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第95章:国王の思い

第95章:国王の思い


帝都グランツの天を突く王城。その最深部に位置する「国王私室」には、夕暮れの茜色の光がステンドグラスを透過し、豪奢な絨毯の上に幾何学的な影を落としていた。


暖炉には、カロンの提携先であるガイゼン炭鉱から高速道路経由で直送された、最高品質の無煙瀝青炭がパチパチと心地よい音を立てて燃え盛っている。

かつての粗悪な薪のように煙を吹くこともなく、部屋の隅々にまで均一で柔らかな暖気が満ちていた。


ゲスハルト帝国国王、セルセデス3世は、深く腰掛けた革張りの安楽椅子の上で、手元に広げられた分厚い羊皮紙の綴りを、愛おしそうに何度も、何度も指先で撫で回していた。


それは、帝国財務省が今朝方提出してきたばかりの『ゲスハルト帝国・国家総決算最終報告書』であった。


「……ふふ……ふはは……」


静寂の室内に、国王の喉の奥から漏れ出た、抑えきれない笑い声が微かに木霊した。


「信じられん……。何度見直しても、我が目を疑ってしまうわい。……黒字だ。正真正銘、一滴の粉飾も、一時しのぎの架空増税もない……完全なる、天文学的な財政黒字ではないか……!」


セルセデス3世が感涙に咽びながら見つめる帳簿の最終行には、カロンが開発した複式簿記の記法に従い、真紅のインクではなく、美しい漆黒と黄金のインクで、国家の余剰資金残高が堂々と記されていた。


それは、ゲスハルト帝国の歴史が始まって以来、いや、セルセデス3世の曾祖父、祖父、そして先代の父王の代から数百年にわたって王家を苦しめ、首を絞め続けてきた「国家の累積赤字」が、完全に、跡形もなく地上から消滅した瞬間であった。


思い返せば、セルセデス3世の即位以来の王宮生活は、華やかな宮廷劇の裏で、常に「金策」という名の終わりのない泥沼の戦いであった。


(余の代々の先祖たちも、毎夜毎夜、枕元で金貨の不足に頭を抱えておったわ……)


広大な領土を守るための国境軍の維持費。

官僚たちの給与、老朽化する城壁や街道の補修費。

そして、度重なる凶作や魔物の異常繁殖に対する緊急救済金。

どれだけ平民から重税を絞り取ろうと、入ってくる端から支出は膨らみ、帝国財政は常に「赤字の垂れ流し」が当たり前の構造となっていた。


(そして……何より忌々しかったのは、歴代の財務大臣どもだ)


セルセデス3世は、不快そうに眉根を寄せた。

代々の帝国財務大臣といえば、帝都に根を張る名門の大貴族――クロイツァー侯爵をはじめとする、選りすぐりの大貴族たちから任じられるのが慣例であった。


しかし、奴らは揃いも揃って、一癖も二癖もある狡猾な古だぬきばかりであった。

帳簿を複雑怪奇に偽装して国王の目を欺き、国家の予算を自分の派閥の公共事業へと優先的に流し込み、裏で商人たちから巨額の賄賂を受け取って私腹を肥やす。

「陛下、軍備の維持のためには更なる国税の上乗せが必要です」「陛下、南方の治水のためには王室費を削らねばなりません」と、もっともらしい理屈を並べ立てては王権を削り、自分たちの利権を肥え太らせていたのだ。


奴らが財務を牛耳っていたからこそ、国庫は常に底をつき、王家は常に貴族たちへ頭を下げて借金を申し入れねばならないという、屈辱的な力関係が固定化されていたのである。


「だが……それも全て終わったのだ」


セルセデス3世は、窓の外――夕闇に包まれつつある帝都の街並みを見下ろした。

遠く西の地平線からは、白銀のコンクリートで舗装された『帝国中央第一高速道路』が、帝都の西門へと吸い込まれるように伸びている。

あの道の向こうにある、奇跡の学園都市ルーセン。


すべては、あの辺境の街から始まったのだ。


「ふむ……それにしてもだ」


セルセデス3世は手元のグラスを揺らし、琥珀色のブランデーを一口啜りながら、自慢げに口角を吊り上げた。


「ここは一つ、余自身の類稀なる采配と先見の明も、大いに褒めてもらわねばならんな」


国王は独りごちて胸を張った。

あのクーデターが鎮圧された直後、論功行賞の場で、ハインリヒを公爵から大公へと昇爵させ、あまつさえ「帝国宰相」と新設の「初代財務経済大臣」の兼任を命じたのは、他ならぬセルセデス3世自身の直感であった。


