第83章:水氷の貴婦人と紅蓮の賭博者
第83章:水氷の貴婦人と紅蓮の賭博者
ルーセン証券取引所の巨大な立会場において、前代未聞の「場立ちハンドサイン講習会」を終え、株券印刷と上場準備が秒読み段階に入った翌朝のことである。
初冬の澄み切った冷涼な陽光が、ルーセン工科大学の二十階建て校舎タワーを白く照らし出していた。
二階の学長室。カロンはデスクの上で、来週に迫った「第一回株式公募(IPO)」の目論見書と、ガイゼンから合流した五百名のドワーフ鉱夫たちが驚異的な速度で組み上げている証券取引所の内装進捗報告書を検分していた。
コンコン、と控えめなノック……などされるはずもなかった。
バアアアアアンッ!!
もはやドアノブの存在意義を根底から否定するような勢いで、分厚いオーク材の扉が蹴破らんばかりに開け放たれた。
「カロン〜! 起きてるでしょ〜! すっごく素敵なお友達を連れてきてあげたわよ〜!」
甲高い呑気な美声とともに飛び込んできたのは、言わずと知れた居候の元凶――駄女神メリスであった。
手には大食堂から失敬してきたばかりの湯気立つアップルパイを握りしめている。
カロンはペンを走らせる手を止めず、視線すら上げずに、深く、深く、魂を削るような長いため息を吐き出した。
「……メリス様。私の執務室のドア蝶番は、カロン・スチール製の高強度ヒンジで補強してあるから壊れませんが、建付けの枠木の方が悲鳴を上げています。少しはノックという概念を――」
言いかけながら顔を上げたカロンの思考回路が、コンマ五秒ほど完全に停止した。
メリスの背後から、音もなく、まるで大理石の床の上を滑空するようにして部屋へと足を踏み入れてきた「女性」の姿を目にしたからである。
(……な……っ!?)
カロンは、前世の五十年の教授生活、そして異世界に転生してからの十七年間を通じても、これほどまでに完成された美の結晶を目にしたことがなかった。
はっきり言って、隣でパイをかじっている駄女神メリスなど足元にも及ばないほどの、息を呑むような超絶の美女であった。
メリスのような豊満で主張の激しいダイナマイトボディとは異なり、無駄な贅肉の一片すら削ぎ落とされた、神話の彫像のように完璧なスラリとした長身。
腰のくびれから足先へと続くラインは驚くほど優美で、着こなしている藍色と白銀のグラデーションを描く薄絹のローブが、歩くたびに涼やかな衣擦れの音を立てている。
何より異様なのは、その色彩であった。
波打つ長い髪は、まるで凍てつく氷河の底から削り出したかのような、透き通る『淡い水色』。
切れ長の涼やかな双眸は、吹雪の前の空を思わせる冷徹なアイスブルー。
陶器のように抜けるほど白い肌からは、一切の体温を感じさせない、どこか凛として張り詰めた、氷雪の冷気のような気配が漂っていた。
「ふふん、驚いたでしょ!」
メリスが自分のことのように胸を張り、自慢げに紹介した。
「紹介するわね! ヒュドール、私の天界の同僚なの!」
カロンは即座にペンを置き、両手で顔を覆った。
こめかみの奥で、ピキピキと懐かしい胃痛の前兆が鳴り響く。
(……やっぱりだ。知ってた。完全に悟っていた。……また、神を連れてきやがったんだ、この駄女神は……!)
