第88章:駄女神、メリスの付き人編
第88章:駄女神、メリスの付き人編
冬の寒風が、二十階建てのルーセン工科大学タワーの窓ガラスをカチカチと細かく叩いていた。
室内にはカロン・クールの温風が淀みなく行き渡り、乾燥を防ぐための蒸気加湿ポッドから細い白煙が静かに立ち上っている。
二階の学長室。カロンは分厚いオーク材の机に向かい、翌週に迫った「ルーセン証券取引所」の第一回株式公開(IPO)の引受契約書類に、インクをつけた羽ペンを走らせていた。
大学技術開発機構、ゲオル商会、冒険者ギルド保安輸送の三社を軸にした近代資本主義の船出。数字の検証、引受価格の査定、紙の株券の印刷管理と、エンジニアであり大学トップであるカロンの頭脳は、秒刻みでフル回転を続けていた。
そんな静謐な学問と実務の聖域に――
バンッ!!
分厚い防音仕様の扉が、まるで破城槌で撃ち抜かれたかのような轟音とともに蝶番をきしませて跳ね飛んだ。
「カロン! また帝都の王様に、何か美味しい食事をおごってもらいましょうよーっ!」
入ってきたのは、黄金色の長い髪を肩で大きく跳ねさせ、深緑色の魔術師ローブを胸元までだらしなく前開きにした絶世の美女――言わずと知れた天界の主神、駄女神メリスであった。
手には大食堂から失敬してきたばかりの紙包み。包みからは、揚げたての甘酸っぱいリンゴフリッターの油とシナモンの匂いがぷんぷんと漂っている。
カロンはペン先を止め、インク壺の上で静かに静止させた。
眉間を深く刻むように寄せ、呼吸を一つ整えてから、ゆっくりと顔を上げる。
そこには、執務机の真ん前に仁王立ちになり、食べかけのフリッターを咥えながら、大真面目に「頭を抱えるようなポーズ」を取っているメリスの姿があった。
「……メリス様。いま、何とおっしゃいましたか?」
「だからね! 帝都のセルセデス王よ! あの王様、すっごく気前がいいじゃない! この前クーデターを片付けてあげた時も、王室秘蔵の飛竜の霜降り肉やら、熟成ワインやら、特大イチゴタワーケーキやらを振る舞ってくれたでしょ? あれからもう一ヶ月も経つのよ!? そろそろ王宮の厨房も新しいメニューを開発してる頃合いよ! また銀色の車をかっ飛ばして、王宮の大広間で豪勢なフルコースをご馳走になりに行きましょうよ!」
カロンのこめかみの奥で、プツンと微細な血管が張り詰める音がした。
机に両手をつき、椅子の脚をガタッと鳴らして立ち上がる。
「王様に失礼だということ、わからないのですか?!」
カロンの怒声が、天井の高い学長室に木霊した。
「セルセデス3世陛下は、一国の国家元首ですよ?! 先日の晩餐会は、国家転覆の軍事クーデターを鎮圧し、隣国との平和条約を取り付けたという歴史的大功績に対する、国家公式の『恩賞』として催されたものです!
それを……『お腹が空いたからまたおごってもらおう』などと、近所の気前のいい親戚のおじさん家に晩飯をたかりに行くようなノリで押し掛けていい相手だと本気で思っているのですか?!」
「えーっ! なによケチくさいこと言ってんのよ!」
メリスは唇を尖らせ、フリッターの粉を指先でパパッと払って腰に手を当てた。
「神様が直々に訪ねて行ってあげるのよ? 王様だって『おお、メリス様、よくぞ参られた!』って大喜びするに決まってるじゃない!
それにね、ヒュドールだって、王家一家に不協和音を投入したトラブルメーカーじゃない!」
メリスは勝ち誇ったように人差し指をビシッと突きつけてきた。
「聞いたわよ! ヒュドールがハインリヒと一緒に帝都へ行った時、王様が『こんな美人が屋敷にいて羨ましい』とか呟いたせいで、イザベラ王妃が激怒して玉座の間で大修羅場になったんでしょ?! 子供たちまで別室に追い出されて、王様が半泣きで土下座したって!
