第84章:水と氷の神、ヒュドールの付き人編
第84章:水と氷の神、ヒュドールの付き人編
学園都市ルーセンの中心街、白亜の巨塔を望む高台に建つ領主邸――いまや帝国宰相たるハインリヒ大公の居城となった豪奢な邸宅のプライベートサロンは、かつてないほどの熱気と殺気に包まれていた。
「あなたッ!! 私という妻がありながら、一体どういうことなのですこれはッ!! 男爵から侯爵、果ては大公にまで登り詰め、帝国の宰相にまでなったからといって……地位の他に、こんな絶世の美女まで囲い込む気なのですかッ!!」
大広間のクリスタルシャンデリアをビリビリと震わせるほどの金切声を上げていたのは、ハインリヒ大公の正妻、エレノア夫人であった。
普段は貴族社会の模範たる淑女として温厚で知られる彼女が、今は金髪の縦ロールを怒りで逆立たせ、鬼のような形相で夫に詰め寄っている。
その背後では、控えていた二人の子供たち――長男と長女が、恐ろしさに肩を震わせて柱の影に隠れていた。
対するハインリヒ大公は、額から冷や汗を滝のように流しながら、両手を前に出して激しく首を振っていた。
(カロン殿……頼むから、我が家に連れてくる前に妻にも事情を説明しておいてほしかった……!)
心の中で何度目かになる学長への悲痛な叫びを上げつつ、大公は必死に弁明の言葉を紡ぎ出した。
「お、落ち着いてくれ、エレノア! 誤解だ、断じて浮気や愛人の類ではない! 彼女は人間ではないのだ! 天界より降臨された、正真正銘の『水と氷の女神様』なのだよ! 私のお前への愛情は、出会ったあの日から何一つとして変わっておらん!!」
とりあえず愛妻への誓いを前面に押し出して反論するハインリヒ。
しかし、夫人は眉をつり上げ、腕を組んで冷笑を浮かべた。
「その証拠はどこにあるのです!? だいたい、神様がなぜ殿方の屋敷に住み込むというのですか! 都合のいい言い訳はおやめなさい!」
「証拠と言われてもだな……」
大公が言葉に詰まり、視線を泳がせたその時であった。
サロンの豪奢な長椅子に優雅に腰掛け、出された冷たい果実水を優雅に口に運んでいた水色の長髪の美女――ヒュドールが、涼やかなアイスブルーの瞳を伏し目がちに向け、くすりと小さく微笑んだ。
「そうよ、奥様。安心なさいな。わたくし、人間の男性には爪の先ほどの興味もございませんわ」
ヒュドールは指先を重ね、陶器のように白い肌を露わにしながら、大理石の床の上へ音もなく立ち上がった。
その姿はあまりにも幻想的で、歩くたびに周囲の空気がフワリと涼やかな冷気で満たされていく。
「わたくしは、天界において水と氷を司る神、ヒュドール。……ここへ参りましたのはね、殿方を誑かすためではなくてよ。今、わたくしはこのルーセンの街に溢れる『スイーツ』の虜になっておりますの。あのアイスクリームにシャーベット、そしてパフェ……あの冷たく甘美な芸術を極めるまで、天界へ帰る気は毛頭ございませんわ。しばらくの間、よろしくお願いいたしますわね?」
凛とした涼麗な美声、そして「人間の男ではなくパフェにしか興味がない」というあまりにも世俗的で真に迫った宣言。
その途方もない気品と冷気のオーラに当てられ、エレノア夫人の沸点はスッと下がりかけた。
「……あ、あら……? そうなのですか……? 本当に、スイーツがお目当てで……?」
「ええ、そうですとも!」
夫人の怒りが軟化したのを見て取ったハインリヒ大公は、ここぞとばかりに畳み掛けようと口を開いた。
……開いてしまった。
「そうだぞ、エレノア! よく見てみるがいい! 人間にこんな、氷河の底から削り出したような美しい水色の長い髪を持ち、これほどまでに無駄のないスタイル抜群の美女がいるわけがないじゃないか! どう見ても人間離れした別格の美しさだろう!?」
その瞬間。
ピキリ……。
サロンの空気が、絶対零度を突き抜けて一瞬で超高熱へと沸騰した。
エレノア夫人の青い瞳が、カッと見開かれる。
その背後に、業火のような紅蓮のオーラが立ち上った。
「…………へぇ? 人間離れした別格の美しさ、ですって……? じゃあ何か言いたいわけかしら、あなた? 私が、その方と比べて美しくないって思っているわけ!? 昔は『エレノア、君こそが世界で一番美しい花だ』って口説いたあの言葉は、全部真っ赤な嘘だったというわけなのねぇぇぇッッ!!?」
「ひ、ひぃぃぃぃっ!? ち、違う! そういう意味で言ったのではないィィィッ!!」
夫人の怒りの火勢は、先ほどの三倍の火力となってハインリヒへと降り注いだ。
大公はもはや平身低頭、絨毯の上に両膝と額を擦り付ける勢いで「すまん! 私の言葉足らずだった! お前が一番だ! 世界で一番愛している!」と叫びながら、ただひたすらに謝り倒すしかなかった。
……しかし。
これほどの家庭崩壊の危機、修羅場の中にあって、ハインリヒ大公の肉体には一つの奇跡が起きていた。
(……痛くない……!? 胃が……胃がまったく痛まぬぞ……!!)