カロンが内心で天を仰いでいると、その水色の髪の美女――ヒュドールが、涼やかな瞳を静かにカロンへと向けた。
その仕草はどこまでも上品で、物腰は洗練の極みにあった。
薄い桜色の唇が、鈴の音を氷の上で転がしたような、涼麗な美声をつむぐ。
「初めまして、ご挨拶申し上げますわ。カロン様。……わたくし、天界において水と氷を司っております、ヒュドールと申します」
ヒュドールは指先を重ね、優雅にスカートの裾を引いてカーテシー(淑女の礼)を捧げた。
「あ、丁寧なご挨拶、恐縮に存じます……。ルーセン工科大学の学長を務めております、カロンです」
カロンが座ったまま慌てて礼を返すと、ヒュドールはふっと薄く、しかしどこか悪戯っぽい笑みを口元に浮かべた。
「話には伺っておりましたけれど、本当に可愛らしいドワーフの紳士であらせられますのね。……わたくしがこうして地上へ降りてまいりましたのは、他でもありませんの」
ヒュドールは細く美しい人差し指を顎に当て、うっとりと目を細めた。
「先日、こちらのメリスから『地上に天界の果実すら霞むような至高の甘味がある』と手紙を受け取りましてね。わたくし、天界の氷室を抜け出して、昨晩メリスと一緒にこの街のカフェを巡らせていただきましたの。……あの『アイスクリーム』という冷たい乳菓子、そして『特製シャーベット』に『和栗と葡萄のタワーパフェ』……あれは、一体何という悪魔的な至福の美味なのでしょう……」
(……お前もかよッ!!)
カロンは心の中で盛大に絶叫した。
見た目は冷徹なクールビューティー、物腰は貴婦人のそれであるにもかかわらず、その動機はメリスと完全に同類の「甘味への異常な執着」であった。
「わたくし、水と氷を司る身として、自らの冷気があのような甘美な芸術へと昇華される様を目の当たりにして、深く心を奪われてしまいましたの。……ですから、わたくし決めましたわ。しばらくこのルーセンの街に暮らして、街中のあらゆる冷製デザートとパフェを、心ゆくまで味わい尽くすことにいたしましたの」
「ちなみにねカロン!」
横からメリスがパイをもぐもぐさせながら補足した。
「ヒュドールってば、水や氷の他に、天界じゃ『至高の癒やしの神』とも言われてるのよ! どんな重病も怪我も、彼女の清らかな水にかかれば一瞬で治っちゃうんだから! 便利でしょ〜?」
「神を便利ツールみたいに言わないでください……」
カロンが頭を抱えていると、学長室の扉がトントンと控えめにノックされた。
「失礼します、カロンさん……」
「入るぞ」
入ってきたのは、薄緑色のワンピースを着て尖った耳を揺らす風の神シルフと、作業着のチュニックを着て手には土壌改良用の鉄スコップを担いだ大地の神トーラであった。
シルフはカロンの机の上に並ぶ書類を見てペコリとお辞儀をし、トーラ神は豪快に腕を組んで部屋の中央へ進み出た。
「カロン、シルフと街の巡回をしておったのだが、メリスから『学長室に全員集合せよ』と緊急の念話が飛んできてな。……む?」
トーラ神の琥珀色の双眸が、部屋の隅に立つ水色髪の美女を捉えた。
シルフも翡翠の瞳を白黒させて飛び跳ねる。
メリスが仁王立ちになり、待ってましたとばかりに両手を広げて叫んだ。
「みんな、揃ったわね! 重大発表よ! 水と氷の女神ヒュドールも、今日からこのルーセンの街に住むことになりましたーっ!!」
「ええっ!? ヒュドール様もですかぁ……!?」
シルフが両手で口元を押さえて目を丸くする。
ヒュドールは優雅に微笑み、シルフの頭をそっと撫でた。
「お久しぶりね、シルフ。貴女、エルフの愛らしい姿になって地上を楽しんでいらっしゃるのね」
「ふぇ……はい、お菓子がとっても美味しいですぅ……」
神々の微笑ましい再会。
……しかし、そこで終わっていれば、まだカロンの胃壁の損耗は軽微で済んでいたはずだった。
事態を完全に破壊的な領域へと叩き落としたのは、他ならぬ大地の神トーラの一言であった。
トーラ神は顎髭をゴリゴリと掻きながら、ふと思い出したように、至極気さくな調子で口を開いたのである。
「……ふむ。ヒュドールまで地上へ降りてきたか。おいメリス、それならば――イグニも連れてきたらどうだ? あいつも天界に残しておいては、一人だけ仲間外れにされて寂しがるんじゃないか?」
「?!?!?!……ッッ!!」
カロンの心臓が、恐怖で跳ね上がった。
(ト、トーラさん……ッ!? なにを言い出すんですかァァッ!? 余計なことを言わないでください!! 今でも神が四柱もいて街がパンクしかけているのに、これ以上増やしてどうするんですかァァッッ!!)
