第86章:風の神、シルフの付き人編
第86章:風の神、シルフの付き人編
冬の訪れを目前にして、凛とした冷気が屋根瓦を撫でる朝。
学園都市ルーセンの中央区、かつては鳥のさえずりと時折響く荷馬車の車輪の音くらいしか聞こえなかった閑静な住宅街の一角は、今や完全に異様な熱気に包まれていた。
「シルフちゃーーーん! こっち向いてーーっ!」
「シルフちゃん、尊い……! お顔を一目だけでも見せてくださいぃぃ!」
「シルフ様、お慕いしております! 聖森ルートリードより、命を賭けて巡礼に参りましたぁぁ!」
キンと張り詰めた朝の空気を切り裂いて響く、黄色い、そしてどこか狂気を孕んだ熱烈な大歓声。
平屋の木造一軒家の二階、厚手の遮光カーテンの隙間からそっと外を覗き見たリアリスは、思わず額を押さえて深い、深いため息を漏らした。
「……はぁ。今日も今日とて、完全に包囲されているわね」
銀髪をポニーテールに結い上げ、冒険者用の軽鎧に身を包んだエルフの美女、リアリス。
彼女が見下ろす通りの光景は、もはや日常茶飯事とはいえ、頭痛を誘発するには十分すぎるものであった。
通りを埋め尽くしているのは、見渡す限りの銀髪、金髪、そしてピンと尖った長い耳。
上質な緑や白のローブを身にまとい、背中には工芸品のように美しい弓を背負ったエルフ族の男女が、百人、二百人どころではない規模でぎゅうぎゅう詰めに押し寄せ、リアリスの借家を取り囲んでいた。
手に手に掲げられているのは、大聖樹の若葉で作られた特製の応援うちわや、「風の御神祖様 LOVE」と古代エルフ文字で刺繍された手作りの横断幕。彼らは朝露に濡れながら、神が宿る窓辺に向かって必死に手を振っているのだ。
「ふぇぇ……っ、リアリスさん……お外、すっごく人がいっぱいですぅ……っ」
部屋の隅、クローゼットとベッドのわずかな隙間に挟まるようにして、毛布を頭からすっぽり被って小さく丸まっていたのは、他ならぬこの熱狂の元凶――エルフの少女の姿に受肉させられた風の主神、シルフであった。
薄緑色の髪の毛先を震わせ、エメラルドグリーンの瞳には大粒の涙が浮かんでいる。尖った耳をペタリと完全に倒し、小鹿のようにカタカタと小刻みに震えていた。
「大丈夫よ、シルフ様。鍵も閂も頑丈にかけてあるし、結界も張ってあるから、誰も勝手には入ってこられないわ」
リアリスは歩み寄り、シルフの小さな肩を優しく抱きしめた。
事の発端は、あの金髪の駄女神メリスがやらかした「二十年間の変身解除不能ロック」であった。
風の神が愛らしいエルフの少女の姿となって地上に滞在することになり、リアリスがそのお世話役(付き人)として自宅で同居を始めた。
そこまでは良かったのだ。
だが、帝都でのクーデター鎮圧後、国王セルセデス3世の勅令によって「シルフ教団」が国家公認の正統宗教として正式に立ち上げられ、その報が風の便りに乗ってエルフたちの故郷「ルートリード皇国」へと届いてしまった。
何万年もの間、梢を渡る風としてのみ崇めてきた絶対無二の御神祖様が、愛らしい姿でルーセンの街に定住しておられる――。
その報せを聞きつけた敬虔な同胞たちが、仕事を放り出し、家族総出で国境を越え、狂乱の大巡礼団となってこの街へと雪崩れ込んできてしまったのである。
「もう……神様をアイドルのように追い回すなんて、同じエルフとして恥ずかしいったらありゃしないわ」
リアリスは毒づいたが、外の同胞たちを力づくで追い払うわけにもいかない。彼らに悪意はなく、純粋すぎる信仰心と愛が暴走しているだけなのだからタチが悪い。
「シルフ様、朝ご飯にしましょう。温かいスープを作ったわよ」
「は、はい……っ」
怯える少女神の手を引き、一階の居間へと降りる。
外からの「シルフちゃーーん!」というコールが地鳴りのように響く中、二人はテーブルについたのであった。