あんな家庭崩壊爆弾を放り込んできたヒュドールが許されて、どうして私の『美味しいご飯を食べたい』っていう純真無垢なお願いがダメなわけ?!」
カロンは右手の親指と中指で眉間を強く圧迫した。
頭痛が急速に血管を伝って広がっていく。
「そういうことではないです。あれは、彼女ではなく、王のたまたまの一言がそうなっただけです」
「屁理屈よ! 結果として王宮を修羅場にしたのはヒュドールじゃない! 私なんて、ただ美味しくご飯を食べて、みんなを笑顔にしてあげるだけよ?! 私の方が百倍平和的じゃないの!」
「あなたの底なしの食欲を満たすために、王立厨房の料理人十数名が徹夜で鍋を振り続ける羽目になるのが目に見えているから言っているのです! だいたい、陛下は帝都復興と財務改革でお忙しい身です。不要不急のタカリで行くことなど断固として許可できません!」
「うぐぐぐ……っ!」
メリスは悔しそうに唸り、地だんだを踏んだ。
しかし、この程度の反論で引き下がるほど、数千年の自堕落を極めた神の図太さは軟弱ではなかった。
メリスはカッと碧眼を輝かせ、即座に第二の矢を放ってきた。
「じゃあ、あのカジノの掛け金、制限を解除してくれない?」
その言葉が出た瞬間、カロンの胃の奥底が、まるで冷たいナイフで抉られたかのようにキュウッと縮み上がった。
「……は?」
「だから! 公営カジノ『エルドラド』よ! 私専用のあのカード、一日に銀貨五十枚分しかチップに換えられないじゃない!
あんなの、スロットをちょっとガシガシ叩いて、ルーレットを三回回したら一瞬で終わっちゃうのよ?!
『本日のご利用上限に達しました☆』じゃないわよ! これから私の神の直感がゾーンに入るところだったのに、シャッターが閉まるなんて生殺しよ!
アンタが作った機械なんだから、裏の魔導コードをちょちょいと書き換えて、上限を金貨千枚くらいに引き上げなさいよ!」
カロンの表情から、一切の感情が失われた。
ただ冷ややかな、絶対零度の眼光が駄女神を射抜く。
「言いましたよね、どんなことがあっても制限は設けるって」
カロンの声は、低く、重く、地を這うように響いた。
「あのスマート・リミットシステムは、あなたが闇カジノで金貨五百枚を溶かして泣きついてきたからこそ、二度と身を持ち崩さないために設計した安全装置です。
低掛け金で、大数の法則に基づき、公正な確率で長く楽しむための大衆娯楽。それがルーセン公営カジノの絶対原則です。
客によって上限を弄るなどという不正を行えば、公営カジノの社会的信用は一日で失墜します」
「えー! イグニも解除してほしいって言っていたのに!」
メリスは頬を膨らませ、駄々っ子のように両腕を振り回した。
「昨日もカジノのフロアで会ったのよ! イグニの奴、ブラックジャックで『あと一枚引けば絶対に勝てるのに、チップの限度額が来て勝負を降りる羽目になった! カロンを締め上げてリミッターを外させろ!』って、髪から火の粉を散らして怒ってたわよ!
ギルバートだって隣で『全くだ、俺の給料袋がまだ温かい内に上限が来るとは何事だ』って頷いてたんだから!
私だけじゃないの、みんなが制限解除を望んでいるのよ!」
「あの脳筋二人を巻き込んで正当化しようとするなッ!!」
カロンの怒声が再び炸裂した。
今度は机の上のペーパーウェイトがビシッと震えた。
「イグニ様は炎の神でありながら、やってることはギルバートさんと一緒になって給料を全部溶かして床で灰になっているただのギャンブル弱者です!
