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第85章:火の神、イグニの付き人編

第85章:火の神、イグニの付き人編


冬の澄み切った朝日が、ルーセン中央区の外れにある古びた二階建てアパートの一室へ、細長く斜めの光を投げかけていた。


ギルバートは、軋む木製ベッドから重い上体を起こした。

分厚い胸板、無数に刻まれた歴戦の古傷、そして顎を覆う無精髭。

元Aランク冒険者にして、現ルーセン冒険者ギルドマスター――五十がらみの屈強な肉体は、今なお並のオークを一撃で叩き伏せる筋量を誇っている。しかし、ベッドから降りて床を踏みしめた時の彼の吐息には、どこか拭い去れない乾いた気怠さが混ざっていた。


一人暮らしの部屋は、無骨そのものであった。

男一人、しかも料理の腕など微塵もない元探索者の住まいだ。飾り気のない机に、脱ぎ散らかした革ベスト。部屋の隅の壁には、冒険者を引退した今でも手入れを欠かさず、護身用として肌身離さず持ち歩いている愛用の両刃大剣が、革の鞘に収まって静かに立てかけられていた。


「……ふぅ、今日もまた、あの机に齧り付く一日か」


ぼやきながら顔を洗う。

現役を退いてギルドマスターの椅子に座って以来、ギルバートの生活は極めて単調であった。

朝起きてアパートを出て、ギルド本部へ行き、山のように積まれた依頼書を検分し、若い冒険者たちの喧嘩を怒鳴りつけて仲裁し、夕方になれば酒場でエールを煽り、またこの薄暗いアパートへ戻って一人で眠る。


ギルド長としての権威はある。報酬も悪くない。

だが――胸の奥底には、常にぽっかりと空いた風穴のような虚しさが横たわっていた。

かつて未踏の迷宮へ潜り、死線を潜り抜け、命を賭けて仲間と背中を預け合っていたあの頃の「ワクワク感」が、机仕事と判子押しの日常からは完全に抜け落ちていたからだ。


そんな退屈な街の空気を、根底からひっくり返したのが――あのドワーフの小僧、カロンであった。


(……思い返せば、あいつがルーセンに現れてから、何もかもが狂い始めたんだよな)


ギルバートは苦笑いを漏らしながら革ベストに腕を通した。

街に電気を通し、解体場に氷も要らない巨大冷蔵庫を据え付け、水道の蛇口を引いたかと思えば、路面電車を走らせ、二十階や三十階の天を突く塔を建てて大学を創設してしまった。

それだけでも腰を抜かすような話だというのに、あの小僧はダンジョンの最深部で何をトチ狂ったのか、本物の女神メリスを拾い上げてパーティーに引き入れ、あまつさえ自分のアパートに居候させて「付き人」を始めたのである。


さらに、後輩の冒険者であるエルフのリアリスまでもが、なぜか幼女の姿をした風の主神シルフの付き人になり、自宅で同居を始めた。

それどころか、日中の冒険者ギルドの受付カウンターの奥で、エプロンをつけた風の神が「紙をそろえるの、たのしいですぅ」と愛らしく書類をスタンプで仕分けているのだ。

(……おいおい、神様が受付のバイトを手伝ってるギルドなんて、大陸中のどこを探したってあるわけねえだろ)と、当時のギルバートは本気で頭を抱えたものだった。


そして、次の決定的な転機となったのが――公営カジノ『エルドラド』の開設であった。


カロンの奴が「健全な大衆娯楽」と称してぶち上げたあの施設。

あれは、ギルバートにとって冒険者ギルドへの莫大な警備手数料収入をもたらす極上のビジネスであり……同時に、退屈な日常を埋めてくれる唯一の楽しみ、いや、男の嗜み……そうではなく、公務の一環としての健全なる視察の場となった。


ただ、あのスロットフロアの角で、毎日毎日きっちり上限額までスっては「カロンの分からず屋ぁぁっ!!」と台を揺らして叫んでいるカジノの地縛霊――駄女神メリスの哀れな姿を見るにつけ、ギルバートは心底からこう思っていたのだ。


『はぁー……神様のお付きってのは、本当に胃が千切れるほど大変なんだなぁ。カロンの旦那も、リアリスも、よくあんな厄介極まりない連中の面倒を見てられるぜ。俺には絶対に無理だな!』


……そう。思っていた「時期」が、確かにあったのだ。


ドォォォォォンッ!!