リアリスが用意した朝食は、木製の皿に盛られた色鮮やかなサラダと、蒸した温野菜、そしてトウモロコシとキノコのポタージュスープ、カリッと焼いたライ麦パンであった。
シルフはスプーンを小さな両手で持ち、スープを口に運ぶと、ようやく少しだけ強張っていた表情を緩ませた。
「おいひい……っ。リアリスさんのスープ、お野菜が甘くて、とっても温かいですぅ……」
「ふふ、お口に合ってよかったわ。たっぷり食べて体力をつけてね」
リアリスが微笑む。
神のお世話役となって分かったことだが、シルフの食の好みは極めて繊細であった。
基本的に野菜や果物、ナッツ類がメインの完全なベジタリアンに近い。魚料理はカロンが丁寧に骨を抜いてハーブ焼きにしたものなら辛うじて少しだけ口にできるが、獣の肉――牛や豚、猪などの肉料理は、見ただけで「可哀想ですぅ……」と涙目になり、絶対に口にしようとしなかった。
どこぞの金髪の駄女神が、朝から大食堂でメガハンバーグ定食を平らげ、骨付き肉にかぶりついている姿とは、まさに天と地ほどの差であった。
二人が朝食を終えようとしていた、その時である。
ゴゴゴゴゴ……ッ!
リビングのフローリングの床が、微かな振動とともに軋み始めた。
「きゃっ!? な、何ですかぁ……!?」
シルフがスープ皿を抱えて飛び退く。
リアリスも咄嗟に腰の短剣に手をかけたが、床の隙間から漏れ出てきたのは、禍々しい魔物の気配ではなく、どこか懐かしく温かな「大地の神気」であった。
カチャリ、と音を立ててリビングの床板が一枚、綺麗に四角くスライドして外れた。
床下の地下空間から、モグラのようにヌッと顔を出したのは――
作業着のチュニックを泥だらけにし、肩に頑丈な鉄スコップを担いだ巨漢、大地の神トーラであった。
「……うむ。朝食の邪魔をしてすまなんだな」
地鳴りのような重低音とともに、二メートルを超える巨躯が床下から軽々と這い上がってきた。部屋の天井に頭がぶつかりそうになっている。
「ト、トーラ様!? 床下から一体どうされたのですか!?」
リアリスが目を丸くする。
トーラ神はスコップの泥を手で払い、窓の外から響く「シルフちゃーーん!」の大合唱に眉をひそめた。
「朝、畑へ向かう途中で通りかかったのだがな。エルフどもが家の周りを幾重にも取り囲んでおるのを見かけてな。……シルフが家から一歩も出られず、怯えて困っておるのではないかと思って、地下を少し掘ってきたのだ」
トーラ神は親指で、開いた床下の穴を指差した。
「この穴の奥はな、地下五メートルの深さを通り、四軒隣にある空き倉庫の地下へと直通しておる。内壁は岩盤でカチカチに固めてあるゆえ、崩れる心配はない。外のエルフどもに気取られることなく、そこから通りへ抜けられるぞ」
「「えええええっ!?」」
リアリスとシルフは声を揃えて驚愕した。
わずか朝の散歩のついでに、四軒隣までの地下バイパスを完全無音で掘削してしまう大地の神の土木技術。
「トーラ様……! わ、わざわざシルフ様のために、抜け穴を掘ってくださったのですか!?」
「うむ。風が閉じ込められていては息が詰まるからの。……シルフよ、冒険者ギルドへ行くのであろう? これを通って行くとよい」
トーラ神が屈み込み、分厚い掌でシルフの頭を優しく撫でてやる。
シルフは翡翠の瞳をパァァッと輝かせ、トーラの太い腕にしがみついた。
「トーラ様……! ありがとうございますぅ……! わたし、お外に出られなくてすっごく困ってたんです……! トーラ様、だいすきですぅ……!」
「わはは、そうかそうか。困ったことがあればいつでも言えよ」
妹を慈しむ兄のように目を細めるトーラ神。
リアリスはその光景を見つめながら、深く感嘆のため息をついた。
(……見た目は荒々しい巨漢なのに、本当にこの神様は気が利くというか、面倒見が良いわよね。……どこかの金髪のトラブルメーカーに、この爪の垢を煎じて飲ませてやりたいわ)