あの二人に上限解除なんて与えてごらんなさい、一晩で冒険者ギルドの年間予算が消し炭になりますよ!
あなたも含めて、負けが込んだ瞬間に『次は勝てる』と思い込む典型的な依存症患者の言い分など、一文字たりとも聞き入れられるはずがありません!」
「依存症とは何よ失礼ね! 私は神よ! 慈愛と豊穣を司る、全土で崇め奉られる至高の主神よ?! ちょっとスロットのレバーを強く引きたいだけなのに、どうしてこんなドワーフの小僧に説教されなきゃならないのよ!」
「神なら神らしく、天上から世界の安寧でも見守っていなさい! なぜ朝からスロットの確変やルーレットの赤黒に現世利益を求めているのですか!」
「神だからこそスリルが欲しいのよ! 天界なんてね、何万年も同じ雲が流れて、同じ神々が同じ顔してネクタル飲んでるだけの、超退屈な老人ホームみたいな場所なのよ?!
それに比べたら、この街は最高じゃない! 美味しいものは山ほどあるし、ピカピカ光る機械はあるし、数字が当たるか外れるかで心臓がバクバクするし!
私はこの街の文化を全力で愛してあげてるの! 尊敬される存在よ!」
「ダメです」
カロンは腕を組み、仁王立ちのまま即答した。
「……ダメですって言ったわね?」
「ダメです。絶対に、何があっても、天地が引っくり返っても解除しません」
「……………………」
メリスは目を丸くし、信じられないものを見るようにカロンを見つめ、やがて顔を真っ赤にして叫んだ。
「……っ! どけちカロン!! 頭の固い機械オタク! 理系教授の化石! 分からず屋のドワーフ!!」
罵詈雑言の嵐。
しかし、その声を聞きながら、カロンの右手が無意識に自らのみぞおちのあたりへと伸びていた。
(……くっ……)
ズキリ、と。
針の束で内側から胃壁を激しく引っ掻かれたような、鋭利な激痛が突き上がってきた。
冷や汗が額からツツッと顎を伝って落ちる。
胃の奥底で、胃酸が異常分泌され、粘膜を容赦なく焼き尽くしていくのがリアルな感覚として伝わってきた。
ハインリヒ侯爵がかつて吐血して倒れた気持ちが、今なら細胞レベルで共感できる。
この駄女神と相対している時間そのものが、精神的および肉体的な猛毒なのである。
「……ぐ……っ……」
「あら? どうしたのよカロン、急にお腹なんか押さえて。私の神威に圧倒されて平伏したくなったのかしら?」
能天気に首を傾げるメリス。
カロンは言葉を返す余裕すらなく、脂汗を垂らしながら椅子へと崩れ落ちた。
このままでは、あと三分で胃壁に穴が開きかねない。
(ちょっと我慢できないな……背に腹は代えられん……)
カロンは震える右手を自らの腹部へと当て、体内の高密度魔導回路を励起させた。
かつて森のダンジョンの最深部で習得した、最高位の神聖治癒魔導――
「――『ヒール(治癒)』……『キュア(快復)』……!」
ボワッ……と、カロンの掌から淡く清らかなエメラルドグリーンの魔導光が放たれ、衣服を透過してみぞおちの奥深くへと吸い込まれていった。
細胞の自己再生プロセスが超高速で回り始める。
ただれて赤く腫れ上がっていた胃粘膜が瞬時に修復され、過剰に分泌されていた胃酸が中和され、毛細血管の出血が塞がっていく。
