第90章:疾風のコンクリートと投資狂騒曲
第90章:疾風のコンクリートと投資狂騒曲
ルーセン証券取引所の劇的な開業初日、中核四銘柄をはじめとする上場株が軒並み五倍へと暴騰し、街中の金庫が金貨の山で軋んだあの日から一夜。
冬の冷たい朝霧を浴びながらも、ルーセンの街全体を覆う熱狂の温度は、冷めるどころかさらに一段階ギアを上げて沸騰していた。
中央大通りのカフェや酒場、新工房区のプレス工場に至るまで、誰もが昨日の取引結果を報じる『ルーセン経済新聞』の号外を片手に、興奮冷めやらぬ顔で数字を語り合っている。
しかし、最も激しく箍が外れていたのは、莫大な創業株を抱えて一夜にして一国の国家予算をも凌駕する富を手に入れた首脳陣たちであった。
午前八時。高台にそびえるハインリヒ大公邸のプライベートサロン。
暖炉には最高級の薪がパチパチと音を立てて爆ぜ、テーブルには銀器に盛られた朝食が並んでいたが、誰一人としてフォークに手を伸ばしていなかった。
「ハハハハ! エレノア、遠慮など一切いらんぞ! 帝都の物なら貴金属だろうが美術品だろうが、何でも好きなだけ買ってやる! 帝都の目抜き通りを端から端まで買い占めても、儂の金庫はびくともせんのだからなァッ!」
高級シルクのガウンを羽織り、朝から上等な果実酒のグラスを掲げて哄笑しているのは、ルーセン領主にして帝国宰相――ハインリヒ大公であった。
その隣で、長大な羊皮紙の巻物に猛烈な勢いで羽ペンを走らせていたのは、正妻のエレノア夫人である。
「まあ、あなた! 頼もしいことですわ! では遠慮なく『買ってほしいものリスト』をまとめさせていただきましたの!」
エレノア夫人がバサリと広げたリストには、細かな宝石やドレスの枠を遥かに超越した、国家規模の不動産が堂々と書き連ねられていた。
『一、 帝都グランツ貴族街一等地:旧クロイツァー侯爵家大本邸(敷地三万坪、噴水庭園・迎賓館付き)の丸ごと買収』
『二、 上記大本邸に所属する全執事、メイド、専属料理人、御者、庭師計百五十名の終身雇用契約の引き継ぎ(支度金付き)』
『三、 帝都最高峰の宝飾ギルド『白金座』の展示フロアのティアラ全種買い取り』
先日のクーデター首謀者として取り潰され、現在王室の管理下にある反乱貴族の筆頭格・クロイツァー侯爵の豪邸を、使用人ごと現金一括で買い取ろうというのである。
「帝都の公爵夫人たちにお茶会で嫌味を言われるのもこれでおしまいですわ! ルーセンの田舎貴族と見下していた者たちの鼻を、この黄金の大邸宅でへし折って差し上げますの! おほほほほっ!」
「うむ! よいぞよいぞ、買え買え! 契約書を持ってこさせろ、儂が今すぐサインしてやる!」
壊れた領主と壊れた夫人。
二人の子供たちが「お父様もお母様も完全に目が血走っている……」と怯えながら端っこでパンをかじっている光景は、もはや日常の崩壊そのものであった。
一方、中央区の冒険者ギルド本部。
朝の光が差し込むギルドホールの壇上に、仁王立ちしたギルバートがいた。
その両脇には、手持ちの株券が五倍に化けたことを示す通帳の控えが、これ見よがしに額縁に入れて飾られている。
「おい、野郎ども! 耳の穴かっぽじってよく聞けェッ!!」
ギルバートの雷鳴のようなダミ声が、騒がしいギルドホールを圧巻した。
「昨日、俺たちのギルド株がとんでもねえ暴騰を叩き出したのは知っての通りだ! そこでだァッ! 本日より向こう二週間――ギルド併設の大食堂の全メニュー、酒も肉も全部タダで開放してやるぞォォッ!! 全部俺のポケットマネーから奢りだ! 好きなだけ喰って、好きなだけ呑めェッ!!」
