第89章:熱狂の立会場と資産五倍の狂宴
第89章:熱狂の立会場と資産五倍の狂宴
冬の澄み渡る冷涼な朝の光が、ルーセン中央大通りの舗装路面を眩い銀色に染め上げていた。
街の真上には、風の主神シルフの恵みによる穏やかな気流が流れ、エレンの丘に立つ三基の風力発電タービンは規則正しい回転音を立てていた。路面電車のレールに沿って設置された魔導街灯が静かに消灯し、朝の訪れを告げる。
中央区の目抜き通り――ルーセン銀行局本店の斜め向かいに、その巨大な殿堂は威風堂々とそびえ立っていた。
『ルーセン証券取引所』。
ガイゼンから合流した五百名のドワーフ鉱夫たちが、バログ大親方の指揮のもと、カロン・スチールのトラス構造と鉄筋コンクリート(RC)技術を駆使して驚異的な速度で完成させた、大陸史上初となる資本主義の総本山である。
正面には六本の巨大な角柱が並び立ち、屋根の中央には広大なガラス天窓が嵌め込まれている。
午前八時四十分。
取引所の二階、立会場全体を一望できる特等席――全面防弾ガラスで仕切られた「特別貴賓ブース(バルコニー)」には、この異世界の経済を根底から塗り替えようとしている四人の首脳陣が集結していた。
帝室最高官職たる「帝国宰相」にして「初代財務経済大臣」の正装ローブをまとった、ハインリヒ大公。
仕立ての良い深緑のベルベットドレスを身に纏い、扇子を指先で弄ぶゲオル商会会頭、マリアベル。
真新しいギルド保安制服に身を包み、太い腕を組んで葉巻を咥える冒険者ギルドマスター、ギルバート。
そして、工科大学の学長ローブを着こなし、手元の目論見書を真剣な面持ちで検分しているドワーフの魔導工学者、カロン。
バルコニーの手すり越しに見下ろす広大な立会場――天高十五メートル、柱が一本もない広大なフロアには、すでに異様な熱気が立ち込めていた。
中央には、木製の手すりで円形に囲まれたいくつもの「ポスト(取引台)」。
壁一面には、黒板職人が磨き上げた巨大な「相場表示掲示板」がそびえ立ち、各企業の銘柄名が白チョークで整然と書き連ねられている。
「……壮観だな、カロン殿」
ハインリヒ大公が、静かに息を呑みながら呟いた。
ヒュドールの手によって神性強化された胃袋は微塵の痛みも発していなかったが、胸の奥で高鳴る心臓の鼓動だけは、大公自身の意思ではどうにも抑えきれなかった。
「いよいよ、この日がやってまいりましたね」
カロンは微笑み、手元のリストを指差した。
本日、記念すべき第一回株式公開(IPO)によって、この市場へ上場を果たすのは、ルーセンおよびゲスハルト帝国を代表する中核企業・組織、合計八十組織余りであった。
その頂点に立つのが、事前審査を完璧に通過した「中核四銘柄」である。
第一号上場企業:『ゲオル商会(株式会社)』
全土に張り巡らされた物流網、物資の輸出入、新工房区の資材センター運営を統括する商業の巨人。
第二号上場企業:『ルーセン冒険者ギルド(株式会社)』
治安維持、全土の護衛輸送、銀行局の警備、ダンジョン素材の流通を一手に担う総合セキュリティ企業。
第三号上場企業:『ルーセン工科大学(株式会社)』
特許料、セメント・鉄鋼・エアコン・EVのライセンス料を誇る、世界唯一の研究製造一体型超巨大コングロマリット。
第四号上場企業:『ルーセン銀行局(株式会社)』
帝国全土の通貨決済、預金、低利融資、為替を牛耳る、半官半民の金融インフラの心臓。
その他、ガロニア鍛冶ギルドの金属加工会社、ガイゼン石炭興業、ルーセン醸造株式会社(白ビールプラント)、新工房区のプレス成形メーカーなど、産業革命の波に乗る優良企業八十社が、一斉に公募価格を掲げてスタンバイしていた。
「見てみな、フロアの連中……目が血走ってやがるぜ」
ギルバートが葉巻の煙を吐き出しながら顎をしゃくった。
フロアを埋め尽くしているのは、マリアベルが街中からスカウトし、カロンの特訓を受けた数百名の若者たち――色とりどりの揃いのベストを身に纏った「場立ち(仲介員・ブローカー)」たちであった。
彼らは手帳と鉛筆を握りしめ、午前九時の鐘の音を、今か今かと待ち構えている。