「おいギルバートォォッ!! 起きてんのかァァッ!? 腹が減ったぞォォッ!!」


アパートの薄い木製ドアが、ノックなどという生ぬるい衝撃ではなく、体当たり一発で蝶番をきしませながら蹴破らんばかりに開け放たれた。


部屋の冷たい空気が、一瞬にして真夏の溶岩洞窟のような熱波と焦熱の風へと塗り替えられる。


入ってきたのは、身長二メートル近い筋骨隆々の巨躯に、歴戦の古傷が刻まれた分厚い胸板。

乱暴に逆立つ燃えるような『真紅の短髪』。

無精髭を生やし、前全開の革ベストを着流した獰猛な野生味、そして極悪極まりない目つき。


手には、昨晩飲み干した特濃エールの空樽をまるで手提げ鞄のようにぶら下げている。


火と溶岩を司る天界の荒神――イグニその人であった。


ギルバートは顔を洗い終えた手ぬぐいを放り出し、深い、深いため息をついた。


「……イグニの旦那。ドアを壊すんじゃねえよ。ここは賃貸のアパートなんだぞ。カロンの旦那が大家だからって、敷金引かれたらどうすんだ」


「あァ!? 細けえこと気にしてんじゃねえよ! 壊れたら俺が溶岩で固めて直してやるわ! それより飯だ、飯ィ! 朝から肉を喰わせろ肉をォッ!」


イグニは部屋の真ん中へドカリとあぐらをかき、ギルバートを睨みつけた。


ギルバートは、目の前の男の顔をジト目で見つめた。

何度見ても、どう見ても――


(……俺だ。どう見ても、髪を赤く染めて若返らせた俺そのものじゃねえか)


何なんだ、神の色違いバージョンがあるとは聞いてねえぞ。

しかも、二日前の中央大通りの交差点で「俺が二人いる!?」と腰を抜かした直後、カジノ好きが意気投合した結果、なし崩し的に「お前の面倒は俺が見てやるから毎日カジノへ行こうぜ」とイグニに肩を抱かれ、気がつけばギルバート自身がこの炎の神の身元引受人(お世話係)に任命されていた。


そして今――なぜかこの狭苦しい独身アパートに、天界の荒神が転がり込んできて居候しているのである。


「……たくよぉ。なんで俺が神様の飯の心配までしなきゃならねえんだ」


悪態をつきつつも、料理の作れない男二人。

ギルバートは壁から愛用の大剣を手に取り、腰のホルダーに差すと、顎でドアをしゃくった。


「行くぞ、イグニの旦那。一階へ降りて、すぐそこの大通りにあるカロンの大食堂へ行く。あそこなら朝から女将さんが極厚のベーコンと目玉焼きを山盛り焼いてくれるからな」


「おう! 話が分かるじゃねえか、兄弟! 走るぞォッ!」


ドスドスと床を揺らして階段を駆け下りる赤髪の巨漢。

その後ろ姿を追いかけながら、ギルバートの口元に、ふと自嘲交じりの笑みが漏れた。


(……まあ、なんだ。一人で起きて、一人でため息をついてた毎日に比べりゃ……弟がいたらこんな感じなんだろうなって、ちょっと思わなくもねえがな)