(あの時、余の頭の中でカチリと音がしたのだ。『ピンと来た』とは、まさにあの瞬間のことを言うのだな)


当時、ルーセンから上がってくる報告書は、すでに帝都の常識を完全に置き去りにしていた。

水力発電、路面電車、セメント、鉄鋼プラント……。

ハインリヒの領地で流通する経済規模と、そこから生み出される資金量が、指数関数的な勢いで跳ね上がっていた。

さらには、半官半民の金融機関『ルーセン銀行局』なるものが生まれ、あまつさえ『株式』という、平民や商人たちの事業へ広く出資を募り、成長の果実を全員で分かち合うという、前代未聞の制度を次々と立ち上げていた。


その結果として起きたのが――あの衝撃の事態であった。


ルーセン証券取引所の開業と、高速道路の開通。

それによってハインリヒ大公が手に入れた個人資産は、帝都の財務省の官僚たちが卒倒するほどに膨れ上がり、ついにはゲスハルト帝国の年間総予算を単独で完全に上回ってしまったのである。


「あの報告を最初に聞いた時は、余もさすがに肝を冷やしたわい。『一介の領主が、国王たる余よりも金を持っているとは何事だ!』とな」


だが、余は暗愚な暴君のように、感情に任せてハインリヒの領地を没収したり、軍を送って財産を奪うような愚挙には出なかった。

平民の経済が生み出す莫大な富の流れ。それを強権で奪えば、金の卵を産むガチョウの腹を裂くのと同じだと直感していたからだ。


「だからこそ、余はハインリヒを呼び出し、問い詰めたのだ。『金を持ちすぎて良いものか』とな」


そこからの展開は、今思い出しても背筋が寒くなると同時に、思わず膝を叩きたくなるような金融の妙技であった。


最初は、ハインリヒの奴めが「余の借金を肩代わりする」などと言い出し、帝国政府が『国債』なる借用証書を発行し、その五十パーセントをハインリヒが買い取るという話になった。

「これで国の借金が帳消しになり、国庫に金が入る」と喜んだのも束の間――


(よくよく考えてみれば、あれは恐ろしい話であったわ……)


セルセデス3世は苦笑いを漏らした。

後から財務官僚に解説されてハッとしたのだ。

国債を五十パーセント持たれるということは、国家財政の借金の半分をハインリヒ一人に握られたということ。

つまり、国の運営に対し、ハインリヒが国王と同等の発言権と拒否権を持ってしまったということではないか、と。


「あの時は、余も『謀られたか?!』と一瞬青ざめたものだ」


だが――その歪な力関係を、魔法のように一瞬で覆して見せたのが、あのドワーフの小僧であった。


ルーセン工科大学学長、カロン。


「あの学者……若いドワーフではあるが、断じてただ者ではないな」


セルセデス3世は深く溜息をつき、グラスの氷をカランと鳴らした。

カロンが帝都の玉座の間に乗り込んできて提示した次の一手――『第三者割当増資・国家引き受け&国債買い戻し大作戦』。

あの恐るべき知恵の切れ味は、帝都の歴代の老獪な宮廷顧問官たちの知恵を、束にしても足元に及ばないものであった。


『陛下。国債を売って手に入れたその金貨を、ただ金庫に眠らせておいてはなりません。

その資金を使って、全土へ延伸する「帝国高速道路」、全国展開する「ルーセン銀行局」、そして全国組織化する「冒険者ギルド」の新株(増資株)を、国家の名義で丸ごと買い取るのです』


カロンの淀みない説明を思い出す。

国家が筆頭株主となってインフラの権利を買い、信用を付与する。

すると、何が起きたか。


「……六倍だ。信じられんことに、余が買った株の価値が、わずか十日余りで六倍に跳ね上がったのだからな!」


セルセデス3世は玉座の間で報告を受けた日の興奮を、今でも鮮明に思い出せる。

カロンの指示通り、手に入れた新株のごく一部――全体の二割ほどを市場で売却しただけで、国庫には元本を遥かに上回る天文学的な現金利益が転がり込んできた。


そして、その儲かった金を使って、余は何をしたか?