そして、各取引ポストの脇には、カロンが大学の工房で精密量産させた「ある革新的機械」が、十台以上据え付けられていた。
真鍮とカロン・スチールで精密に削り出された歯車、無数の数字ドラム、そして横から突き出た滑らかな回転クランクハンドル。
前世の地球において、1960年代から70年代にかけて世界の銀行や研究所、取引所の屋台骨を支えた傑作――『メカニカル回転式計算機(タイガー計算機型・機械式計算機)』である。
「カロン学長、あの機械式計算機……本当に素晴らしい発明品ですわね」
マリアベルが感嘆の声を漏らした。
「ええ。前世の私の世界でも、電子式コンピューターが普及する前は、あの精密な歯車の回転計算機が世界中の金融市場を支えていたのです。
レバーをセットしてハンドルをクルクルと回すだけで、八桁、十桁の掛け算や割り算が一瞬で狂いなく弾き出される。
あれがあれば、この広大な立会場で飛び交う数千、数万株の売買注文も、暗算のミスなく瞬時に集計できます」
電気がなくとも、物理的な歯車の噛み合わせだけで四則演算を完璧にこなす工学の結晶。
若き集計係の行員たちが、ハンドルの感触を確かめるように緊張した面持ちで待機していた。
時計の長い針が、文字盤の天頂――午前九時ちょうどを指した。
ゴォォォォォン……ッ!
取引所の天井に吊るされた、カロン・スチール製の巨大な「開場の大鐘」が、重厚な音色を響かせて鳴り渡った。
その瞬間。
「「「うおおおおおおおおっ!!!」」」
立会場の静寂は、雷鳴のような地鳴りの咆哮によって一瞬で吹き飛ばされた。
「買いだ! ゲオル商会、五百株買い!」
「工科大学、公募価格で二千株成行買い!」
「冒険者ギルド、八百株買い! 売り手はいないか!」
何百人もの場立ちたちが一斉に腕を天へと突き上げ、カロン直伝の「ハンドサイン(手サイン)」を猛烈な勢いで繰り出し始めた。
手のひらを外に向け、指を激しく前後に振る「買い(買いたい)」の合図。
手の甲を相手に向け、指の数で株数と指値を瞬時に示すサイン。
フロアのあちこちで、宙を切り裂く無数の手が激しく舞い踊り、ブローカー同士の視線がレーザーのように交錯する。
「成立! ゲオル商会、金貨二枚で三百株マッチング!」
「工科大学、買い注文殺到! 売り気配なし、公募価格を突破!」
カシャカシャカシャカシャッ!!
チーン!
取引ポストの脇で、集計係の若者たちが神速の手つきで機械式計算機のレバーを弾き、クランクハンドルを猛烈な勢いで回転させる。
歯車が噛み合う小気味よい金属音とともに、瞬時に約定代金と株数が算出され、伝票が次々と黒板係へと手渡されていく。
黒板係のドワーフたちが木製の脚立を駆け上がり、チョークで猛烈な勢いで数値を書き換えていく。
『ゲオル商会:公募金貨1枚 ➔ 現在値:金貨1枚と銀貨50枚』
『ルーセン工科大学:公募金貨2枚 ➔ 現在値:金貨3枚』
『ルーセン銀行局:公募金貨2枚 ➔ 現在値:金貨3枚と銀貨20枚』
『ルーセン冒険者ギルド:公募金貨1枚 ➔ 現在値:金貨1枚と銀貨80枚』
「上がってる……! ぐんぐん上がっていくぞ!!」
ギルバートが手すりに身を乗り出し、目を血走らせた。
フロアの外周を取り囲む観覧席には、ルーセン銀行局で預金口座を開き、株式の購入を申し込んでいた何千人もの一般市民、新工房区の職人、商人の代表たちが詰めかけていた。
彼らが手にした紙の株券の束。その価値が、目の前で刻一刻と跳ね上がっていくのだ。
「買え! もっと買え!」
「工科大学の株なら絶対に損はしないぞ! あのタワーもエアコンも全部あそこの資産なんだ!」
「銀行局の株を買い増せ! 帝都からも買い注文が入ってるぞ!」
需要が供給を遥かに上回り、買いが買いを呼ぶ猛烈なスパイラル。
カロンの卓越した技術力、ゲオル商会の圧倒的な流通力、ギルドの絶対的な治安、そして銀行局の強固な信用。
それらルーセンの奇跡を目の当たりにしてきた人々にとって、これらの株式は「黄金以上の価値を持つ未来の富」そのものに見えていたのである。
開場の熱狂から、三時間が経過した。
正午を告げる鐘が鳴り響いた時、立会場の巨大黒板にチョークで殴り書きされた数字を見て――
