第79章:ギャンブルに目覚める駄女神
第79章:ギャンブルに目覚める駄女神
帝都グランツの王宮において、国王セルセデス3世から直々の「全面勅許」と「帝都第一号支店の同時開設命令」を勝ち取ってから数日。
冬の訪れを告げる冷涼な風が吹き抜ける中、ルーセン工科大学の二十階建て校舎タワー、最上階の特別会議室には、新時代の金融機関の立ち上げに携わる主要首脳陣が集結していた。
円卓の上には、カロンが起草した分厚い「ルーセン銀行局・設立実施要項」の最終草案が広げられている。
席に着いているのは、発案者たる学長カロン、帝国宰相たるハインリヒ大公、ゲオル商会会頭マリアベル、そして冒険者ギルドマスターのギルバートの四名であった。
カロンは手元の資料を指し示しながら、明確な口調で基本方針を読み上げた。
「大公閣下、マリアベルさん、ギルバートさん。国王陛下からの勅令に基づき、まずはここルーセンの中央区に総本部となる『ルーセン本店』を、そして帝都の復興地区の一等地に『帝都支店』をほぼ同時に着工・開設いたします」
三人は真剣な面持ちで頷いた。
マリアベルが琥珀色の瞳を輝かせ、実務の観点から問いかける。
「カロン学長。建物や金庫のハードウェアは学長にお任せするとして……銀行という未知の組織を動かす『頭脳と手足』、すなわち窓口係、出納係、外回り融資担当の大量の人員確保と教育はどういたしますの? 帝都支店も含めれば、初動だけでも百名規模の信頼できる人員が必要になりますわ」
「その点については、マリアベルさんとギルバートさん、お二人の強大な組織力に全面的にお任せしたいと考えています」
カロンは二人に視線を向けた。
「ゲオル商会からは、すでに帳簿付けや商談の手腕を持つ優秀な番頭や手代たちを供出していただき、窓口実務と審査部の中核を担っていただきます。工科大学の経営工学科で、私が前世から持ち込んだ『複式簿記』と『近代財務諸表』の集中講義を二週間の突貫で行い、近代バンカーとしての教育を施します」
「承知いたしました! 商会の精鋭から、数字に強く口の堅い若手を直ちに選抜いたしますわ!」
マリアベルが力強く胸を叩く。
「そしてギルバートさん。冒険者ギルドからは、金庫警備や現金輸送の護衛兵力はもちろんのこと……引退を考えている思慮深いベテラン冒険者や、怪我で前線を退いたが読み書き計算ができる元探索者たちを、銀行局の保安職員や支店案内係として多数雇用していただきたいのです」
ギルバートは太い腕を組み、ニヤリと豪快に笑った。
「おう、任せとけ! 腕っ節は立つが引退後の仕事に困ってた古株どもに声をかけりゃ、涙を流して飛びついてくるぜ。命がけの修羅場をくぐってきた連中だ、金目のものに目が眩んで裏切るようなチンピラは一人もいねえ。ギルドの威信にかけて、鉄壁の警備陣を揃えてやるよ」
実務と人員の目処が立ち、会議は最も重要かつ繊細な「利益配分と将来の資本構造」の議論へと進んだ。
ハインリヒ大公が口を開く。
「カロン殿。銀行局が軌道に乗った際の『利益の分配』についてだが、どのように整理しておるのだね? 国王陛下への上奏にも関わる重要事項だ」
カロンは事前に用意していた資本構成の図面を提示した。
「設立初期の段階においては、銀行局が生み出す純利益(利ザヤ収入および各種決済手数料)は、出資と貢献の度合いに応じて――【国(王室)】【ルーセン領主(ハインリヒ大公)】【冒険者ギルド】【ゲオル商会】【ルーセン工科大学】の五者で均等に按分・分配いたします」
「五者で均等……明快で角の立たぬ見事な配分だな」
ハインリヒ大公が頷く。
「はい。しかし、これはあくまで過渡期の暫定措置です」
カロンは声音を一段引き締めた。
「先日ご説明した通り、銀行局が安定稼働に入り、次の段階として『証券業(株式の公募・売買仲介)』が立ち上がった暁には――この銀行局そのものを正式な『株式会社』へと組織変更いたします。その際、五者が保有する権利をすべて数値化し、それぞれ均等な割合で『ルーセン銀行局の株式』を正式に割り当て・分配する形へと移行させます」
