吾は羊肉の入った箱を持ち上げようとした。
重い。
「これ、どうしろっていうんだ……」
遠くから、トラクターの音が聞こえてきた。
■4
夕日を背に、サリアがトラクターで戻ってきた。
荷台には、作業を終えた牧羊犬が二頭乗っている。
サリアは納屋の前でトラクターを止めた。
慎吾の四輪駆動車を見る。
その周囲に積まれた肉、野菜、卵、パン、ジャム、ビール。
サリアは運転席から飛び降りた。
「すごいじゃない、シン!」
慎吾は保冷箱を抱えたまま振り返る。
「何がですか」
「一日でこんなに稼いだの?」
「お金は受け取ってません」
「じゃあ、もっとすごいわ!」
「どうしてそうなるんですか」
サリアは保冷箱をのぞき込む。
「いい羊肉ね」
「誰が置いていったんですか」
「たぶんビル」
「野菜は?」
「ビルかも」
「卵は?」
「ミセス・ブラウンね」
「パンとジャム」
「エドナおばさん」
「ビールは?」
「それは分からないわ」
慎吾はビールの箱を見る。
「分からないものまで飲めませんよ」
「村で売ってるビールなんて、三種類くらいしかないわよ」
「そういう問題ではなくてですね」
サリアは食料の山を見回し、満足そうにうなずいた。
「みんな喜んだのね」
慎吾は答えなかった。
朝から何度も握手をされた。
肩を叩かれた。
英語で礼を言われた。
言葉はすべて分からなかったが、表情は分かった。
慎吾は保冷箱を地面へ下ろす。
「でも、こんなに食べ切れませんよ」
サリアは当然のように答えた。
「食べ終わるまでいればいいじゃない」
慎吾はサリアを見る。
「何日かかると思ってるんですか」
「さあ?」
「俺、今日出発する予定だったんですよ」
「もう夕方よ」
「誰のせいですか」
「村のみんな?」
「あなたでしょう」
サリアは笑った。
「じゃあ、明日の品評会を見てから出ればいいわ」
「品評会?」
「肉牛の品評会。町中の牧場が集まるの」
「俺、牛のことは分かりませんよ」
「見れば分かるわよ」
「分からないです」
「私だって車のことは分からないけど、見てたでしょう?」
「あれは壊れていたからです」
「うちの牛だって、優勝するかもしれないわ!」
「故障と優勝は、同じ話なんですか?」
サリアは慎吾の四輪駆動車からパンを取り出す。
「明日は町のお祭りみたいなものよ。見ていって」
慎吾は荷室を見る。
すでに旅行鞄より、食料のほうが多い。
日程は決めていない。
行き先も決めていない。
一日遅れたところで、困る人はいなかった。
サリアが慎吾の顔をのぞき込む。
「ね?」
慎吾はため息をついた。
「品評会を見たら、出発します」
サリアの顔が一気に明るくなる。
「決まりね!」
「明日までですからね」
「分かってるわよ!」
慎吾は、昨日も同じ返事を聞いた気がした。
サリアはパンを抱え、母屋へ向かう。
「今夜は羊肉にしましょう!」
慎吾は食料の山を見下ろす。
「食べ終わるまでって、本気じゃないだろうな……」
サリアが振り返る。
「何か言った?」
「何も言ってません」
慎吾は羊肉の入った保冷箱を持ち上げた。
一晩だけのはずだった滞在は、二日目へ延びようとしていた。