二階の特別貴賓ブースは、完全なる沈黙に包まれた。
『ルーセン工科大学:現在値・金貨6枚20銀貨(公募比3・1倍)』
『ゲオル商会:現在値・金貨3枚30銀貨(公募比3・3倍)』
『ルーセン銀行局:現在値・金貨6枚50銀貨(公募比3・25倍)』
『ルーセン冒険者ギルド:現在値・金貨3枚(公募比3・0倍)』
中核四銘柄をはじめとする上場株のほぼ全銘柄が、取引開始からわずか三時間で、公募価格の「三倍以上」へと暴騰していたのである。
手元のポートフォリオ(保有資産評価書)を見つめていたハインリヒ大公の指先が、カタカタと激しく震え出した。
大公は、銀行局や取引所の設立にあたり、領主邸の公的資金および個人資産から巨額の初期出資を行っていた。そのため、中核四社の創業株を、誰よりも大量に保有していたのである。
「わ……」
ハインリヒ大公の喉から、掠れた空気の音が漏れた。
「わ、我が財産が……わずか三時間で……三倍……?
余の……儂の金庫に入っておった資産が……三倍になったというのか……?
ひ……ひひ……ハハ……」
大公の口角が、引きつるように吊り上がった。
瞳孔が開き、普段の理知的な宰相の仮面がガラガラと崩壊していく。
「ハハハハハ! ハハハハハハハハハッッ!!
なんだこれは!? 夢か!? 儂は今、夢を見ておるのか!?
三時間座ってお茶を飲んでいただけだぞ!? なのに、領地の数年分の税収に匹敵する金が、紙の上で勝手に三倍に膨れ上がっておるではないかァァッ!! ハハハハハッ!!」
大公がまず、壊れた。
椅子に背中を預け、両手を天に広げて哄笑する姿は、もはや帝国の宰相でも威厳ある領主でもなく、宝くじの一等を連続で当てて発狂した男そのものであった。
ヒュドールに強化された強靭な胃袋は痛まないが、キャパシティを超えた巨額の富の激流に、脳のストッパーの方が先に焼き切れてしまったのだ。
「お、おいおい……大公閣下が壊れちまったぞ……」
引きつった笑いを浮かべたのは、ギルバートであった。
しかし、そのギルバートの手もまた、咥えていた葉巻を取り落とすほど小刻みに震えていた。
ギルドマスターとしての出資分、そして個人としてカロンに勧められて購入していたギルド株と大学株。
その評価額の欄に並ぶ、見たこともないゼロの数珠繋ぎ。
「か……カロン……。お前……お前って奴は……」
ギルバートはガシッとカロンの両肩を掴んだ。
その腕の力は、元Aランク冒険者の本気のものであった。
大粒の涙が、歴戦の古傷が刻まれた頬を伝ってボロボロと零れ落ちる。
「カロン! 本当にお前と出会えてよかったぜぇぇぇっ!!
俺が……俺みてえな冒険者上がりの荒くれ者が、人生でこんな大金をつかむ日が来るなんて、夢にも思わなかったぜぇぇっ!!
ダンジョンで魔竜の首を刎ねたって、こんな金は手に入らねえ! カロン、お前は神だ! 拝ませてくれェッ!!」
「ギ、ギルバートさん、肩が痛いです! 落ち着いてください!」
カロンがジタバタする横で――
もう一人、絶対に壊れてはならない「最後の砦」が、静かに限界を迎えていた。
ゲオル商会会頭、マリアベルであった。
普段の彼女は、海千山千の大商人や他国の貴族と対峙しても、眉一つ動かさず、常に冷徹なポーカーフェイスを崩さず、相手の呼吸や瞳の動きから心理を読み切る「鉄の女傑」であった。
感情を表に出すことなど、商売人としての敗北と同義である――それが彼女の美学であったはずだった。
しかし――今のマリアベルは違った。
両手で顔を覆い、指の隙間から、真っ赤に紅潮した頬と、ギラギラと狂気じみた光を放つ琥珀色の瞳を剥き出しにしていた。
口元はだらしなく開き、呼吸は浅く、激しく乱れている。
「……我が商会の価値が……三時間で三倍以上……。
そして……私の個人資産も……それ以上……儲けているわ……。
信じられない……こんなこと……商人人生で一度も……」
マリアベルはガバッと顔を上げ、手すりを両手でバンッと叩いた。
その表情には、計算された微笑みなど微塵もなかった。
魂の底から湧き上がる、生の、剥き出しの歓喜と興奮が、その整った美貌を激しく歪めていた。
「すごいわ、カロン!! 凄いわァァッッ!!
