第81章:銀行局の開業
第81章:銀行局の開業
冬の澄み渡る朝日が、ルーセン中央大通りの舗装路面を眩い黄金色に染め上げていた。
エレンの丘に立つ三基の風力発電タービンは、シルフの優しい風を受けて規則正しい回転を続け、街中に安定した電力を送り届けている。路面電車のレールに沿って設置された街灯の明かりがふっと消え、街が新たな朝を迎えた。
中央区の目抜き通り、先日オープンしたばかりの公営カジノ『ルーセン公営プレイス・エルドラド』の真向かいに、その巨大な建築物は堂々とそびえ立っていた。
地上三階、地下二階建て。
カロンの設計により、高強度ポルトランドセメントと異形鉄筋を用いた鉄筋コンクリート(RC)構造で組み上げられ、外壁は重厚な白大理石の切石で美しく化粧されている。正面にはギリシャ神殿を思わせる八本の巨大な円柱(ドリア式オーダー)が並び立ち、頭上の破風には、カロン・スチールで鋳造された巨大な「天秤と歯車と双頭鷲」の公認エンブレムが燦然と輝いていた。
新時代の金融の総本山――『ルーセン銀行局・本店』である。
建物の前には、真新しい真紅の絨毯が敷かれ、金色の真鍮ポールに結ばれたシルクの紅白テープがピンと張られていた。
そして、そのテープを挟むようにして、見渡す限りの群衆――早朝から並び、建物の周囲を何重にも取り囲んだ数千人におよぶ市民、新工房区の職人、商人、農民、そして冒険者たちが、今か今かと待ち構えていた。
正面玄関の演壇に立ったのは、四名の首脳陣であった。
帝室最高官職たる「帝国宰相」にして「初代財務経済大臣」の正装ローブをまとったハインリヒ大公。
仕立ての良いダークネイビーのスーツ風ドレスを着こなし、頭取実務代行としての引き締まった美貌を見せるゲオル商会会頭、マリアベル。
真新しい銀色のギルド保安制服に身を包み、太い腕を組んで目を光らせる冒険者ギルドマスター、ギルバート。
そして、工科大学の学長ローブをまとい、手袋をはめた主人公――ドワーフの魔導工学者、カロン。
ハインリヒ大公が一歩前に進み出ると、広場を埋め尽くす群衆のざわめきが、潮が引くようにピタリと静まり返った。
大公は胸元の勲章を光らせ、朗々たる張りのある声で宣言した。
「領民諸君! そして、全土より集いし誇り高き職人と商人たちよ!
本日、ここに我がゲスハルト帝国国王セルセデス3世陛下の勅許を賜り、帝国の新たなる経済の心臓――『ルーセン銀行局』の正式開業を宣言する!
かつて、民草の財産は床下の暗闇に隠され、無法な高利貸しの脅威に怯えておった。しかし今日この日より、諸君の汗と努力の結晶たる富は、帝国と領主、そして至高の工学が保証する絶対の安全の下に守られる!
金を預けて利子を得るもよし、公正なる資金を借りて新たなる工房や船を興すもよし! この銀行局と共に、我が街ルーセン、そして帝国の未来を力強く切り拓いていこうではないか!!」
ワアアアアアッ――!!