「株式の分配……! なるほど、権利を配当金と議決権という形に完全に資産化するわけですわね!」
マリアベルの目が鋭く光った。
「その通りです。株主となった五者は、配当金を得ると同時に、株主総会を通じて経営をチェックする。将来、さらに資本が必要になれば、一部の株式を一般の市民や職人に公開して資金を調達することも可能になります」
「うむ……! 権力の独占を防ぎ、都市と国家の成長を全員で分かち合う、誠に理に適った仕組みだ」
ハインリヒ大公も手放しで賛同し、銀行局設立のマスタープランは完全に合意に達したのであった。
会議が終わるやいなや、カロンはルーセン工科大学地下の先端金属・材料工学実験室へと直行した。
銀行というシステムが市民から信用を得るための絶対条件――それは「預けた金が絶対に盗まれない」という物理的な絶対防御の証明であった。
「さて……工学の粋を結集して、世界最強の金庫とセキュリティツールを作るぞ!」
カロンは作業着の袖をまくり上げ、自らの魔導クラフトと前世のセキュリティ工学をフル稼働させた。
まず製作に着手したのは、銀行局の地下に据え付ける『巨大防盗主金庫扉』であった。
材料には、ガロニアの親方衆との共同実験で生み出した奇跡の超合金「カロン・スチール」を贅沢に使用。厚さなんと五十センチメートル。
外層には、ドリルやタガネの刃先を一瞬で摩耗・粉砕する超硬タングステンカーバイド粒子を分散鋳造。
中間層には、火炎魔法や酸による溶断を完全に防ぐ、耐熱セラミックスとジルコニアの複合断熱層。
そして内層には、衝撃を吸収して爆破によるクラックを防ぐ、強靭なマンガン鋼プレートを幾重にも圧延積層した。
施錠機構には、カロンが前世の記憶から精密設計した、百億通りの組み合わせを持つ「四重ダイヤル式メカニカルコンビネーション錠」と、カロンとマリアベルの魔力指紋が完全一致しなければ絶対に閂が解除されない「バイオ魔導生体認証ロック」をデュアルで組み込んだ。
「ふむ……物理破壊、魔法溶断、ピッキング、爆破……いかなる手段を用いても、突破には最低でも連続四十日間の重機作業が必要だな。実質的に不可能です」
カロンは満足そうに分厚い円形金庫扉の表面を撫でた。
続いてカロンが開発したのは、日々の入出金を記録する『公認預金通帳』と『為替小切手用紙』であった。
「中世の羊皮紙や木片では、インクを削って数字を書き換える偽造や改ざんが容易に起きてしまう。現代の偽造防止技術を叩き込む!」
カロンは新工房区の製紙工場から取り寄せた最高級の綿パルプ紙に、特殊な鉱物顔料を練り込み、以下の偽造防止トラップを何重にも施した。
魔導透かし(ウォーターマーク):光に透かすと、ルーセンの双塔タワーとゲスハルト帝国の双頭鷲の紋章が立体的に浮かび上がる。
微細幾何学模様:虫眼鏡や顕微鏡で覗かなければ見えない、コンマ一ミリ以下の極小文字で「LUCEN BANK」の連続ラインを印刷。
変色魔導インク:見る角度によって紫色から黄金色へと色合いが変化する、光学偏光インク。
改ざん防止地紋:刃物で金額の数字を削ろうとすると、下の紙層が化学反応を起こして「無効(VOID)」の赤文字が浮かび上がる自己破壊構造。
通帳の表紙には、箔押しされた重厚な「ルーセン銀行局」の紋章が光り輝いていた。
「これなら、いかなる腕利きの偽造師や闇ギルドの詐欺師であっても、一ミリの複製すら不可能だ」
カロンが完成した金庫部品と通帳の山を検品しているところへ、ボルト副学長が温かいお茶を持って現れた。
「カロン学長……またしても恐ろしいものを作っておるな。この紙切れ一枚に、我がガロニアの国宝級の甲冑以上の防護策が詰め込まれておるとは……」
「信用を形にするのが、工学の使命ですからね」
カロンは笑って応じ、次なる工程へと邁進していった。
その頃、ルーセンと帝都グランツを結ぶ五百キロメートルの東部幹線街道では、猛烈な砂煙を上げて爆走する一台の銀色の影があった。
キィィィィィン……ッ!