朝の大食堂で、イグニが山盛りのベーコンエッグ大皿三枚と特大トースト十枚、さらに朝っぱらからジョッキの白ビールを景気よく胃袋へ流し込んだ後。

二人は並んで中央通りを歩き、ルーセン冒険者ギルド本部へと向かっていた。


中央大通りを歩く二人組の姿は、街行く人々の視線を釘付けにしていた。

体格も、歩き方も、目つきの悪さも完全に同じ巨漢が二人。違うのは髪の色が黒か赤か、そして片方が大剣を背負い、片方が酒瓶をぶら下げているかだけである。

露店の商人たちが「おい見ろよ、ギルマスが二人歩いてるぞ……」「赤髪の方は炎の神様らしいぜ」「ギルマスが神様の付き人になったんだってな」と囁き合っている。


ギルド本部が近づいた路地裏で、ギルバートはふと腰の大剣の鞘を撫でた。

その瞬間、イグニがギルバートの腰元へ赤い瞳を向け、怪訝そうに眉をひそめた。


「おい、ギルバート。お前、冒険者を引退したって言ってた割に、その剣を肌身離さず大事そうに持ち歩いてるな。腕が鈍るのが怖いのか?」


ギルバートは足を止め、苦笑いを浮かべて柄に手をかけた。


「……まあな。ガキの頃から何十年も、こいつと一緒に血を流して魔物を斬り伏せてきたんだ。冒険者を辞めて机仕事ばかりになっても、こいつを腰から外しちまうと、自分の半分をどこかに置き忘れたような気になっちまうのさ。……ただの、引退した老いぼれの未練だよ」


ギルバートが少し寂しげに目を細めた、その時であった。


「――気に入らねえな」


イグニが太い腕を伸ばし、ギルバートの腰から大剣の柄を、電光石火の早業でひったくるように引き抜いた。


「お、おい! イグニの旦那、何を――」


シャキィィィィンッ!!


抜刀された刀身は、ガロニアの良質な鋼で打たれ、長年の手入れによって刃こぼれ一つなく銀色に光っていた。

イグニはその切っ先をじっと見つめ、獰猛な八重歯を剥き出しにして笑った。


「いい剣だ。使い手の魂と血が、芯まで染み込んでやがる。……おい兄弟、未練だなんて弱気なこと言ってんじゃねえよ。戦士が誇りを腰にぶら下げて何が悪い」


イグニは自らの左手の親指を、ガブリと牙で噛み切った。

傷口から滴り落ちたのは――血ではなかった。

目も眩むような超高熱の紅蓮のプラズマ、神話の溶岩そのもののごとき「神聖火炎の神血」であった。


「な……ッ!?」

ギルバートが息を呑む間もなく、イグニはその燃え盛る指先で、大剣の刀身の平(ひら)を、根本から切っ先まで一気に撫で下ろした。


ボオオオオオオオォォォォッッ!!!!


路地裏全体が、真昼の太陽が直撃したかのような灼熱の閃光と熱波で満たされた。

銀色だった鋼の刀身に、イグニの神血がジュウゥゥッと焼き付けられ、金属組織の奥深くまで神聖火炎のルーン文字が血管のように浸透していく。

刀身は一瞬にして、透き通るような真紅の結晶構造――オリハルコンすら溶かす炎を内に秘めた、美しくも禍々しい紅蓮の刃へと変貌を遂げた。


空気が歪み、鞘に収まっていないだけで周囲の敷石がパキパキと熱膨張で割れ始める。


「へっ、できたぜ」

イグニは満足そうに笑い、冷気すら感じさせぬ手つきで大剣を革の鞘へとカチリと納めると、呆然と立ち尽くすギルバートの胸元へと放り投げるように返した。


「ほらよ、受け取りな。俺の加護を全身全霊で叩き込んでやった。名付けて――『炎の魔剣イグニ』だ!」


「ひ、ヒィィッ……!?」

受け取ったギルバートは、鞘越しに伝わってくる尋常ならざる魔力熱量に、思わず飛び上がりそうになった。


ギルバートは元Aランク冒険者である。武器の放つ「殺傷能力の桁」を見抜く鑑定眼は、人一倍研ぎ澄まされていた。

恐る恐る、柄を親指で一センチだけ押し出してみる。


キィィン……と抜けたわずかな隙間から漏れ出たのは、触れただけで山一つを消し炭にしかねない、天変地異級の超高エネルギー。


(……な、なんだこれ……!? 攻撃力が……冗談抜きで、元の千倍近くに跳ね上がってやがるぞ……!?)


