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3/9

部下の生殺与奪権を与える

■1


翌朝。


デッカモーター八王子店。


久世慎吾が事務室へ入ると、小田切は珍しく笑顔を浮かべていた。


「久世さん」


「はい」


「昨日、やればできるじゃないですか」


机の上には、前日の整備売上表が置かれている。


慎吾が担当した老夫婦の車検。


追加整備売上、十五万八千円。


小田切は数字をペン先で囲んだ。


「一台十五万。ちゃんと取れてる」


慎吾は椅子へ座った。


「はい」


「何を売ったんですか?」


「タイヤとバッテリー、防錆処理です」


「コーティングは?」


「断られました」


「そこまで取れたら二十万だったのに」


小田切は残念そうに言った。


慎吾は答えなかった。


老夫婦のタイヤは古かった。


バッテリーも性能が落ち始めていた。


いずれ交換は必要だった。


昨日交換したこと自体は、間違いではない。


事故を未然に防いだとも言える。


それでも、夫が最後に言った言葉が耳に残っている。


――久世さんが言うなら、お願いします。


小田切が慎吾の顔をのぞき込む。


「何ですか、その顔」


「いえ」


「客も納得したんですよね?」


「はい」


「安全にもなった」


「はい」


「店の売上にもなった」


「はい」


小田切は両手を広げた。


「誰も損してないじゃないですか」


慎吾は膝の上で手を組んだ。


「そうですね」


「だったら、今日も同じようにやってくださいよ」


小田切は別の資料を慎吾へ差し出した。


整備士別追加売上一覧。


三浦の名前が、一番下にあった。


「今日から三浦君にも、一台十五万」


慎吾は資料を見る。


「三浦君は、まだ二年目です」


「二年目だから何です?」


「お客様への説明を、もう少し経験させてから――」


「経験させるために、やらせるんだよ」


小田切は笑顔のまま言った。


「久世さんができたんだから、部下にもやらせてください」


■2


午前十一時。


一台の軽自動車が、オイル交換のために入庫した。


車体は古いが、走行距離は少ない。


三浦が点検を終え、タブレットを持って慎吾のところへ来る。


「久世さん」


「どうでした?」


「オイルとフィルターだけで大丈夫です」


慎吾は点検結果を確認した。


タイヤ。


バッテリー。


ブレーキ。


ワイパー。


いずれも問題はない。


慎吾は整備士別売上一覧を思い出す。


三浦、一台十五万円。


「何か、提案できるものはありませんか」


自分の口から出た言葉に、慎吾自身が違和感を覚えた。


三浦も少し驚いた顔をする。


「特には」


「コーティングは?」


「半年前に施工しています」


「エアコン洗浄」


「臭いもありません」


「バッテリーは?」


「正常です」


慎吾はタブレットを見る。


何度見ても、売るものはなかった。


三浦が小声で尋ねる。


「小田切店長から、何か言われました?」


慎吾は顔を上げた。


「一台十五万円と言われています」


三浦は苦笑した。


「この車でですか?」


「はい」


「無理ですよ」


「……そうですね」


二人はしばらく黙っていた。


整備工場の奥で、インパクトレンチの音が響く。


三浦が言う。


「オイル交換だけで返します」


慎吾は反射的に周囲を見た。


事務室の窓から、小田切がこちらを見ている。


「待ってください」


三浦の足が止まる。


慎吾はタブレットを持ったまま、何を言うべきか考えた。


昨日、自分は売った。


交換しても間違いではないものを選び、いつもより不安を強く伝えた。


その結果、十五万円になった。


自分だけが一度数字を作り、部下には正しい整備をしろと言えるのか。


「……念のため、下回りをもう一度見てください」


三浦は慎吾を見る。


「分かりました」


その返事に、いつもの信頼はなかった。


■3


午後一時。


慎吾と三浦は、軽自動車の下を見上げていた。


異常はない。


錆も年式相応。


今すぐ処置が必要な状態ではなかった。


三浦が言う。


「やっぱり、何もないです」


「そうですね」


「これで十五万は無理です」


慎吾は答えられなかった。


そこへ小田切がやってきた。


「どう?」


三浦が立ち上がる。


「オイルとフィルターの交換だけで問題ありません」


小田切は車体の下をのぞいた。


「下回り、錆びてるじゃん」


「表面だけです」


「防錆できるだろ」


「今すぐ必要な状態ではありません」


三浦が答える。


小田切は慎吾を見た。


「久世主任」


「はい」


「教育、どうなってるの?」


「確認したうえでの判断です」


「三浦君に聞いてない」


小田切は慎吾の目を見る。


「主任に聞いてる」


慎吾は口を閉じた。


小田切はゆっくり立ち上がる。


「部下に数字を作らせるのも、主任の仕事だから」


「ですが、この車には――」


「ないなら、作ればいいだろ」


■4


慎吾は小田切を見る。


小田切は工場の奥へ歩いていった。


工具棚の下にある、鍵のかかった引き出しを開ける。


中から、丸めた黒い靴下を取り出した。


小田切は靴下の先を掌へ落とす。


硬いものが入っている。


三浦が小さく尋ねた。


「それ、何ですか」


小田切は答えず、靴下の口を少し開いた。


中には、白いゴルフボールが入っていた。


慎吾は意味を理解できなかった。


「……何に使うんですか」


小田切は軽自動車の横へ立つ。


靴下の端を握り、車体のドアを見た。


「こういう丸いへこみなら、飛び石や雹でも説明できる」


慎吾の顔から血の気が引いた。


「待ってください」


小田切は振り返る。


「何?」


「それで叩くんですか」


「一発じゃ足りない」


小田切は何でもないことのように答えた。


