第80章:健全なる娯楽と泥沼の神々
第80章:健全なる娯楽と泥沼の神々
闇カジノ『クラブ・タナトス』を急襲・壊滅させ、カロン自身のポケットマネーから金貨五百枚という血を吐くような借金精算を行ってから数日。
冬の足音が本格的に近づき、ルーセン工科大学のキャンパスを冷たい北風が吹き抜ける中、二階の学長室は、いつになく殺伐とした――いや、ひどく騒々しい空気に包まれていた。
「やーだやーだやーだーっ!! カジノ! 私のカジノを返しなさいよカロン!!」
床の上に大の字になって手足をバタバタと激しく暴れさせているのは、天界の主神であるはずの駄女神メリスであった。
美しいプラチナブロンドの髪を絨毯に擦りつけ、まるで玩具屋の前で欲しいものを買ってもらえない幼児のように、みっともなく転がり回っている。
「カロンの分からず屋! ドケチ! 独裁者! せっかく私が人生……じゃなくて神生の最高の生き甲斐を見つけたっていうのに、なんであの楽しい社交場を潰しちゃったのよーっ!!」
執務机で「ルーセン銀行局・本局防盗金庫」の最終配管図を引いていたカロンは、こめかみに青筋をピキピキと立てながら、製図ペンを机に叩きつけた。
「静かにしなさい、メリス様!!」
カロンの一喝が部屋に響く。
「あれは違法賭博場です! イカサマダイスで客をハメ込み、法外な闇金利で善良な市民や冒険者を破滅させる犯罪組織のアジトだったんですよ! 摘発されて当然でしょうが!
それに……私の金貨五百枚をどの口が言うのですか! あなたが溶かしたあの五百枚があれば、大学の新しい風洞実験棟が一棟丸ごと建ったんですよ!?」
カロンの正当すぎる怒りに、メリスはピクリと動きを止め、寝転がったまま上目遣いに唇を尖らせた。
「だ、だってぇ……あのルーレットが回ってる時のドキドキ感、本当にたまらないのよぉ……。数字がピタッと止まるかどうかのスリル! 当たった時のあの脳みそがトロけるような快感!
カロン、お願いよ! あそこがダメなら、アンタが作ってよ! カロンの魔法と工学なら、もっとピカピカ光って、もっとスリルがあって、もっと楽しいカジノなんて一晩で作れるでしょ!? ねぇ作って! 作ってくれたら、向こう一ヶ月はパフェをおかわりしないからぁ〜っ!!」
「絶対に嘘ですね。二日後には『パフェ食べたい』と騒ぎ出すに決まっています」
カロンは冷徹に言い捨て、深いため息をついた。
しかし――床で転がる駄女神を冷ややかな目で見下ろしながら、カロンの優秀な頭脳は、工学者として、そして都市計画者としての冷徹な分析を無意識に開始していた。
(……だが、待てよ)
カロンは腕を組み、窓の外を見つめた。
窓の向こうには、エレンの丘の風車が力強く回転し、新工房区からは絶え間なく槌音が響いている。
(人間もドワーフも、そして……情けないことに神ですらも、『娯楽』や『射幸心』への欲求を完全にゼロにすることはできない。現に、あの闇カジノには街の職人や商人、冒険者たちが大勢出入りしていた。
ギャンブルというものは、いくら法で厳しく禁止して力づくで取り締まったところで、需要がある限り必ず闇に潜り、暴力団や闇ギルドの資金源として地下化するだけだ。前世の近代地球の歴史を見ても、それは明白な事実だ)
ならば、どうすべきか。
(禁止するのではなく、行政が完全に管理・統制できる枠組みの中に引き込み、健全化する……すなわち、『公営カジノ(健全なる大衆娯楽施設)』の設立だ)
カロンの頭の中で、前世のシンガポールのマリーナベイ・サンズや、公営競技、あるいはパチンコ・スロットの出玉規制・依存症対策のノウハウが、急速に一本の論理として組み上がっていった。
(ルールを厳格化し、客が破滅しないためのセーフティネットを工学的に組み込む。ハウス(胴元)の利益を闇組織ではなく、街の治安維持と公共財政へ還元する。……これなら、メリス様の暴走を管理された檻の中に閉じ込めつつ、都市の財政をさらに潤すことができるのではないか?)
