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第77章:それぞれの日常

第77章:それぞれの日常


帝都クーデターの電撃鎮圧、隣国アストル教国の平和的共和制移行、そして空前絶後の「三神公認宗教体制」の樹立という、大陸の歴史を塗り替える大遠征から「第一号試作型メガEVバス」がルーセンへ凱旋して、早くも一ヶ月半が過ぎていた。


エレン山脈の頂はすでにうっすらと白銀の初冠雪をまとい、ライネス川を渡る風には肌を刺すような冬の兆しが混ざり始めていた。街路樹のナラやポプラの葉はすっかり鮮やかな琥珀色から赤褐色へと色を変え、カサコソと石畳の上を舞っている。

厳しい冬の訪れを前に、外壁の外側まで広がる新市街では煙突の耐熱レンガ改修が進み、エレン見晴らしの丘の風車は冬特有の力強い北風を受けて頼もしい唸りを上げ、街中へ暖房と生活のための電力を送り届けていた。

戦乱の嵐が完全に収まり、街には活気と落ち着きに満ちた「新しき日常」が定着しつつあった。


しかし、その「日常」は、遠征に参加した者たちにとって、以前よりも何倍も目まぐるしく、何倍も濃密な変化を伴うものであった。


冷涼な秋風が吹き抜けるルーセン大公邸の敷地内――新設されたアスファルト舗装のプライベート・テストコース。

落ち葉を派手に巻き上げながら、銀色の乗用電気自動車(EV)がコーンの並ぶスラロームコースを鋭いモーター音とともに駆け抜けていた。


「閣下、ブレーキの踏み込みが甘い! 路面温度が下がってタイヤのグリップ限界が落ちています! コーナーの手前でしっかり回生ペダルを利かせて荷重を前輪に乗せるのです!」

助手席で黄色いヘルメットを被ったカロンが声を張り上げる。


「う、うむ! こうか! ぬおおおおっ、落ち葉で後輪が流れそうになるぞォッ!!」


運転席で額に薄っすらと汗を浮かべ、真剣そのものの鬼気迫る表情でステアリングを巧みに切り返していたのは、他ならぬルーセン領主にしてゲスハルト帝国宰相――ハインリヒ大公であった。


キキッ!と見事なカウンターステアでヘアピンをクリアし、ストレートで一気にアクセルを踏み抜く。

指定された停車位置の白線へ寸分の狂いもなく滑り込ませると、ハインリヒ大公は「ふぅぅ……っ」と白い息を吐き出し、温かな革張りのシートに深く身を沈めた。


「……ど、どうだね、カロン殿。儂のドライビングテクニックは?」


カロンはストップウォッチを止め、思わず感嘆の笑みを漏らした。

「素晴らしいタイムです、宰相閣下。すでに悪路や低ミュー路の走行判定も満点ですよ。一国の宰相自らが、EVバスと乗用車の両方の操縦ライセンスを取得するなど、大陸史上間違いなく初でしょうね」


ハインリヒ大公は手袋を外し、かじかむ指を暖房の吹き出し口にかざしながら破顔した。


「ははは! 笑い事ではないぞ、カロン殿。帝都から戻った夜、妻と子供たちを集めて『儂は帝国のナンバー2、宰相に就任したぞ!』と告げた時の、あの家族の狂喜乱舞と涙は見せてやりたかったがな……。だが、国王陛下との約束を忘れたわけではあるまい?」


『何かあれば直ちにその鉄の馬車で駆けつけるのだぞ』――。

あの日、国王セルセデス3世から課された宰相就任の唯一にして最大の条件。


「帝都で閣議や緊急事態が発生すれば、これから冬の吹雪が来ようとも、儂自らがこの鉄の駿馬を駆り、五百キロをその日のうちに疾走せねばならんのだ。御者を待っている時間すら惜しい。自らステアリングを握り、風となる覚悟がなければ、この広大な帝国の宰相など務まらんよ!」