「「「ウオオオオオオオオオッッ!!! ギルマス万歳ッ!! ギルド株式会社万歳ッッ!!!」」」
荒くれ者たちがジョッキを打ち鳴らし、天井が抜けんばかりの大歓声が巻き起こる。
奥の厨房では、イグニが「肉だ肉! 竜の肉も全部焼けェ!」と火炎の神気を無駄に放ちながら厨房を手伝い、お祭り騒ぎの坩堝と化していた。
さらに、ゲオル商会の総本社ビル。
会頭執務室では、昨夜の狂乱からどうにか冷徹なビジネスウーマンの仮面を取り戻したマリアベルが、赤ペンを握りしめて帝都の地図を睨みつけていた。
「番頭、帝都の商業ギルドへ至急の暗号早馬を飛ばしなさい。先日の反乱で資金繰りがショートしている保守派商会三社――特に『グランツ中央運輸』と『帝都穀物倉庫』の買収工作を即座に開始しますわ。提示額は言い値の二割増し。全額、我が商会の潤沢な株式時価総額とキャッシュで叩き潰すように買い取って傘下に収めなさい!」
「へ、へい! 直ちに手配いたします!」
マリアベルの琥珀色の瞳の奥には、莫大な資本を手に入れた者だけが宿す、獰猛なまでの覇気が渦巻いていた。
――このように、首脳陣たちがそれぞれの欲望と野心に従って巨額の富を動かし始める中。
工科大学の学長室で、ただ一人、極めて冷静に未来の青図面を見つめている男がいた。
ドワーフの魔導工学者、カロンである。
学長室の巨大な製図板の上には、ゲスハルト帝国の全土図が広げられていた。
ルーセンから帝都グランツへと至る、五百キロメートルの大地。
カロンは愛用のコンパスと定規を回しながら、深く思索に沈んでいた。
(銀行局が開業し、証券市場が立ち上がり、人と物と金の流れは爆発的に加速している。……だが、その物理的な基盤たる『道』があまりにも脆弱すぎる)
現在、ルーセンと帝都を結ぶ幹線街道は、カロンが先日のクーデター鎮圧や大公の送迎で幾度となくEVやメガバスを走らせたルートである。
路盤自体は砂利や石炭殻で固められており、中世の街道としては極めて優秀な部類であった。
しかし――それはあくまで「馬車」や「時速四十キロ程度のトラック」を基準とした道路であった。
カロンの造り出す最新の電気自動車やメガEVバスは、時速百キロメートル以上の巡航能力を軽々と発揮できる。
だが、あの未舗装の砂利道で時速百キロを出せば、車輪が小石を猛烈な勢いで跳ね上げ、サスペンションが悲鳴を上げ、車体は激しく上下に揺さぶられる。急カーブでは浮き砂利で後輪が流れ、油断すれば崖下へと真っ逆さまに転落しかねない。極めて危険で、運転者の神経をすり減らす過酷な悪路であった。
(時速百四十キロで、振動もなく、天候に左右されず、二十四時間安全にぶっ飛ばせる道路……。そう、現代地球の動脈たる『都市間高速道路』の建設だ)
五百キロメートルの大地を、全線コンクリートおよびアスファルトで完全舗装し、上下線を分離した片側二車線の高速ネットワーク。
これが完成すれば、馬車で一週間を要した帝都までの移動時間は、わずか四時間に短縮される。
情報の伝達、物資の大量輸送、そして何より国家の統合スピードが、次元の違う領域へと跳ね上がるのだ。
(問題は……五百キロという途方もない距離を敷設するための、天文学的な建設資金だ)
前世の知識に照らし合わせても、高速道路の建設費は国家予算を軽々と吹き飛ばすレベルの巨額プロジェクトである。
普段の領地予算だけで賄おうとすれば、大公がどれほど富豪になろうと躊躇するに違いない。
だが――今のルーセンには、あの怪物が存在していた。
(……株式市場だ。このプロジェクトそのものを株式会社化し、出資を募って後から上場させればいい!)
