第三十七話 二つの理由
西の空は今まさに太陽が沈もうとし、東の空は夜の闇が顔を覗かせていた。
私はというと手すりによりかかり、ぽつぽつと明かりがつき始めたレーレンの街を見下ろしている。
平原の真ん中だというのに盛り土をしているのか、案外レーレンには街の中でも高低差がある。
私がいるのもそういった景観を求めて出来上がった台地である。
勝手にため息が出る。
頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。
解呪の儀式はできない。レーレンからも出るな。そんなバカな話があってたまるか。
掴みかけていた光が、手のひらをすり抜けてどこかに消えてしまった。
『人間とは実に愚かな生き物じゃのう』
ふわりと、アーニャが手すりの上に降り立った。実体がないからこそできる、重力を感じさせない動きだ。
『権力がなんじゃ立場が何じゃと内輪揉めをして、他人の足を引っ張ることしかできん』
「かもね。今日ばっかりは反論できないわ」
呆れ果てた口ぶりのアーニャに、私は肩をすくめることしかできない。
いつもなら憎まれ口だろうが何だろうが叩けたけど、今はダメだ。今すぐベッドに潜りこんで、毛布をかぶりたくなるほど心が弱り切っている。
デーモンが付け入るには、またとない絶好の機会だ。
アーニャは真っすぐ私のことを見る。
『まったく。おぬしらしくもない。まあ良い。人間どもは脆弱じゃからのう。で、どうするのじゃ?』
どうするって何を?
アーニャはぴくりと器用に眉を片方だけ動かすと、
『このまま黙って従うのか、と聞いておる』
おいおいおいおい。あのねえ、聞くまでもないことだっての。
「そうするしかないでしょ。まさか本当に大聖堂を襲撃するわけにはいかないしね……おい、意外そうな顔するのやめてくんない?まるで私が何でも暴力で解決するように思われるじゃん」
『すまんすまん。しかし良いのか?』
アーニャはなおも問う。笑み一つ浮かべず、らしくもない真剣な表情で。
なんだこいつ、しつこいぞ。ちょっとイラっとする。
「仕方がないって言ってんだけど。宗教騎士団とか教会ってのは結局のところ、こういう権力とか力関係が絡んでくるのよ。私みたいな不良神殿騎士じゃ抗うことすらできないようなのが」
それが嫌でここを離れたというのに。
『おぬしがそう言うなら構わん。好きにせい』
あっそ。言われなくとも。
『ただ――わっちは、らしくないと思ったまでじゃ』
アーニャの射抜くような視線から逃げるように顔を背けた。
一瞬息が詰まってしまった。
私らしくないなんて自分が一番わかっている。わかっているけど、自分の我を通せる話と通せない話がある。
ただの幻覚がとやかく言う話じゃない。
……とやかく言う話じゃないけど……。
私が口をつぐむとアーニャもそれ以上言ってはこなかった。
二人並んでレーレンの街を見下ろす。
とても静かだ、
風が流れ、草を揺らす音しか聞こえない。
「どうしてラグナデナンで冒険者しているのか、って前に訊いたよね」
気が付けば、私の口からそんな言葉が転がり出ていた。
アーニャはびっくりしたように目を大きくすると、
『んぬ。はぐらかされたがの』
「簡単な話よ。異教徒と戦うのが虚しくなっただけ」
我に返ったとも言う。
「私が最後に従軍したのは、北の異教徒たちとの戦い――改宗の名目で行った北伐よ。まあ結果は大敗したけどね」
『あの爺の坊主が言うておった橋の大立ち回りの時かや?』
私は頷いて返す。
「自分たちの土地を守るため、老若男女問わず武器を取った異教徒。片や異教徒は人にあらずの考えで暴れた私たち。橋をぶっ壊して一息ついたとき、正しい行いをしたのはどっちだったのかなって思っただけ」
夜の闇がじわじわと広がっていくレーレンの街に、背を向けた。
「そのことを考えて、考えて、考えて。気が付いたら騎士団を飛び出してた」
それから私は手すりにもたれかかり、しゃがみ込む。
「騎士団を飛び出して冒険者組合の門を叩いて勇者と出会い、そして別れた」
ため息とも言えないような細い吐息が漏れる。
「私の選択は正しかったのかな?」
見上げると、アーニャは柔らかく暖かな笑顔を浮かべていた。同時に、私のことなど全て見透かしているようでもあった。
『デーモンのわっちが言うのもなんじゃが……正しい選択をしたと思いんす』
穏やかな声音に心が落ち着くのがわかる。
正しい選択。私はただ、この言葉を誰かに言って欲しかったんだ。
『この数か月、憑いていてわかったんじゃが……お人好しのおぬしには神殿騎士など似合わん。気ままな冒険者が似合っておる』
「さいですか」
神殿騎士は似合っていない……か。
嬉しいような嬉しくないような。どちらにせよ、信仰は捨てられないから素直に受け取れやしないけどね。
いきなりアーニャは厚みのない胸の前で、ポンと両手を合わせた。
『そうじゃな。せっかく教えてくれたんじゃ。レティには言うておこう』
「何よ、改まって」
アーニャは手すりを蹴ると、飛び立った鳥が残した羽毛のように、ふわりふわりと私の前へと降りてきた。悪戯を黙っている童の瞳と、同じ瞳をしている。
『おぬしはわっちが解呪を楽しみにしているようだと言ったが、その通りじゃ。わっちはおぬしら人間どもに、レベルドレインが解呪されることを願っておる』
想像すらしたことのない話だった。
浮かぶのは単純な疑問だ。
願っている?なぜ?