以前であれば、妻に一度怒鳴られただけでキリキリと激痛が走り、脂汗を流して胃薬を貪り食っていたはずの胃袋が、信じられないほど軽く、頑丈に脈打っていたのである。
昨日、ヒュドールに『超耐久・神性生体強化』を施された大公の胃壁は、妻の怒声という精神的猛撃を完全にシャットアウトし、内臓のコンディションだけは無駄なほどに絶好調であった。
その奇跡に心の中で感謝しつつ、ハインリヒは必死の弁明を続けた。
結果として、ヒュドールには領主邸の敷地内にある、専属メイドを付けた最高級の迎賓館に暮らしてもらうことで、どうにか夫人の疑念(と嫉妬)を鎮静化させ、家庭内の破滅をギリギリのところで回避することに成功したのであった。
それから二日後。
冬の訪れを告げる冷たい風が、五百キロメートルに及ぶ東部幹線街道を吹き抜けていた。
キィィィィィン……ッ!
高周波の美しいモーター音を響かせ、街道の砂利を鋭く蹴散らして疾走していたのは、カロンが製作した銀色の乗用電気自動車(EV)であった。
大容量雷氷複合魔石バッテリーを積み、時速八十キロから百キロで滑らかに走る鉄の駿馬。
運転席で慣れた手つきでステアリングを握り、シフトを操っていたのは、ルーセン工科大学学長のカロンであった。
助手席には、公務の書類鞄を抱えたハインリヒ大公。
そして――後部座席には、藍色と白銀のドレスを優雅にまとい、窓の外を流れる緑の平原をアイスブルーの瞳で眺めている水と氷の女神、ヒュドールが腰掛けていた。
「大公閣下、昨夜は大変だったようですね」
バックミラー越しに後部座席の女神を伺いながら、カロンが苦笑交じりに声をかける。
ハインリヒ大公は力なく肩を落とし、深いため息をついた。
「……カロン殿。頼むから、次に神を連れてくる時は、事前に妻へ宛てた学術的な身元証明書の一本でも寄越してくれ。危うく家庭という名の城が、内側から瓦解するところだったぞ」
「ははは……以後、気をつけます。ですが、ヒュドール様のおかげで、胃の激痛からは解放されたのでしょう?」
「うむ。それだけは唯一無二の救いだな。どれだけ妻に怒鳴られようと、胃袋だけは竜の肉でも消化できそうなほど絶好調なのだから、神の御業とは恐ろしいものよ」
「ふふ、お役に立てて何よりですわ」
後部座席から、ヒュドールが涼やかな声で微笑みかける。
今回、三人が帝都グランツへと向かっている目的は二つあった。
一つは、先日のセルセデス3世からの勅命に基づき、「ルーセン銀行局・帝都支店」の開設後、経営報告を行うこと。
そしてもう一つは――新しくルーセンの住人となった二柱の神、水と氷の女神ヒュドール、そして炎の神イグニの定住について、帝国の国家元首たる国王セルセデス3世へ直々に拝眉の上、正式に報告することであった。
山を越え、谷を抜け、わずか数時間の高速クルーズを経て、昼過ぎには帝都グランツの巨大な外郭城壁が前方に現れた。
クーデターの傷跡もすっかり修復され、整然とした近衛兵たちの敬礼を受けながら、銀色のEVは王宮の内郭へと滑り込んだのである。
王城二階、玉座の間。
重厚な大扉が開かれ、カロンとハインリヒ大公、そしてヒュドールが室内へと足を踏み入れた。
玉座には、威厳に満ちた深紅のマントを羽織った国王セルセデス3世が座していた。
その隣の豪奢な椅子には、気品あふれる金髪の美貌を持つ正妻――イザベラ王妃が並び座し、室内には数名の近衛兵と文官が控えている。
「ハインリヒ大公、カロン学長! 遠路遥々の参内、大儀であるぞ!」
セルセデス3世が鷹揚に声をかける。