けたたましいモーターの高周波音を響かせ、街道の砂利を鋭く蹴散らして疾走していたのは、カロンが製作した銀色の乗用電気自動車(EV)であった。
「ぬおおおおっ! コーナーの手前で回生ブレーキ! 荷重を前輪へ移動させてステアリングを切り込むッ!!」
運転席で額に汗を光らせ、歯を食いしばってステアリングホイールを巧みに操っていたのは――他ならぬルーセン領主にして帝国宰相、ハインリヒ大公であった。
助手席には、顔面を蒼白にしてダッシュボードのグリップに必死にしがみつく執事長のセバスチャン。
「だ、大公閣下! スピードが出すぎております! 制限速度の倍は出ておりますぞォォッ!」
「何を言うかセバスチャン! 帝都での閣議開始まであと二時間しかないのだ! この鉄の駿馬のトルクを信じろォッ!!」
大公の踏み込むアクセルペダルに応え、大容量雷氷複合魔石バッテリーから大電流が四輪のインホイールモーターへ注ぎ込まれ、時速は百キロメートルへと跳ね上がる。
あの日、セルセデス3世から課された「何かあれば車を駆ってその日のうちに帝都へ駆けつけること」という宰相就任の条件。
ハインリヒ大公は、カロン直伝のドライビングテクニックを極限まで磨き上げ、銀行局の設立認可、帝都支店の用地買収、法制度のすり合わせのため、この五百キロの過酷な道のりを、自らの運転で週に何度も往復していたのである。
夕刻前。夕陽に染まる帝都グランツの城門を電光石火のドリフトで駆け抜け、王宮の内郭へと滑り込んだハインリヒ大公は、砂埃を払う暇もなく玉座の間へと飛び込んだ。
玉座の間では、国王セルセデス3世とハミル第一王子が待機していた。
「セルセデス3世陛下! ルーセン銀行局の組織要綱、ならびに帝都第一号支店の設計図面と利益配分案、持参いたしました!」
ハインリヒ大公が息を切らしながら書類を差し出す。
セルセデス3世は書類を受け取り、そこに記された「王室への均等な利益分配」「将来的な株式の割当」「ギルドと商会を巻き込んだ合弁体制」の内容をつぶさに検分した。
「……見事だ、ハインリヒ大公。実に完璧な制度設計であるな」
セルセデス3世は深く頷き、感嘆の息を漏らした。
そして、王冠の下の眉をわずかに上げ、悪戯っぽく、しかし極めて重厚な威厳をたたえた笑みを浮かべたのである。
「……ところで、ハインリヒよ」
「は、ははっ!」
「そなたのその並外れた行動力、そしてカロン学長と共に次々と国家の難題を解決していくその手腕……実に素晴らしい。先日のクーデターで財務大臣をはじめとする中央の文官どもが軒並み失脚し、帝国の財政再建は暗礁に乗り上げておったのだがな……」
国王は玉座から立ち上がり、重々しい勅書をハインリヒ大公の目の前へと掲げた。
「余は決めたぞ。旧来の無能な財務大臣の職務を抜本的に改編し――帝国の財政、通商、産業、そしてこの新たなる金融制度のすべてを一元管理する最高ポストとして、新たに『初代財務経済大臣』の役職を創設する。……ハインリヒ大公、そなたに帝国宰相と兼務で、この初代大臣への就任を命ずる!」
「………………………………」
ハインリヒ大公の思考が、完全に停止した。
帝国宰相(国家No.2)だけでも過労死寸前の激務である。
そこへさらに、帝都と全土の財政再建を一手に引き受ける「財務経済大臣」の兼務。
「へ……陛下……? ぜ、全土の財政も……儂が……?」
「何を躊躇うことがある! 現にそなたは、ルーセンから帝都まで車を飛ばして数時間で駆けつけておるではないか! 距離の壁などそなたには無いに等しい! 帝国の経済の舵取り、そなた以外の誰に任せられるというのだ!」