千倍。

ただの鋼の大剣が、神の血と加護によって、神話の魔竜を一撃で両断するレベルの国家機密級アーティファクトへと進化してしまっていた。


ギルバートは慌ててカチリと鍔を鳴らして刃を戻し、額の脂汗を手ぬぐいで拭った。


(……う、迂闊に抜けねえ……! こんなもん、路地裏のチンピラ相手に抜いたら、チンピラどころかルーセンの街のブロックが一つ消し炭になっちまうぞ……!!)


「どうだ、いい切れ味だろうが!」

自慢げに笑う赤髪の神に対し、ギルバートは引きつった笑いを浮かべながら、必死に頷くしかなかった。


「あ、ああ……そうだな。……最高の宝物だぜ、イグニの旦那……(絶対に抜かねえけどな!)」


ギルド本部へ到着すると、朝の喧騒が広がっていた。

冒険者たちが依頼板の前に群がり、依頼の奪い合いで小競り合いが起きかけている。


「おい、そのオーク討伐の依頼札は俺たちが先に見つけたんだぞ!」

「ああん!? 先に手をかけたのは俺たちだ! 文句があるなら表へ出ろや!」


血気盛んなCランク冒険者同士が胸ぐらを掴み合い、今にも抜剣しそうな一触即発の空気。

普段であれば、ギルバートが「てめえら、ギルドの中で暴れるんじゃねえッ!」と大声を張り上げて殴り飛ばし、力尽くで鎮圧するところであった。


しかし――今日は違った。


「――ああん? 朝っぱらからギャーギャー喚いてんじゃねえよ、雑魚どもが」


地鳴りのような重低音が、ギルドホール全体をビリビリと震わせた。

ギルバートの後ろから、のっしのっしと歩み出てきたのは、赤髪を逆立たせたイグニであった。


イグニは喧嘩をしている二人の冒険者の間へ割り込むと、片手ずつ、それぞれの首根っこをまるで仔猫のようにひょいと持ち上げた。


「ひ……っ!?」

「な、何だこの馬鹿力は……!?」


二人の屈強な戦士が、足をバタつかせながら宙に浮く。

イグニは二人を至近距離から睨みつけ、口元からボッと本物の紅蓮の火の粉を吹き散らしながら、獰猛に囁いた。


「依頼板の紙切れ一枚で殺気立ってんじゃねえよ。喧嘩がしたいなら、俺が相手になってやろうか? 骨の髄まで綺麗に消し炭にして、灰にして畑の肥やしにしてやるぜ?」


ジュウゥゥッ……と、イグニの全身から放たれた殺気と神聖熱波が、周囲の空気の酸素を一瞬で焼き尽くす。

持ち上げられた冒険者たちは、顔面を蒼白どころか土気色に変色させ、失禁寸前でガタガタと震え出した。


「す、すいませんでしたァァァッ!!」

「依頼は譲ります! 命だけは助けてくださいィィッ!!」


「おう、分かればいいんだよ」

ドサドサッと床に放り出された二人は、蜘蛛の子を散らすように脱兎の勢いでギルドを逃げ出していった。


ギルバートは頭を抱えつつも、腕を組んで感心したように息を吐いた。


(まあ……言葉遣いも荒いし行動も荒っぽいが、喧嘩の仲裁としては一瞬で終わるから楽だな。……そもそも、風の神シルフ様が受付に座って、炎の神イグニがフロアを巡回してるギルドで大暴れするような命知らずの馬鹿は、この世に一人もいねえよな)