ハインリヒ大公が進み出て、宰相の礼を取り、まず銀行局の帝都支店の経営報告と今後の課題状況を簡潔に上奏した。
国王は満足そうに頷いていたが、大公が咳払いをし、少し言いにくそうに次の議題へと移った瞬間、王の眉がピクリと動いた。
「……して、ハインリヒよ。もう一つの報告とは何だね?」
ハインリヒ大公は意を決し、姿勢を正して告げた。
「はっ。……実は、過日我がルーセンに滞在されております慈愛の主神メリス様、風の主神シルフ様、大地の主神トーラ様の三柱に加えまして……新たに、天界より『水と氷の女神ヒュドール様』、ならびに『炎の神イグニ様』の二柱が地上へ降臨され、ルーセンの地にて暮らされることとなりました」
「……あ、あの帝都近郊のローゼン山を大噴火させた件……火の神イグニ様も深く関わっております」
「………………………………」
玉座の間の空気が、ピシッと音を立てて凍りついた。
セルセデス3世は、開いた口を塞ぐことも忘れ、玉座の上で完全に硬直した。
首を巡らせ、天井を仰ぎ、眉間を指先で強く揉みしだく。
そして、かつてルーセンでハインリヒ大公が漏らしたのと全く同じ、魂の抜けたような呆れ果てた溜息を吐き出したのである。
「……もう、何でもありだな」
国王の口から漏れた、統治者としての威厳をかなぐり捨てた呟き。
「メリス、シルフ、トーラに続き、ヒュドールとイグニだと……? 五柱だぞ……。天界の主要な主神が、ほぼ全員我が帝国の片田舎に集結しておるではないか……」
セルセデス3世が頭痛に耐えるようにこめかみを押さえていると、ふと、カロンの斜め後ろに控えていた人影へと視線が移った。
「……ところで、ハインリヒ。そちらにおる、息を呑むような絶世の美女はどなただね?」
大公は深々と頭を下げ、恭しく紹介した。
「はっ。今ご説明申し上げました神々の一人、水と氷、そして癒やしを司る至高神――ヒュドール神であらせられます」
その瞬間、ヒュドールが前へ進み出た。
水色の長い髪をファサリと揺らし、アイスブルーの瞳でセルセデス3世を見つめると、優雅極まりない宮廷貴婦人のカーテシーを披露した。
「初めまして、よろしくお願いいたしますわ、国王様。わたくし、ヒュドールと申します。……この度、こちらのハインリヒ大公に、身の回りの面倒を見ていただくことになりましたの」
「め、面倒を見るだと……!?」
セルセデス3世の声が裏返った。
国王は玉座から身を乗り出し、目を丸くして大公を凝視した。
「わ、儂の部下たる宰相が……神の使者、いや、水と氷の女神の『付き人』になったというのか!?」
「は、ははっ……恐れ入りますが、そうなりました」
ハインリヒ大公が恐縮して頭を下げる。
「ヒュドール様がルーセンの冷製スイーツを大変お気に召され、領主邸の迎賓館に滞在されることになりまして……私自らがその身元引受人として、お世話を担当することと相成りました」
セルセデス3世は、大公の言葉を聞きながら、目の前に立つヒュドールの姿をまじまじと見つめた。
透き通るような白磁の肌。凛とした知的な美貌。無駄のない引き締まったプロポーションと、どこまでも涼やかな神聖なオーラ。
男であれば誰しもが息を呑み、見惚れずにはいられない究極の美。
セルセデス3世の喉が、無意識のうちにゴクリと鳴った。
そして、王の口から、無意識の呟きがポロリと漏れ出てしまったのである。
「……こ、こんな美人が、常に屋敷におるのか……。う、羨ましい……」
「――っ!?」
その極小の呟きは、玉座の間の静寂の中において、致命的な破壊力を持っていた。