セルセデス3世が豪快に肩を叩いて笑う横で、ハインリヒ大公は引きつった笑いを浮かべ、胃のあたりをそっと押さえながら、心の中で乾いた悲鳴を上げていた。
(……カロン殿……。また……また儂の仕事と胃痛の種が、倍に増えてしまったぞ……)
新しき初代財務経済大臣は、泣き笑いのような苦笑いを浮かべながら、深々と平伏するしかなかったのである。
ハインリヒ大公が帝都で新たな激務を背負い、マリアベルとギルバートが人員教育に汗を流し、カロンが工房で金庫の溶接火花を散らしていた――まさにその同じ頃。
学園都市ルーセンの片隅で、前代未聞の凶行(?)が静かに進行していた。
中央大通りの近代的なビル群から何本か外れた、旧市街の入り組んだ路地裏。
夜の帳が下りる頃になると、昼間の健全な活気とは打って変わり、怪しげな紫や紅の魔導ランタンが怪しく揺らめく歓楽街の奥深くに、その建物は存在していた。
看板すら掲げられていない、重厚な鉄扉の地下施設。
屈強な用心棒のゴロツキが合言葉を確認して扉を開けると、そこには分厚いタバコと葉巻の煙が充満し、ルーレットの回転音、ダイスの転がる乾いた音、そして金貨がぶつかり合うジャラジャラという音が渦巻く――『闇カジノ・クラブ・タナトス』が広がっていた。
帝国の法では禁じられている非公認の闇ギャンブル場。
血走った目でテーブルを囲む商人、借金を抱えた冒険者、そして怪しげな貴族の放蕩息子たちが熱狂するそのフロアの真ん中で――
ひときわ異様な存在感を放ち、爛々と黄金の瞳を怪しく輝かせている美女がいた。
「さあさあ回ったわよ! 次は『赤の二十四』に決まってるわ! 私の神の直感がそう告げているのよ! ほら、このチップ全部、赤の二十四にオールインよッ!!」
深緑色の魔法使いローブを脱ぎ捨て、袖を乱暴に捲り上げたその人物――
言わずと知れた天界の主神、駄女神メリスであった。
その前のテーブルには、山のように積まれていたはずの貝殻細工の高額チップが、今や風前の灯火のように数枚しか残されていなかった。
ディーラーの黒服の男が、冷ややかな薄笑いを浮かべながら、象牙のルーレット球をカラカラと弾き落とす。
カラン……カラン……コトコト……コトッ。
球が落ちたポケットの数字は――『黒の十七』。
「あ……」
メリスの口から、気の抜けた声が漏れた。
ディーラーが無慈悲に熊手でチップを全額掻き集めていく。
「黒の十七。ハウスの勝ちでございます」
「な……なによそれえええええっ!? なんで赤じゃないのよ! さっきも黒だったじゃないの! 確率的におかしいでしょ!!」
メリスがテーブルを両手でバンバンと叩いて抗議の声を上げる。
しかし、周囲の客たちは冷笑を浮かべるばかりであった。
「おいおい、あの金髪の姉ちゃん、もう五連敗だぞ」
「最初はダイス勝負でツキまくって金貨百枚くらい儲けてたのにな」
「典型的なビギナーズラックで調子に乗って、ルーレットとカードで全部巻き上げられてやがる。典型的なカモだな」
そう――事の発端は、数日前であった。
いつものように街中を食べ歩き、新しいスイーツの店を探して路地裏をほっつき歩いていたメリスは、ふとした好奇心からこの地下ギャンブル場へと足を踏み入れてしまったのだ。
最初のうちは、神の無駄に高い直感力でダイス賭博で大勝ちし、「何これ! 美味しいものを食べるより何倍もスリルがあって楽しいじゃない!」と味を占めてしまったのである。