商品を一つ一つ船に積み、何週間もかけて運んで得ていた利益が……この取引所の中では、指のサイン一つで、一瞬で何倍にも膨れ上がっていく!!
これが……これが、貴方の創り出した『資本主義』という名の怪物なのねッ!?
素晴らしいわ! 美しいわ! カロン、私、貴方を絶対に手放さないわよォォッ!!」
本音を丸出しにして叫ぶマリアベル。
カロンは、前世を含めてもこんなマリアベルの姿を見たことがなかった。
(……あの常に冷静沈着なマリアベルさんまで、完全にタガが外れている……)
資本の魔力というものは、これほどまでに人間を根底から変貌させてしまうのかと、カロン自身が恐怖を覚えるほどであった。
午後三時。
記念すべき第一日目の取引終了を告げる鐘が、再び厳かに鳴り響いた。
カン、カン、カン、カン……ッ!
立会場に、一日中叫び続けて喉を枯らした場立ちたち、そして大儲けを果たした市民たちの割れんばかりの万雷の拍手と歓声が木霊した。
フロアには、約定伝票の切れ端が紙吹雪のように舞い散っている。
そして、最終集計を終えた計算機部隊から、特別貴賓ブースへと「本日の最終取引報告書」が届けられた。
その結果――。
『ルーセン工科大学:公募比 5・2倍』
『ゲオル商会:公募比 5・1倍』
『ルーセン銀行局:公募比 4・9倍』
『ルーセン冒険者ギルド:公募比 4・8倍』
全中核銘柄の株価は、たった一日で、平均して「約五倍」へと跳ね上がっていたのである。
それに伴い、事前に創業株を大量保有していたハインリヒ大公、ギルバート、マリアベル、そしてカロンの個人資産は――
文字通り、一日で五倍以上に膨れ上がった。
特に、領地自治権を持ち、銀行局・取引所・大学・商会のすべてに筆頭株主級の出資を行っていたハインリヒ大公の資産増加額は、もはや天文学的な領域に達していた。
カロンが暗算で弾き出した概算値を見て、思わず息を呑んだ。
(……大公閣下の本日の含み益……。これ、ゲスハルト帝国の『国家年間予算の総額』を単独で完全に上回っているぞ……)
一国の王宮が一年間に徴収する全領地の税収の合計。
その天文学的な富を、地方の一貴族であるハインリヒ大公が、わずか一日で個人資産として叩き出してしまったのだ。
近代金融と株式市場がもたらすレバレッジの恐ろしさを、カロンは身をもって実感していた。
その日の夜。
学園都市ルーセンは、至る所で勝利と富の祝杯が挙げられていたが、中核を担った大人たちの壊れっぷりは、まさに前代未聞の極みに達していた。
【領主邸:狂乱の王族ごっこ】
高台にそびえ立つハインリヒ大公邸の大広間。
そこには、大公の正妻エレノア夫人、そして二人の子供たち(長男と長女)が集まっていた。
普段であれば、貴族の淑女として厳格に子供たちのテーブルマナーを躾けているエレノア夫人が――
今は、真新しい銀のシャンパングラスを両手に持ち、顔を真っ赤にしてソファーの上で立ち上がっていた。
「おほほほほほっ! 見ましたこと、子供たちよ!!
お父様が……あのお父様が、帝国の国家予算よりも大金持ちになられましたのよォォッ!!」
「母上、落ち着いてください!」と長男が引きつった顔で止めるが、夫人の興奮は止まらない。
「落ち着いてなんかいられませんわ! 明日からは毎日、王室御用達の最高級シルクのドレスを朝昼晩で着替えますわ!
帝都の生意気な公爵夫人たちを全員呼んで、黄金のティーセットでお茶会を開いてやりますの!