割れんばかりの地鳴りのような大歓声と拍手が、冬の青空を突き破らんばかりに響き渡った。
「テープカット、参りましょう!」
マリアベルの声に合わせ、四人が手にした黄金のハサミを一斉に握り込んだ。
チョキンッ。
小気味よい音とともに紅白のリボンが舞い落ち、大聖堂の鐘と路面電車の祝砲ホーンが同時に鳴り響いた。
「「「開門ッ!!」」」
屈強なギルド保安員たちが左右へと引き分けた真鍮の二重回転扉から、待ちわびていた大群衆が、整然と、しかし熱気あふれる波となって本店ロビーへと雪崩れ込んでいったのである。
「うわあ……! なんて広くて明るいんだ!」
「大理石の床が鏡みたいにピカピカだぞ!」
ロビーに足を踏み入れた人々から、感嘆の息が漏れた。
二階まで吹き抜けになった大空間には、カロンの設計した調光式魔導電灯の柔らかな光が満ち、全館に張り巡らされたエアコンの温風が、冬の寒さを完全にシャットアウトして春のような心地よさを保っていた。
正面には、頑丈な防犯ガラスと真鍮のカウンターで仕切られた、二十席におよぶ「預金・為替受付窓口」。
右手には、個別の衝立でプライバシーを守る「事業融資・相談ブース」。
そして左手には、カロンが導入した前世の銀行の知恵――「番号札発券機」が設置され、混乱を防ぐための誘導アナウンスが響いていた。
『ピンポーン♪ ――四十五番のカードをお持ちのお客様、三番窓口へどうぞ』
「あ、俺の番だ!」
新工房区で鍛冶工房を営むドワーフの親方が、革袋を抱えて窓口へと進み出た。
応対したのは、ゲオル商会から選抜され、大学の経営工学科でカロンの特訓を受けた端正な制服姿の若い女性行員であった。
「いらっしゃいませ! 本日はどのようなお手続きでしょうか?」
「お、おう……! 毎月稼いだ金貨を工房の床下に埋めてたんだが、泥棒が心配でな。ここに預けると利子がつくって本当かい?」
「はい! 普通預金であれば年利一・五パーセント、一年間据え置きの定期預金であれば年利二・五パーセントの利子をお付けいたします。こちらがお客様専用の預金通帳となります」
行員が差し出したのは、カロンが大学地下のクリーンルームで偽造防止技術の粋を結集して刷り上げた、深い紺色に金箔押しの『公認預金通帳』であった。
親方が光に透かすと、紙の内部からルーセンの双塔タワーと帝国の双頭鷲の魔導透かしが美しく浮かび上がる。
親方が差し出した金貨二十枚が計数機で一瞬で数えられ、窓口の小型魔導印刷機にカチャリと通帳を通すと――
ジジジ……ッ。
『入金:帝国純金貨 二十枚 / 残高:二十枚』
寸分の狂いもないインクの印字。
「す、すげえ……! 俺の名前と金額が綺麗に印刷されてる! これが俺の財産の証明書か!」
親方は通帳を宝物のように抱きしめ、満面の笑みで席を立った。
一方、融資ブースでは、真剣な商談が繰り広げられていた。
「新工房区の隣に、新しい金属プレス工場を建て増ししたいんだ。事業計画書と担保の図面は持ってきた」
「拝見いたします。……素晴らしい設備稼働率ですね。カロン・スチールの供給契約も締結済みですか。これでしたら、金利年四・二パーセント、返済期間五年の枠で、金貨百五十枚の設備融資を即座に承認できます」
「本当か!? 闇金利の半分以下じゃないか! 助かった、これで最新の機械が買えるぞ!」
窓口の職員たちは、マリアベルの徹底的な事前教育のおかげで、淀みなく、迅速に、そして極めて丁寧な物腰で押し寄せる手続きを次々と捌いていった。
店内を巡回するギルバート率いる元ベテラン冒険者の保安員たちが、怪しい挙動の人物を鋭い眼光で牽制し、不正や混乱の芽を完全に摘み取っている。
カロンはロビーの二階バルコニーから、手すりに手をかけてその壮観な光景を見守っていた。
そこへ、ふらりと近づいてきたのがマリアベルであった。
彼女は手元の集計帳簿をめくり、興奮を抑えきれない様子で耳打ちしてきた。