カロンは不敵な笑みを浮かべ、即座に企画書をまとめ上げると、領主邸へと向かった。
午後一時。領主邸の大広間。
カロンの招集により、再び集まったハインリヒ大公、ギルバート、マリアベルの三人。
相変わらず株価高騰の余韻でホクホク顔を崩さない三人に、カロンは一枚の完成予想図を提示した。
「皆さん。株式市場の成功で潤った資金を、ただ眠らせておくのは工学者として許せません。……次なる一手として、ルーセンから帝都グランツまでの五百キロメートルを完全直結する、大陸初の高速専用道路網――『帝国高速道路』の建設プロジェクトを提案いたします」
「こ、高速道路……?」
大公が目を瞬かせる。
カロンは、現在の街道が時速百キロでの走行に耐えられない危険性、そして完全舗装された専用道路ができれば、帝都までわずか四時間で到達できるようになるという驚異的な時間短縮のメリットを力説した。
「つきましては、この建設を担う特別公社として『帝国高速道路株式会社』を設立し、お三方に出資を求めたいのです。もちろん――この道路が開通した暁には、利用する車やバスから徴収する通行料金を収益の柱として、この会社も証券取引所へ堂々と上場(IPO)させます」
『上場』という単語が出た瞬間。
三人の瞳が、同時にカッと光り輝いた。
昨日、資産が五倍に跳ね上がるという麻薬のような快感を味わったばかりの三人である。
「出資する!!」
ハインリヒ大公が机を両手でバンッと叩いて即答した。
「いくらでも出すぞ、カロン殿! 金なら金庫に入り切らんほどある! 儂自身、帝都へ通うたびにあのガタつく悪路に腰を痛めておったのだ! 四時間で帝都へ行ける道など、全財産を投げ打ってでも欲しいわ!!」
「ウチのギルドも一口噛ませろ!」
ギルバートが身を乗り出す。
「高速道路の料金所やパーキングエリアの警備はうちが一手に引き受ける! 護衛輸送の手間も半減するし、上場してまた株が上がるなら乗らねえ手はねえ!」
「ゲオル商会も、限度額なしで出資いたしますわ!」
マリアベルが扇子をパンと鳴らして微笑んだ。
「五百キロの物流が数時間に短縮されるなど、全土の商人が泣いて喜んで通行料を支払いますわ。絶対に損の出ない完璧な投資先ですもの!」
首脳陣の全会一致による即時出資決定。
……しかし、話はそこで終わらなかった。
「待ったァッ! カロン、その話、儂らにも噛ませろッ!!」
ドガァァンッ!と大広間の扉を蹴破って雪崩れ込んできたのは、黄色い安全ヘルメットを被ったバログ大親方、そして父ガイルであった。
「父さん?! 大親方まで、なぜここに?!」
カロンが驚愕すると、ガイルがニヤリと八重歯を剥き出しにした。
「へっ、工科大学の噂なんて風よりも早く職人の耳に届くぜ! 街道を全部鉄とセメントで固めるデカい仕事をするんだろ?! 儂らガロニアの鍛冶屋も、ガイゼンの鉱夫どもも、全員手持ちの金をかき集めて出資してえんだよ!」
さらに、その後ろから息を切らしながら駆け込んできたのは――
「カロン学長! 私も出資させてください!」と銀縁眼鏡を光らせるマルクス学部長。
「私も退職金を全部突っ込むぞい!」と小走りでやってきたボルト副学長。
「大公閣下、私めも長年の貯えを……!」と正装のまま駆け込んできた執事長セバスチャン。
