部下の生殺与奪権を与える
■1
翌朝。
デッカモーター八王子店。
久世慎吾が事務室へ入ると、小田切は珍しく笑顔を浮かべていた。
「久世さん」
「はい」
「昨日、やればできるじゃないですか」
机の上には、前日の整備売上表が置かれている。
慎吾が担当した老夫婦の車検。
追加整備売上、十五万八千円。
小田切は数字をペン先で囲んだ。
「一台十五万。ちゃんと取れてる」
慎吾は椅子へ座った。
「はい」
「何を売ったんですか?」
「タイヤとバッテリー、防錆処理です」
「コーティングは?」
「断られました」
「そこまで取れたら二十万だったのに」
小田切は残念そうに言った。
慎吾は答えなかった。
老夫婦のタイヤは古かった。
バッテリーも性能が落ち始めていた。
いずれ交換は必要だった。
昨日交換したこと自体は、間違いではない。
事故を未然に防いだとも言える。
それでも、夫が最後に言った言葉が耳に残っている。
――久世さんが言うなら、お願いします。
小田切が慎吾の顔をのぞき込む。
「何ですか、その顔」
「いえ」
「客も納得したんですよね?」
「はい」
「安全にもなった」
「はい」
「店の売上にもなった」
「はい」
小田切は両手を広げた。
「誰も損してないじゃないですか」
慎吾は膝の上で手を組んだ。
「そうですね」
「だったら、今日も同じようにやってくださいよ」
小田切は別の資料を慎吾へ差し出した。
整備士別追加売上一覧。
三浦の名前が、一番下にあった。
「今日から三浦君にも、一台十五万」
慎吾は資料を見る。
「三浦君は、まだ二年目です」
「二年目だから何です?」
「お客様への説明を、もう少し経験させてから――」
「経験させるために、やらせるんだよ」
小田切は笑顔のまま言った。
「久世さんができたんだから、部下にもやらせてください」
■2
午前十一時。
一台の軽自動車が、オイル交換のために入庫した。
車体は古いが、走行距離は少ない。
三浦が点検を終え、タブレットを持って慎吾のところへ来る。
「久世さん」
「どうでした?」
「オイルとフィルターだけで大丈夫です」
慎吾は点検結果を確認した。
タイヤ。
バッテリー。
ブレーキ。
ワイパー。
いずれも問題はない。
慎吾は整備士別売上一覧を思い出す。
三浦、一台十五万円。
「何か、提案できるものはありませんか」
自分の口から出た言葉に、慎吾自身が違和感を覚えた。
三浦も少し驚いた顔をする。
「特には」
「コーティングは?」
「半年前に施工しています」
「エアコン洗浄」
「臭いもありません」
「バッテリーは?」
「正常です」
慎吾はタブレットを見る。
何度見ても、売るものはなかった。
三浦が小声で尋ねる。
「小田切店長から、何か言われました?」
慎吾は顔を上げた。
「一台十五万円と言われています」
三浦は苦笑した。
「この車でですか?」
「はい」
「無理ですよ」
「……そうですね」
二人はしばらく黙っていた。
整備工場の奥で、インパクトレンチの音が響く。
三浦が言う。
「オイル交換だけで返します」
慎吾は反射的に周囲を見た。
事務室の窓から、小田切がこちらを見ている。
「待ってください」
三浦の足が止まる。
慎吾はタブレットを持ったまま、何を言うべきか考えた。
昨日、自分は売った。
交換しても間違いではないものを選び、いつもより不安を強く伝えた。
その結果、十五万円になった。
自分だけが一度数字を作り、部下には正しい整備をしろと言えるのか。
「……念のため、下回りをもう一度見てください」
三浦は慎吾を見る。
「分かりました」
その返事に、いつもの信頼はなかった。
■3
午後一時。
慎吾と三浦は、軽自動車の下を見上げていた。
異常はない。
錆も年式相応。
今すぐ処置が必要な状態ではなかった。
三浦が言う。
「やっぱり、何もないです」
「そうですね」
「これで十五万は無理です」
慎吾は答えられなかった。
そこへ小田切がやってきた。
「どう?」
三浦が立ち上がる。
「オイルとフィルターの交換だけで問題ありません」
小田切は車体の下をのぞいた。
「下回り、錆びてるじゃん」
「表面だけです」
「防錆できるだろ」
「今すぐ必要な状態ではありません」
三浦が答える。
小田切は慎吾を見た。
「久世主任」
「はい」
「教育、どうなってるの?」
「確認したうえでの判断です」
「三浦君に聞いてない」
小田切は慎吾の目を見る。
「主任に聞いてる」
慎吾は口を閉じた。
小田切はゆっくり立ち上がる。
「部下に数字を作らせるのも、主任の仕事だから」
「ですが、この車には――」
「ないなら、作ればいいだろ」
■4
慎吾は小田切を見る。
小田切は工場の奥へ歩いていった。
工具棚の下にある、鍵のかかった引き出しを開ける。
中から、丸めた黒い靴下を取り出した。
小田切は靴下の先を掌へ落とす。
硬いものが入っている。
三浦が小さく尋ねた。
「それ、何ですか」
小田切は答えず、靴下の口を少し開いた。
中には、白いゴルフボールが入っていた。
慎吾は意味を理解できなかった。
「……何に使うんですか」
小田切は軽自動車の横へ立つ。
靴下の端を握り、車体のドアを見た。
「こういう丸いへこみなら、飛び石や雹でも説明できる」
慎吾の顔から血の気が引いた。
「待ってください」
小田切は振り返る。
「何?」
「それで叩くんですか」
「一発じゃ足りない」
小田切は何でもないことのように答えた。