かつて胃潰瘍で血を吐き、神々の気まぐれに怯えていた頃の弱気な地方貴族の面影は、そこには微塵もなかった。

自ら最先端技術を乗りこなし、国家の重責を背負って疾走する最高権力者。冬支度コートの襟を正すその逞しい横顔に、カロンは深い敬意を抱かずにはいられなかった。


大公邸を辞したカロンが、次に向かったのはルーセン中央区の住宅街であった。

そこには、リアリスが借りている平屋の一軒家がある。……はずなのだが、その一帯の光景は、もはや「閑静」という言葉から銀河系の彼方ほどにかけ離れていた。


「……これは、一体どういう事態だ?」


カロンは思わず足を止め、目を白黒させた。

冷え込みの増した石畳の通りに、見渡す限りの緑と銀の波が押し寄せていた。

厚手のマントを羽織り、背中には美しい工芸弓を背負い、頭の両脇から長い耳をピンと伸ばした人々――数百人におよぶエルフの大群が、色づいた落ち葉を踏みしめながら通りを完全に埋め尽くしていたのである。


「御神祖様……! 至高の風の主神シルフ様……!!」

「遥かなる聖森ルートリードより、冬が閉ざす前にと馳せ参じました……!」

「ああ、秋風に乗る何という神々しき息吹……!」


エルフたちが感涙にむせび、一軒家の庭先に向かって次々と五体投地の祈りを捧げている。


事の発端は、帝都で決定された「シルフ教団」の国家公認であった。

リアリスが「シルフ様がこの街で快適に過ごせるよう、ルーセンにも教団の礼拝堂を整えましょう」とエルフ族のネットワークに手紙を一本送ったところ、その報は大陸中のエルフの集落を文字通りの激震とともに駆け巡った。

何万年もの間、大聖樹の梢を揺らす風としてのみ崇めてきた絶対の御神祖様が、愛らしい受肉の姿でルーセンに定住しておられる――。

その報を聞きつけた故郷ルートリード皇国をはじめとする各地のエルフたちが、冬の雪で峠が閉ざされる前にと、仕事を放り出し、家財をまとめ、狂乱の巡礼団となってこのルーセンへと大挙して押し寄せてしまったのである。


庭先の縁側。

押し寄せる同胞たちの熱狂的な賛美の嵐の真ん中で、当の風の主神シルフは、厚手のウールを重ねた薄緑色のワンピースの裾をギュッと握りしめ、真っ赤になった顔を両手で覆ってプルプルと震えていた。


「ふぇぇ……っ! あ、頭を上げてくださいぃ……! そんなに大勢で拝まれたら、わたし、恥ずかしくてお外に出られなくなっちゃいますぅ……っ!」


尖った耳をペタリと完全に倒し、今にも泣きそうな顔でタジタジになる少女神。

その傍らで、冬用の白銀のマントを羽織ったリアリスが、困惑と誇らしさが入り混じった苦笑いを浮かべて信徒たちを宥めていた。


「皆さん、落ち着きなさい! シルフ様が困惑しておられます! 巡礼の手続きは順番に、ギルドの出張所で受け付けますから! 風邪を引かないように宿舎へ移動して!」


庭の隅からその様子を眺めていたカロンは、深く同情のため息をついた。

(……シルフ様にとっては、信仰されること自体が最大の試練になっているな。まあ、信徒が増えるのは悪いことではないが……雪が降る前に、エルフ専用の温水暖房付き居住区を急いで手配しなければパンクするぞ)


エルフたちの聖なる騒乱を後にし、カロンは新工房区の西端――巨大な煙突から立ち上る熱気とハンマーの音が轟く重工業区画へと向かった。

冷たい秋風を吹き飛ばすような、地鳴りのごとき金属音と野太い怒号が響き渡っている。


カン! カン! ドガァァァァンッ!