「学長! ルーセン警備騎士団の退職金基金からも出資を願いたい!」と甲冑を鳴らすガース卿。
そして最後には、「カロン、エルフ族の巡礼団から預かったお布施の運用先に困っていたのよ。私も一口乗るわ」と愛弓を背負ったリアリスまでもが参戦してきたのである。
「「「……………………」」」
大公もマリアベルも、そしてカロンも、あまりの熱狂に口をあんぐりと開けて立ち尽くした。
「……やれやれ。株の魔力は、身内まで完全に呑み込んでしまったようですね」
カロンは苦笑しつつも、手元の出資者名簿に全員の名前を書き加えた。
こうして――領主、商会、ギルド、大学教授陣、親方衆、騎士団長、そして神の付き人たちまでもが株主として名を連ねる、超弩級のコンソーシアム組織――『帝国高速道路株式会社』が、熱狂の中で堂々と産声を上げたのである。
出資が集まった翌日から、カロンの真骨頂たる「近代土木機械化部隊」の開発が、大学タワー地下の工作室で昼夜を問わず開始された。
前世の高速道路建設史がそうであったように、五百キロメートルに及ぶ長大な道路を、ツルハシとスコップの人海戦術だけで掘り進めていては、完成までに数十年を要してしまう。
必要なのは――圧倒的な質量と動力を誇る「近代重機械(建設機械)」であった。
カロンは、カロン・スチールと大容量雷氷複合魔石バッテリー、そして超高トルク魔導油圧シリンダーを組み合わせ、前世の重機軍団を異世界の技術で完全に具現化させた。
魔導大型油圧ショベル(パワーショベル):巨大な鋼鉄のバケットで、一掬いごとに数トンの土砂を軽々と掘削し、法面を削り取る。
重軌道式魔導ブルドーザー:幅四メートルの超硬ブレードを備え、立木や巨石をものともせず、大地を力尽くで押し均して平坦にする。
三十トン積載型・大型電動ダンプカー:高強度の荷台に砕石やセメント骨材を満載し、時速六十キロでピストン輸送を繰り返す。
巨大魔導ロードローラー:数十トンの自重と高周波振動プレートにより、敷き詰められた砂利と路盤材をミリ単位の密度でガチガチに締め固める。
「す、すげえ……! なんだこの鉄の怪獣どもは……?!」
ガイゼンから合流したばかりのドワーフ鉱夫たちが、唸りを上げて動くショベルカーやダンプカーの群れを取り囲み、目を丸くして歓声を上げた。
カロンはメガホンを取り、ドワーフたちへ号令を下した。
「諸君! レバー操作の講習は昨日終えたはずだ! この鉄の巨躯を操り、東の地平線へ向けて道を拓くぞ!!」
「「「オオオオオオオッッ!!!」」」
ガイゼンとガロニアの混成ドワーフ重機部隊が、嬉々として運転席へと乗り込み、轟音とともに西門から街道へと出撃していった。
さらに――この前代未聞の突貫工事に、最強の助っ人が加わった。
「道を造るか。大地を切り拓き、人の往来を繋ぐは大地の本懐よ」
腕まくりをして現場へ現れたのは、大地の至高神――トーラであった。
トーラ神の協力は、もはや反則という言葉すら生ぬるい神威を発揮した。
高速道路の建設において最も難所となる「切り通しの急峻な法面」や、山脈の尾根を貫く「長大トンネル」の掘削。
通常の工法であれば、ダイナマイトで発破をかけ、支保工を組み、数ヶ月を要する難所を――
トーラ神が歩み寄り、岩盤に手を当てて「フン」と気合を込める。
ゴゴゴゴゴ……ッ!