「カロン学長……信じられませんわ。オープンからわずか二時間で、新規口座開設数が八百件を突破いたしました。預け入れられた純金貨の総額は、すでに金貨三千枚を超えております……! 街中のタンス預金が、文字通り奔流となってこの金庫へ流れ込んできていますわ!」
「素晴らしい滑り出しですね。これで、街の産業投資への資金パイプが完全に確立されました」
カロンが微笑むと、マリアベルはさらに悪戯っぽい笑みを浮かべ、一枚の特別な書類を差し出した。
「そして……学長。こちらの手続きも、先ほど一番窓口で滞りなく完了いたしましたわよ」
それは――『自動口座振替契約書(メリス様飲食代金決済専用特約)』であった。
カロンが目を丸くすると、マリアベルはクスクスと喉を鳴らした。
「純喫茶白鳩、新工房区テラスカフェ、大衆食堂、中央市場の精肉店……メリス様が日頃食べ歩いていらっしゃる市内の主要店舗二十店舗と、すべて口座振替の提携を結びましたの。
店主の皆様には『メリス様のサイン入り伝票を月末に銀行局窓口へ提出すれば、カロン学長の特別口座から自動で代金が即日引き落とされ、店主の口座へ全額振り込まれる』と説明いたしました。店主の方々、毎月大学タワーまで通う手間が省けたと、全員が涙を流して大喜びで口座を開設してくださいましたわ!」
「……っ!!」
カロンの胸の奥から、言葉にならない歓喜と安堵が込み上げてきた。
(お、終わった……! あの不揃いな伝票の束を一枚ずつ手作業でそろばんで計算し、仕事の手を止めて小銭を手渡しする、あの不毛極まりない作業から……私はついに完全に解放されたのだ……!!)
学長としての貴重な時間を、あの駄女神の後始末のために奪われる悪夢は、近代金融システムの自動振替によって完璧に消滅した。
カロンの胃のあたりを重く圧迫していた鈍い痛みが、スーッと嘘のように消え去っていく。これだけでも、銀行局を立ち上げた価値は十二分にあったと言えた。
正午過ぎ。
大公執務室に設置された長距離魔導通信機――ではなく、定期便の早馬によって、帝都グランツから息せき切った特使がルーセン本店へと飛び込んできた。
先日の王宮での約束通り、同日同時刻にオープンした『ルーセン銀行局・帝都支店』の初日レポートであった。
マリアベルが封を切り、カロンとハインリヒ大公の前で読み上げる。
「『――帝都支店、午前十時の開門と同時に数千人の帝都市民および貴族が殺到。王室からの公認預託金・金貨五万枚の受け入れが無事完了せり。先日のクーデターで私財を奪われかけていた帝都の大商人たちも、強固なカロン・スチール製金庫とルーセンの信用に群がり、初日預金額は前代未聞の数値を記録中なり。セルセデス3世陛下より「大成功を祝す」との祝電あり――帝都支店長』」
「素晴らしい……! 帝都でも同じ熱狂が起きておるか!」
ハインリヒ大公が膝を叩いて快哉を叫んだ。
帝都グランツの治安と経済が、ルーセン銀行局のシステムを通じて急速に安定化しつつある。
地方都市から始まった金融革命が、国家の中枢をも完全に包摂し始めた証であった。
「さて……本店と帝都支店の初動を見届けたところで、私は次の現場へ向かうとしましょうか」
カロンは作業用の上着を羽織り、ヘルメットを手に取った。
マリアベルが「次の現場、ですか?」と首を傾げる。
「ええ。銀行局の設立は、あくまで第一歩に過ぎませんからね。……行きますよ、マリアベルさん。資本主義の第二のエンジン――『ルーセン証券取引所』の建設現場です」
中央大通りを挟んで、銀行局本店の斜め向かい。
以前から囲いが巡らされ、地ならしが進められていた広大な一角に、地鳴りのような重機の駆動音と、力強いドワーフたちの掛け声が響き渡っていた。
「梁を吊り上げろ! ガロニア特製カロン・スチールのトラスフレームじゃ、傷をつけるなよ!」
「アンカーボルトの締め付けトルク、規定値オーライ!」