「……メリス様」
「な、なぁに……? 作ってくれる気になった……?」
床からひょこっと顔を上げたメリスに、カロンは眼鏡の位置を直すような仕草(実際には掛けていないが)で、冷ややかに告げた。
「あなたが二度と闇討ちや借金地獄に陥らないよう、徹底的に雁字搦めのルールで縛った『公営の娯楽場』のプランを検討してみましょう。……ただし、私の決めた規則に一ミリでも違反したら、即座に出入り禁止にしますからね」
「きゃあああああっ!! カロン大好きーっ!! やっぱり話の分かる最高のシモベねっ!!」
飛びついてこようとする駄女神の顔面を、カロンは手元の羊皮紙ファイルでバシッと押し留めた。
「調子に乗らないでください。これから大公閣下とギルバートさんを呼んで、事業化の妥当性を協議するのですから!」
その日の午後。
ルーセン大公邸の特別会議室。
招集されたのは、帝国の初代財務経済大臣の激務に追われつつもルーセンの公務をこなすハインリヒ大公、そして冒険者ギルドマスターのギルバートであった。
カロンは机の上に、先ほど学長室で猛烈な勢いで書き上げた『ルーセン公営娯楽場設立計画案』を広げた。
ギルバートは太い腕を組み、葉巻の煙を吐き出しながら、怪訝そうに眉をひそめた。
「おいおい、カロンの旦那……。この間、俺たちの手で闇カジノをぶち潰したばっかりじゃねえか。その舌の根も乾かぬうちに、今度は自分たちでカジノを開くってのかい? そいつは少々、筋が通らねえんじゃねえか?」
ハインリヒ大公も、胃のあたりを軽くさすりながら苦笑いを浮かべた。
「うむ……カロン殿。闇ギャンブルの害悪は余も重々承知しておる。それを領主公認で開帳するとなれば、風紀の乱れや破産者の続出を招くのではないかね? 帝都のセルセデス3世陛下になんと申し開きをすればよいか……」
二人の至極真っ当な懸念に対し、カロンは自信に満ちた笑みを崩さなかった。
「お二人のご心配はもっともです。ですが、私の提案するこれは、無法な闇カジノとは根本から思想が異なります。工学と法制度によって、『絶対に人が破滅しないセーフティネット』を組み込んだ、世界初の完全公営娯楽施設なのです」
カロンは企画書の重要項目をペン先で叩いた。
「まず、第一の柱――『上限金額自動ロック機能』です」
「上限ロックだと?」
ギルバートが身を乗り出す。
「はい。入場者は全員、受付で身分証を提示し、専用の『魔導入場チップカード』を受け取ります。このカードには、その人物の身分や収入ランクに応じた『一日の最大換金額(例えば一般市民なら銀貨十枚、高ランク冒険者なら金貨五枚まで)』が魔導的に記録されます。
負けが込んで熱くなり、指定された上限額を超えてチップを追加購入しようとしても――窓口の魔導端末が自動的にエラーを吐き出し、その日は二度とチップを購入できなくなる物理的・魔導的ロックがかかります」
「な……ッ!?」
ギルバートが目を剥いた。
「負けが込んでも、それ以上突っ込めなくなるのか!? 借金を重ねて首が回らなくなるのを、機械が強制的にストップさせるってのか!」
「その通りです。さらに第二の柱――『低掛け金・高回転型・超精密スロットマシン』の導入です」
カロンは自らがスケッチした、美麗な機械の図面を見せた。
「闇カジノのように、一発で金貨数百枚が吹き飛ぶような危険なレートは一切排除します。代わりに、鉄貨一枚、銅貨一枚、銀貨一枚から気軽に遊べる、低掛け金、カロン・スチールと人造蓄電魔石を用いた電動式スロットマシンを五十台配置します。
内部には、イカサマが絶対に不可能な『機械的・魔導的乱数発生器』を内蔵し、大当たりの確率(出玉率)を九十五パーセントから九十八パーセントという、極めて公正でマイルドな数値に固定します。
光と音の演出で脳を心地よく刺激し、わずかな小銭で何時間も安全にワクワクとした時間を過ごせる『健全な大衆遊技』へと昇華させるのです」