こうして、二人はトーラ神の掘ってくれた特製地下トンネルを通り、熱狂するエルフ軍団の包囲網を完全にすり抜けて、無事に外の通りへと脱出することに成功したのである。
路面電車のレールを横切り、中央大通りを歩いてルーセン冒険者ギルド本部へ到着したリアリスとシルフ。
館内へ足を踏み入れると、朝のギルドはすでに多くの探索者たちで賑わっていた。
「シルフ様、おはようございます!」
「おはようございます、シルフちゃん!」
受付の女性職員たちが笑顔で手を振る。
シルフは嬉しそうに駆け寄り、カウンターの奥に用意された専用の小さな木製ステップに登ると、フリル付きのエプロンをキュッと締めた。
「おはようございます! 今日も、お仕事がんばりますぅ!」
シルフの日課は、ギルドに集まる膨大な依頼書の仕分け作業であった。
カロンの工科大学から届く資材運搬依頼、農場からの護衛依頼、街中の清掃依頼など、多種多様な羊皮紙の束を、小さな手で丁寧に揃え、受領印のスタンプを「ぺたん、ぺたん」とリズミカルに押していく。
その愛らしい姿と、彼女の周囲に漂う清涼な風の神気は、殺伐としがちな冒険者ギルドの空気を一瞬で浄化するオアシスとなっていた。
依頼を受けに来た荒くれ者の冒険者たちも、シルフの前を通る時だけは自然と姿勢を正し、柔らかな笑顔で会釈していく。
……しかし。
その平和な聖域に、またしても「招かれざる波」が押し寄せてきた。
バタンッ!
ギルドの正面両開き扉が勢いよく開け放たれた。
入ってきたのは、家を取り囲んでいたのと同じ、熱狂的なエルフ巡礼団の若者たち十数名であった。
彼らは受付カウンターの奥にちょこんと座るシルフの姿を視認するなり、目を血走らせ、両手を胸の前で組んで猛ダッシュでカウンターへ殺到してきたのである。
「いた……! 本当にいらっしゃった……!」
「ああ、何という神々しき愛らしさ……! 我が魂の救済……!」
「シルフちゃーーーん!! 私の愛を受け取ってくださーーいっ!!」
「シルフちゃんLOVE!! 一生お仕えいたしますぅぅっ!!」
カウンターに身を乗り出し、花束や手作りの木彫りの像を差し出して拝み倒すエルフたち。
シルフは持っていたスタンプを取り落としそうになり、涙目で後ずさった。
「ふぇぇ……っ!? こ、ここは冒険者ギルドですぅ……っ! お祈りする場所じゃないですぅ……っ!」
「ちょっと、あなたたち!!」
リアリスが怒髪天を衝く勢いで割って入ろうとした――その瞬間であった。
「――ああん? 朝っぱらからギャーギャーうるせえんだよ、耳長どもがァッ!!」
ドガァァァァンッ!!
ギルドの二階フロアから、地鳴りのような咆哮とともに、一筋の紅蓮の炎が階段を飛び降りてきた。
着地したのは、ボサボサの真紅の短髪を逆立たせ、前全開の革ベストを着流した巨漢――火と溶岩の神、イグニであった。
その顔は、睡眠を邪魔された猛獣のように凶悪極まりない。
イグニはスタスタとカウンターの前へ歩み寄ると、シルフに詰め寄っていたエルフの若者二名の襟首を、まるで子猫のように両手でひょいと持ち上げた。
「ひ……っ!?」
「な、何だこの男は……放せっ!」
足をバタつかせるエルフたちを、イグニは至近距離から真っ赤な瞳で睨みつけた。
その口元から、ボッと本物の火の粉が吹きこぼれる。
「あァ? 誰に指図してんだコラ。シルフが困って泣きそうになってんだろうが。仕事の邪魔すんじゃねえよ。……消し炭にして、灰をこの街の側溝に流してやろうか?」
ジュウゥゥッ……と、イグニの全身から放たれた殺気と神聖熱波が、エルフたちの前髪をチリチリと焦がした。
天界の荒神の本気の凄気。エルフたちは顔面を蒼白どころか土気色に変色させ、カチコチに凍りついた。
イグニはそのまま、エルフ二人を抱えたままギルドの正面玄関へと歩き、
ドォンッ!!