しかし、確率論とイカサマが支配する闇カジノにおいて、直感だけに頼るド素人のギャンブルが長続きするはずがなかった。
負けが込むほどに「次こそは取り返せる!」「私の神の第六感が外れるはずがない!」とヒートアップし、掛け金を倍々で吊り上げていく典型的なギャンブル中毒の思考回路に完全に嵌まり込んでしまったのである。
「くっ……! もう一回よ! もう一回勝負しなさい!」
メリスが血走った目で叫ぶと、フロアの奥から、豪奢な毛皮のコートを着た恰幅の良い男が、獰猛な笑みを浮かべて歩み寄ってきた。この闇カジノの支配人、通称「百足のドルバ」であった。
「へへっ、お嬢さん。威勢がいいのは結構だが……もうあんたの手元にはチップが一枚も残っちゃいねえぜ?」
「ち、チップなんて後でいくらでも払えるわよ! 私は偉大なる女神メリス――」
「はいはい、神様神様。負けが込んだ客が神頼みで口走る寝言は聞き飽きてるんだよ」
支配人は懐から、禍々しい紫色のインクで印刷された分厚い借用書の束を取り出し、ペラペラと扇のように広げて見せた。
「お嬢さん。あんたがここ三日間でうちから借りて溶かした金の総額……そろそろ清算してもらおうか」
借用書の一番下に書かれた数字。
それを見た瞬間、周囲で野次馬をしていたチンピラたちすらも「ヒッ……」と息を呑んだ。
『借入元金:帝国純金貨・五百枚』
『闇利息(トイチ計算):金貨百五十枚』
【合計返済額:帝国純金貨・六百五十枚】
「ろ、六百五十枚……!?」
メリスは目をパチクリとさせた。
金貨六百五十枚。地方の小規模な領主の一年分の税収に匹敵し、高級住宅が数軒丸ごと買えるほどの途方もない巨額であった。
いくら神であっても、手元に現金の持ち合わせがあるはずがない。
「どうするんだい、お嬢さん? 今日中に耳を揃えて払えねえってんなら……その綺麗な顔と身体を、他国の娼館か鉱山のタコ部屋に売り飛ばす契約書にサインしてもらうことになるぜ?」
用心棒の筋骨隆々な大男たちが五、六人、バキバキと拳を鳴らしながらメリスを取り囲む。
普通の人間の女性であれば、恐怖で失禁して泣き叫ぶような絶体絶命の包囲網。
しかし――駄女神メリスは、ふうと息を吐き、腰に手を当てると、まったく悪びれる様子もなく、満面の笑顔でこう言い放ったのである。
「なーんだ、たったの六百五十枚じゃない! 大丈夫よ、私にはね……世界一お金持ちで、世界一何でも解決してくれるサイフ(下僕)がいるんだから!」
「……あァ? サイフだと?」
メリスは胸を張り、支配人の鼻先へビシッと指を突きつけた。
「今すぐ、大学の二十階にいるカロンを呼んで来なさい! あいつがこの借金、ぜ〜んぶ綺麗に一括で払ってくれるわよ!!」
夜の九時。
工科大学の学長室で、カロンは防盗金庫の最終チェックを終え、淹れたての温かいコーヒーを啜りながら、静かな夜のデスクワークに浸っていた。
そこへ――
ドタバタドタバタッ!!
「が、学長ぉぉぉッ!! 一大事でございますッ!!」
東門の警備隊長から市街警備総司令へと昇格したガース卿が、銀色の近衛甲冑をガチャガチャと鳴らし、青ざめた顔で学長室へ転がり込んできた。
「ガース卿、落ち着きなさい。夜遅くに一体何事です?」
「お、落ち着いていられません! 先ほど、旧市街の裏路地にある悪名高い闇賭博場から、凶悪な取り立て屋どもが大学の正門に押し寄せてまいりまして! 『メリスという金髪の女の借金を払え』と、血判状を突きつけてきたのです!」
ブフォッッ!!!!