黄色い安全ヘルメットを被り、巨大な油圧クレーンを操りながら現場を指揮していたのは、ガロニアから移住してきたバログ大親方と、十数名の屈強なドワーフ親方衆であった。
カロンとマリアベルが足を踏み入れると、目の前には、銀行局とはまた趣の異なる、巨大な建築物の骨組みが青空を衝いて立ち上がっていた。
『ルーセン証券取引所』。
中央に天高十五メートルの無柱大空間――前世のニューヨーク証券取引所や東京証券取引所を彷彿とさせる、広大な「立会場」を備えた、鉄骨鉄筋コンクリート造の巨大殿堂であった。
バログ大親方が汗を拭いながらドスドスと歩み寄ってきた。
「おう、カロン! 銀行の方は大繁盛らしいな! こっちの『しょうけん』とかいう取引所の骨組みも、ご覧の通り順調じゃぞ! 天井に巨大なガラス天窓を嵌め込んで、昼間なら照明がいらんほど明るい大広間にしてやるからな!」
「ありがとうございます、大親方。完璧な鉄骨精度です」
カロンは構造図面と照合し、満足そうに頷いた。
現場の片隅にある仮設の現場事務所。
カロンは製図台の上に、証券取引所の運用マニュアルと上場企業のリストを広げ、マリアベルとギルバート(カジノの負けを取り戻して警備巡回に来ていた)を呼び寄せた。
「マリアベルさん、ギルバートさん。先日、ハインリヒ大公閣下を交えて合意した通り、銀行局が安定した後は、この取引所を使って『株式の公募と売買仲介』を開始します。……すでに、最初に上場する記念すべき第一号グループの企業は選定してあります」
カロンが示したリストには、三つの巨大組織の名が記されていた。
第一号上場企業:『ゲオル商会(株式会社)』
全土に張り巡らされた物流網、各種特産品の輸出入、および新工房区の資材センター運営を担う商業の巨人。
第二号上場企業:『ルーセン冒険者ギルド保安輸送(株式会社)』
全土の護衛輸送、銀行局の警備、およびダンジョン素材流通を一手に引き受ける総合セキュリティ企業。
そして、第三号上場企業――『ルーセン工科大学・技術開発機構(株式会社)』
その三番目の名前を目にした瞬間、マリアベルが琥珀色の瞳をまん丸に見開いた。
「ま……マリアベルともあろう者が、二度見してしまいましたわ……! カロン学長、大学を……『大学そのものを株式市場に上場させる』とおっしゃるのですか!?」
ギルバートも咥えていた葉巻を取り落としそうになって叫んだ。
「おいおい旦那! 学校ってのは、生徒から授業料を取って勉強を教える場所だろ!? そんなもんを市場に上場させて、株を売買するなんて話、前代未聞だぞ!?」
二人の驚愕に対し、カロンは前世の記憶を噛み締めながら、不敵に笑って首を横に振った。
「ええ、前世の私の世界でも、大学そのものが直接株式市場に上場した例など、ほとんど存在しませんでした。せいぜい、大学発のベンチャー企業が個別に上場する程度でしたからね」
カロンは、前世の記憶があることを、信頼のおける領主、ギルバート、マリアベルらには話をしていた。
カロンは窓の外、青空にそびえ立つ二十階と三十階の大学ツインタワーを見上げた。
「しかし――この異世界における『ルーセン工科大学』の実態を見てください。
我が大学は、ただ机の上の数式を教えているだけの象徴的な学府ではありません。
セメントを焼き、カロン・スチールを鍛錬し、エアコンを開発し、電気自動車を設計し、水力と風力の電力を生み出し、ペニシリンを単離し、製麺機を発明してパスタを輸出している……。
教育機関であると同時に、世界で最も強大で、最も高収益を叩き出す『超巨大総合コングロマリット(複合企業体)』そのものなのです!」
「……っ!!」
マリアベルが息を呑んだ。
「特許料、資材の卸売益、新製品のライセンス収入……大学が保有する無形・有形の資産価値は、すでに帝国の国家予算の一部に匹敵します。