カロンが青ざめて制止の声を上げようとした、まさにその瞬間。
「あ、それもそうね! イグニ、呼んじゃおーっと☆」
メリスが軽快にパチンと指を鳴らした。
シュンッ……!
空間が歪んだ。
カロンの叫びが喉から出るよりも早く、学長室の床面から、カッと燃え盛るような紅蓮の業火と熱風が吹き荒れた。
ボオオオオオォォォォッッ!!!
「うわあっ!? 熱い!」
カロンが書類を庇って飛び退く。
立ち込める炎と陽炎の向こうから、空間を引き裂いて実体化したのは――
「う……嘘だろ……?」
カロンは、現れたその巨漢の姿を見て、完全に開いた口が塞がらなくなった。
そこに立っていたのは、身長二メートル近い筋骨隆々の巨躯に、歴戦の戦士のような荒々しい傷跡が刻まれた分厚い胸板。
乱暴に逆立つ燃えるような『真紅の短髪』。
無精髭を生やし、革ベストを前全開に着崩したその風貌、獰猛な野生味、そして目つきの悪さ……。
どう見ても、「冒険者ギルドマスターのギルバートを、そのまま赤髪にして若返らせたようなキャラクター」そのものであった。
手には、巨大な陶器の酒瓶が握りしめられている。
火と溶岩を司る天界の荒神――イグニであった。
イグニは部屋を見回し、豪快に首をボキボキと鳴らした。
「――ああん? なんだメリス、いきなり呼び出しやがって。俺は今、溶岩の温泉で一杯引っ掛けてたところだぞ」
地鳴りのような野太い声。声質までギルバートに酷似していた。
そしてイグニは、床に座り込むカロンを一瞥し、ニヤリと八重歯を剥き出しにして笑った。
「おう、お前が噂のドワーフ工学者、カロンだな! メリスから話は聞いてるぜ! なにやら、この街には『アイスの酒』とやらがあるってなあ? まあアイスなんぞという女子供の冷たい菓子は余計だが……あの『赤玉ブドウのワイン』と『小麦の白ビール』! あれを飲んでみたくてウズウズしてたんだよ! おいカロン、俺が満足するような、喉が焼けるほど強い蒸留酒をもっと開発してくれよなァッ!!」
「………………………………」
カロンは、持っていた計算尺をポロリと床へ落とした。
視界がスーッと暗転し、足の力が抜けて膝から崩れ落ちそうになる。
(……倒れそうだ。いや、今すぐ気を失って、この現実からログアウトしたい……)
水と氷の美神ヒュドール。
そして、赤髪のギルバートそのものの酒乱の火神イグニ。
天界の主要神族が、まるで近所のファミレスに集合するかのような気軽さで、このルーセン工科大学の学長室へ全員勢揃いしてしまったのである。
「……行きましょう」
「どこへ行くの、カロン?」
メリスが呑気に首を傾げる。
カロンは死んだ魚のような虚ろな目を向け、掠れた声で告げた。
「……領主邸です。ハインリヒ大公閣下に……新しく増えた神々の住民登録の手続きをしてこなければなりません……」
カロンは自らの運転する大型メガEVバスを引っ張り出し、総勢五柱の神々(メリス、シルフ、トーラ、ヒュドール、イグニ)を車内に詰め込むと、重い足取りで領主邸へと向かった。
中央大通りを抜け、領主邸の正面玄関へ到着した一行。
大公執務室の前に立つと、執事長のセバスチャンが「学長様、大公閣下がお待ちで……ひっ!?」と、カロンの後ろに並ぶ赤髪の大男と青髪の美女を見て息を呑んだ。
扉が開かれた。
室内では、帝都から戻ったばかりのハインリヒ大公が、書類仕事を止めて椅子に座っていた。
その顔には、かつてないほど達観した、すべてを悟りきったような静かな微笑みが浮かんでいた。
ハインリヒ大公は、カロンが口を開くよりも早く、手をすっと挙げて制した。
「……言わなくてよい、カロン殿。余には……儂には、肌で分かっておるぞ」
大公は静かに立ち上がり、窓の外の青空を仰ぎ見た。
「部屋の空気が、急激に冷え込んだかと思えば、同時に焦げるような熱気が吹き荒れておる。……また、神がやって来たのだな?」
「……はい、閣下」
カロンは深々と頭を下げ、背後の二人を紹介した。
「水や氷をつかさどる女神、ヒュドールさん。そして、炎をつかさどる神、イグニさんです。……あの、帝都の近郊でローゼン山を大噴火させた件……彼も深く関わっております」
「………………………………」
ハインリヒ大公の動きが、完全に停止した。
瞳孔が開き、顔からサーッと血の気が引いていく。
唇がワナワナと小刻みに震え、両目が白目を剥きかけたその瞬間――
ドサァッッ!!
