第94章:それぞれのお金の使い方
第94章:それぞれのお金の使い方
冬の刺すような寒風が和らぎ、ライネス川の氷が微かに解け始めた頃。
全国規模への事業拡張、新株発行、そして株式分割を経て、六倍もの暴騰を記録したルーセン証券取引所は、空前絶後の好景気という名の熱狂に包まれていた。
そして何より、セルセデス3世による国債買い戻しが成立したことで、国家を実質的に買収してしまった恐怖の重圧から、ハインリヒ大公は見事に生還を果たしたのである。
高台にそびえ立つ領主邸。その大広間の暖炉の前で、ハインリヒ大公は正妻のエレノア夫人、そして二人の子供たちを前に、事の顛末を穏やかな口調で語り聞かせていた。
「……というわけなのだ。国王陛下が我が保有する国債を四十パーセント買い戻してくださった。これによって、我が保有比率はわずか十パーセントの安全圏へと下がり、国家転覆の大逆罪に問われるような筋合いは金輪際なくなったのだよ」
「まあ……! まあまあ、あなた……っ!」
エレノア夫人は胸元で十字を切り、大粒の涙を流しながらソファーへと崩れ落ちた。
「本当に……本当に良かったですわ! 一時はどうなることかと……毎夜毎夜、近衛兵の軍靴の足音に怯えて、生きた心地がいたしませんでしたもの!」
「母上、僕たち、処刑されないんだね!」
「よかったぁ、お父様大好き!」
子供たちも大公の膝にしがみついて歓声をあげる。一家全員を苛み続けていたあの「ガクブルの夜」は、完全に去ったのだ。
しかも――大公の手元には、新株の暴騰によって以前を遥かに凌駕する莫大な純利益と、国債を売却した本物の金貨の山がそっくりそのまま残されていた。
首が繋がり、なおかつ天文学的な富が手元にある。
精神的な平穏を取り戻した大公は、髭を整え、実に気前よく笑みを浮かべた。
「さて、エレノア。生き残った祝いだ。この金を使って、我が領主邸の敷地内に、ある特別な離宮を造ろうと思う」
大公が目を向けたのは、迎賓館で優雅にお茶を啜っていた水と氷の女神、ヒュドールであった。
大公が胃潰瘍で死なずに済んだのも、家庭崩壊の危機を乗り越えられたのも、すべてはこの美神の神性加護があってこそである。
大公はカロンへ特注の設計図を発注し、領主邸の広大な裏庭に、驚くべき新建築をわずか数週間で造り上げた。
敷地を流れる清らかな水脈を引き込み、カロン・スチールの精密ノズルによって虹を描く「魔導超豪華噴水」。
庭園の中央をサラサラと音を立てて巡る、玉砂利を敷き詰めた人口の清流「せせらぎの小川」。
夏でも冬でも常に一定の冷涼な室温を保つ、カロン・クール完備の白亜のガラス宮殿である。
そして極めつけは――帝都グランツの最高級ホテルと王立厨房から、三倍の年俸で引き抜いてきた「宮廷専属パティシエ」三名の常駐雇用であった。
「ヒュドール様。貴女様のために、この『水氷の甘味離宮』を捧げます。ここでは二十四時間、いつでも作りたての極上スイーツが提供されますぞ」
大公の案内を受けたヒュドールは、アイスブルーの瞳をかつてないほど爛々と輝かせた。
目の前の銀の三段トレイには、専属パティシエが腕によりをかけて仕上げた、搾りたての山羊ミルクを使った純白のジェラート、氷の彫刻のように繊細な飴細工のタルト、そして冷たい果実のムースが所狭しと並んでいる。
ヒュドールは銀のスプーンでジェラートを口に運び、細い指先を頬に当ててうっとりと身悶えた。
「……ん……素晴らしいわ、大公様! 舌の上で淡雪のように溶けていくこの温度、そして清らかなせせらぎのせせらぎの音……。天界の退屈な雲の上よりも、何千倍も優雅で甘美な楽園ですわ!