「……ふぅぅぅ……っ」
十秒ほどで、肉体的な激痛は完全に消え去った。
物理的な組織損傷としては、完全に元の健康な状態へとリセットされたのである。
……しかし。
「はぁ……はぁ……」
カロンは机の上に両肘をつき、両手で顔を覆った。
痛みが消えても、「幻覚痛」と「精神の底知れぬ疲労」だけは、何一つとして消え去りはしなかった。
頭の奥底が、重い鉛の塊を詰め込まれたようにズキズキと鈍く疼いている。
神経がすり減り、魂の輪郭が毛羽立っていくような、形容しがたい倦怠感。
治癒魔法は肉体の損傷を癒すことはできても、不条理なストレスによって削り取られた「心のエントロピー」までは巻き戻してくれないのだ。
(ヒュドール様が大公の胃袋を神性強化して完治させた理由が、今になって痛いほど分かる……。あんな無敵の胃袋を手に入れた大公でさえ、精神の心労までは治せないと言っていた。
ましてや、毎回自力でヒールをかけて誤魔化している私の胃と精神は、すでに前世の国立大学の教授会三百年分に匹敵する負荷を受け続けているぞ……)
カロンは深いため息をつき、指の隙間から、何事もなかったかのように口笛を吹きながら部屋のトロフィーを眺めている金髪の元凶を見つめた。
怒る気力すら吸い取られていく。
このまま押し問答を続けていても、彼女が引き下がることは絶対にない。
帝都へ行くことも、カジノの制限解除も、断固として拒否し続けなければならないが、代わりの「何か」を投下してこの嵐のエネルギーを逸らさなければ、こちらの命が持たない。
カロンは虚ろな目を向け、掠れた声で問いかけた。
「……メリス様」
「なぁに? 反省した?」
「……暇なんですか?」
単刀直入な問い。
メリスはピクリと眉を跳ね上げ、腕を組んで天井を見上げ、あっけらかんと言い放った。
「そうね! 暇よ! すっごく暇なのよ!
だって、帝都のクーデターは終わっちゃったし、教国の神殿も新政府に丸投げしたし、銀行局はマリアベルたちがテキパキ動かしてるから私の出番なんてないし!
カジノは銀貨五十枚で締め出されるし、大学の講義を覗きに行ったらマルクスに『神聖魔力で放線菌が全滅するから入るな』って塩を撒かれるし!
もっと面白いことがあったら、暇じゃなくなるわよ!」
「………………………………」
カロンは完全に沈黙した。
(だろうな。分かっていた。この駄女神の行動原理の根底にあるのは、いつだって『底なしの食欲』と、その裏にある『退屈への恐怖』だ)
天界で数万年を惰眠と退屈の中で過ごしてきた神が、地上の刺激的な文化と味覚を知ってしまった。
その有り余るエネルギーと神聖魔力が、発散の場を失って学長室に吹き溜まっているのだ。
放っておけば、また旧市街の怪しげな路地裏をほっつき歩き、第二、第三の闇カジノを発見して金貨数百枚の借金を作ってくるのは火を見るより明らかであった。
(何とかしなければならない。……だが、王宮へ行くのもカジノのリミッターを外すのも論外だ。
金貨数百枚の損失を防ぎ、かつこの怪物の退屈を安全に鎮火できる、最小限のコストの『安全弁』はどこだ……?)