この大学の株式を公開し、市民や商人たちに出資を募れば、集まった天文学的な資本を使って、大陸横断鉄道の敷設や、第二、第三のメガ発電所の建設といった、国家規模の超巨大プロジェクトを自分たちの資金だけで一気に推進できるようになるのです!」
カロンの言葉に、マリアベルは全身に鳥肌が立つのを覚えた。
学問の成果がそのまま莫大な経済的価値へと直結し、その富がさらなる知と技術の研究開発へと再投資される、無限の循環成長モデル。
「素晴らしい……! なんという壮大な打算、なんという美しい資本の構想ですの……! これぞ、世界で唯一無二の『知の帝国』ですわ!」
マリアベルは熱狂に頬を紅潮させ、手帳に激しい勢いでメモを走らせた。
「さて、理念はご理解いただけたと思いますが……ここからが実務上の最大の課題です」
カロンは現場事務所の引き出しから、一枚の白く硬質な紙を取り出し、机の上に置いた。
前世の二十一世紀の株式市場であれば、すべての取引は光ファイバー通信とスーパーコンピューターによる「完全電子化」で行われていた。
しかし、この異世界にはまだ高度なデジタル通信網もコンピューターも存在しない。
「証券取引所を動かすためには、前世の近代初期――十九世紀から二十世紀初頭の地球で用いられていた『紙の株券』を発行し、それを物理的に売買するシステムを採用せねばなりません」
マリアベルが株券のサンプルを手にとった。
カロンが銀行局の通帳開発で培った偽造防止技術をさらに極限まで高めた、美術品のような証券用紙であった。
三次元魔導ホログラム透かし:傾けると、ルーセン工科大学の校章が立体的に浮かび上がる。
カロン・スチール極細ワイヤーの漉き込み:紙の内部に、髪の毛より細い金属繊維が網の目のように埋め込まれ、破断や偽造を完全に防ぐ。
紫外線蛍光インク:特殊な魔導光を当てた時だけ、発行シリアルナンバーが鮮やかな真紅に発光する。
「この紙の株券を、投資家や市民に保有してもらい、取引所で売り買いするわけですが……問題は、その『売買を成立させる現場の仕組み』です」
カロンは立ち上がり、マリアベルとギルバートの前で、両手をリズミカルに動かして見せた。
右手の平を外へ向けて前へ押し出し、指を二本立てる。
続いて、手の甲を手前に引き、指を五本握り込む。
「カロン学長……? その奇妙な手の動きは、一体何ですの?」
マリアベルが目を丸くする。
「これは前世の証券取引所で使われていた『場立ちのハンドサイン(手サイン)』です」
カロンは真面目な顔で解説した。
「大勢の人間が同じ広間に集まり、株を買いたい者と売りたい者が大声を張り上げても、声はかき消されて注文が通りません。
そこで、この手のサインを使います。
手のひらを外に向ければ『買い(買いたい)』。手の甲を外に向ければ『売り(売りたい)』。
立てた指の数で『株数』や『希望価格』を一瞬で遠くの相手へ伝達するのです。
取引所のフロア(立会場)には、このハンドサインを読み取り、瞬時に売り手と買い手をマッチングさせて成約を叫ぶ『場立ち(仲介員・ブローカー)』と呼ばれる専門職が、何十人、何百人とひしめき合うことになります」
カロンが実演してみせる素早い手のサインの連続。
『ゲオル商会株、五百株、買い!』『工科大学株、千株、売り!』
その光景を想像した瞬間――
マリアベルは額を押さえ、深いため息をつきながら、苦笑いを浮かべた。
「……はあぁぁ……。なるほど、理屈は完璧に分かりましたわ。……ということは、カロン学長」
「はい、マリアベルさん」
「私……また、商会の枠を飛び越えて、手先が器用で、動体視力が良くて、大声が出せて、暗算が恐ろしく速い優秀な若者を、街中から何十人もスカウトしてきて一から教育しなければならない、ということですわね?」
「その通りです。マリアベルさんの卓越した人材育成能力に、全幅の信頼を置いております」