「二度と騒ぐんじゃねえぞ、スッコンデロ!!」
二人まとめて外の石畳の上へと豪快に放り投げた。
残りのエルフたちも「ひ、ひぃぃぃっ! 化け物だぁぁっ!」と悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
ギルドホールに静寂が戻る。
イグニは肩を回しながらカウンターへ戻ってくると、シルフの前に立ち、フッと目つきを和らげた。
そして、太い掌でシルフの小さな頭を、クシャクシャと優しく撫でてやった。
「おう、シルフ。怪我はねえか? 怖かったら俺かギルバートをすぐ呼べよな」
「は、はいっ……! イグニ様、助けてくれてありがとうございますぅ……!」
シルフが安堵の笑顔を浮かべる。
その一部終始を見ていたリアリスは、深いため息をつきながら、ギルドマスター執務室から出てきたギルバートの隣へ歩み寄った。
「……ねえ、ギルマス。イグニ様って、本当に口も態度も最悪に荒っぽいけれど……シルフ様のことになると、驚くほど頼りになるわよね」
ギルバートは大剣の柄に手を当て、苦笑いを浮かべた。
「おうよ。あいつ、天界にいた頃からシルフの兄貴分気取りだったらしいからな。……まあ、暴れん坊の居候だが、妹分を守るためなら本気で街を焼き払いかねんのが玉に瑕だがな」
「本当よ……。でも、同胞があんな醜態を晒して追い出されるのを見るのは、同じエルフとして情けないやら恥ずかしいやらで、複雑な気分だわ」
リアリスは肩をすくめ、再びスタンプを押し始めたシルフの健気な横顔を見守るのであった。
午後の陽光が中央通りを照らす頃。
ギルドの午前中の手伝いを終えたシルフを連れて、リアリスは新工房区の西側に広がる建設現場へと足を運んでいた。
カロンの設計により、現在急速に組み上げられている巨大な建築物。
それは、先日セルセデス3世の勅令によって設立が決まった公認教団――『トーラ大聖堂』、そしてその隣に並び立つ『シルフ大聖堂』の建設現場であった。
現場には、黄色い安全ヘルメットを被ったバログ大親方を筆頭に、ガロニアとガイゼンから集まった屈強なドワーフ親方衆五十名が、声を掛け合いながら鉄骨と大理石のブロックを組み上げていた。
「大理石のアーチを吊り上げろ! 表面に傷をつけるなよ、風の神様の聖堂じゃぞ!」
「窓枠の透かし彫り、エルフの風の紋章を寸分の狂いもなく彫り込め!」
ドワーフたちが、埃と汗にまみれながら、驚くほどの熱量と敬意を込めて作業に励んでいる。
その光景を足場の外から見上げていたシルフは、薄緑色のワンピースの裾をギュッと握りしめ、申し訳なさそうに眉尻を下げていた。
「……あの、リアリスさん……」
「なぁに、シルフ様?」
シルフは、ドワーフたちが重い石材を担ぎ上げる姿を見つめ、小さな声でぽつりと呟いた。
「……なんだか、とっても……わたしの為にこんなに大きな建物を造ってもらうの、申し訳ないですぅ……。ドワーフさんたち、汗びっしょりで、怪我をしそうなくらい一生懸命で……わたし、風を吹かせてるだけなのに……なんだかとても、悪いです……」
自分のために他人が苦労していることに、胸を痛めて恐縮する少女神。
そのあまりにも純真で奥ゆかしい言葉に、リアリスは思わずクスリと笑ってしまった。
「シルフ様、そんな風に気後れする必要なんて、微塵もありませんわ」
リアリスは屈み込み、シルフの目線に合わせて優しく語りかけた。
「思い出してくださいまし。あの金髪の駄女神メリスでさえ――街中でパフェを百二十杯食い散らかし、ツケをカロンに丸投げし、カジノで毎日スロットを叩いてスッからかんになっているあの駄女神でさえ、立派な教会を持ち、信徒たちから『慈愛の主神様〜!』って涙を流して慕われているのですよ?」
「ふぇ……め、メリス様、慕われてますね……」