「火床の温度を落とすなァッ! 外気が冷えとるから油断すると焼き割れが入るぞ!」

「大親方、台座の黒曜石ブロック、研磨完了しましたッ!」

「よーし、次は腹斜筋のラインじゃ! ノミの刃を研ぎ直せッ!!」


そこでは、バログ大親方を筆頭とするガロニア鍛冶ギルドの親方衆五十名、そして全国から集まってきたドワーフの石工・彫刻師たちが総出となり、新設される『トーラ大聖堂』の建設と、その中央に鎮座する巨大本尊の制作に血道を上げていた。


カロンが現場の進捗を確認しようと、木組みの足場が組まれた特設アトリエの防寒天幕をそっとめくった――その瞬間であった。


「……………………」


カロンの思考回路が、コンマ五秒ほど完全停止した。


天幕の中央、一段高く設えられた回転式の木製演壇の上。

周囲には炉の火が赤々と燃え盛り、外の晩秋の寒気とは別世界の熱気の中――

そこには、古代の戦士のような一枚布の腰布だけを身につけ、全身にオリーブオイルをテカテカと塗りたくり、右腕を天に突き上げて上腕二頭筋と大胸筋を極限までパンプアップさせた、完璧なるポージングを決めている大男の姿があった。


大地の至高神――トーラその人であった。


周囲を取り囲む二十名以上のドワーフ親方衆が、汗だくになりながらスケッチブックに木炭を走らせ、巨大な純銅とミスリルの合金ブロックにノミを叩き込んでいる。

「おお……何という大胸筋の厚み……!」「僧帽筋の盛り上がりが神懸かっておる……!」「これぞ我が祖神の真なる肉体美じゃァッ!」


そして。

天幕の隙間から覗き込んだカロンと――

右腕を突き上げたまま、微動だにせずポーズを維持していたトーラ神の視線が。


バチィッ。


寸分の狂いもなく、真正面から激突した。


トーラ神の琥珀色の双眸が、気まずそうに泳いだ。

カロンの視線も、冷や汗とともにあらぬ方向へと彷徨う。


(……見、見てはいけないものを見てしまった……)

(……カ、カロンか……いや、これは違うのだ、子孫どもが寒空の下、あまりにも熱心に頼み込んでくるものだから、断りきれずだな……)


言葉は交わされなかった。しかし、神とドワーフの男同士、強烈な気まずい沈黙が空間を支配した。

カロンは音もなく天幕の布をスッと下ろし、何事もなかったかのように直角に向きを変え、猛烈な早足でその場を立ち去ったのであった。


東門の跳ね橋へと続くメインストリートへ出ると、パッカパッカと乾いた蹄の音が近づいてきた。

現れたのは、白銀の美しい胸当ての上に濃紺の防寒マントを翻し、威風堂々たる白馬に跨がった一隊――ルーセン市街警備騎士団であった。


その先頭に立っていたのは、真新しい佩刀を腰に帯びたガース卿であった。


「学長! 巡回ご苦労様です!」

ガースは馬を止め、見事な騎士の礼を取った。


「ガース卿。すっかり騎士の風格が板についてきましたね」

カロンが微笑むと、ガースは途端に昔の気のいい隊長らしい苦笑いを浮かべ、息を白く吐きながら兜の鍔を押し上げた。


「勘弁してくださいよ、学長。以前は東門の詰所で『また神様が来たー!』って叫んで書類にハンコを押していればよかったんですが……騎士爵をいただいてルーセン治安総司令に任命されてからは、新市街のパトロール、エルフ巡礼団の交通整理、ドワーフたちの酒場喧嘩の仲裁、さらに冬前の薪や燃料の集積警備と、以前の五倍は忙しくて目が回りそうです!」


「はは、嬉しい悲鳴ですね。クロル村のお父上からは返事はありましたか?」


「ええ!」

ガースの顔が一瞬で輝いた。

「親父から震える文字で手紙が来ましたよ。『村の誇りだ、雪が降る前にご先祖の墓前に報告した』って……村中でお祭り騒ぎだったそうです。寒さなんて吹き飛ぶくらい忙しいですが、この街の平和を守るためなら、いくらでも馬を走らせてみせますよ!」