「何か所か作る。写真を撮る。修理見積もりを出す」
「お客様の車ですよ」
「だから直すんだろ」
小田切は三浦へ靴下を差し出した。
「やって」
三浦は受け取らなかった。
「聞こえなかった?」
小田切の声が低くなる。
三浦は慎吾を見る。
小田切は靴下を三浦の胸へ押しつけた。
「主任からも言ってやってよ」
「三浦君」
慎吾が呼ぶ。
三浦の手が、恐る恐る靴下へ伸びる。
「目立たないところでいい」
小田切は車体を指差した。
「最初は軽く。へこみが足りなければ、もう一度」
三浦は靴下を握ったまま動かなかった。
慎吾は、その手から靴下を取り上げた。
「これは、何なんですか」
小田切は顔をしかめた。
「さっき説明しただろ」
「そうではなくて」
慎吾は、靴下を見た。
使い古されている。
今日初めて用意されたものではない。
「これまでにも、使っていたんですか」
工場が静かになった。
小田切は答えなかった。
その沈黙だけで、十分だった。
慎吾は靴下を作業台へ置いた。
「三浦君。作業に戻ってください」
小田切の表情が消える。
「久世さん」
「この車は、オイルとフィルターだけ交換します」
「何、勝手に決めてるの?」
「点検結果です」
「俺は店長だよ」
「私は整備主任です」
慎吾の声は、自分で思っていたより小さかった。
だが、工場には十分響いた。
作業をしていた整備士たちが、こちらを見ている。
小田切は慎吾へ近づいた。
「整備主任なら、数字を作れ」
「故障していない車を壊すことはできません」
「壊すんじゃない。修理する理由を作るんだ」
「同じです」
小田切の顔が赤くなる。
「昨日は十五万売ったよな?」
慎吾は何も言わない。
「自分は客の不安を煽って売ったくせに、今日は正義の味方?」
その言葉が刺さった。
慎吾は昨日の老夫婦を思い出す。
自分を信用し、十五万円を払った二人。
昨日の自分は、本当に客のためだけに勧めたのか。
答えは出なかった。
小田切は続ける。
「結果を出すためには、部下を動かさなきゃいけないんだよ」
「はい」
「本部は、幹部にその権限を与えてる」
小田切は慎吾の胸を指で押した。
「目標達成に必要な、部下の生殺与奪権を」
慎吾は一歩下がった。
「三浦君にやらせて」
慎吾は三浦を見る。
三浦は青ざめた顔で、二人を見ている。
慎吾は昨日まで、自分がここにいれば部下を守れると思っていた。
上からの無茶な指示を、自分のところで少しでも弱める。
現場が壊れないように調整する。
そのために主任を続けているつもりだった。
だが今、自分が主任であるからこそ、三浦は逃げられずに立っている。
慎吾が命令すれば、三浦は客の車を傷つける。
拒めば、次に小田切から詰められるのは三浦だ。
慎吾はようやく理解した。
自分は部下を守る壁ではなかった。
上からの命令を現場へ届けるための、伝声管だった。
■5
慎吾は胸ポケットから社員証を取り出した。
小田切が眉をひそめる。
「何してるの?」
慎吾は社員証を机の上へ置いた。
「辞めます」
工場が静まり返った。
小田切は一瞬、言葉を失った。
「は?」
「本日付で退職します」
「待て待て待て」
小田切は笑い出した。
「そんな簡単に辞められると思ってるの?」
「手続きはします」
「主任だぞ?」
「はい」
「部下はどうするんだよ」
慎吾は三浦を見る。
三浦は何も言わない。
慎吾は答えた。
「私が残っても、守れません」
「何を格好つけてるんだよ」
小田切は机を叩いた。
「昨日は売っただろ!」
「はい」
慎吾は否定しなかった。
「だから、昨日の自分も正しかったとは思いません」
「客は納得したんだろ!」
「それでもです」
小田切は慎吾の社員証をつかみ、投げ返した。
社員証は床へ落ちた。
「拾えよ」
慎吾は動かなかった。
「拾って仕事に戻れ!」
慎吾は、小田切の顔を見た。
怖くないわけではなかった。
この先の生活も、再就職も、貯金も不安だった。
三十九歳。
整備士以外の仕事をしたことはない。
主任を辞めれば、今より条件のいい職場に入れる保証もない。
それでも慎吾は、床の社員証を拾わなかった。
「それは、修理ではありません」
慎吾は頭を下げた。
「お世話になりました」
そして工場を出た。
■6
午後七時。
慎吾は自宅のパソコンで、求人サイトを眺めていた。
自動車整備士。
整備主任候補。
サービスマネージャー。
どの求人にも、似たような言葉が並んでいる。
慎吾は画面を下へ送った。
次の会社。
その次の会社。
どこも同じに見えた。
スマートフォンが振動する。
三浦からのメッセージだった。
『今日は、すみませんでした』
慎吾はしばらく画面を見る。
『三浦君は悪くありません』
そう入力し、送信する。
すぐに返信が来る。
『これから、どうするんですか』
慎吾は答えられなかった。
パソコンの横には、昔買った旅行雑誌が置かれていた。
表紙には、赤い荒野を走る大型四輪駆動車。
慎吾が二十代のころから、一度乗ってみたいと思っていた車だった。
仕事が落ち着いたら。
貯金ができたら。
役職が上がったら。
そう考えているうちに、十年以上が過ぎていた。
慎吾は旅行雑誌を手に取った。
ページを開く。
雲ひとつない青空。
どこまでも続く一本の道。
慎吾は求人サイトを閉じた。
「……もう、どうにでもなれ」
航空券を検索する。
帰国したあとのことは、帰国してから考えればいい。
慎吾は、オーストラリア行きの予約ボタンを押した。