カロンの優秀な頭脳が、必死にリスクマネジメントの計算式を弾き出した。
帝都への遠征:費用(時間と信用)、リスク(外交問題、王宮崩壊)。却下。
カジノの制限解除:費用(金貨数百枚)、リスク(依存症悪化、公営ギャンブルの崩壊)。論外。
街の新規開発:工期がかかりすぎる。今すぐの鎮火にならない。
残された選択肢は――。
カロンは机の引き出しを開け、懐中時計と、銀行局公認の自分専用決済カードを取り出した。
そして、諦めと悟りが綯い交ぜになった声で告げた。
「……分かりました」
「えっ?! 王宮に連れてってくれるの?!」
パァァッと目を輝かせるメリス。
「行きません。……ですが、これから一時間だけ、私の仕事を中断します。
新工房区のテラスカフェに、昨日から新発売された『冬の新作・極上アイス特盛タワーパフェ』が出ています。……私が奢りますから、それを食べに行きましょう」
メリスの動きが、ピタリと止まった。
「……冬の新作?」
「はい。採れたての冬イチゴと、エレン山麓の特濃ミルクを使ったバニラアイスを五段重ねにし、上から温かい特製キャラメルソースとローストナッツをふんだんにかけた、高さ四十センチの特大パフェです。
一杯で、銀貨二枚します」
メリスの喉が、ゴクリと激しい音を立てた。
先ほどまでカジノだ王宮だと騒ぎ立てていた彼女の脳内麻薬が、一瞬にして「糖分と油脂の快楽」へと完全に上書きされていくのが、傍から見ていても手にとるように分かった。
「……五段重ね?」
「ええ、五段重ねです」
「温かいキャラメルソース?」
「そうです。冷たいアイスの上でキャラメルがパリッと固まる演出付きです」
メリスはゴクリと唾を飲み込み、腕を組んで、これ見よがしに唸ってみせた。
「……ふ、ふん! まあ……アンタがそこまで言うなら? 熱心に反省して、神である私に誠意を見せようっていうなら……?
仕方ないわね! 今回ばかりは、その新作パフェで手を打ってあげるわ!」
「ありがとうございます。では、参りましょうか」
カロンは力なく立ち上がり、コートを羽織った。
銀貨二枚。カジノの金貨五百枚や王宮での国際問題に比べれば、あまりにも安上がりすぎる妥協点であった。
十分後。
冷涼な冬の陽光が降り注ぐ、新工房区のメインストリート沿いにあるオープンテラスカフェ『ル・シエル』。
屋外席にはカロンが設計した屋外用電熱パラソルヒーターが設置され、赤々とした熱線がテラス席を心地よい暖かさで包み込んでいた。
周囲には、買い物帰りの市民や、非番のドワーフ職人たちがコーヒーを楽しんでいる。
その一角の特等席。
「キタァァァァァッッ!!!!」
メリスの歓喜の絶叫とともに、テーブルの上にドスンと置かれたのは、もはや建築物と呼ぶにふさわしいガラスの巨塔であった。
透明な大型パフェグラスの底には、ザクザクとした香ばしいグラノーラと濃厚なカスタードクリーム。
その上に、雪のように純白の特濃ミルクアイス、鮮やかな深紅のイチゴジェラート、芳醇なマスカルポーネアイスが五段に重なり合い、周囲を真っ赤な大粒のイチゴが隙間なく埋め尽くしている。
そして頂点からは、湯気を立てる熱々の特製キャラメルソースが琥珀色の滝のように流れ落ち、冷気によってツヤツヤとした飴状に固まりつつあった。
「いただきまーーーっす!!」
メリスは長いスプーンを両手で構え、一切の迷いなく頂点のアイスの塊へと突き刺した。
そして、大口を開けて一気に頬張る。
パクリッ。
「んんんんんんっっっ!!!!」
メリスは両手を頬に当て、椅子の上で身悶えしながら目を丸くした。
「な……なによこれぇぇぇぇっ!!