それだけで、山肌の岩盤が飴細工のように美しく融解・圧縮され、大人四人がすれ違える断面を持つ強固なアーチ型トンネルが、わずか数十分で数キロメートルにわたって貫通してしまうのだ。崩落防止のコンクリート吹き付けすら不要な、鏡面のように滑らかな自立岩盤トンネルである。
「祖神様、早すぎるわい!!」
バログ大親方がショベルカーの窓から身を乗り出して叫ぶ。
カロンの工学重機軍団が大地を均し、ロードローラーが路盤を締め固め、トーラ神が山を穿ち谷を埋める。
その後ろから、カロンが開発した大型コンクリートペーバー(道路舗装重機)が、早強ポルトランドセメントとガイゼンの良質な砕石を混ぜ合わせたスリップフォームコンクリートを、幅十メートル、厚さ三十センチの強靭な板状に、休むことなく吐き出し続けていく。
片側二車線、往復四車線。
中央分離帯には緑化スリットが設けられ、路面は雨水を瞬時に排水する透水性コンクリート舗装。
一日で五キロ、十キロという、現代地球の土木工学すら裸足で逃げ出す狂気の施工スピード。
途中の要衝となる宿場町には、高速道路の出入り口となる「インターチェンジ(IC)」、そしてドライバーが食事や急速充電、車両点検を行える「サービスエリア(SA)」が次々と建設されていった。
そして――。
工事着工から、わずか「三ヶ月」。
雪解けの春風がライネス川を渡る頃、ルーセンから帝都グランツの西門前へと至る、全長五百キロメートルに及ぶ白く輝くコンクリートの滑走路――『帝国中央第一高速道路』が、一本の矢のように、完璧に全線開通を果たしたのである。
開通の朝。抜けるような快晴の青空の下。
ルーセン東門のすぐ外に新設された「ルーセン中央本線料金所」の前には、壮観極まりない大車列が地平線の彼方まで並んでいた。
工科大学の量産ラインからロールアウトした最新型の乗用電気自動車(EV)、ゲオル商会の大型電動輸送トラック、そして定員八十名を誇る青と白の「メガEVバス」の定期便車両群。
磨き上げられた車体が朝陽を浴びてキラキラと輝き、何千人もの市民やドライバーたちが、歴史的瞬間を一目見ようと沿道を埋め尽くしていた。
料金所のゲート前に設えられた特設演壇。
真新しい帝国宰相の礼装をまとい、胸元の勲章を誇らしげに光らせたハインリヒ大公が、マイクの前に進み出た。
「ゲスハルト帝国の臣民諸君!
かつて、帝都までの道のりは過酷なる泥と砂利の難所であり、馬車に揺られて一週間を要する命がけの旅路路であった!
しかし今日――至高の工学と、不屈の職人たちの手により、世界で最も平坦で、最も堅牢なる白銀の道が開かれた!
これより、我が帝国は一つの動脈によって結ばれる! 『帝国中央第一高速道路』、堂々の開通を宣言する!!」
パチパチパチパチッ――!!
ドォォォォンッ!と東門から空砲の祝砲が放たれ、大公とカロンの手によって真紅のテープが切り落とされた。
「「「全車、発進ッ!!」」」
プシューーーッ!
ゲートの遮断機が跳ね上がり、車列の先頭に陣取っていたカロンの運転する銀色のEVサルーンが、滑るようにコンクリートの路面へと躍り出た。
助手席にはハインリヒ大公。後部座席には、マリアベルとギルバートが並んで座っている。
カロンがアクセルペダルを深く踏み込んだ。
キィィィィィン……ッ!
四輪のインホイールモーターが力強く励起し、車体が一気に加速する。
速度計の針は、時速六十キロ、八十キロ、百キロ……そして、カロンが定めた高速道路の法定最高速度――時速百四十キロメートルへと跳ね上がった。
「おお……おおおおっ?!」
助手席のハインリヒ大公が、思わず手すりを握りしめて息を呑んだ。
しかし、次の瞬間に訪れたのは、恐怖ではなく、信じがたいほどの「静寂」であった。
車窓の外を流れる景色は、まるで矢のように後方へとすっ飛んでいく。
それにもかかわらず――車内には、微塵の振動もガタつきも存在しなかった。