あなた、素晴らしいわ! 浮気疑惑なんて全部水に流してあげますわ! あなたこそ我が一族の誇り、帝国の覇王ですわよォォッ!!」
「ハハハ……そうかそうか、好きなだけ買いなさい、エレノア……。金なら……金ならもう、使い切る前に金庫が爆発するほどあるのだからな……ハハハ……」
ソファの端で、高級ブランデーのグラスを傾けながら、瞳の焦点をどこか遠くへ飛ばして力なく笑い続けるハインリヒ大公。
家族全員が、富の奔流に呑み込まれて完全にネジが数本吹き飛んでいた。
【ギルバートのアパート:燃える金貨と荒れ狂う英雄】
一方その頃、中央区外れのギルバートの独身アパート。
ここでもまた、一人の屈強な男が完全に崩壊していた。
「ガハハハハハハッ!! 見ろよイグニィィッ!! この紙切れの山をよォォッ!!」
テーブルの上には、銀行局の預金通帳と、額面に見たこともない桁の数字が並ぶ株券の控えがぶち撒けられていた。
ギルバートは上着を脱ぎ捨て、筋肉質な上半身を露わにしながら、最高級の特濃ラム酒をボトルごとラッパ飲みしていた。
「五倍だぞ、五倍ッ!! 俺が一生かけて魔物の首を刈り続けても拝めねえような金貨の山が、たった一日で手に入っちまったんだよォッ!
おいイグニ! 明日はカジノのフロアを丸ごと貸し切ってやるぜ! テーブルの端から端まで、全部金貨のチップで埋め尽くしてやるッ!!」
テーブルをドンッと叩き、目を血走らせて哄笑するギルバート。
歴戦の沈着冷静な元Aランク冒険者の面影など塵芥ほども残っていない。
その異様な狂乱ぶりに、居候しているはずの赤髪の荒神イグニの方が、引きつった顔で後ずさっていた。
「お、おいギルバート……。お前、いつもカジノで銀貨十枚スっただけでメソメソ泣いてるくせに、急にどうしちまったんだよ……?
なんか目がイッちまってるぞ。おい、酒を瓶ごと煽るな、火を吹くぞ……」
荒神すらドン引きさせるほどに、手に入れた富の規模は一介の戦士の許容量を遥かに超えてしまっていたのである。
【ゲオル商会:女傑の秘密の儀式】
そして、中央大通りにそびえ立つ「ゲオル商会・総本社ビル」の最上階、会頭執務室。
カチャリ、と重い鍵が内側からかけられた漆黒の部屋の中で、普段の理知的な女傑の姿は、完全に崩壊していた。
マリアベルは、机の上に積み上げられた、自身の保有する『ゲオル商会株』と『工科大学株』の株券の束――カロンが刷り上げた美しい透かし入りの紙片の山を、両腕で抱きしめていた。
高級なペルシャ絨毯の上にペタリと座り込み、株券の束に頬をすり寄せ、クスクス、アハハと不気味な笑い声を漏らしている。
「あはっ……あははははっ……!
儲かったわ……儲かりすぎて、計算尺の桁が足りなくなってしまいましたわ……。
商会の純資産が五倍……私の個人資産も五倍……。
帝都の豪商どもが束になってかかってきても、今の私なら小指一本で買い叩いて傘下に収められますわ……!
カロン……なんて恐ろしい子……!
工学と資本が手を結べば、神の奇跡すらも金貨に変えられるというのね……!
ふふ……ふふふふふっ、次は帝都支店の上場よ……大陸中の富を、全部このルーセンに集めてみせますわァッ!!」
夜の静寂の中、敏腕美貌の女傑が放つ歓喜の狂気は、夜更けまで執務室を満たし続けたのであった。
そして、深夜十一時。
大聖堂裏手のアパート、二階の自室。
カロンはいつものように、自慢の電気温水器から完璧な四十一・五度のお湯をバスタブにたっぷりと張り、肩まで深く身を沈めていた。
「……ふぅぅぅぅぅ……っ」
湯気の中に吐き出されたため息は、疲労と安堵、そして底知れぬ圧倒感が綯い交ぜになったものであった。
証券取引所の開業は大成功を収めた。
工科大学の資産価値は正当に評価され、大学が保有する莫大な含み益によって、今後の大陸横断鉄道計画やメガ水力発電所の増設資金は、完全に確保されたと言ってよい。
大公も、ギルバートも、マリアベルも、富を手に入れて狂喜乱舞している。
(……だが、ここからが本当の戦いだ。株価が上がれば、次は暴落の恐怖がやってくる。投機熱をいかに健全な産業投資へとコントロールしていくか……)
カロンが前世の経済学の記憶を手繰り寄せ、湯船の中で思索に耽っていた――その時であった。
バアアアアアンッ!!
