また俺、何かやっちゃいました?
■1
「キャー! 直ったわ! あなた、天才ね!」
サリアの歓声が、牧場中へ響いた。
古いトラクターが、黒い煙を吐きながら、ゆっくりと前へ進む。
「動いた! 本当に動いた!」
運転席のサリアは、両手を上げた。
トラクターがわずかに右へそれる。
「前! 前を見てください!」
慎吾が叫んだ。
「あっ」
サリアは慌ててハンドルを握り直した。
トラクターは干し草の山をかすめ、どうにか納屋の前で止まる。
慎吾は大きく息を吐いた。
「直した直後に壊さないでくださいよ」
「大丈夫。ぶつかってないわ!」
「大丈夫の基準が低すぎませんか?」
サリアは運転席から飛び降りた。
地面へ着地すると、そのまま慎吾の両肩をつかむ。
「シン、すごいわ!」
「うーん」
慎吾は、動き続けるトラクターへ耳を澄ませた。
エンジン音には、まだわずかな乱れがある。
「直ってはいないんだけどなぁ」
「動いてるじゃない!」
「今はね」
「じゃあ、直ったのよ!」
「そういう判定でいいんですか?」
「いいの!」
サリアは迷いなく言い切った。
■2
慎吾はトラクターのボンネットへ手を置く。
熱と振動を確かめてから、もう一度エンジン音を聞いた。
「町で部品を買ったなら、あとで交換しましょう」
「分かってるわよ」
「本当に?」
「もちろん!」
サリアは笑顔で答えた。
慎吾は少し間を置く。
「さっきも、車を叩けば直ると思ってましたよね」
「思ってないわよ」
「叩いたんでしょう?」
「腹が立ったから叩いただけ」
「余計に駄目じゃないですか」
「でも、あなたが直してくれた」
「だから、直ってはいないんですって」
サリアは聞いていなかった。
家のほうへ向き直り、大きく手を振る。
「母さーん!」
牧場の母屋は、納屋から少し離れた場所に建っていた。
白い壁。
低い屋根。
その前には、洗濯物が乾いた風に揺れている。
玄関から、一人の女性が姿を現した。
白髪の混じった髪を後ろで束ねた、細身の女性だった。
サリアはトラクターを指差す。
「動いたわ!」
女性は目を細め、トラクターを見る。
それから、その隣に立つ慎吾へ視線を移した。
「その人が直したの?」
サリアは気にせず続ける。
「日本から来たメカニックなの。シンっていうの」
「旅行者です」
慎吾は訂正した。
「同じようなものよ」
「全然違います」
女性は二人のやり取りをしばらく眺めていた。
慎吾は軽く頭を下げた。
■3
「久世慎吾です。突然、お邪魔してすみません」
女性は慎吾の顔から、トラクターへ視線を戻した。
エンジンはまだ動いている。
「本当に、あなたが?」
「ええっ……まあ……」
慎吾が曖昧に答えると、サリアが隣で笑った。
女性は慎吾へ近づき、トラクターの周囲を一度回る。
「朝から、何をしても動かなかったのよ」
「たまたま、使える部品が納屋にありましたから」
「それでも、助かったわ。本当にありがとう」
女性の口元が、わずかに緩んだ。
「私はマーサ。サリアの母です」
「よろしくお願いします」
マーサは慎吾の手元を見る。
油で黒く汚れている。
腕にも、細かな傷がついていた。
「お代は、いくら?」
慎吾は首を振った。
「いえ。旅行中なので、お金は受け取れません」
「でも、直してもらったのよ」
「本当に、たいしたことでは――」
「シン」
サリアが低い声で呼ぶ。
「はい」
「そこ、もういいから」
慎吾は口を閉じた。
■4
マーサは少し考えたあと、母屋へ向かって歩き出した。
「お金を受け取らないなら、夕食くらい食べていきなさい」
「いえ、そこまでしていただかなくても」
マーサは足を止めた。
「それじゃ、こっちの気が済まないわ」
慎吾は返事に詰まる。
マーサはサリアを見る。
「手を洗う場所を教えてあげて」
「分かった!」
サリアは慎吾の腕をつかんだ。
「さあ、行きましょう」
「いや、俺はそろそろ――」
「どうせ今日、泊まるところも決めてないんでしょ?」
慎吾は言葉を止めた。
「……どうして分かったんですか?」
サリアは牧場の前に停まった四輪駆動車を見る。
「その車を見れば分かるわよ」
「車は関係ないでしょう」
「行き先も決めずに走ってるって、自分で言ってたじゃない」
「それは……そうですけど」
サリアは満面の笑みを浮かべる。
「じゃあ決まり。夕食を食べて、今日はうちに泊まっていきなさい」
「夕食の話から、宿泊まで増えてませんか?」
「暗くなってから宿を探すより安全よ」
マーサが母屋へ歩きながら言う。
「客間なら空いているわ」
慎吾はマーサとサリアを交互に見た。
「ええっ……」
「母さんの料理、おいしいわよ!」
「そういう問題ではなくてですね」
サリアは慎吾を引っ張り、母屋へ向かう。
「その返事、信用できないんだよなぁ……」
慎吾の声が、夜の牧場へ消えていった。