いつでも好きな時に、誰にも気兼ねせずパフェやソルベが食べられるなんて……わたくし、地上へ降りてきて本当によかったわ!」
冷徹なクールビューティーの仮面をかなぐり捨てて大喜びするヒュドール。
大公は満足げに頷き、強靭化された胃袋をポンと叩いた。
神のご機嫌取りと資産の有効活用。これ以上ないほどに完璧な「お金の使い方」であった。
一方、ルーセン中央区の冒険者ギルド本部。
今や単なる地方の一拠点ではなく、帝国全土五十都市の支部を束ねる「株式会社冒険者ギルド」の総本部となったその大講堂には、異様な緊張感が張り詰めていた。
壇上に立っていたのは、真新しい純黒の最高級ウール仕立ての隊長服に身を包んだ男――ギルバートであった。
しかし、その屈強な巨躯は、生まれたての小鹿のように小刻みに震えていた。
(お、おいおいおい……勘弁してくれよ……)
ギルバートが見下ろす講堂のフロアには、帝都支部の支部長、北の大要塞のギルドマスター、南の港湾都市の歴戦の古豪たち――かつてギルバートが若き冒険者だった頃、雲の上の存在として仰ぎ見ていた大陸屈指の猛者たち総勢五十名が、直立不動で整列していた。
彼らの視線は、畏怖と敬意に満ち満ちている。
ルーセンギルドの全国組織化に伴い、筆頭株主にして初代最高責任者となったギルバートの役職は、いまや一介の支部長ではない。
帝国全土の全冒険者、全警備輸送部隊の頂点に君臨する――『帝国グランド・ギルドマスター(最高総裁)』となっていたのだ。
しかも、株式暴騰により、個人資産は帝都の大富豪すら裸足で逃げ出すレベルの大金持ちである。
「え、えー……コホン!」
ギルバートは咳払いをし、震える声でマイクを握った。
「ぜ、全国からよく集まってくれた……! これより、我がギルド株式会社の……第一回・全国支部長会議を執り行う! 各支部の装備はすべてカロン・スチールの最新式に刷新し……全ギルド員の退職金基金も設立する! つ、ついては……仲良くやろうじゃねえか……!」
壇上のギルバートが脂汗を流しながら挨拶を終えると、全支部長が一斉に右拳を左胸に当て、地鳴りのような敬礼を返した。
「「「グランドマスター・ギルバート閣下に忠誠をッ!!」」」
その圧倒的な威圧感に、ギルバートの膝がガクガクと音を立てる。
そんな哀れな最高権力者の背中を、壇上の幕の隙間から眺めていた人物がいた。
「――ぶはっ! ぎゃははははっ!」
豪快な哄笑を漏らしていたのは、赤髪を逆立たせた炎の神、イグニであった。
手には、ギルバートの奢りで手に入れた帝都秘蔵の百年熟成ウイスキーの樽を丸ごと抱えている。
「見ろよあいつ! 熊みたいな図体しといて、部下が五十人並んだだけで生まれたてのヒヨコみたいに震えてやがるぞ! 傑作だな、おい!」
イグニは樽から直接黄金の美酒を喉へと流し込み、ぷはぁーっと火の粉混じりの息を吐き出した。
「まあいいや! ギルバートが大金持ちの最高総裁になったおかげで、俺の酒代は一生涯タダになったからな! 毎日極上の蒸留酒が浴びるほど呑めるんだ、文句なんかあるわけねえ! ガハハ、もっと震えろギルバート!」
神の付き人(財布)が出世したことを、荒神はこれ以上ないほどに満喫していた。
同じ頃、新工房区の拡張エリアの一角では、華やかなトランペットのファンファーレが鳴り響いていた。
『ゲオル商会・新本社メガタワー(三十階建て)起工式』。