継ぎ目を極限まで平滑に仕上げたコンクリート舗装の上を、ガンドルゴル樹液の超剛性タイヤが滑らかに転がり、まるで氷の上を滑空しているかのような、驚異的なスタビリティを維持していたのである。
「揺れない……! まったく揺れんぞ、カロン殿!」
大公が目を輝かせて叫ぶ。
「あの悪路を走っていた時の、内臓が飛び出るような突き上げが嘘のようだ! テーブルの上に置いた紅茶のカップが、水面一つ波立っておらんではないか!」
後部座席で窓の外を見つめていたマリアベルも、感嘆の息を漏らした。
「……信じられませんわ。この速度を維持したまま、ノンストップで走り抜けられるなんて……。これなら、ルーセンを出発した大型トラックが、その日の夕方には帝都の市場へ採れたての野菜や魚を納品できてしまいますわ!」
「ああ、とんでもねえ道を作っちまったな、旦那!」
ギルバートも太い腕を組み、破顔した。
途中、二箇所に設置された広大なサービスエリア(SA)を通過。
そこには、温かい食事を提供するフードコート、清潔な水洗トイレ、そしてカロンが設置した「人造蓄電魔石・急速交換ステーション」が完備され、わずか三分で満充電のバッテリーパックへと交換できるようになっていた。
そして――。
ルーセンを出発してから、わずか「四時間後」。
視界の彼方に、巨大な帝都グランツの白亜の外郭城壁が、巨大な姿を現したのである。
「見えたぞ……帝都だ! 本当に、朝出て昼過ぎに着いてしまった……!」
ハインリヒ大公が懐中時計を見つめ、震える声で叫んだ。
一週間を要した旅路が、わずか半日のドライブへと縮退した瞬間。
帝都西門の高速出口ゲートをくぐり抜けた銀色のEVは、出迎えた帝都の近衛兵たちと群衆の割れんばかりの歓声に包まれたのであった。
そして、高速道路の開通と同時に行われたのが――
事前に約束されていた、『帝国高速道路株式会社』の株式公開(IPO)であった。
その日の午前九時、ルーセン証券取引所の鐘が鳴り響くと同時に、立会場は先日の開業初日を遥かに凌駕する狂乱の坩堝と化した。
「買え! 帝国高速道路の株を全額買え!」
「帝都まで四時間で行けるんだぞ! 通行料収入が毎日山のように入ってくるに決まってる!」
「売り手はいないか! 金貨五枚でも買うぞ!!」
何百人もの場立ちたちが腕を振り乱し、ハンドサインの嵐が吹き荒れる。
機械式計算機のハンドルが煙が出るほどの勢いで回転し、黒板のチョークの数字は、天を衝く勢いで跳ね上がり続けた。
そして――開通からわずか一週間後。
集計された最終株価は、公募価格の「実に六倍」という、市場最高記録を叩き出していたのである。
その結果。
カロンの言葉を信じ、手持ちの資金をかき集めて出資していた「身内たち」のもとへ、天文学的な巨額の富が雪崩を打って転がり込んできた。
その夜のルーセンは、至る所で「壊れた大人たち」の奇声と歓喜の悲鳴がこだましていた。
【新工房区の酒場:鍛冶親方衆の狂乱】
「ガハハハハハッ!! 飲め飲めェッ!!」
酒場のテーブルの上で、樽ごと白ビールを抱えて踊り狂っていたのは、父ガイルとバログ大親方であった。
「見たかガイル! 儂らの突っ込んだ金貨百枚が、たった一週間で金貨六百枚になったんじゃぞォッ!!」
「おうよ大親方! カロンの息子に言われるがまま金を出しただけだってのによォ! これでガロニアの全工房に、最新の魔導旋盤を十台ずつ買い揃えてもまだ金が余るぜェッ! カロン万歳! 高速道路万歳じゃァァッ!!」
二人は抱き合い、髭を酒まみれにしながら床の上を転がり回っていた。
【大学タワー四階:生物学者のバブル崩壊】
一方、普段は冷静沈着を絵に描いたようなマルクス学部長の研究室。
そこでは、マルクスが自身の通帳を握りしめ、白衣を着たまま椅子の上でガタガタと震えていた。
「ろ、六倍……? 私の出した少額の研究準備金が……六倍……?