「そうでしょう? あの駄女神が許される世界なのですから、街中に安定した風を恵み、風力発電を支え、ギルドを手伝ってくれているシルフ様が、立派な教会を持っていけない理由なんてどこにもありませんわ。堂々と胸を張って、ドワーフたちの真心を受け取ってあげてくださいな」
リアリスの力強い言葉に、シルフは翡翠の瞳をパチクリと瞬かせ、やがてふにゃりと安堵の笑みを浮かべた。
「……はい! ありがとうございます、リアリスさん……! ドワーフさんたちが完成させてくれたら、すっごく涼しくていい風を、大聖堂いっぱいに吹かせてあげますね!」
「ええ、それが一番の恩返しになりますわ」
二人が微笑み合っていると、建設現場の足場の上から、作業服姿のカロンが図面ケースを小脇に抱えて降りてきた。
「おや、リアリスさんにシルフ様。現場の見学ですか?」
「カロン! ええ、シルフ様をお連れしたの。順調に進んでいるようね」
カロンは満足そうに白亜の列柱を見上げた。
「ええ。ガイゼンから合流した石工たちの手際が素晴らしくてね。来月には、ステンドグラスの嵌め込みまで完了する見込みです。シルフ様の大聖堂には、風の通りを計算した特製の通風スリットと、鐘楼の風鈴パイプオルガンを組み込む予定ですよ」
「わぁぁ……! 風のオルガン……! すっごく楽しみです、カロンさん!」
シルフが飛び跳ねて喜ぶ。
その時、現場の奥から、ドスドスと足音を響かせてやってきた者がいた。
赤髪を逆立たせ、手には大きな骨付き肉の包みを持ったイグニであった。
「よう、カロン! シルフもいたか!」
イグニはシルフの前に屈み込むと、包みを開けて見せた。中には、香ばしいタレの匂いを放つ、巨大な野牛の串焼き肉がドカンと鎮座していた。
「ほらシルフ、街の肉屋で一番脂の乗った新鮮な肉を買ってきたぞ! 今度、この肉を出す店へ一緒に食いに行こうぜ! 肉を食わなきゃ力が出ねえぞ!」
満面の笑みで肉を差し出すイグニ。
しかし――それを見たシルフは、サッと顔を青ざめさせ、両手で口元を押さえて後ずさった。
「ひゃぅぅっ……! に、お肉……! 牛さん……! ご、ごめんなさい、わたし、お肉は……食べられないですぅ……っ!」
本気で困り果て、今にも泣きそうな顔で耳を伏せるシルフ。
リアリスが即座にイグニの脇腹へ肘鉄を叩き込んだ。
「ちょっとイグニ様! シルフ様がお肉を食べられないことくらい、見てれば分かるでしょうが! 無神経にも程がありますわよ!」
「ぐふっ!? な、何だとリアリス、俺は精をつけてやろうと思っただけでだな……!」
「いいからそのお肉はギルマスにでも食べさせなさい!」
怒るリアリスと、タジタジになるイグニ。
カロンはその騒ぎを苦笑いで宥めながら、懐から小さな紙包みを取り出してシルフへと手渡した。
「シルフ様、こちらをどうぞ。大学の農場で採れたイチゴを使った、冷たいイチゴミルクアイスです」
「ふぇ……! アイスクリーム……!?」
紙包みを開けたシルフの瞳が、一瞬で爛々と輝いた。
小さな木のスプーンで一口すくい、口に含むと、先ほどの恐怖など跡形もなく吹き飛び、とろけるような至福の笑みがこぼれ落ちた。
「おいひい……っ! つめたくて、あまくて……やっぱりアイスクリーム、だぁい好きですぅ……!」
「ふふ、毎日食べたいって言っていましたものね」
リアリスも目を細め、現場には温かな笑い声が広がったのであった。
夕暮れ時。
茜色の光がルーセンの街を包み込む中、リアリスとシルフは、再びトーラ神の掘ってくれた地下通路を通り、大勢のエルフ巡礼団が待ち構える地上の包囲網を華麗にスルーして、我が家へと帰還した。
キッチンのコンロに火を入れ、夕食の準備を始めるリアリス。
今夜のメニューは、シルフの大好物であるカボチャとサツマイモの甘煮、新鮮なレタスとトマトのサラダ、そして焼きたてのキノコグラタンであった。