ハインリヒ大公は、何の受け身も取ることなく、糸の切れた操り人形のように執務机の前の絨毯へと真っ直ぐに倒れ伏した。完全なる卒倒であった。
「が、閣下ァァァァァッッ!!」
セバスチャンが悲鳴を上げて駆け寄る。
「あら、いけないわね」
涼やかな声とともに、水色の髪を揺らして歩み出たのはヒュドールであった。
ヒュドールは倒れた大公の傍らに優雅に跪くと、その細く白い指先を大公の胸元へとそっとかざした。
「慈愛の清流よ、魂の器を満たし、命の灯火を蘇らせよ――『フルヒール(完全治癒)』」
ピカァァァァッ……!
澄み切った青氷の光が、大公の全身を包み込んだ。
瞬間――
「はっ!? わ、私は……一体なにを……!?」
ハインリヒ大公はガバッと跳ね起き、自らの両手を見つめた。
失神のダメージどころか、長旅の過労や全身の倦怠感が一瞬にして消え去り、十代の少年のように血気配がみなぎっていた。
ヒュドールは涼しげなアイスブルーの瞳を細め、大公の腹部を指先でツンと突いた。
「倒れられましたので、わたくしが蘇生・完全治癒いたしましたの。……あら? 貴方、ずいぶんと『胃』が弱くていらっしゃいますのね。胃壁がまるで薄氷のようにボロボロに擦り減った痕跡がございますわ」
「う……そ、それはここ数ヶ月の心労が……」
大公が冷や汗を流す。
ヒュドールはふふっと上品に微笑むと、両の手のひらから、より濃密な蒼い魔導光を放ち、大公の腹部へと直接押し当てた。
「これほど繊細で健気な領主様を苦しめるなど、神として見過ごせませんわ。……こういたしましょう」
ボワァァァンッ……!
柔らかな青い光が大公の腹部を透過し、内臓の奥深くまで浸透していく。
神聖なる水と癒やしの権能――『超耐久・神性生体強化』。
大公の胃壁が、分子レベルで再構築され、ドラゴンの鱗をも凌駕する強靭無比な弾力組織へと変貌を遂げた。
「おっ……!? おおおっ……!? な、何だこれは……!?」
ハインリヒ大公は立ち上がり、自らのみぞおちを両手で力強く叩いた。
ドンドンッ!