「何か所か作る。写真を撮る。修理見積もりを出す」


「お客様の車ですよ」


「だから直すんだろ」


小田切は三浦へ靴下を差し出した。


「やって」


三浦は受け取らなかった。


「聞こえなかった?」


小田切の声が低くなる。


三浦は慎吾を見る。


小田切は靴下を三浦の胸へ押しつけた。


「主任からも言ってやってよ」


「三浦君」


慎吾が呼ぶ。


三浦の手が、恐る恐る靴下へ伸びる。


「目立たないところでいい」


小田切は車体を指差した。


「最初は軽く。へこみが足りなければ、もう一度」


三浦は靴下を握ったまま動かなかった。


慎吾は、その手から靴下を取り上げた。


「これは、何なんですか」


小田切は顔をしかめた。


「さっき説明しただろ」


「そうではなくて」


慎吾は、靴下を見た。


使い古されている。


今日初めて用意されたものではない。


「これまでにも、使っていたんですか」


工場が静かになった。


小田切は答えなかった。


その沈黙だけで、十分だった。


慎吾は靴下を作業台へ置いた。


「三浦君。作業に戻ってください」


小田切の表情が消える。


「久世さん」


「この車は、オイルとフィルターだけ交換します」


「何、勝手に決めてるの?」


「点検結果です」


「俺は店長だよ」


「私は整備主任です」


慎吾の声は、自分で思っていたより小さかった。


だが、工場には十分響いた。


作業をしていた整備士たちが、こちらを見ている。


小田切は慎吾へ近づいた。


「整備主任なら、数字を作れ」


「故障していない車を壊すことはできません」


「壊すんじゃない。修理する理由を作るんだ」


「同じです」


小田切の顔が赤くなる。


「昨日は十五万売ったよな?」


慎吾は何も言わない。


「自分は客の不安を煽って売ったくせに、今日は正義の味方?」


その言葉が刺さった。


慎吾は昨日の老夫婦を思い出す。


自分を信用し、十五万円を払った二人。


昨日の自分は、本当に客のためだけに勧めたのか。


答えは出なかった。


小田切は続ける。


「結果を出すためには、部下を動かさなきゃいけないんだよ」


「はい」


「本部は、幹部にその権限を与えてる」


小田切は慎吾の胸を指で押した。


「目標達成に必要な、部下の生殺与奪権を」


慎吾は一歩下がった。


「三浦君にやらせて」


慎吾は三浦を見る。


三浦は青ざめた顔で、二人を見ている。


慎吾は昨日まで、自分がここにいれば部下を守れると思っていた。


上からの無茶な指示を、自分のところで少しでも弱める。


現場が壊れないように調整する。


そのために主任を続けているつもりだった。


だが今、自分が主任であるからこそ、三浦は逃げられずに立っている。


慎吾が命令すれば、三浦は客の車を傷つける。


拒めば、次に小田切から詰められるのは三浦だ。


慎吾はようやく理解した。


自分は部下を守る壁ではなかった。


上からの命令を現場へ届けるための、伝声管だった。


■5


慎吾は胸ポケットから社員証を取り出した。


小田切が眉をひそめる。


「何してるの?」


慎吾は社員証を机の上へ置いた。


「辞めます」


工場が静まり返った。


小田切は一瞬、言葉を失った。


「は?」


「本日付で退職します」


「待て待て待て」


小田切は笑い出した。


「そんな簡単に辞められると思ってるの?」


「手続きはします」


「主任だぞ?」


「はい」


「部下はどうするんだよ」


慎吾は三浦を見る。


三浦は何も言わない。


慎吾は答えた。


「私が残っても、守れません」


「何を格好つけてるんだよ」


小田切は机を叩いた。


「昨日は売っただろ!」


「はい」


慎吾は否定しなかった。


「だから、昨日の自分も正しかったとは思いません」


「客は納得したんだろ!」


「それでもです」


小田切は慎吾の社員証をつかみ、投げ返した。


社員証は床へ落ちた。


「拾えよ」


慎吾は動かなかった。


「拾って仕事に戻れ!」


慎吾は、小田切の顔を見た。


怖くないわけではなかった。


この先の生活も、再就職も、貯金も不安だった。


三十九歳。


整備士以外の仕事をしたことはない。


主任を辞めれば、今より条件のいい職場に入れる保証もない。


それでも慎吾は、床の社員証を拾わなかった。


「それは、修理ではありません」


慎吾は頭を下げた。


「お世話になりました」


そして工場を出た。


■6


午後七時。


慎吾は自宅のパソコンで、求人サイトを眺めていた。


自動車整備士。


整備主任候補。


サービスマネージャー。


どの求人にも、似たような言葉が並んでいる。


慎吾は画面を下へ送った。


次の会社。


その次の会社。


どこも同じに見えた。


スマートフォンが振動する。


三浦からのメッセージだった。


『今日は、すみませんでした』


慎吾はしばらく画面を見る。


『三浦君は悪くありません』


そう入力し、送信する。


すぐに返信が来る。


『これから、どうするんですか』


慎吾は答えられなかった。


パソコンの横には、昔買った旅行雑誌が置かれていた。


表紙には、赤い荒野を走る大型四輪駆動車。


慎吾が二十代のころから、一度乗ってみたいと思っていた車だった。


仕事が落ち着いたら。


貯金ができたら。


役職が上がったら。


そう考えているうちに、十年以上が過ぎていた。


慎吾は旅行雑誌を手に取った。


ページを開く。


雲ひとつない青空。


どこまでも続く一本の道。


慎吾は求人サイトを閉じた。


「……もう、どうにでもなれ」


航空券を検索する。


帰国したあとのことは、帰国してから考えればいい。


慎吾は、オーストラリア行きの予約ボタンを押した。



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