カロンは口に含んでいたコーヒーを、勢いよくデスクの上へ噴き出した。
「な……何だとォッ!? 借金!? メリス様が!?」
「は、はい! その額……純金貨六百五十枚でございますッ!!」
「ろ……六百……五十……!?」
カロンの視界が、真っ白に明滅した。
パフェ百二十杯のツケ(金貨数十枚)でさえ胃が千切れそうになっていたというのに、今度は金貨六百五十枚。桁が二つも違う。
「あいつ……あいつ、食べ歩きどころか……裏カジノでギャンブルに手を出して大負けしやがったのかァァァッッ!!」
カロンのこめかみの血管が、今にも破裂しそうなほど激しく脈打った。
怒りと衝撃のあまり、全身からバチバチと青白い雷のプラズマが漏れ出す。
「ガース卿! 直ちに案内しろ! その闇カジノへ殴り込む!!」
「は、ははっ!!」
カロンは銀色の電気自動車(EV)に飛び乗り、ガース卿を助手席に乗せると、タイヤから白煙を巻き上げて夜の路地裏へと急行した。
闇カジノの地下フロア。
カロンが突入した時、そこには周囲を取り囲む屈強な用心棒たちを完全に空気扱いし、テーブルの上に足を乗せてカクテルをストローで飲んでいるメリスの姿があった。
「あ、カロン! 遅いわよ〜! 早くこの下品なおじさんたちに金貨を払ってちょうだい!」
呑気に手を振る駄女神の姿を目にした瞬間、カロンの中で理性のタガが完全に吹き飛んだ。
「メリス様ァァァァァッッ!!!!」
カロンの咆哮とともに、身の丈二メートル級の岩石の拳――『ゴーレム・アーム』が瞬時にカロンの両腕に具現化した。
そのまま、逃げようとした闇カジノの用心棒たちを薙ぎ払い、支配人のドルバの胸ぐらを片手で軽々と持ち上げて壁へと叩きつけた。
ドゴォォォンッ!!
「ひ、ひぃぃっ!? な、なんだこのドワーフの怪力は!?」
支配人が泡を吹く。
カロンは瞳の奥で『アナライズ・ダーク』をギラリと光らせ、支配人の懐から違法賭博の帳簿とイカサマダイスを一瞬で看破した。
「違法金利、イカサマ賭博、恐喝……帝国の法規に照らし合わせても、貴様らは即座に全財産没収の上、鉱山での終身強制労働に値する犯罪集団だな」
カロンの冷徹な声が地下室を凍りつかせる。
「が、ガース卿! 警備隊を突入させろ! この違法カジノを即座に摘発・封鎖し、関係者全員を地下牢へ連行しろ!」
「はっ! 全員、動くなッ!!」
突入してきた警備騎士団によって、闇カジノの胴元たちは一網打尽に捕縛されていった。
悪徳業者どもが縄で縛られて引きずられていく中、カロンは作業着の胸元を押さえ、激しい眩暈に襲われてその場によろめいた。
法的なイカサマの摘発により、法外な闇金利(百五十枚)は無効化できたものの――メリスが実際にカジノから借りてチップとして溶かしてしまった元金、金貨五百枚の借金債務だけは、公的機関の手前、踏み倒すわけにはいかなかったのである。
カロンは震える手で自らのギルドカードを取り出し、没収されたカジノの正規精算口座へ、金貨五百枚という天文学的な個人資産を振り込む手続きにサインした。
先日のオークキング討伐で得た報奨金が、一瞬にして六分の一も消し飛んだ瞬間であった。
「……うう……私の……私の研究開発費が……」
カロンは膝をつき、床に手をついて項垂れた。
そこへ――
何事もなかったかのようにスタスタと歩み寄ってきたメリスが、カロンの頭をポンポンと撫で、首を傾げてこう言い放ったのである。
「まあまあ、カロンったらそんなに落ち込まないの! ギャンブルって初めてやってみたけど、すっごく面白いわね! ルーレットの玉が回ってる時のあのドキドキ感、天界の退屈な毎日とは比べ物にならないスリルだったわ!」
カロンが血走った目で睨み上げると、メリスはペロリと舌を出し、右目をキュッと瞑ってウインクした。
「負けるのはちょっと嫌だけど……でも、なんだか癖になりそうね! てへっ。♡」
「………………………………」
カロンの視界が、真っ暗になった。
(……癖になりそう……? てへっ、だと……?)