鈍い重低音が響くが、痛みなど微塵もない。
それどころか、長年彼を苛み続けてきたあの不快な胸焼け、キリキリとした激痛、胃酸の逆流感が、完全に、跡形もなく消失していた。
「い……胃が、軽い……! 痛くない! 叩いてもビクともせんぞ! 鉄の塊を飲み込んでも溶かして消化できそうなほど、胃袋が力強く脈動しておる!!」
大公の歓喜の叫びに、ヒュドールは満足そうに頷き、藍色のローブを優雅に翻した。
「胃を神性の加護で強化いたしましたの。もう劇薬を煽ろうと、激辛の香辛料を丸呑みしようと、胃潰瘍になることは金輪際ございませんわ。
……そうだわ。これほど素晴らしいお屋敷で、美味しいお茶とお菓子をご用意いただけるのなら……わたくし、貴方に面倒を見ていただいた方がよろしくてよ?」
「え……?」
大公の笑顔がピシリと固まった。
ヒュドールは優美に微笑み、大公の手を優しく取った。
「わたくし、今日からこの街に住むことになりましたの。美味しいアイスクリームとパフェを食べ歩くのが目的ですのよ。……よろしくお願いいたしますわね、大公様?」
「………………………………」
大公は、完璧な美貌で微笑む水と氷の女神を見つめ、続いて自らの強靭化した胃袋を見つめた。
(……なるほど。胃を強化されたのは、このためだったのか……。これから胃痛どころではない心労が降りかかることへの、神直々の事前補強だったというわけか……)
ハインリヒ大公は深く天を仰ぎ、完全に悟りを開いた仏のような顔で呟いた。
「……もう、何でもありだな」
こうして、水と氷の女神ヒュドールの滞在先は、領主邸の貴賓室(専属メイドによる極上デザート付き)として正式に決定されたのであった。
そして、大公は水と氷の女神ヒュドールをお世話する立場となった。
さらに、後ろで腕を組んでいた赤髪の巨漢イグニが、ドスドスと前に出てきて大公の肩をバシッと叩いた。
「おう、大公! 俺は火の神イグニだ! 俺もこの街に住み着くことにしたからよ、よろしく頼むぜ! 蒸留酒の蒸留所をもっと増設してくれよな!」
「うむ……よろしく頼むぞ、イグニ神よ……。もう驚く気力すら湧かんわい……」
大公は力なく手を振り、すべての住民登録の書類に無言で判を押したのであった。
ヒュドールの身元引受を無事に(?)大公へ押し付けることに成功したカロンは、残る四柱の神々を連れて、領主邸を後にした。
路面電車のレールに沿って中央通りを歩き、工科大学のキャンパスへと戻ろうとしていた道中のことである。
新工房区へと続く大通りの交差点。
その向こうから、肩を怒らせ、堂々たる体躯で大股で歩いてくる一人の巨漢の姿があった。
擦り切れた革ベスト、無精髭、そして背中に背負った身の丈ほどもある巨大な大剣――ルーセン冒険者ギルドの最高責任者、ギルバートであった。
ギルバートは路面電車の停留所へ向かおうとしていたが、正面から歩いてくるカロンたちの一団に気づき、足を止めた。
そして――その視線が、カロンのすぐ後ろを歩いていた「赤髪の男」の顔に吸い寄せられた瞬間。
ガシャンッ!!
ギルバートが手袋を落とした。
その両目が、眼窩から飛び出さんばかりに見開かれ、顎が外れそうになる。
「な……ななな……ッ!?」
ギルバートは自らの顔を手でベタベタと触り、目の前に立つ赤髪の男を指差して絶叫した。
「お……俺が二人いるだとォォォッ!? どういうことだ!? なんで俺のドッペルゲンガーが真っ昼間から歩いてやがんだァッ!? しかも髪が真っ赤じゃねえか!!」
無理もなかった。
身長、骨格、筋肉のつき方、無精髭の生え具合、そして目つきの悪さに至るまで、赤髪のイグニは、ギルバートと完全に生き写しのような姿形をしていたのである。
カロンは深いため息をつき、間に入って手を振った。
「落ち着いてください、ギルバートさん。あなたの生き別れの兄弟ではありませんよ。……あっ、新しい神様で、イグニさんです。炎と溶岩を司る神ですね。ちなみに、水や氷の神のヒュドールさんも一緒に来ましたが、そちらは大公閣下が面倒を見ることになりました」
「は、はあーっ……!? カロンというやつは……!」
ギルバートは頭を抱え、天を仰いで唸り声を上げた。
「お前、本当に息を吸うように神様を連れてきやがるな! 今度は炎の神様だと!? しかも何で俺と顔がそっくりなんだよ!!」
その時、カロンはふと、ギルバートの服装に目を留めた。