そして何より――国王のすぐ隣の玉座に座していた女性、イザベラ王妃の耳は、浮気や不貞を嗅ぎつける魔導探査機よりも遥かに鋭敏であった。
ピキリ……ッ。
玉座の間の温度が、ヒュドールの冷気とは全く質の異なる、ドス黒い殺意によって一瞬で氷点下へと叩き落とされた。
イザベラ王妃の眉が、吊り上がった。
その金髪が怒りで微かに震え、扇子を握る手がギリギリと音を立てる。
「……あ、あなた? 今、何と仰いましたの……?」
地を這うような冷徹な声。
セルセデス3世の全身が、ビクゥゥッ!と跳ね上がった。
「えっ!? い、いや、イザベラ、今のはだな――」
「『羨ましい』と仰いましたわよね!? 私という王妃がいながら、一体どういうことですの!?」
イザベラ王妃が立ち上がった。その瞳には、かつて見たことがないほどの猛烈な嫉妬の炎が燃え盛っていた。
「近衛兵! お付きの者たち! ハミルとセレスティアを直ちに別室へお連れしなさい! 子供たちに見せるべき光景ではありませんわ!!」
「は、ははっ!!」
訓練された近衛兵たちが、青ざめた顔でハミル王子とセレスティア王女の目を覆い、小走りで玉座の間から退出させていく。
重厚な扉がバタンと閉ざされた瞬間――
「さあ、説明していただきましょうか、陛下ッ!!」
王妃の怒号が炸裂した。
「昔からそうですわ! あなたは美しい女性を見ると、すぐにそうやって鼻の下を伸ばして! 私がこれまでどれほどの苦労をして、帝都の混乱を支えてきたと思っていらっしゃいますの!? 大司教や総長に脅され、ローゼン山の火山灰に降られ、やっと平和が戻ったと思ったら……今度は神様相手に浮気心をお出しになるなんて、万死に値しますわよッッ!!」
「ち、違うのだイザベラ! 神への敬意だ! 美しい神聖な御姿に対する、純然たる賛美の念であって、決して邪な意味では――」
「何が賛美です! 『こんな美人が屋敷にいて羨ましい』のどこが神への賛美なのですか! 言い訳はおやめなさい!!」
玉座の上で、一国の国王が、王妃に詰め寄られてタジタジになりながら必死に両手を振って平身低頭している。
王冠は傾き、マントは乱れ、威厳など微塵も残っていなかった。
その凄惨極まる宮廷修羅場を、正面から見守るカロンとハインリヒ大公。
大公は自らの胸を撫で下ろし、カロンの耳元へ口を寄せてボソリと囁いた。
「……カロン殿」
「何でしょう、大公閣下」
「……二日前の我が家と、完全に同じ光景だな」
「ええ。男という生き物の哀しいサガですね……」
二人は深い共感と憐憫の眼差しで、怒られ続ける国王を見つめた。
しかし――この修羅場の中にあって、もう一人、全く異なる反応を示している者がいた。
当事者たる、水と氷の女神ヒュドールであった。
ヒュドールは薄い桜色の唇に指先を当て、涼やかなアイスブルーの瞳を細めて、楽しそうにくすくすと笑っていたのである。
「ふふっ……あらあら、まあまあ。帝国の国王様ともあろうお方が、奥様にこれほどまでにコテンパンに叱られていらっしゃいますのね。……地上の愛憎劇というのは、天界の退屈な神話劇よりも遥かに活き活きとしていて、見応えがございますわね」
冷徹でクールな美神かと思いきや、その本質は「他人の修羅場を高みの見物で楽しむ」という、なかなかに性格の悪い高みの観客であった。
ハインリヒ大公は、楽しそうに微笑むヒュドールの横顔を見つめ、深く、深いため息をついた。
(……はあ。今なら、カロン殿の気持ちが痛いほど分かるぞ。あの駄女神メリスに振り回され、胃を痛め続けてきたカロン殿の苦労が……神の付き人というものが、どれほど精神をすり減らす因果な役回りであるかが、骨の髄まで理解できたわ……)