「……なるほど」
ハインリヒ大公の目が、鋭い政治家の光を帯び始めた。
「小銭で遊ばせ、大負けを防ぎ、イカサマを完全に排除する……。これならば、無法な闇カジノへ流れていた民衆の金を、健全で安全な公の施設へと完全に吸い上げることができるな」
「はい。そして、この施設の最大の肝となるのが――ギルバートさん、冒険者ギルドとの全面提携です」
カロンはギルバートの目を真っ直ぐに見つめた。
「公営カジノの施設内警備、入口での身分確認、不正行為の監視、そして換金窓口の警護……これらすべての保安業務を、冒険者ギルドへ独占委託いたします。引退したベテラン冒険者や、信頼のおけるギルド職員を正規雇用し、鉄壁の治安を維持していただきたいのです」
ギルバートは口から葉巻を離し、豪快に膝を打った。
「そいつは最高だ! ギルドの連中に『身元確認と警備の仕事』を恒常的に回せる上に、荒くれ者が店内で暴れようものなら、うちのベテランが即座に叩き出せる! 治安の維持に関しちゃ、街の憲兵隊よりうちの連中の方がよほど場数を踏んでるからな!」
「さて……最も重要な、この公営カジノが生み出す莫大な収益の配分についてです」
カロンは企画書の最終ページをめくった。
「カジノというものは、どれほど出玉率を高めに設定しても、確率論(大数の法則)上、長期的に見れば必ず数パーセントから十パーセント前後の『ハウスエッジ(胴元の粗利益)』が確実に手元に残ります。
そこで――このカジノの利益配分は、以下のようにいたしましょう」
カロンは円グラフを示した。
「カジノの純利益の大半は、すべてハインリヒ大公(領主邸)の公的財政へ納入いたします。これは、新工房区の道路整備、孤児院の教育基金、そして冬の福祉対策費として活用していただきます。
そして、日常の現場警備と管理実務を担っていただく冒険者ギルドへは、警備対応の手数料および特別委託費として、安定した一定割合の利益を毎月確実にお渡しする……この座組みでいかがでしょうか?」
カロンの説明が終わった瞬間。
「………………………………」
ハインリヒ大公は、手元の書類を見つめたまま、微動だにしなくなった。
そして、おもむろに天を仰ぎ、顔を両手で覆うと、肩を小刻みに震わせ始めたのである。
「だ、大公閣下……? お腹でも痛みますか?」
カロンが心配そうに尋ねると、大公は指の隙間から、何とも言えない複雑極まりない、歓喜と呆れが混ざり合った笑い顔を覗かせた。
「……いやな、カロン殿。余は今、途方もない現実に打ちのめされておるのだよ」
「……現実、ですか?」
ハインリヒ大公は深く息を吐き出し、立ち上がると、カロンの両肩をガシッと掴んだ。
「考えてもみるがよい!
セメントと鉄筋を造れば街中の建設特需で税収が跳ね上がり、
路面電車を走らせれば運賃収入が毎日唸りを上げ、
エアコンを売り出せば街中から金貨が雪崩れ込み、
水力と風力の余剰電力は商会へ高値で売却され、
先日は国王陛下から『初代財務経済大臣』の莫大な国庫予算の差配権まで押し付けられた!
そして今度は……放っておいても民衆が勝手に小銭を落としていく、濡れ手で粟の『公営カジノの収益』まで、余の懐へ丸ごと転がり込んでくるというのだぞ!?」
大公は自らの額をペチリと叩き、苦笑いを爆発させた。
「カロン殿! 君という男がこのルーセンに来てからというもの……余の財産と領地の金庫は、何もしなくても勝手に増え続けておるのだよ!! もう金庫番のセバスチャンが毎晩『金貨が入り切らないので新しい倉庫を建ててください』と泣きついてくるレベルなのだぞ! 嬉しい悲鳴を通り越して、恐ろしくなってくるわ!!」
「ガハハハハッ!!」
横で聞いていたギルバートが、腹を抱えて大爆笑した。
「全くだぜ、大公閣下! カロンの旦那と組んでると、ウチのギルドも財産が増える一方だ!