カロンが設計した、ルーセン工科大学タワーを凌駕する天高百二十メートルの超高層免震オフィスビル。
その建設予定地の壇上には、仕立ての良い真紅のドレスをまとったマリアベルが、黄金のスコップを手にして立っていた。
「これより、ゲオル商会は大陸全土の商業、金融、そして高速道路輸送を統合する、真のコングロマリットへと飛翔いたしますわ!」
盛大な拍手の中、鍬入れを行うマリアベル。
彼女の目は、すでにこの街の枠を遥かに越えた地平を見据えていた。
帝都だけでなく、高速道路が延伸される全主要都市にゲオル商会の大支店と銀行局を同時開設し、道路沿いの全サービスエリアの商業利権を一手に掌握するための「全土巡幸キャラバン」の準備が、すでに完璧に整えられていたのである。
「カロン。貴方の創るインフラの上を、私の商業帝国が駆け抜けてみせますわ」
美貌の女傑は、自信に満ちた妖艶な笑みを浮かべていた。
熱狂は、職人や学者たちの世界にも、極めて健全かつ豪快な形で還元されていた。
新工房区の東側、ライネス川の清流を望む広大な敷地。
そこに立ち並ぶ真新しいレンガ造りの巨大な工場を見上げていたのは、熟練鍛冶師の父ガイル、そしてガロニア鍛冶ギルドのバログ大親方であった。
「見たか、ガイル! 儂らの夢の城が、とうとう形になり始めたぞ!」
バログ大親方が分厚い胸を叩いて叫ぶ。
二人が手にした株の売却益で立ち上げたのは、最新の魔導発酵タンクと冷却配管を完備した、大陸最大規模の『ルーセン・ガロニア合同醸造所』であった。
ガロニアの職人たちも総出で賛同したこの大プロジェクト。目的はただ一つ――ルーセン特産の「白ビール」と「高級ワイン」の生産量を十倍に引き上げ、自らそのオーナー(大株主)となることであった。
「おうよ、大親方! ガロニアの溶鉱炉で喉をカラカラにしてる若い奴らに、毎日美味いビールをたらふく飲ませてやるんだ! カロンの息子に言われて株を買っておいて、本当に大正解だったぜ!」
ガイルは満面の笑みを浮かべ、さらに敷地の隣に新築中の一軒家を指差した。
「それに大親方、俺はあの醸造所の隣に、カロンの母貴……フラウをガロニアから呼び寄せるための新しい家も建ててるんだ」
「ほう! フラウの義妹を呼ぶのか!」
「ああ。ガロニアの中央工房も軌道に乗ったし、これからは夫婦水入らずで、このルーセンで暮らそうと思ってな。……まあ、一番の目的は、仕事終わりに醸造所へ忍び込んで、出来立ての生ビールを毎日試飲三昧することなんだがな! ガハハ!」
「違いないわい! 儂も毎日通い詰めてやるぞ!」
二人の親方は肩を組み、未来の酒浸り生活を夢見て高笑いを響かせていた。
その頃、工科大学タワーの四階「応用生物・農芸化学科」の研究室では、マルクス学部長が目の色を変えて分厚い機材カタログをめくっていた。
「よし……オートクレーブ(高圧蒸気滅菌器)をあと五台追加! 超遠心分離機と、低温恒温インキュベーターも各研究室に二台ずつ配備だ!」
マルクスの手元には、新株の高騰によって手に入れた、前世の文部科学省の大型研究助成金すら子供のお小遣いに見えるほどの巨額の研究資金があった。
「先生、本当にこんなに買ってよろしいのですか?!」と目を丸くする学生助手たちに、マルクスは胸を張って言い放った。
「何を言っているんだ! 道具を惜しんで科学の進歩が止まることこそ最大の損失だ! それに、君たち全員の月給も来月から三倍に引き上げる! 優秀な博士課程の学生も帝都から十名スカウトした!