こうして、王妃の怒りがようやく収まり、セルセデス3世が半泣きで謝罪し尽くした後、
ヒュドールとイグニの正式な定住認可、ならびに「ルーセン大公がヒュドール神の公式付き人(お世話係)を務める」という旨の勅許状が、インクの涙で滲んだ羊皮紙に無事に押印されたのであった。
帝都での波乱の謁見を終え、再びカロンの運転する銀色のEVでルーセンへと戻ってきた一行。
翌日からのハインリヒ大公の生活は、一国の宰相としての激務に加え、「至高の美神の付き人」という、かつてないほど多忙で風変わりなものへと激変した。
午後二時。
初冬の柔らかい日差しが差し込むルーセン新工房区のメインストリート。
「大公様、あちらのテラス席へ参りましょう」
涼やかな声に導かれ、ハインリヒ大公は、水色の髪を揺らすヒュドールの隣を歩いていた。
大公の服装は、いつもの威厳ある宰相ローブではなく、動きやすい上質なウールの上着に身を包んだ「お供の紳士」風の出で立ちである。
周囲を歩く職人や市民たちが、「おい、大公閣下がものすごい美女を連れて歩いてるぞ……」「あれ、噂の氷の女神様じゃないか?」とヒソヒソと振り返るが、ヒュドールは一切意に介さず、優雅にカフェの白い木製チェアへと腰を下ろした。
「い、いらっしゃいませ……! 大公閣下に、ヒュドール様……!」
ガタガタと震えながらメニューを差し出す店員に、ヒュドールは微笑みかけた。
「季節限定の『紅玉リンゴのソルベとミルクジェラートの二段重ね』をいただきましょうかしら。大公様、貴方は何になさるの?」
「あ、ああ……余は、温かい紅茶を一杯頼む」
大公が注文を終えると、数分後、ガラスの器に盛られた美しいデザートが運ばれてきた。
淡いピンク色のリンゴソルベの上に、雪のように白いミルクジェラートが乗り、ミントの葉が添えられている。
ヒュドールは小さな銀のスプーンを手に取り、一口すくって口へと運んだ。
目を細め、至福のため息を漏らす。
「……ん……素晴らしいわ。舌の上でフワリと溶けるミルクのコク、そしてリンゴの爽やかな酸味……。カロンの造ったあの『冷凍保管庫』と『製氷機』の温度管理が、完璧に機能している証拠ですわね」
大公は紅茶のカップを口に運びながら、恐る恐る尋ねた。
「ヒュドール様。……貴女様は、水と氷の神であらせられる。自らの神力を用いれば、これ以上の氷菓子など、天界でいくらでもお造りになれたのではないのですか?」
ヒュドールはスプーンを止め、涼やかな瞳を大公へと向けた。
「大公様、それは違いますわ。神の力で創り出す氷はね、完璧すぎて『味』がないのです。人の子が丹精込めて絞ったミルク、土と太陽が育てたリンゴの蜜、そして職人が試行錯誤して辿り着いた絶妙な配合比率……それらが合わさって初めて、この冷気は『温かな命の味』を宿すのですわ」
ヒュドールは慈愛に満ちた笑みを浮かべ、再びソルベを一口頬張った。
「人の子の営みが生み出す文化……それこそが、わたくしたち神が最も愛し、渇望する奇跡なのですのよ」
その高潔で深い言葉に、ハインリヒ大公は胸を打たれた。
(ただの我儘な甘味好きかと思っていたが……やはり、この御方は本物の神なのだな……)
大公が静かな敬意を抱いた、その瞬間であった。
「――というわけで大公様、次はあちらの角にあるクレープ屋さんで『特製アイス包み焼き』をいただきますわ! カロンから貰った『大公決済ツケカード』、まだまだ限度額には余裕がございますのでしょう?」
「……あ、ああ。いくらでもお食べなさい……」
大公は苦笑いを浮かべ、懐のカードを弄んだ。