解体場の大型冷蔵庫で魔物の肉の損耗はゼロになるわ、水道で作業効率は爆上がりだわ、怪我人は旦那の弟子たちが安価なポーションと治癒魔法で治しちまうわ、今度は警備手数料で毎月莫大な金がギルドに転がり込んでくる!
おいカロンの旦那! あんた、歩く招き猫か何かか!? 拝めば金貨でも湧いて出てくるんじゃねえだろうな!?」
ギルバートが太い腕でカロンの頭をくしゃくしゃと撫で回す。
「い、いやはや……皆さんのお役に立てているなら、技術者として本望ですよ」
カロンは照れくさそうに苦笑いするしかなかった。
こうして、ハインリヒ大公の全面認可と、冒険者ギルドの全面協力のもと、新時代の健全なる大衆娯楽――『ルーセン公営カジノ』の設立が、満場一致で決定したのであった。
合意が成立してからのカロンの行動スピードは、まさに電光石火であった。
現在、中央区の一等地に建設中であった「ルーセン銀行局・本局ビル」。
カロンはその目抜き通りのすぐ隣、新工房区へと続く路面電車の停留所前にある広大な空き区画を指定し、銀行局と並行して「ルーセン公営カジノ」の建屋を一気に建設する突貫工事を立ち上げた。
「土木工学と鉄筋コンクリート(RC)技術の真骨頂を見せるぞ!」
カロンの号令のもと、工科大学のドワーフ留学生十二名と、クレーン重機が夜を徹して稼働した。
わずか二週間。
中央大通りの一角に、白亜の大理石と耐震コンクリートで美しく組み上げられた、地上二階建ての壮麗なエンターテインメント宮殿――『ルーセン公営プレイス・エルドラド』が、堂々とその姿を現したのである。
外観は、怪しげな闇カジノの気配など微塵も感じさせない、格式高い王立劇場の如きネオ・クラシック様式。
正面玄関には、シルフの風の加護を象徴する優美な白柱が立ち並び、夜間にはカロンが開発したフルカラー調光LED(魔導電灯)が、七色の柔らかな光条で建物をライトアップする。
建物の中へと足を踏み入れれば、そこは中世の暗がりを完全に脱ぎ捨てた、前世のラスベガスの一流カジノホテルさながらの空間が広がっていた。
一階:『大衆アミューズメント・スロットフロア』
カロンが工房で量産した、五十台もの『魔導液晶風スロットマシン』が整然と並ぶメインフロア。
レバーを叩くと、内部の三つの円筒ドラムがシュルシュルと高速回転し、ストップボタンを押せば小気味よい音とともにピタリと停止する。
「7・7・7」が揃えば、天井のパトランプがピカピカと回転し、ファンファーレの魔導音が鳴り響いて、受け皿へジャラジャラジャラッと銀貨が払い出されるギミック付きである。
すべての台にはカロン直伝の「上限ロック機構」が内蔵され、熱くなった客が一定額以上を投入しようとすると、「本日の遊技上限に達しました。明日またお越しください」と穏やかな音声が流れて投入口がカチリと閉じる設計となっていた。
二階:『本格テーブルゲームフロア』
緑のベルベットクロスが敷かれた、ルーレット台、ブラックジャック台、バカラ台が十数卓並ぶフロア。
ディーラーを務めるのは、マリアベルがゲオル商会から選抜し、カロンが確率論と接客マナーを徹底的に叩き込んだ、清潔なタキシード姿の若いバンカーたち。
周囲の壁面や出入り口には、ギルバートが配備した、胸に「公営保安員」の腕章を巻いた引退冒険者の屈強な男たちが隙間なく立ち並び、イカサマや客同士の小競り合いをミリ秒単位で未然に防ぐ体制が敷かれていた。