頼もしい敬礼を交わし、落ち葉を踏みしめて警備へと駆け出していくガース騎士団。


続いてカロンが訪れたのは、中央大通りに巨大な新本社ビルを構えた「ゲオル商会」であった。

ガラス張りのエントランスをくぐると、そこは冬商戦を目前に控えた大手商社のフロアのような熱気に包まれていた。


「王都支店への冬期追加便、第三便のEV大型トラックを手配して! 乾麺パスタ五千箱、カロン・スチール製の高気密薪ストーブ一万台、降雪で峠が閉ざされる前に絶対に届けるんだよ!」

「帝都大学の購買部から、電熱コイル式卓上ヒーターの追加注文が三千台入りました!」


指示を飛ばしていたのは、狐皮の襟巻きを羽織った若き女傑、会頭のマリアベルであった。


「あら、カロン学長! ちょうどよかったわ!」

マリアベルは書類の束を秘書に押し付けると、カロンの腕を引いて応接室へと引きずり込んだ。


「見てください、この受注残高のグラフを! 帝都支店が開設されたおかげで、帝都の貴族街からも王宮からも注文が殺到して、商品がいくらあっても足りませんの! 特に、学長と共同開発した『カロン・クール』の暖房インバーター機能と、冬用の密閉式電気温水器! これらは帝都の上流階級の冬の必需品になっておりますわ!」


マリアベルは琥珀色の瞳をギラリと輝かせ、カロンに詰め寄った。


「ですから学長! 新工房区のプレス工場ラインをさらに三棟増設してください! それと、王都支店に派遣する新人商人たちの教育カリキュラム、大学の経営工学科で特命講座を開講していただけないかしら!? これからの時代、電卓を弾けない商人はうちの看板を背負わせられませんのよ!」


「ま、待ってくださいマリアベルさん、工場の増設には冬の暖房用電力のピーク計算もセットで必要なんです……」


留まることを知らぬ産業の爆発的成長。

カロンの手帳は、瞬く間に新たな開発タスクとスケジュールで真っ黒に埋め尽くされていくのであった。


正午過ぎ。

カロンはようやく自らの本拠地であるルーセン工科大学、二十階建て校舎タワーへと戻ってきた。

全館に張り巡らされた「カロン・クール」の温風サーキュレーションのおかげで、タワーの内部は外の寒風が嘘のように快適な室温に保たれていた。


四階の「応用生物・農芸化学科」のフロアへ足を踏み入れると、そこには懐かしい講義の声が響いていた。


「――いいかね諸君! 冬が近づき気温が下がれば、あらゆる生命活動は休眠へと向かう! だが、発酵槽の中の微生物にとっては、我々が熱力学に基づいて温度を厳密に制御してやりさえすれば、真冬であっても真夏以上の爆発的な代謝を維持できるのだ!」


実験室の黒板の前でチョークを走らせていたのは、白衣の襟元を正したマルクス学部長――前世の佐藤教授であった。

実験台を取り囲む学生たちの中には、ルーセンの第一期生やドワーフの若者たちだけでなく、ゲスハルト帝国大学から正式に派遣されてきた、数十名のエリート交換留学生たちの姿があった。

帝都の留学生たちは、最初こそ地方都市の大学を見下していたものの、今やマルクスの圧倒的な理論と、カロンの設計した千倍魔導顕微鏡が描き出す細胞の世界に完全に魅了され、寒さも忘れてノートを取っていた。


講義を終えたマルクスが、研究室へ戻ってきてカロンに温かい湯気の立つコーヒーを淹れてくれた。


「お疲れ様です、中山先生……おっと、カロン学長」

マルクスが銀縁眼鏡を拭きながら微笑む。


「マルクス君、講義を見せてもらったよ。帝都大学との交換留学プログラム、大成功のようだね」


「ええ、クリフ総長が帝都側で完璧に単位互換の制度を整えてくれましたからね。あちらの優秀な学生たちが、古い権威主義から解放されて、目を輝かせて微生物のスクリーニングに取り組んでいますよ。……それと、先生」


マルクスは机の上の温湿度管理インキュベーターを指差した。


「トーラ様からいただいたエレン山麓の特異放線菌……ついに、有効成分の純粋結晶化に成功しました。『ペニシリン系抗生物質・第一号』の精製ラインが、実験室レベルで確立できましたよ」