『そもそもわっちらデーモンは死なぬ。肉体は滅びても魂は元の世界に戻る。よって、本当の意味では死なぬ。しかし、わっちにはそれが叶わぬ。こうしておぬしに憑いておるからじゃ』
待って、いきなりのことで話が見えない。
だが、アーニャは私のことなどお構いなしに喋る。
『呪われたのはおぬしだけではない。レベルドレインを解呪せぬ限り、わっちは元の世界に帰れぬ。そして、おぬしが死んでも帰れぬ。滅ぼしたものと滅ぼされた者の一蓮托生。これがデーモンの将としての責務なのじゃ』
頭が理解しようとすることを諦めた。
理解するしないの問題ではないと気づいたからだ。
『おぬしが力を取り戻したいのと同じくらい、わっちも元の世界に戻りたい。それがレティにはわかるかや?』
西日が赤く眩しい。
アーニャは、今にも泣きだしそうなほどの笑顔を浮かべていた。
悠久の時が流れたのかと錯覚するほど、長い沈黙があった。
「いいわ。信じる」
沈黙を破ったのは短い私の肯定。
アーニャは意外そうに、
『素直じゃな。どういう風の吹き回しじゃ?』と尋ねる。
私は軽く肩をすくめる。
「否定しても仕方がないでしょ。つまり共同戦線ってことね。神殿騎士とデーモン、水と油だけどまあいいでしょ」
それに、アーニャが私を騙しているとは到底思えないしね。
『くっくっくっ。話が早いの』
アーニャは満足そうに喉を鳴らす。案外、事実とも疑わしい荒唐無稽な話を信じてもらえるか、自信がなかったのかもしれない。
『じゃから、わっちは解呪を止めん。しかし、同時にどれほど徳を積んだ坊主が集まったとて、人の身で解呪できるとも思えん』
「ふぅん。あまり人間を舐めないでもらいたいわ」
『わっちを倒したのは人間ぞ。今さら舐めてかかる気はありんせん。事実を言うたまでじゃ』
アーニャはそこで言葉を切ると、
『もっとも、人が持つ思いの力で呪いを断ち切れるというなら別じゃがな』
大衆演劇でも聞かないような陳腐な台詞に、思わず吹き出してしまう。どこで覚えたのよ、そんな台詞。
『むぅ……』
アーニャは唇を尖らせると、。不満げに吐息を漏らす。
ごめんごめん。馬鹿にするつもりはないんだって。
『んぬ。見なかったことにしんす』
今の仕草が芝居だったと気づいたのは、笑いを噛み殺すように咳払いをしたからだ。
「ま。大聖堂に襲撃はしないとしても、直談判……じゃない誠意を込めて話し合いに行こうじゃないの」
『明日にでもかや?』
「もちろん」
『グレートソードを担いでかや?』
「もちろん」
今度は噛み殺そうとはしなかった。二人して肩を揺らす。
『そうじゃ。ちょうどいい。この際じゃから聞いておく。おぬしはその腕がどうやって手に入ったのかを覚えておるか?』
私は視線を落とす。袖と革手袋で隠れている翡翠色の義手。目が覚めたらパーティーメンバーに無許可でくっ付けられていた義手だ。
「さぁ?覚えてないけど……ダンジョンの宝箱とかからじゃないの」
やっぱりか、とアーニャはつぶやく。そして、告げる。
『その腕はわっちの腕じゃ』
「は?」
思わず訊き返してしまった。つまりアークデーモンの所有物ってこと?
アーニャは首を横に振った。
『違う。文字通り、わっちの腕じゃ。翡翠のデーモン、アニェ・イェルセャニェ・ア・ロマドゥヤ。その腕を通して、わっちとおぬしは深い所で一つでありんす』
私は無意識に袖を捲り、再び視線を落としていた。背筋を何か冷たいものが這いずり回る。
『レティよ、そのことをゆめゆめ忘れるでないぞ』
その時浮かべたアーニャの表情は、私の左腕を斬り飛ばしたアークデーモン、まさにそのものであった。
空の端には一片の欠けもない月が浮かんでいた。今宵は満月だ。
次章につづく