「……完璧だ。これ以上なく健全で、これ以上なく安全な社交場が完成したな」
カロンが満足そうに腕を組み、二階の吹き抜けからフロアを見下ろしていると、
背後から、ズケズケと遠慮のない足音が近づいてきた。
「ふあぁぁ〜……! なになに、ここが私の新しい遊び場!? すっごくピカピカしてて綺麗じゃないのーっ!!」
現れたのは、深緑色のローブの裾を翻し、黄金の髪をなびかせた駄女神メリスであった。
その目は、新しく並べられたスロットマシンの電飾を見て、爛々と猛獣のように輝いていた。
「メリス様。言っておきますが、ここは公営の施設です。あなた専用の入場カードにも、一日の遊技上限額が厳格に設定してありますからね。銀貨五十枚分以上は、神の権能を使おうが絶対にチップに換金できませんから!」
「ちぇ〜っ! ケチカロン! まあいいわ、銀貨五十枚を五百枚に増やせばいいんでしょ! 見てなさいよ、私の神の直感の凄さを!!」
メリスは鼻息を荒くし、オープン前のスロットマシンの前へ駆け寄っていった。
そして迎えた、グランドオープンの日。
冬の青空の下、カジノの前には、路面電車に乗って駆けつけてきた何千人もの市民、新工房区のドワーフ職人たち、そして冒険者たちが、割れんばかりの長蛇の列を作っていた。
正面玄関の前で、正装を着こなしたハインリヒ大公が、威風堂々とテープカットを行った。
「領民諸君! これより、我がルーセンが誇る健全なる新時代の娯楽の殿堂――『ルーセン公営プレイス』の開業を宣言する! ルールを守り、節度を保ち、大いに日頃の労苦を癒やすがよい!」
パチパチパチパチッ――!!
拍手と歓声が沸き起こり、真鍮の扉が一斉に開放された。
「うわああああっ! なんだこのピカピカ光る機械は!?」
「銀貨一枚で遊べるのか!? 安いぞ!」
「見てみろ、あの樽の絵が揃ったら銀貨が十枚出てきたぞ!!」
フロアは一瞬にして、電子音のような魔導メロディと、コインの払い出されるジャラジャラという心地よい金属音、そして人々の歓声と笑い声で満たされた。
治安は完璧であった。
怪しげなゴロツキが少しでも暴れようとすれば、腕章を巻いた元AランクやBランクの屈強な冒険者保安員が「おい、静かに遊べねえなら表へ出るか?」と肩に手を置くだけで、誰もが大人しくルールに従った。
上限に達した職人が「ちぇっ、今日はここまでか!」と苦笑いして引き揚げ、勝った市民がホクホク顔で隣のフードコートへ家族への土産の肉を買いに行く。
まさに、カロンが描いた通りの「健全なる大衆娯楽のサイクル」が、完璧に機能し始めたのである。
……しかし。
健全な大衆の中に、「不健全の塊のような超常存在」が混ざり込んでいた。
「揃いなさいよォォッ! なんで『チェリー・チェリー・BAR』なのよ! そこは『7』でしょおおおおっ!!」
一階フロアの最奥、角打ちのスロットマシンの前。
すでに開店から五時間が経過しているというのに、一度も席を立つことなく、鬼気迫る表情でレバーをガシガシと叩き続けている金髪の美女がいた。
駄女神メリスであった。
その足元には、大食堂から運ばせた空のサンドイッチの皿と、飲み干した果実水のグラスが山積みにされていた。
完全なる「カジノの地縛霊」と化していたのである。
ピピッ――♪