金なら唸るほどあるんだ、人件費も機材費も一切心配するな! 我が研究室は、今年中に抗生物質ペニシリンの全土量産プラントを完成させるぞ!!」
「「「マルクス教授、万歳ッッ!!」」」
研究室に歓喜の雄叫びが木霊する。潤沢な研究費を手に入れた理系教授ほど、頼もしく恐ろしい存在はなかった。
一方、材料工学の実験棟では、ボルト副学長が屈強なドワーフ研究員たちを前に、机の上に並べられた眩い金属塊の数々を愛おしそうに撫で回していた。
純白に輝く『ミスリル鋼材』。
神話の黄金の輝きを放つ『オリハルコン鋼材』。
深紅の熱を内に秘めた幻の神鋼『ヒヒイロカネ鋼材』。
そして、高純度の金鋼材と銀鋼材のインゴットの山。
「ふ……ふふふ……。学者人生五十余年、まさかこれらの伝説の超希少金属を、グラム単位ではなく『トン単位』で大人買いできる日が来ようとはのう……!」
ボルト副学長は丸眼鏡を押し上げ、恍惚の表情を浮かべていた。
手元の通帳には、退職金どころではない莫大な株式利益が眠っている。
「カロン学長が鉄とコンクリートで世界を変えたなら、ワシはこの神鋼合金によって、魔法すら跳ね返す究極の複合マテリアルを創り出して見せるぞい! 炉に火を入れろ! 今日から徹夜で配合実験じゃ!!」
老教授の知的好奇心にも、無限の燃料が投下されていた。
富の循環は、街の日常を守る人々のもとへも、温かな光となって降り注いでいた。
領主邸の一角、執事長の執務室。
老執事セバスチャンは、机の上の書類を整然と片付け、真新しい最高級ウールの執事服の袖口を誇らしげに正していた。
長年、主のハインリヒ大公の胃潰瘍と赤字財政に胃を痛め、古紙の裏紙をメモ帳にして節約を重ねてきた苦労人。
そんな彼の手元には、大公の好意で分けてもらった高速道路株とギルド株の配当金、そして分割によって跳ね上がった莫大な個人資産が、しっかりと銀行局に預金されていた。
「ふぅ……。帳簿の表紙を純金箔張りに新調しただけでなく、私め自身の服まで新調できるとは……」
セバスチャンは温かい紅茶を啜り、静かに目を細めた。
「大公閣下の国債の危機も無事に去り、ルーセンの財政は向こう百年間揺らぐことはない。……よし、この残りの資金は、これからの老後の蓄えとして銀行局の手堅い定期預金に預けておくことにいたしましょう。……長生きは、してみるものですねぇ」
老執事の穏やかな笑顔には、重圧から解放された者だけが持つ、深い安らぎが宿っていた。
その頃、東門の警備騎士団本部。
隊長室のデスクで、ガース卿は一枚の羊皮紙を両手で押し戴き、感無量といった面持ちで涙を滲ませていた。
手紙の主は、故郷クロル村の父親――村長からであった。
『――愚息ガースへ。
送られてきた金貨五百枚と、最新の魔導耕運機、並びにカロン様謹製の強化鋤の数々、確かに受け取った。
村の老朽化した納屋と全戸の家屋は、お前の送ってくれた資金により、立派なコンクリート土台の瓦屋根へと建て替えが始まった。村人全員が、お前を「クロル村の誇り、救国の騎士様だ」と涙を流して拝んでおるぞ……』
「親父……!」
ガース卿は手紙を胸に抱きしめ、天を仰いだ。
さらに、カロンから極秘裏に知らされた情報によれば、第二期高速道路の延伸ルートにおいて、このクロル村のすぐ脇に「クロル・インターチェンジ(IC)」が建設されることが正式決定していた。
「よし……! 来月には、大学製の小型EVを一台購入して村へ送る手配をしよう。今度の里帰りの休暇には、親父や村の若い衆に車の運転講習を開いてやるんだ。……村が、豊かになっていくぞ……!」
若き騎士の胸には、故郷への恩返しと未来への希望が、熱く燃え盛っていた。
そして――中央区の閑静な住宅街。
エルフの美女リアリスが暮らす一軒家でも、大きな環境の変化が起きていた。
リアリスは、手に入れた莫大な株式益を元手に、これまで賃貸で借りていたこの庭付きの一軒家を、土地ごと丸ごと買い取って完全な自己所有としていた。
さらに、故郷たるルートリード皇国のエルフの郷『エレノア』へと早馬を飛ばし、愛する母のリリスをこのルーセンへと正式に呼び寄せていたのである。
「カロンの近くにいた方が安全だし、何よりこの街には美味しいものも、温かいお風呂も、便利な電化製品も何でも揃っているもの。お母様にも、この快適な暮らしを味あわせてあげたいわ」
母娘がシルフ神と共に三人で暮らすための準備。
……しかし、そのためには一つだけ、物理的に解決しなければならない「深刻な問題」が存在していた。
ドォォォォンッ!