そんなイグニの姿を、受付カウンターの奥から眺めていた人物がいた。

緑のワンピースを着たシルフであった。


シルフはスタンプを持った手を止め、翡翠の瞳を輝かせてトコトコと駆け寄ってきた。

「イグニ様! おはようございます!」


すると――先ほどまでチンピラ冒険者を消し炭にしようとしていた赤髪の荒神が、フッと目つきを緩めたのである。


「おう、シルフ。元気にやってるか? 変なエルフの姿にされちまって、飯はちゃんと食えてるのか?」


「はい! リアリスさんが、毎朝すっごく美味しいリンゴのタルトを焼いてくれるんです!」

シルフが嬉しそうに尖った耳を揺らすと、イグニは太い掌でシルフの小さな頭を、驚くほど優しく、乱暴にならないよう力加減に気をつけて撫でてやった。


「そうか。困ったことがあったら、いつでも俺かギルバートに言えよ。失礼な奴がいたら、俺がそいつの街ごと焼き払ってやるからな」


「ふぇぇ……焼き払うのはダメですぅ……」


困り顔で笑うシルフと、不器用ながら妹のように面倒を見るイグニ。

その微笑ましい光景を、壁際に立っていたリアリスが腕を組んで見守り、ギルバートに耳打ちしてきた。


「ねえ、ギルマス。イグニ様って、見た目も性格も粗野で乱暴だけど……シルフ様のこととなると、本当に面倒見が良いわよね。天界にいた頃から、あんな感じだったのかしら?」


「さあな。だが、根っこは一本気で情に厚い神様なんだろうよ。……誰かさんみたいに、自分のことしか考えてねえ金髪の駄女神とは大違いだな」


ギルバートが苦笑いすると、リアリスも「それは完全に同意ね」と深く頷き合うのであった。


正午。

ギルドの午前中の業務が一段落したところで、ギルバートの背中を、ポンと力強い手が叩いた。


振り返ると、仁王立ちしたイグニが、ニヤリと八重歯を剥き出しにして手招きしていた。


「おい、ギルバート。そろそろ時間だろ」


「……時間って、何の――」


「決まってんだろ! カジノだよ、カジノォッ!!」


イグニは懐から、カロンから支給された(そしてギルバートが管理を任されている)公営カジノの利用カードをチラつかせた。


「昨日のブラックジャックの借りは今日返すぜ! あのカード配りの兄ちゃんの鼻を明かして、銀貨の山を築いてやるんだよ! 行くぞ、兄弟!!」


ギルバートの胸の奥で、元Aランク冒険者のギャンブル魂が、カチリと音を立てて再点火した。

「……へっ、そうこなくっちゃな! 今日こそは、あの『二十一』の壁をぶち破ってやるぜ!」


二人は意気揚々とギルドを飛び出し、中央大通りの『ルーセン公営プレイス・エルドラド』へと雪崩れ込んだ。


カジノの中は、今日も魔導スロットの電子音と、コインの払い出されるジャラジャラという音で大盛況であった。


そして――二階のブラックジャックのテーブルへと向かった二人の前に、当然のように立ち塞がった影があった。


「あーっ! アンタたち、また抜け駆けしてカジノに来たわね!!」


一階のスロットコーナーから猛ダッシュで階段を駆け上がってきたのは、両手にメロンパンを抱え、目を血走らせた駄女神メリスであった。

その胸元には、すでに「本日のスロット上限終了」のエラーランプが点滅している。


「ちょっとイグニ! 私にもチップを分けてちょうだい! 今日はね、ルーレットの『黒』に全額賭ければ絶対に大勝ちできるって、私の神の直感が叫んでいるのよ!」


「うるせえメリス! てめえの直感なんぞアテになるか! 昨日のスロットだって全敗だったじゃねえか!」

「なによイグニ! アンタだって昨日ブラックジャックで全部スったくせに!!」


テーブルの前で、ギャアギャアと醜い言い争いを繰り広げる二柱の神々。

ディーラーの若い行員が「あ、あの……他のお客様のご迷惑になりますので……」と引きつった顔で宥めようとする。


ギルバートは大剣の柄に手を当て、豪快に笑いながら二人の間に割って入った。


「まあ待て、メリス様、イグニの旦那! ここは俺が間を取って、三人のチップを少しずつ出し合って勝負しようじゃねえか! ルーレットもブラックジャックも、全部やって白黒つけりゃいい!」


「おう、ギルバート! 話が分かるじゃねえか!」

「さすがギルドマスターね! じゃあ、勝ったら三等分よ!」


こうして――

炎の神、慈愛の女神、そして冒険者ギルドマスターの三人による、泥沼のギャンブル大作戦が幕を開けた。


……結果は、言うまでもなかった。


一時間後。


「な……なんでよぉぉぉぉっ!? また『赤』なのぉぉぉっ!?」

ルーレットの前で頭を抱えて絶叫するメリス。


「ディーラーの兄ちゃんよォォッ! なんで俺が『十八』でステイしたのに、お前の伏せ札が『三』で、引いたカードが『ジャック』なんだよォォッ!? イカサマだろォッ!!」