「本当かい……!?」

カロンは身を乗り出した。


「はい。これからの寒い季節、肺炎や感染症で命を落とす子供や高齢者が激増します。だがこれがあれば、多くの命を確実に救い出せます。本格的な冬が来る前に、大量培養プラントの設計をぜひ工学部の方でお願いできますか?」


「もちろん引き受けるとも! 直ちに二重ジャケット温水加温式の耐腐食カロン・スチール発酵タンクの設計に入ろう!」


前世の同僚同士、言葉を交わすだけで設計思想が阿吽の呼吸で通じ合う。

無機の物理工学と、有機の生命科学が手を取り合い、過酷な冬の脅威から民衆の命を守る。この知的な高揚感こそが、カロンの魂の最高の燃料であった。


……だがしかし。

世界がどれほど劇的な進化を遂げようと、どれほど国家体制が塗り替えられようと――

「この街において、絶対に変わらない理不尽の特異点」が、ただ一つだけ存在していた。


夕暮れ時。

冷え込みが一層厳しくなり、窓の外の空が濃紺へと暮れなずむ頃。

カロンが学長室で、マルクスから渡された抗生物質プラントの図面にペンを走らせていた時であった。


バアアアアアンッ!!


ノックなどという文明的な手続きを完全に粉砕し、学長室の重厚なオーク材の扉が勢いよく蹴破られた。


「カロン〜! いるんでしょ〜!!」


甲高い呑気な美声とともに飛び込んできたのは、深緑の魔法使いローブを前全開に着崩し、黄金の髪をサラサラとなびかせた絶世の美女――駄女神メリスであった。

その手には、工科大学の大食堂で新発売されたばかりの湯気立つ「特製焼き芋クリームデニッシュ」が二つ、握りしめられていた。


カロンはペンを置き、眉間を指先で揉みながら、深く、深く、魂の底からため息をついた。


「……メリス様。あなたという人は、帝都を救い、教国を共和国に変えるという神話級の大偉業を成し遂げて帰ってきたというのに……なぜ、ここルーセンに戻った途端、以前と一ミリも変わらない自堕落な生活に逆戻りするのですか」


メリスはデニッシュをハフハフと頬張り、リスのように頬を膨らませて胸を張った。


「なによ失礼ね! 寒くなってきたから、私ね、これでもすっごくカロリーを消費して忙しいのよ!? 午前中は大学中をパトロールして学食の冬の新メニュー『石鍋煮込みメガハンバーグ定食』の味見をしてあげたし、午後は新工房区のカフェで秋限定の『和栗と葡萄のメガ盛りタワーパフェ』をチェックしてあげたんだから!」