リビングのテーブルでは、シルフがお気に入りの絵本を広げ、静かにページをめくっている。
部屋の中には、シルフが自然と生み出す柔らかなそよ風が満ち、心地よい静寂が流れていた。
グラタンに焼き色がつくのを待ちながら、リアリスはふと、現在この街に暮らしている「天界の五柱の神々」の顔ぶれを、頭の中で思い浮かべた。
(……それにしても)
リアリスは腕を組み、小さく吹き出しそうになった。
(神様の面倒を見る、付き人になる……なんて聞いた時は、一体どんな過酷な運命かと思ったけれど。……五柱の神様の中で、誰が一番マシかって言われたら……断然、シルフ様よね)
リアリスは指を折って、他の神々の現状を数え上げた。
まず筆頭――カロンのアパートに居候している駄女神、メリス。
食い意地は底なしで、学食やカフェで毎日ドカ食い。
この間は闇カジノに手を出して金貨五百枚を溶かし、今度は公営カジノのスロットに毎日張り付いて台を叩いている。
月末になれば莫大なツケの請求書がカロンの口座へと容赦なく飛んでいき、カロンの胃壁を毎日削り続けている元凶中の元凶。
次に――ギルバートの家に転がり込んだ炎の神、イグニ。
言葉遣いは乱暴、街中で喧嘩を売っては相手を消し炭にしかけ、ギルバートを連れ回してカジノのブラックジャックで給料をすべて溶かして大笑いしている脳筋ギャンブラー。
そして――ハインリヒ大公の迎賓館に暮らす水と氷の女神、ヒュドール。
見た目は超絶のクールビューティーだが、大公の家庭を愛人疑惑で崩壊させかけ、帝都の王宮でも国王夫妻の激しい修羅場を引き起こして高みの見物で楽しんでいる、なかなかに性格の悪い甘味中毒者。
さらに――マルクスの宿屋の隣に住む大地の神、トーラ。
人格者で面倒見は良いが、不用意な発言でガロニアのドワーフ親方衆五十人を一斉に卒倒させ、ハインリヒ大公を胃痙攣で失神させた天然の破壊神。
(……それに比べて、うちのシルフ様はどうかしら?)
リアリスはリビングで絵本を読んでいる少女神を見つめた。
食い意地は張っていない。野菜と果物、そしてたまに食べるアイスクリームだけで「幸せですぅ」と微笑んでくれる。
ギャンブルなんて危険な遊びには目もくれないし、ルールすら知らない。
莫大な請求書が飛んでくることもなければ、金銭トラブルを起こすこともない。
家族や人々の前で大喧嘩を引き起こすような不穏な空気も一切出さない。
ただ、エルフの同胞たちが外で「シルフちゃーーん!」と叫んで押し寄せてくるのが少々騒がしいくらいで、実害といえば可愛らしすぎて心臓に悪いくらいのものである。
「シルフ様、夕ご飯ができましたよ」
「はぁい! わぁ、グラタン、とってもいい匂いがします……!」
シルフは絵本を丁寧に閉じると、テーブルへとやってきて、ちょこんと椅子に腰掛けた。
手を合わせ、「いただきます」と小さくお祈りをしてから、スプーンを動かし始める。
「おいひい……っ! リアリスさん、チーズがトロトロで、とっても美味しいですぅ……!」
満面の笑顔で頬を膨らませる少女神。
リアリスはその向かいに座り、温かいハーブティーを口に含みながら、心底からの満足感を噛みしめた。
(ええ、やっぱり間違いないわ。神様の付き人をするなら、世界中どこを探したって、シルフ様が最高の当たりくじよ)
明日はまた、冒険者ギルドでの書類整理と、夕方には新しいアイスクリームを食べにカフェへ行く約束がある。
外の同胞たちの熱狂的な歓声は相変わらず夜になっても遠くで響いていたが、部屋の中を吹き抜ける風は、どこまでも優しく、暖かかった。
リアリスは静かに微笑み、スプーンを口に運ぶシルフの愛らしい姿を眺めながら、騒がしくも愛おしいルーセンの夜を、穏やかに過ごすのであった。