う、嘘だろ……。前世で三十年かけて貯めた退職金より遥かに多い金が、一週間で口座に振り込まれている……。
あ、あの……ボルト先生、これ、税務署とか文部科学省……じゃなくて帝国の国税監査官が乗り込んできたりしませんよね……? 捕まったりしませんよね……?!」
隣のソファで、同じく退職金を突っ込んで大儲けしたボルト副学長が、瞳の焦点をどこか遠くへ飛ばしながら、高級茶をすすってフヒヒと笑っていた。
「心配するなマルクス君……大公閣下が財務大臣じゃからの……合法じゃ、完全に合法の金じゃよ……ふふ、これで一生涯、最高級の羊皮紙とインクを湯水のように使い放題じゃわい……」
学者たちの金銭感覚も、綺麗さっぱり崩壊していた。
【大公邸の執事室:老執事の解放】
領主邸の片隅、執事長の執務室。
そこでは、何十年もの間、ハインリヒ大公の胃潰瘍と領地財政の赤字に頭を悩ませ続けてきた老執事セバスチャンが、机の上に積み上がった金貨の山を見つめながら、両手で顔を覆ってボロボロと落涙していた。
「神よ……至高の神々よ……。
私めが爪に火を灯すようにして貯めてまいりましたへそくりが……このような巨額の財宝へと化けるとは……。
ああ……もう、大公閣下の無茶な支出に怯えて帳簿の帳尻を合わせる日々は終わったのですね……。
明日からは……明日からは、領主邸のトイレットペーパーをすべて最高級の三層シルク紙に変えて差し上げますぞ……ううっ……!」
老執事の長年の苦労が、奇跡の形で報われた瞬間であった。
【東門警備本部:騎士の凱旋】
そして、東門警備騎士団の隊長室。
真新しい佩刀を腰にしたガース卿が、震える手でクロル村の父親(村長)への手紙を認めていた。
「『親父……俺は騎士になっただけでなく、高速道路の株というやつで、クロル村が丸ごと十回買えるほどの大金持ちになってしまった……。今度、村の段々畑を全部コンクリートで舗装して、全戸にエアコンを取り付けてやるから待っていてくれ……』」
手紙に涙の染みを作りながら、ガースは神棚に向かって深々と最敬礼を捧げていた。
【リアリスの一軒家:エルフのほくほく顔】
さらに、住宅街の平屋の一軒家。
リビングで紅茶を淹れていたリアリスは、手元の通帳の数字を見て、ふふっと美しい唇をほころばせていた。
「まあ……エルフの森から預かったお布施をちょっと回しただけなのに、こんなに増えてしまうなんて。
これなら、シルフ様のために街中の最高級アイスクリームを十年分買い占めても、お釣りが来るわね」
隣のソファで、絵本を読みながらスプーンでイチゴアイスを頬張っていたシルフが、不思議そうに首を傾げる。
「リアリスさん、なんだかすっごくご機嫌ですねぇ?」
「ええ、とってもご機嫌よ、シルフ様。明日も特大のアイスを食べに行きましょうね」
「わぁい! リアリスさん大好きですぅ!」
誰もが富を手に入れ、誰もが未来への希望に胸を躍らせていた。
資本主義の光と熱は、学園都市ルーセンを、大陸のどの国家よりも豊かで、力強く、そして少しだけ愉快に狂った奇跡の都へと押し上げていたのである。
大聖堂裏手のアパート、二階の自室。
深夜の湯船に肩まで浸かり、カロンは静かに目を閉じていた。
(……五百キロの高速道路が、三ヶ月で完成し、株価は六倍か。
無茶苦茶なスピード感だが、これで帝都との物理的・経済的なパイプは完全に盤石となったな)
湯気の中に吐き出されたため息には、心地よい充実感が滲んでいた。
明日からは、高速道路を利用した定期高速バス路線の運行管理、そしてサービスエリアの運営体制の整備が待っている。
エンジニアとして、これほどまでに自らの技術が世界をダイレクトに塗り替えていく快感は、何物にも代えがたい。
「……よし。明日も、しっかり働くとしよう」
カロンは満足そうに微笑み、温まった身体で湯船から上がると、夜風の吹き抜ける窓の外――地平線の彼方まで真っ直ぐに伸びる、白く輝くコンクリートのハイウェイを見つめながら、穏やかな眠りへと落ちていったのであった。