リアリスの家の周囲をぐるりと取り囲むようにして、高さ五メートル、厚さ五十センチにおよぶ、カロン・スチール鉄筋入りの「巨大コンクリート防護壁」が、ドワーフたちの手によって急速に組み上げられたのである。
「シルフちゃーーん! 壁の向こうのお姿を見せてくださーーいっ!」
「シルフ様ーー! お慕いしておりますぅぅっ!」
相変わらず外の通りを埋め尽くしている、狂乱のエルフ巡礼団「シルフちゃんLOVE」の集団。
彼らの熱狂的な視線と突入を完全にシャットアウトし、家族と幼女神のプライベートな聖域を守るための、文字通りの「絶対防壁」であった。
防壁の内側の庭園。
木漏れ日が差し込むテラス席のテーブルの上には、リアリスが街中の高級パティスリーから買い集めてきた、色とりどりの特製アイスクリームのカップが十個以上も並べられていた。
「シルフ様、今日のおやつは、エレン山麓の特濃バニラと、森の完熟ブルーベリーのマーブルアイスですわよ」
「わぁぁ……っ! すっごく綺麗ですぅ……!」
エプロン姿のシルフは、尖った耳を嬉しそうにパタパタと揺らし、小さな銀のスプーンを両手で構えた。
パクリと一口含むと、エメラルドグリーンの瞳がとろけるように細められる。
「おいひい……っ! つめたくて、あまくて……しあわせですぅ……! リアリスさん、まいにちこんなに美味しいアイスをいっぱい食べさせてくれて、本当にありがとうございますぅ……!」
「ふふ、どういたしまして。シルフ様が喜んでくださるなら、私、幾らでも株券を買い増して資産を増やしてみせますわ」
微笑むリアリスと、幸せそうに頬を膨らませる少女神。
防壁の外から微かに響く「シルフちゃーーん!」という歓声を心地よい環境音に変えながら、庭園には穏やかで甘美な時間が流れていた。
午後五時。夕暮れの茜色の光が、二十階建てのルーセン工科大学タワーを美しく染め上げていた。
学長室の広い執務机に向かい、カロンは静かに万年筆を走らせていた。
大公の国債騒動が片付き、街中の仲間たちへ莫大な富が還元された後も――このドワーフの工学者の日常は、何一つとして変わっていなかった。
「学長、ガイゼンの鉱山鉄道に敷設する新型コンクリート枕木の強度計算書です」
「ボルト先生から、神鋼合金の溶解炉に使う超高温耐火レンガの追加発注依頼が来ています」
「東門警備隊から、高速道路パトロール用の高機動EVの配備計画についての相談が……」
次から次へと持ち込まれる、大学、行政、軍事、産業のあらゆる現場からの「Help(助けを求める声)」。
カロンは疲れた顔一つ見せず、それらの書類をテキパキと検分し、的確な数式と指示を書き込んでいく。
前世の五十年の教授経験、そして異世界で培った魔導工学の知恵。
人々が豊かになり、街が発展し、世界が少しずつ前進していく。その巨大なシステムの歯車を、正確に、狂いなくメンテナンスし続けることこそが、中山実――カロンにとっての最大の歓びであった。
(……みんな、手に入れた富をそれぞれ自分の大切なものへと使ってくれたようだな。
大公は家族を守り、ギルバートは組織を束ね、マリアベルは道を拓き、親父たちは夢を追い、マルクスたちは知を深めた。
資本主義が正しく機能し、人々の情熱と結びついた時のエネルギーは、やはり素晴らしいものだ)
カロンが満足げに息を吐き、机の上のブラックコーヒーに口をつけようとした――まさにその瞬間であった。
コンコン。
珍しく、極めて控えめで、どこか遠慮がちなノックの音が響いた。
(……おや? ノックだと……?)
いつもならドアを蹴破るか体当たりで飛び込んでくるはずの「あの人物」の気配。
カロンが怪訝そうに眉をひそめながら「どうぞ」と声をかけると、扉がギギィとゆっくり開かれた。
ぬっと顔を出したのは――
両手に大食堂の焼きたてチョココロネを持ち、上目遣いにカロンの顔色を伺っている黄金の駄女神、メリスであった。
メリスは足音を忍ばせて部屋に入ってくると、カロンの机の前にちょこんと両手を揃えて立ち、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「あ、あのね……カロン……?」
「何ですか、メリス様。珍しく神妙な態度ですね。またカジノで台を叩いて出入り禁止を食らったのですか?」
「ち、違うわよ! カジノのスマート・リミットは、ちゃんと銀貨五十枚で我慢してるわよ!」
メリスは口を尖らせたが、すぐにキョロキョロと部屋の周囲を見渡し、カロンの耳元へ身を乗り出して、声を潜めて囁いてきた。
「……ねえ、カロン。ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
「何でしょう」
「あのさ……最近、街のみんなが噂してる『株』ってやつ……あれ、一体なんなの?」
カロンの背筋に、冷たい電撃が走った。
「……株、ですか?」
「そうよ! ギルバートも、マリアベルも、あのガイルの親父まで、みんな『株が六倍になった!』って叫んで、お屋敷を建てたりタワーを建てたり、信じられないような大金持ちになってるじゃない!