「それを世間では『ただの食い散らかし』と呼ぶのです」


カロンが冷徹に指摘すると、タイミングを見計らったかのように、学長室のドアが控えめにノックされた。

入ってきたのは、工科大学の経理部長と、大食堂の女将さん、そして街のカフェの店長であった。

彼らの手には、寒空の下で集めてきた、もはや凶器と見紛うばかりの分厚い羊皮紙の束――請求書と伝票の山が握りしめられていた。


「あ、あの……学長先生。今月分の、メリス様の学食ならびに市内カフェでのご飲食のツケなのですが……」


カロンは虚ろな目で一番上の合計欄を見た。


『大食堂:石鍋煮込みメガハンバーグ二十五杯、焼き芋デニッシュ六十個』


『テラスカフェ:和栗と葡萄のメガ盛りパフェ四十杯』


『純喫茶白鳩:秋の焼きリンゴパイホール食い十台』


【合計:金貨四十五枚】


「………………………………」


カロンのこめかみが、ピキピキと激しい音を立てた。

外は冬間近の寒さだというのに、胃の奥底から、灼熱のマグマのような激痛が這い上がってくる。


「ねえカロン、早く払ってあげてよ! 私、アンタのツケで顔パスで食べてるんだから☆」

何食わぬ顔でウインクを飛ばす駄女神。


カロンは天を仰ぎ、震える手で自らのギルドカードを取り出した。

「……経理部長。全額、私の特命研究費の個人口座から引き落としておいてください……」


「ま、毎度ありがとうございます、学長先生ぇぇ……!」

涙を流して感謝する店長たちを見送り、カロンは机の上に突っ伏した。

世界を救った大魔導工学者の威厳など、この駄女神の前には一枚の紙屑にも等しかった。


夜のルーセン。

冷気が一段と張り詰め、街の屋根瓦に霜が降り始める頃、カロンは厚手の外套を羽織り、一人で下町にあるルーセン教会へと足を運んでいた。


ステンドグラスから澄み切った月光が差し込む礼拝堂。

カロンが寄贈した電気蓄熱暖房機がポカポカと室内を暖める中、広間には二十名ほどの孤児や貧民街の子供たちが集まっていた。


「カロン先生! こんばんは!」

子供たちが息を白く弾ませて駆け寄ってくる。


カロンは外套を脱ぎ、黒板の前に立った。

「みんな、こんばんは。外は寒くなってきたが、風邪は引いていないかい? ……さあ、昨日の続きだ。今日は『熱の伝わり方』と、どうして電気ヒーターが部屋を温められるのかについて学ぼう」


チョークを走らせ、子供たちに理科と算術を教える時間。

子供たちの瞳には、寒さを忘れた未来への希望がキラキラと輝いていた。

メリス教のトーマス神父が、湯気の立つ温かな生姜入りハーブティーをカロンの机にそっと置いて微笑みかける。

国王からの教育振興基金と、カロンの直接指導により、この子供たちの中から将来の優秀な技術者や職人が確実に育ちつつあった。


二時間の講義を終え、大聖堂裏手のアパートへと戻ってきたのは、深夜十一時を回った頃であった。


アパートの一階大食堂。

扉を開けると、湯気と肉を焼く香ばしい匂いがカロンを迎えてくれた。

奥のテーブルでは、仕事を終えたガース卿とバログ大親方が熱々の煮込み鍋をつつきながらエールを酌み交わし、カウンターではマリアベルが帳簿をつけ、二階からは「お腹空いたわ〜! お夜食は〜!?」と騒ぐメリスの声と、それを階下から「もう火を落としましたよ!」と怒鳴りつける女将さんの声が響いていた。


カロンは自室へと戻り、少しだけ窓を開けた。


張り詰めた冷たい秋の夜風が、火照った頬を心地よく撫でていく。

見上げれば、冬の足音を告げる満天の星座の下、エレン見晴らしの丘の頂で三基の風力タービンが力強く回転を続けている。

その風車を回すシルフの加護、大地を育むトーラの知恵、そして数え切れないほどの仲間たちの情熱が、網の目のように組み合わさり、この学園都市ルーセンという巨大な車輪を前へと動かしている。


教壇に立ち、研究に没頭し、電線と発電機の増設を統括し、冬の暖房インフラを整え、子供たちを教育し、そして駄女神の途方もない不祥事の後始末に追われ、胃を痛める毎日。


(……やれやれ。前世の中山教授時代よりも、確実に三倍は忙しいな)


カロンは苦笑し、デスクの上に置いた冷たいアイスコーヒーを一口飲んだ。

下戸の喉を駆け抜ける、心地よい苦味と香ばしさ。


しかし――その忙しさの中に、一片の虚しさも後悔も存在しなかった。

自らの手が生み出す工学が、仲間たちの笑顔を咲かせ、人々の命を救い、そして世界の明日を確かに切り拓いているという、揺るぎなき手応え。


「さあ……明日はペニシリン培養プラントの第一期工事の起工式だ。凍結防止の配管ヒーターの設計を仕上げねばな」


カロンは製図ペンを握り直し、再び机の上の青焼き図面へと向かい合った。


それぞれの激動を越え、それぞれの新たな役割を抱きながら、冬を迎えようとする学園都市ルーセンの騒がしくも愛おしい「日常」は、明日という未知のフロンティアへ向けて、力強い歯車の音を響かせ続けていくのであった。

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