もはやアパートの風物詩となった、一切の遠慮容赦のないドアの開け放たれる轟音。
脱衣所の扉すら突き破る勢いで、湯気の立ち込める浴室のすりガラスの向こうから、黄金の髪を揺らした人影がドカドカと乱入してきた。
「カロン〜〜ッ!! 聞いたわよォォッ!!」
「うわあっ!? メリス様、入ってこないでください! 私は今、風呂に入っているんです!」
カロンが湯船の中で身を縮めて叫ぶが、駄女神メリスはどこ吹く風で、湯船の縁に両手をバンッとついた。
その顔は、満面の、これ以上ないほどに輝かしい歓喜の笑みに満ちあふれていた。
手には、どこから仕入れてきたのか、取引所の大暴騰を報じる『ルーセン経済新聞』の号外が握りしめられている。
「カロン! 取引所ってやつ、大成功だったんですってね!!
アンタたちの大学も商会も、株ってやつが一日で五倍になって、街中の金庫が金貨で溢れかえってるって街中で大騒ぎよ!!」
「……ええ、まあ、事実ですが……それがあなたに何か関係あるのですか?」
カロンがジト目で警戒すると、メリスは豊満な胸を反らせ、勝ち誇ったように腰に手を当ててこう言い放ったのである。
「大ありよ! アンタの資産が五倍になったってことは……!
これでパフェ等食べ放題ね!! これから気を遣わずに済むわ!!」
「………………………………」
カロンの思考が、コンマ五秒停止した。
「……は?」
「だから! 今まではアンタが『今月の研究費が〜』とか『ツケの限度額が〜』とかケチくさいこと言ってたから、私、これでも気を遣って一日にパフェ三杯くらいで我慢してあげてたじゃない?!
でも、アンタが国の予算以上に大金持ちになったんだから、もう遠慮なんて要らないわよね!
明日からは、朝昼晩ぜ〜んぶ特盛タワーパフェにして、夜食には大食堂のメガバーガーを十個テイクアウトして、街中のケーキ屋さんの新作を端から端まで買い占めてあげるわ!
カロン、アンタ本当に最高のサイフよーっ!! 大好きーっ☆」
メリスは満面の笑顔でウインクを飛ばし、鼻歌交じりに「ふふ〜ん♪ 明日はチョコバナナパフェとイチゴタルトね〜♪」と、浴室からスキップで出て行った。
パタン、と扉が閉まり、静寂が戻った浴室。
カロンは、お湯の中に両手を突っ込み、顔を覆った。
(……気を遣って……いた……? あれで、気を遣っていたというのか……?)
一日パフェ三杯、闇カジノで五百枚溶かし、公営カジノで毎日上限までスっていたあの生活が、彼女の中では「遠慮」の範疇だったという戦慄の事実。
そして――何よりも恐ろしい予感が、カロンの脳裏を電撃のように貫いた。
(……待てよ)
カロンの背筋に、氷水を背中から流し込まれたような激しい悪寒が走った。
今日、メリスは確かに言った。
『株ってやつが一日で五倍になって、街中の金庫が金貨で溢れかえってる』と。
数字が増える。価値が跳ね上がる。
カジノのスマート・リミットシステム(上限ロック)に縛られ、スロットコーナーで不満を溜め込んでいたギャンブル狂の駄女神が――
「株を買えば、一日で資産が五倍になる」という、この世で最も甘美で危険な錬金術の匂いを、その鋭敏すぎる鼻で嗅ぎつけてしまったのだ。
(……まさか、な)
カロンは自らの掌を見つめ、震える指先を握りしめた。
(あいつが……あの駄女神が、パフェを食べるだけで満足するはずがない。
もしも……もしもあいつが、自分の手持ちの金や神の威光を使って、この株式市場に『ギャンブル感覚』で手を出してきたら……?)
『負けるのはちょっと嫌だけど……でも、なんだか癖になりそうね! てへっ。♡』
あの地下カジノでの悪魔のウインクが、湯気の向こうで不気味に揺らめいた。
資本主義の光が燦然と輝いたその初日の夜。
大陸最強の経済都市へと駆け上がったルーセンの空の下で――
やがて訪れるであろう、一柱の駄女神による「未曾有の株式大暴落パニック」という名の巨大な時限爆弾の秒針が、チク、タク、と確実に音を刻み始めていたのであった。