「てへっ、じゃないでしょうがああああぁぁぁぁっっっ!!!!」
カロンの絶叫が、地下カジノの天井を木っ端微塵に吹き飛ばさんばかりに轟いた。
「金貨五百枚ですよ!? 一晩で家が何軒建つと思っているんですか!! 癖になってたまるかァァッ! もう金輪際、あなたには1鉄貨たりとも現金は持たせません!!」
「え〜〜っ! ケチ! カロンのドケチ〜〜っ!!」
逆ギレして喚き散らす駄女神を、カロンは襟首を引っ掴んで引きずり、夜の街へと連行していった。
しかし――カロンの頭の痛い種は、これで終わったわけではなかった。
この日、ギャンブルという名の「不労所得とリスクのスリル」の魔力に目覚めてしまった駄女神メリス。
この破滅的な好奇心が、やがてカロンたちが立ち上げる「ルーセン銀行局の証券・株式市場」において、さらなる未曾有の大暴走を引き起こすことになろうとは――
今のカロンには、知る由もなかったのであった。
真夜中。
大聖堂裏手のアパート、二階の自室。
カロンはいつものように、自慢の電気温水器から完璧な四十一・五度のお湯をバスタブにたっぷりと張り、肩まで深く身を沈めていた。
「……はぁぁぁぁぁぁ……っ」
湯気の中に吐き出されたため息は、これまでのどの人生で吐いたものよりも重く、深かった。
全身の毛穴から、疲労とストレスがドロドロと溶け出していくような感覚。
胃のあたりをさすると、まるでドリルで穴を開けられたかのような鈍い痛みがチクチクと疼いている。
(……ハインリヒ大公の気持ちが、今なら痛いほど分かる。あの人が胃潰瘍で血を吐いて倒れた理由が、完全に理解できた……)
帝都ではハインリヒ大公が「初代財務経済大臣」を押し付けられて過労死寸前で車を飛ばし、
ルーセンではカロンが「銀行局」の立ち上げに奔走する裏で、駄女神が闇カジノで金貨五百枚を溶かして「てへっ♡」と笑っている。
「……本当に、神様という生き物は……
しかし、神様でもギャンブル運はコントロールできない様だな。」
カロンは手桶で顔に湯を浴びせ、虚空を見つめた。
しかし、湯船の中で目を閉じると、今日決まった「ルーセン銀行局」の確かな青写真が、脳裏に力強く浮かび上がってきた。
マリアベルが率いる実務部隊、ギルバートが統括する鉄壁の警備網、ハインリヒ大公と国王セルセデス3世が保障する国家の信用。
そして、自分が作り上げた絶対不破の防盗金庫と、偽造不能の通帳。
あの街の人々が汗水垂らして稼いだ富を、理不尽な高利貸しや盗難から守り、新しい挑戦へと正当に投資していくための、新時代の血液。
「……どんなに胃が痛もうと、どんなにあの駄女神がやらかそうと……この歩みだけは、絶対に止めるわけにはいかないな」
カロンは小さく自嘲の笑みを浮かべ、湯船から上がった。
清潔な部屋着をまとい、ふかふかのベッドへと潜り込む。
窓の外では、エレンの丘の風車が、シルフの優しい風を受けて静かに、力強く回転を続けていた。
明日は、銀行局の本局ビルの地鎮祭と、ドワーフ留学生たちへの講義。
そして――二度とあの駄女神が怪しげな賭場へ近づかないよう、厳重な「お小遣い管理システム」の構築である。
「……明日も、忙しくなるぞ」
カロンは深く息を吸い込み、心地よい疲労と微かな諦観の中で、静かに深い眠りへと落ちていったのであった。