カロンが満面の営業スマイルで頭を下げる。
マリアベルは「まったく、この学長様は次から次へと人使いの荒い無理難題を放り込んできますわ……」と肩をすくめつつも、その瞳には新たなる巨大ビジネスの頂点に立つ野心的な炎がギラギラと燃え盛っていた。
「よろしいですわ! やって見せましょう! ゲオル商会の全ネットワークを駆使し、帝国一の俊敏な『初代場立ち集団』を育成してみせます! カロン学長、取引所の完成までに完璧に仕上げてみせますわ!」
「頼もしい限りです!」
カロンとマリアベル、そしてギルバートは、立ち上がる鉄骨の巨堂を見上げながら、固い握手を交わしたのであった。
大聖堂裏手のアパート、二階の自室。
深夜の静寂の中、カロンはいつものように自慢の電気温水器から完璧な四十一・五度のお湯をバスタブにたっぷりと張り、肩まで深く身を沈めていた。
「……ふぅぅぅぅぅ……っ」
湯気の中に溶け出していく、心地よい充実感。
銀行局の本店は完璧な大成功を収め、帝都支店も軌道に乗った。
街の商店からのツケ伝票はすべて口座振替で自動決済されるようになり、学長室に店主たちが押し寄せてくることもなくなった。
そして、対岸には証券取引所の巨大な骨組みが立ち上がり、大学そのものを上場させるという前代未聞の資本主義のレールが敷かれ始めている。
(……すべてが、順調だ。技術、エネルギー、交通、そして金融。この街の産業基盤は、完全に近代国家のそれへと進化しつつある)
カロンは湯船の縁に頭を預け、目を閉じた。
……しかし。
その時、アパートの廊下から、トタトタと忍び足で歩く軽快な足音と、呑気極まりない鼻歌が微かに聞こえてきた。
「ふふ〜ん♪ 今日はスロットで銀貨三十枚負けちゃったけどぉ〜、明日は絶対にあのピカピカ光る台で大勝ちするのよ〜ん♪」
隣の部屋のドアがガチャリと開き、バタンと閉まる音。
駄女神メリスが、公営カジノ『エルドラド』の夜の部から帰還した足音であった。
カロンは湯船の中で、目を開けた。
心臓の奥が、チクリと冷たい嫌な予感に締め付けられる。
(……待てよ)
カロンの脳裏に、昼間マリアベルに説明した「証券取引所」の仕組みが、最悪の形で再構築された。
『企業の成長を信じて出資し、その配当と値上がり益を得る』――それは本来、極めて高度で合理的な投資活動である。
しかし……知識も分析力もなく、目先の数字の上下とスリルだけに惹かれるギャンブル中毒者の目には、それは一体どのように映るだろうか?
(値上がりするか、値下がりするか……。安く買って、高く売れば、一瞬で莫大な金が手に入る……?)
カロンの背筋に、氷水を流し込まれたような戦慄が走った。
(あいつ……公営カジノのスロットやルーレットで上限ロックを食らってフラストレーションを溜め込んでいるあの駄女神が……もし、新しく開設される株式市場という名の、上限金額の存在しない巨大な鉄火場に気付いてしまったら……?)
『負けるのはちょっと嫌だけど……でも、なんだか癖になりそうね! てへっ。♡』
あの悪魔的な笑顔とウインクが、脳裏を猛烈な勢いでフラッシュバックする。
「……ま、まさかな……」
カロンは手桶でお湯をすくい、自らの顔にバシャリと浴びせかけた。
「株の売買には口座開設が必要だし、銘柄の分析も必要だ。いくらあのメリス様でも、スロットマシンのように直感とノリだけで株に手を出せるはずがない……。いくら何でも、そこまで愚かな暴走は……」
そう自分に言い聞かせるカロンであったが――
胃の奥底で疼く鋭い激痛は、なぜか一向に収まりそうになかった。
窓の外では、冬の夜風がエレンの丘の風車を力強く回し続けている。
ルーセン銀行局の華々しき開業。
そして、その光のすぐ隣で急速に組み上がっていく証券取引所の巨塔。
今のカロンはまだ、信じたくない現実として胸の奥に押し込めることしかできなかったのである。