スロットマシンから無情な電子音が響き、コイン投入口のシャッターが『カチリ』と音を立てて閉ざされた。
『――本日のご利用上限(銀貨五十枚)に達しました。本日の遊技は終了です。明日のお越しをお待ちしております』
魔導スピーカーから流れる、カロンの声をサンプリングした丁寧なアナウンス。
「ギャアアアアアッ!? カロンの分からず屋ぁぁぁっ!! ここからが私の『確変』の波が来るところだったのにぃぃぃっ!! ロックを解除しなさいよ、このポンコツ機械ぇぇぇっ!!」
メリスがマシンの筐体を両手でバンバンと叩いて揺さぶるが、カロン・スチール製の強靭なボディはビクともしない。
周囲の客たちも「あ、あの綺麗な姉ちゃん、また上限まで負けて暴れてるぜ」「毎日一番乗りで来て、毎日きっちり上限までスって叫んでるよな」と、もはや名物を見るような温かい(生暖かい)目で眺めていた。
「メリス様。機械を叩かないでください。壊れたら弁償ですよ」
後ろから冷徹な声が響いた。
見上げると、巡回にやってきたカロンが、腕を組んでジト目を向けていた。
「カロン〜〜ッ!!」
メリスは椅子から転がり落ち、カロンの作業着の裾にすがりついた。
「お願い! ロックを解除して! あと銀貨十枚……いや五枚でいいの! 次は絶対に『7』が揃うって、私の神の第六感がビビビッて叫んでるのよぉ〜〜っ!!」
「ダメです。上限は上限です。ルールを守れないなら、二度と入場させませんよ」
「うぐぐぐ……っ! ケチ! 鬼! 悪魔! 工学部教授の石頭ぁぁぁっ!!」
ギャアギャアと喚き立てる駄女神の首根っこを掴み、カロンが引きずり出そうとした――その時であった。
「……おいおい、ディーラーさんよ。もう一回だけ、カードを配り直してくれねえか……?」
二階の本格テーブルゲームフロアへと続く階段の踊り場から、ひどく弱々しい、今にも泣き出しそうな男のしゃがれ声が漏れ聞こえてきた。
カロンはピクリと足を止めた。
(……ん? この声、どこかで聞き覚えがあるぞ……?)
メリスの襟首を掴んだまま、カロンが二階のブラックジャックのテーブルへと視線を向けると――
そこには、見慣れた、あまりにも見慣れすぎた「巨大な背中」があった。
歴戦の傷跡が刻まれた分厚い首筋。
普段は威風堂々たるオーラを放ち、大剣一本で魔物の大群を両断するはずの、あのルーセン冒険者ギルドの最高責任者――ギルドマスター・ギルバートであった。
しかし、今のギルバートには、歴戦の英雄の面影など微塵も残っていなかった。
正装の革鎧の肩当てはだらしなく外され、額からは脂汗が滝のように流れ落ち、テーブルの上に置かれた手元には――
チップが一枚も残っていなかった。
ディーラーの若い男が、申し訳なさそうに眉を下げて一礼する。
「ギルドマスター……大変申し上げにくいのですが、お客様の手持ちのチップはすべて尽きましてございます。……これ以上の勝負は……」
「そ、そんな……! なんで俺が『二十』でスタンドしたのに、お前のめくったカードが『絵札』で『二十一』になるんだよォォッ!? イカサマだろ! カロンの旦那の作った機械のイカサマだと言ってくれよォォッ!!」
ギルバートは頭を抱え、テーブルの上に突っ伏して慟哭した。
その無様な姿を、カロンは信じられないものを見る目で見つめた。
「……ギルバートさん?」
ビクゥゥゥッ!!