普段ならギルド本部で執務を執っているはずの時間帯である。しかも、鎧の肩当てを外し、ポケットのあたりがジャラジャラと小銭の音を立てていた。
カロンはジト目を向け、核心を突いた。
「……ところでギルバートさん。こんな時間に、一体どちらへ行かれるつもりだったのですか?」
ギルバートの巨躯が、ピクリと跳ね上がった。
視線をあらぬ方向へと泳がせ、咳払いを繰り返す。
「あ、いや……! 旦那! これはだな……! ほら、向こうの公営カジノ『エルドラド』の警備状況だな! ギルドから派遣している保安員どもがサボってねえか、責任者として……そう! 警備報告を聞きに行こうとしていたところだ!」
「カジノで遊ぶんですね」
カロンの冷徹な一言が、ギルバートの眉間を正確に射抜いた。
「………………………………」
ギルバートは言葉に詰まり、赤面して沈黙した。
先日、ブラックジャックで手持ちの金をすべて溶かしてディーラーに泣きついていた前科があるのだ。言い逃れができるはずがなかった。
カロンが説教を始めようと息を吸い込んだ――まさにその刹那であった。
「――ん? おい、カジノだと?」
後ろで退屈そうに耳をほじっていた赤髪の神、イグニが、猛烈な勢いで食いついてきた。
その燃え盛るような紅蓮の瞳が、爛々と輝きを放つ。
「おいギルバートとか言ったな! カジノってのは、あの天界のモニターから見えてた、ピカピカ光る機械をガシガシ叩いて、銀貨がジャラジャラ出てくるあの場所のことか!?」
ギルバートが目を瞬かせる。
「あ、ああ……そうだが。スロットやルーレットがある、大人の社交場だ」
イグニは太い腕でギルバートの肩をガシッと抱き込み、豪快に歯を剥き出して笑い飛ばした。
「神界から見てて、あれ面白そうだと思ってたんだよ! ちょうど退屈してたところだ、一緒に行こうぜ! なに、俺がお前の面倒を見てやるから、これから毎日通い詰めて大儲けしようじゃねえか!!そうだ、お前は俺が面倒を見てやろう。」
「えっ!? 神様が……カジノへ!? 俺と一緒に!?面倒を??え???」
ギルバートが目を丸くする。
ギルバートがイグニの面倒を見ることが決まった瞬間だった。
そこへ、後方から駄女神メリスが猛ダッシュで割り込んできた。
両手にスロットのコインを模した手振りをしながら、目をギラギラさせて叫ぶ。
「ちょっとイグニ! アンタずるいわよ! 私を置いてカジノに行く気!? 私も行くわよ! 今日こそあの角打ちの台で『7・7・7』を揃えて、カロンの鼻を明かしてやるんだから!!」
「おうメリス! てめえも来るか! 勝負だ、どっちが先にコインの山を築くか競おうぜ!!」
「望むところよ! 神のギャンブル対決ね!!」
意気投合する二柱の駄神たち。
そして、その悪魔の誘惑に抗えるはずもなく、ギルバートの顔にも次第に生気が蘇り、獰猛な賭博師の笑みが浮かび上がっていった。
「……へっ、神様が胴元に勝負を挑むってんなら、元Aランク冒険者の俺が引くわけにはいかねえな! よし、案内してやるぜ、ついて来な!!」
「「オオオオオッッ!!」」
歓声を上げながら、中央大通りのカジノ『エルドラド』へ向けて肩を組んで猛ダッシュしていく、赤髪の神、金髪の女神、そして歴戦のギルドマスターの三人組。
「「………………………………」」
残された大通りの交差点。
カロンと、エルフの姿をしたシルフ、そして大地の神トーラの三人が、砂煙の彼方へと消えていった後ろ姿を、ただただ呆然と見送っていた。
シルフが、おずおずとカロンの作業着の裾を引っ張った。
「あの……カロンさん……。ギルバートさんとイグニ様……大丈夫でしょうか……?」
カロンは、深く、深く、深く……地球の裏側まで届きそうなほどの特大のため息を吐き出した。
「……シルフ様。世の中にはね、関わってはいけない『泥沼の輪廻』というものが存在するのですよ」
こうして――
水と氷の女神ヒュドールは大公が面倒を見ることになり、
炎の神イグニは、まさかのギルバートがギャンブル仲間として引き取ることとなった。
そして、間もなく開設される予定の「ルーセン証券取引所」という名の、カジノを遥かに凌駕する巨大な市場へ向けて――
破滅の引き金を引きかねない火薬樽が、また一つ、綺麗に並んでしまった瞬間であった。
カロンは激しく疼く胃を押さえながら、重い足取りで大学の研究室へと戻っていったのであった。