「とっとと、ハインリヒの手元にあった国債を、四十パーセント分、力尽くで買い戻してやったのだ!!」

「ん、よくよく、国債を50%を売ることになったのは、資金がなく株を買うお金がない国へ、

この国債を売ったお金で確実に何倍も上がる株を買わせようとした、あのドワーフの計略か?

そう考えることにする。」


国王は愉快そうに膝を打った。

ハインリヒが握っていた危険な国債五十パーセントのうち、四十パーセントを王室の資金で綺麗サッパリ買い戻した。

その結果――ハインリヒの手元に残った国債は、わずか「十パーセント」にまで激減したのである。


(これで、国家破綻の危機も、ハインリヒによる財政の乗っ取りの懸念も、完全に霧散したわ!)


しかも、だ。

国債を四十パーセント買い戻してもなお、株を売って得た利益は国庫に山のように余っていた。

その余剰資金で、先代や先々代から続いていた王室の旧来の借金をすべて耳を揃えて完済し、帝国の赤字は一瞬にして完全に帳消しとなったのである。


「それだけではないぞ……」

セルセデス3世は手元の帳簿の『配当・金利収入見込み』の欄を指でなぞった。


余の手元には、まだ売却していない高速道路、銀行局、冒険者ギルドの大量の株式が、筆頭株主としてガッチリと残されている。

高速道路からは毎日、トラックやバスが支払う通行料の一部が「配当」として国庫へ吸い上げられる。

銀行局からも、全土の為替手数料と融資利息が「配当」として王室の金庫へ流れ込む。

冒険者ギルドからも、治安維持と護衛輸送の莫大な手数料利益が「配当」として毎年毎年、何もしなくても自動的に振り込まれてくるのだ。


「赤字が消えただけではない……。利息と配当なるもので、無限に国庫にお金が入ってくる仕組みが完成してしまったのだ!

ハハハ! 増税などせずとも、平民を泣かせずとも、国がインフラを握っているだけで金が湧き出てくるのだから、これ以上の打ち出の小槌がこの世にあるかァッ!!」


あの日の謁見の後、余は威厳も王冠もかなぐり捨てて、ハインリヒの手を握りしめて涙を流して喜んだものだ。

国王が臣下の前で号泣するなど、王室の歴史上始まって以来の前代未聞の失態であったかもしれぬが、あの時の込み上げる歓喜と安堵を前にしては、体面など知ったことではなかった。


「……ふふん。それにしても、余の采配の冴えは、あの『十パーセント』の残し方にも表れておるわ」


セルセデス3世は一人、満足げにブランデーを干した。


カロンは当初、「大公閣下の国債をすべて買い戻しても構いません」と提案してきた。

しかし、余はあえて、ハインリヒに国債の十パーセントを持ち続けさせるという決断を下したのだ。


(これには、深謀遠慮があるのだよ)


セルセデス3世の目は、冷徹な統治者としての光を宿していた。

帝都の旧態依然とした貴族ども――先のクーデターで粛清しきれなかった、地方に領地を持つ狡猾で強欲な大貴族どもは、今でも虎視眈々と王権の隙を狙っている。

奴らは、王室が再び財政難に陥れば、すぐにでも群がってきて甘い汁を吸おうとするに違いない。


だが――ハインリヒが国債の十パーセントを握り、帝国宰相兼財務経済大臣の座に就いている限り、どうなるか?


(もし、あのずる賢い貴族どもが、再び国家財政を食い物にしようと悪巧みを仕掛けてきた時……ハインリヒ自身が、自らの十パーセントの債権を守るために、必死になって奴らを叩き潰す盾となるのだ)


ハインリヒにとっても、国家財政の健全化は自身の資産価値に直結する。

貴族どもが好き勝手に予算を横領しようとすれば、ハインリヒが財務大臣の権限をフル動員して奴らの不正を暴き、断固として阻止せざるを得ない。

つまり、ハインリヒに「十パーセントの責任」という名の足枷をはめておくことで、奴を王室の財政を守る最強の番犬として機能させ続けることができるのだ。


「何と素晴らしいことだ。余の手を汚さずとも、ハインリヒが勝手に貴族どもを牽制してくれるのだからな」


そして何より――

ハインリヒという男の性格が、この役回りにこれ以上なくうってつけであった。


(ハインリヒは……根っからの小心者だ)