ギルバートの巨躯が、感電したかのように跳ね上がった。
ロボットのようにぎこちない動きで首だけを後ろへ巡らせると、そこには作業着姿のカロンと、襟首を掴まれたまま目を丸くしているメリスの姿があった。
「カ……カロンの……旦那……!?」
ギルバートの顔色が、褐色から一瞬で土気色へと変色した。
慌てて背筋を伸ばし、咳払いをしながら取り繕おうとする。
「あ、いや……! 旦那! これはだな! ギルドマスターとして、この施設のセキュリティに不備がないか……そう! 内部監査のために、身銭を切ってテストプレイをしていただけでだな……!」
「……ギルバートさん。あなたの足元、負けチップの伝票の控えが五枚ほど落ちていますが」
カロンが冷ややかに指摘すると、ギルバートは「うぐっ……!」と胸を押さえて絶句した。
ディーラーの若者が、困ったようにカロンへ報告する。
「あの……カロン学長。ギルドマスター、昨日も一昨日も非番の時間に来店されまして……ブラックジャックとルーレットで、手持ちの金貨をすべて……その、完全にボロ負けされておりまして……」
「バラすんじゃねえよ、バカ野郎ッ!!」
ギルバートが真っ赤になって叫ぶ。
その光景を目にした瞬間――
カロンの腕の中で宙ぶらりんになっていた駄女神メリスが、パァァァッと満面の笑顔を咲かせ、腹を抱えて大爆笑し始めたのである。
「ギャハハハハッ!! なにアンタ、偉そうにしてるくせに、私より負けてるじゃないのーっ!! ボロ負け! 完敗! ギルドマスターがすっからかんよーっ!!」
「う、うるせえええっ! この金髪女! てめえだってスロットで一文無しになって引きずられてるじゃねえか!!」
「私はね、スリルを楽しんでるの! アンタみたいに未練がましくディーラーに泣きついてないもんねーだ!!」
二人の大人が――いや、一柱の神と一人の元Aランク冒険者が、カジノのフロアの真ん中で、子供のようにギャアギャアと言い争いを繰り広げるという、地獄のような惨状。
カロンは、深く、深く、深く……魂の底から絞り出すような特大のため息を吐き出した。
(……やれやれ。駄女神だけでなく、ギルドマスターまでギャンブル中毒の素質があったとはな……)
大公は帝都で財務大臣を兼務させられて過労死寸前で車を飛ばし、
この街の最高戦力たるギルド長と主神は、カジノの片隅で小銭をスって子供の喧嘩をしている。
「……二人とも、いい加減にしなさい!!」
カロンの一喝が、カジノの二階フロアを震撼させた。
二人はビクッと口を噤み、カロンの冷徹な眼光の前に正座させられた。
「ギルバートさん。警備の総責任者が現場で客としてボロ負けして取り乱すなど、示しがつきません。……今日のところは、二人とも強制退場です。学食で頭を冷やしなさい!」
「うう……面目ねえ、旦那……」
「カロンの横暴よーっ!」
項垂れる大男と、手足をジタバタさせる駄女神の二人を引きずりながら、カロンは夜のカジノを後にしたのであった。
夜の十時。
大聖堂裏手のアパート、二階の自室。
カロンはいつものように、自慢の電気温水器から完璧な四十一・五度のお湯をバスタブにたっぷりと張り、肩まで深く身を沈めていた。
「……ふぅぅぅぅぅ……っ」
湯気の中に溶け出していく、一日の凄まじい精神的疲労。
湯船の縁に頭を預け、目を閉じると、今日一日の光景が走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
公営カジノの設立、セーフティネットの機能、そして街の治安を守るための制度設計。
施設自体は完璧な成功を収め、市民たちに健全な娯楽を提供し、領主邸とギルドへ莫大な正当収益をもたらし始めている。
……だが。
(あの駄女神の、あの目の輝き……)
カロンの脳裏に、スロットマシンに噛り付き、ルーレットに狂喜していたメリスの爛々とした黄金の瞳が、不気味な残像となって蘇ってきた。
上限ロックで現金の持ち出しを制限したとはいえ、彼女の中に眠っていた「リスクとリターンの快感」という魔物は、決して眠りについてなどいなかった。むしろ、スロットという小さな檻の中で、より大きな飢餓感を募らせているようにすら見えたのだ。
(……嫌な予感がするな)
カロンは湯船の中で、自らの胸元をさすった。
現在、カロンたちが水面下で準備を進めている、次なる大プロジェクト――
ルーセン銀行局の組織変更、そして企業や産業の未来に出資を募る『証券取引所(株式市場)』の開設。
それは本来、資本主義の健全な発展と、民衆の富の循環を目指す神聖な経済インフラである。
しかし……もしも、あの「ギャンブルの魔力」に目覚めてしまった駄女神が、あろうことか株式という名の巨大な市場に、あの直感とノリだけで首を突っ込んできたら……?
「……まさかな」
カロンは首を振り、自らの不吉な想像を打ち消そうとお湯を顔に浴びせた。
あの悪魔的なウインクの記憶が、湯煙の向こうで不気味に揺らめく。
窓の外では、冬の訪れを告げる冷たい風が、エレンの丘の風車を力強く回し続けていた。