ねえカロン……株って、そんなに儲かるものなの?! もしかして……カジノのスロットで7を揃えるよりも、遥かに割のいいギャンブルなんじゃないの?!」
爛々と輝く碧眼。
獲物を狙う猛獣のように、金とスリルの匂いを敏感に嗅ぎつけたギャンブル狂の瞳。
カロンの脳裏に、かつて闇カジノで金貨五百枚を溶かし、公営カジノで地縛霊と化し、先日は買い食いで市場を六十パーセント暴落させたこの歩く天災の姿が、鮮やかにフラッシュバックした。
(……出た。とうとう、この怪物が資本主義の核心に首を突っ込んできやがった……!)
ここで「そうだ、株は儲かるぞ」などと一言でも肯定しようものなら、明日にはこの駄女神が全財産(とカロンの口座)を担保に信用取引のレバレッジ限界買いをぶち込み、ルーセン証券取引所を木っ端微塵に爆破するのは火を見るより明らかであった。
カロンは表情筋を鉄のように固定し、冷徹極まりない「無表情のポーカーフェイス」を作った。
そして、これ以上なく退屈そうに、あくび混じりの声で告げたのである。
「……ああ、株ですか。あれはね、メリス様。ギャンブルとは正反対の、超地味で退屈な『帳簿の数字合わせ』ですよ」
「え……? 帳簿の数字合わせ……?」
メリスが目を丸くする。
「そうです。分厚い財務諸表の損益計算書を朝から晩まで穴が開くほど眺め、複式簿記の貸借対照表の減価償却費を計算し、工場のセメントの在庫回転率の微分方程式を解き続ける……そういう、気が遠くなるほど地味で面倒くさい数学の作業なんです。
スロットのようにピカピカ光る派手な演出もなければ、コインがジャラジャラ払い出されるスリルも一切ありませんよ」
「げ……! び、微分方程式……?! 複式簿記……?!」
メリスはあからさまに嫌そうな顔をして後ずさった。
前世の理系大学の講義を何よりも毛嫌いする彼女にとって、最も効果的な撃退呪文であった。
「それにね、メリス様。株に手を出すと、毎朝九時から午後三時まで、取引所の硬い木の椅子に座って、何千枚もの伝票の数字を鉛筆で検算し続けなければならないのですよ? パフェを食べに行く時間なんて、一分たりとも取れなくなります」
「い、いやぁぁぁっ! そんなの絶対に嫌よ!!」
メリスは両手で耳を塞ぎ、激しく首を横に振った。
「何よそれ! 全然面白そうじゃないじゃない! ピカピカ光らないし、計算ばっかりでパフェも食べられないなんて、拷問以外の何物でもないわ!
ふん! 私には、毎日上限までスロットを回して、美味しいケーキを食べる生活の方が百倍お似合いよ! 株なんて、あんな退屈な紙切れ、二度と興味持たないんだからねっ!」
メリスはプイッと横を向き、チョココロネを口に咥えながら、ドタドタと足音を立てて部屋から逃げ出していった。
パタン、と扉が閉まり、静寂が戻った学長室。
「………………………………」
カロンは椅子の背もたれに深く身を沈め、両手で顔を覆った。
「……ふぅぅぅぅぅぅぅ……っ」
魂の底から絞り出された、長いため息。
背中の作業着は、冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
(……危なかった……。本当に、間一髪だった……)
神々の奇跡と、近代工学の知恵。
そして、幾多の危機を乗り越えて成熟へと向かう、学園都市ルーセンの資本主義。
その平和と繁栄の天秤は、今日もまた、一人のドワーフ工学者の胃袋と機転によって、紙一重のところで守られたのであった。