ブラックジャックのテーブルを両手で叩いて吠えるイグニ。


そして――。


「……はは……ははは……。手持ちの金貨、全部消えたぜ……。今月のギルドマスターの給料、まだ半分残ってたはずなんだがな……」


テーブルの上に突っ伏し、魂が口から抜け出たような顔で灰になっているギルバート。


三人揃って、綺麗さっぱり、完全なるボロ負けであった。


ピピッ――♪

『――本日のご利用上限に達しました。本日の遊技は終了です』

無情なアナウンスが響き、テーブルのチップトレイがカチリとロックされる。


フロアの隅で、三人は並んで床に座り込み、天井のきらびやかなシャンデリアを見上げていた。


「……負けたわね」

「……ああ、完敗だ」

「……手も足も出ねえとは、このことだな」


三人同時に、深く、長いため息をつく。

普通であれば、激しい自己嫌悪と後悔に苛まれる瞬間であった。


しかし――。


「……ぷっ」


メリスが、吹き出した。


「な、なんだよメリス、笑い事じゃねえぞ」

イグニが眉をひそめる。


「だってぇ……! あははははっ! アンタたちの負けっぷり、見事すぎるんだもの! ギルバートなんて、最後のカードがめくられた瞬間、岩石のゴーレムに殴られたみたいな顔してたわよ!」


「んだとテメエ!? てめえのルーレットの張り方こそ、幼稚園児のお小遣い遊び以下だったじゃねえか!」

イグニが噛み付く。


ギルバートも、二人の怒鳴り合いを見つめながら――やがて、我慢しきれずに腹を抱えて大爆笑し始めた。


「ガハハハハッ!! まったくだ! 神様二人と元Aランク冒険者が揃いも揃って、一時間で揃ってスッカラカンだ! 傑作だな、こんな無様な負け犬トリオ、歴史上のどこを探したっていねえぞ!!」


「「わはははははっ!!」」


カジノの床の上で、手持ちの金をすべて溶かした三人が、肩を叩き合って涙を流しながら大笑いしていた。


周囲の客たちや警備員たちが「おいおい、あの三人組、また全部スって笑い合ってるぜ」「すっからかんなのに、やけに楽しそうだな」と生暖かい視線を送っている。


ギルバートは立ち上がり、埃を払った。

懐は完全に寂しくなった。今月の小遣いは完全に消し飛んだ。

カロンに見つかれば、また「いい加減にしなさい!」と正座させられて説教を食らうのは目に見えている。


……だが。


ギルバートの胸の奥底を冷たく吹き抜けていた、あの退屈で乾いた風穴は――いつの間にか、跡形もなく消え去っていた。


神の世話に追われ、飯を食わせ、文句を言い合い、カジノで一緒に大負けして笑い転げる。

あのカロンのところで飼われている駄女神も巻き込んで、馬鹿騒ぎを繰り広げる毎日。


(……悪くねえな)


ギルバートは、横でギャアギャアと次のパフェの奢り先を巡って口喧嘩を続けているイグニとメリスの背中を見つめ、静かに口元を緩めた。


(一人で埃をかぶった大剣を眺めて、ため息をついてた毎日に比べりゃ……こんな騒がしくて、理不尽で、笑いに満ちた泥沼の日常も……決して、嫌いじゃねえよ)


夕暮れの街へ向けて、三人は肩を並べてカジノの扉を押し開けた。


「おい、ギルバート! 金がねえなら、カロンのところへ行ってツケで晩飯を食わせてもらおうぜ!」

「名案ね、イグニ! カロンに泣きついて、特大のオムライスを作らせましょ!」

「おう、付き合うぜ! ついでに俺の剣の自慢話でも聞かせてやるよ!」


冬の冷たい風が吹き抜ける中央通りを、赤髪の神と金髪の女神、そして大柄なギルドマスターの三つの影が、賑やかな笑い声を響かせながら歩み去っていくのであった。

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