神の深遠な哲学と、底なしの甘味への食欲は、どうやら完璧に両立しているようであった。
カフェ巡りを終え、大公がヒュドールを連れて中央大通りへと戻ってくると、そこには夕暮れの空に向かってそびえ立つ、完成間近の巨大建築群の姿があった。
先日開業したばかりの『ルーセン銀行局・本店』。
そして、その向かいでガイゼンのドワーフ鉱夫たちが驚異的な速度で屋根のガラス天窓を取り付けている『ルーセン証券取引所』の大殿堂。
大聖堂裏手の工房から、作業着を着たカロンが、図面ケースを小脇に抱えて歩み寄ってきた。
「大公閣下、ヒュドール様。カフェの巡回、お疲れ様です」
「おお、カロン殿!」
ハインリヒ大公が歩み寄り、ガシッとカロンの手を握った。
「帝都でのセルセデス3世陛下の修羅場……君が一緒にいてくれて本当に助かったよ。もし一人であの場にいたら、余まで王妃の怒りの巻き添えを食らうところだった」
「ははは……国王陛下のあの呟きは、完全に失言でしたからね。何はともあれ、帝都への報告が無事に済んで良かったです」
カロンが微笑むと、隣に立つヒュドールが青い髪を払い、カロンを見つめた。
「カロン様。貴方の造られた街のスイーツ、本当にどれも素晴らしいわ。次はあの大聖堂の隣に、アイスクリームの専門研究所でもお建てになってはいかがかしら?」
「前向きに検討させていただきます……」
カロンは苦笑いしながら軽く一礼した。
その時――中央大通りの向こう、公営カジノ『エルドラド』の方向から、けたたましい怒号と笑い声が風に乗って響いてきた。
「おいギルバート! 次はルーレットの『黒の十三』だ! 俺の炎の直感がそう叫んでやがる!」
「バカ言えイグニの旦那! さっきもそう言って金貨十枚スったばかりじゃねえか! 次は手堅く『偶数』で攻めるんだよ!」
「うるさいわねアンタたち! 二人ともすっからかんのくせに口出しするんじゃないわよ! 私のスロットの確変を見なさいよーっ!!」
赤髪の炎神イグニ、大剣を背負ったギルドマスター・ギルバート、そして金髪の駄女神メリスが、肩を組んでカジノの自動扉から転がり出てくる姿が見えた。
大公とカロンは、同時に深く天を仰いだ。
「……あちらの三人組は、今日も絶好調のようだな」
大公が乾いた笑いを漏らす。
「ええ……。イグニ様のお世話役をギルバートさんが引き受けてくれて、本当に助かりましたよ。もしあの炎の神様まで大公邸に押し寄せていたら、今度こそ閣下の屋敷が灰燼に帰すところでしたからね」
「全くだ。……胃袋は強化されたが、心労の絶対量は増える一方だよ」
二人は顔を見合わせ、声を出して笑い合った。
夕暮れの茜色の光が、ルーセンの美しい街並みを包み込んでいく。
エレンの丘の風車を回すシルフの神風。
新工房区の畑で泥まみれになってドワーフたちと笑い合うトーラ神の大地。
迎賓館で優雅にパフェを味わうヒュドールの氷。
そして、カジノで小銭を奪い合って喚き散らすイグニとメリスの炎と光。
五柱もの神々が、人々の暮らしの中に完全に溶け込み、共に笑い、共に生きる街。
「さあ、カロン殿。明日は証券取引所の内装の最終点検だな」
ハインリヒ大公が襟元を正し、力強く前を見据えた。
「はい、大公閣下。銀行局が動き出し、取引所が開場すれば、この街は名実ともに大陸の経済の中心となります。……準備を万全に整えましょう!」
神々の奇跡と、近代工学の知恵。
そして、幾多の修羅場を乗り越えて結ばれた人々の絆を乗せて――
学園都市ルーセンは、明日という新たなる時代の扉へ向けて、誇り高く力強い歩みを刻み続けていくのであった。