セルセデス3世は、大公の情けない顔を思い出して吹き出しそうになった。

国債を五十パーセント握っただけで、「儂は国を奪ってしまうのか?!」と青ざめ、毎晩毛布にくるまってガタガタと震え、家族総出でパニックに陥っていた男である。

そんな男が、玉座を奪おうなどという大それた野心を抱くはずが万が一にもない。


「欲がなく、小心で、生真面目で、しかし手腕と後ろ盾だけは大陸最強。……財務を司る者として、これ以上の逸材が世界のどこにおるというのだ?」


余が王座にどっかと腰を据え、ハインリヒが実務の現場で目を光らせ、カロンの小僧が新しい技術と富を次々と生み出す。

この強固なトライアングルがある限り、ゲスハルト帝国の治世は、向こう百年にわたって揺るぎない「黄金時代」を謳歌できるに違いない。

カチ、と置かれたグラスの音が、室内に澄んだ余韻を残した。


セルセデス3世は椅子から立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。

夜の帳が下りた帝都の空には、満天の星々が瞬いている。


「……さて」


国王は、執務机の引き出しの奥から、純白の封筒を取り出した。

封筒の表面には、ルーセン証券取引所の公認印、そして「ゲオル商会・新規公開株(IPO)割り当て優先引受書」の文字が記されていた。


セルセデス3世の口元に、少年のような悪戯っぽい、そしてギラギラとした欲望の笑みが浮かび上がった。


「国債の買い戻しを終え、国の借金を完済しても……余の手元には、まだ売却益の残金たる金貨が、数万枚単位で唸りを上げておるのだ」


使わずに眠らせておくのは愚の骨頂である。

カロンの小僧も言っていたではないか。「金は、成長する産業へと投資してこそ、真の力を発揮する」と。


「次は……あのマリアベルという女傑が率いる、『ゲオル商会』の株だ」


セルセデス3世の頭脳の中で、商人顔負けの冷徹な計算式が弾き出されていた。

ゲオル商会は、高速道路の全線開通に伴い、ルーセンから帝都、さらには全土の主要都市へとその物流網を一気に拡大しつつある。

新工房区には三十階建ての巨大な新本社タワーを建設中であり、帝都の主要な運送会社や穀物倉庫を次々と傘下に収め、大陸中の物資の流通を独占しようとしているのだ。


(あの商会が、今後伸びぬはずがない。カロンの技術を最も早く、最も効率的に金に変えているのは、間違いなくあの女だ)


今、手元にあるこの潤沢な資金を使って、ゲオル商会の株を公募価格で大量に買い集めておけば――

高速道路が全土へ延伸し、商会のメガタワーが完成した暁には、その株価は一体何倍に跳ね上がるのか?


「二倍か? 三倍か? ……いや、カロンの関わる案件だ、また五倍、六倍と跳ね上がるに決まっておる!」


そうなれば、王室の資産はさらに天文学的な領域へと膨れ上がり、帝都の城壁の改修どころか、王宮の全フロアにカロン・クールのエアコンを完備し、庭園にヒュドール様のような巨大な噴水宮殿を建てることすら造作もない。


(イザベラにも、とびきり巨大なダイアモンドのティアラを十個ほど買ってやれば、前回の修羅場の小言も金輪際言わなくなるであろうしな!)


国王の妄想は、地平線の彼方まで留まることを知らずに広がっていった。


「くくく……はははははっ! 本当に、笑いが止まらぬわ!!」


セルセデス3世は執務机へ戻ると、羽ペンをインク壺に浸し、ゲオル商会株の購入指示書に、力強い筆致で自らの王名『セルセデス3世』のサインを書き殴った。


かつて、赤字と貴族の専横に怯え、胃を痛めながら玉座にしがみついていた一国の王は――

いまや、世界で最も裕福で、最も資本主義の果実を満喫する「最強の投資家国王」へと、完全なる変貌を遂げていたのである。


夜の帝都王城に、満足げな統治者の豪快な哄笑が、いつまでも心地よく響き渡り続けていた。

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