冷たいアイスが口の中でじゅわっと溶けた瞬間に、キャラメルのほろ苦さと甘いミルクのコクが爆発して……そこにイチゴの甘酸っぱさが絡み合って……天界のネクタルなんて泥水に思えるくらい美味しいじゃないのーっ!!」
シャクシャク、モグモグ、ゴクリ。
もはやスプーンの動きは目にも留まらぬ神速であった。
四十センチの巨大パフェが、まるで魔法のように、猛烈な勢いで胃袋へと吸い込まれていく。
その凄まじい健啖ぶりを、向かいの席に座ったカロンは、湯気の立つブラックコーヒーのカップを両手で包み込みながら、静かに、虚無の目で見つめていた。
(……銀貨二枚。たった銀貨二枚で、この怪物が大人しくなるのだ。
安い。冷静に工学的な費用対効果を計算すれば、これ以上ないほどに優秀な安全弁だ……)
カロンはコーヒーを一口啜った。
下戸の喉を駆け抜ける、心地よい苦味と温かさ。
胃の奥底の痛みは、先ほどの治癒魔法とこの温かなカフェインのおかげで、どうにか完全に鎮静化していた。
「カロン、アンタも食べなさいよ! ほら、このキャラメルのところすっごく美味しいわよ!」
口の周りを白い生クリームと茶色いキャラメルでベタベタにしたメリスが、スプーンを差し出してくる。
「いえ、結構です。私は甘いものはそれほど得意ではありませんので」
「ちぇっ、相変わらず人生の半分を損してるわね!」
メリスは気にする風もなく、残りのアイスを器用にすくい上げ、あっという間に最後の一口を飲み干してしまった。
カラン……と、空っぽになった巨大なグラスにスプーンが落ちる澄んだ音が響く。
「ぷはぁぁぁ〜〜っ! 美味しかったぁぁぁっ!!」
メリスは満足そうに大きく伸びをし、背もたれに深く身を沈めた。
その顔には、先ほど学長室で見せていたあのギラギラとした凶悪な退屈の色は微塵もなく、陽だまりの中で丸くなる飼い猫のような、無邪気で無害な満面の笑みが浮かんでいた。
「ごちそうさま、カロン! アンタってば、たまには気が利くじゃない!」
「……ええ。お気に召していただけたなら何よりです」
カロンは手元の紙ナプキンを差し出し、冷めた目で告げた。
「口の周りを拭いてください。神聖な主神の尊厳が台無しですよ」
「はーい☆」
ペロリと舌を出し、ナプキンで口元をゴシゴシと拭う駄女神。
その姿を見つめながら、カロンは深く、深く息を吐き出した。
(……やれやれ。これで、今日一日の嵐はやり過ごせたか)
しかし、これはあくまで「今日」の平穏を銀貨二枚で買い取ったに過ぎない。
明日になれば、また彼女の胃袋は空っぽになり、その退屈な魂は新たな刺激を求めて街を彷徨い始めるのだ。
ふと、カロンの脳裏に、現在急ピッチで内装工事が進む「ルーセン証券取引所」の光景がよぎった。
紙の株券、場立ちのハンドサイン、そして企業の成長に出資し、配当と値上がり益を狙う資本主義の巨大な鉄火場。
今日、カジノの制限解除を求めて暴れていたメリスの爛々とした瞳。
(……絶対に、あいつに株式の仕組みを気付かせてはならない)
カロンの背筋に、冬の風よりも冷たい悪寒がスッと走った。
もしも、この「退屈とスリルに飢えた駄女神」が、カジノのような上限ロックの存在しない株式市場という名の荒海に足を踏み入れたら――
その時は、銀貨二枚のパフェどころか、大学タワー一棟が丸ごと吹き飛ぶような未曾有の大災厄がルーセンを襲うことになる。
「……絶対に、秘密にしておかねばならんな」
カロンが一人、真剣な顔で呟いたその時。
「ねえカロン〜」
お腹をポンポンと叩いていたメリスが、上機嫌で身を乗り出してきた。
「なぁに? メリス様」
「明日もさ、このパフェ食べに来ましょうよ! 今度はイチゴじゃなくて、チョコバナナのやつ!」
カロンは天を仰ぎ、乾いた笑いを漏らしながら、冷え切ったコーヒーの最後の一滴を飲み干した。
「……明日の講義と会議の進捗次第ですね。あなたが学長室のドアを壊さずにノックできたら、考えてあげますよ」
「やったー! 約束よーっ!!」
冬の青空の下、無邪気に歓声を上げる金髪の駄女神と、胃薬の代わりにコーヒーを啜るドワーフの工科学長。
二人の奇妙で不条理な日常は、明日という未知の波乱へ向けて、静かに、しかし確実に歯車を回し続けていくのであった。




