第74章:国境と協力者
第74章:国境と協力者
クロル村の温かな見送りと、死線を越えた村人たちの祈りを背に受けて出発したメガEVバスは、天蓋山脈の険しい尾根道を西へとひた走っていた。
標高が上がるにつれ、針葉樹の緑は薄れ、灰色の露出した岩肌と万年雪の白さが視界の大部分を占めるようになる。
村を出てから約一時間。
前方にそびえ立つ二つの巨大な絶壁の狭間に、天を突くような二基の巨大な石造要塞が姿を現した。
ゲスハルト帝国とアストル神聖教国を隔てる、大陸屈指の軍事要衝――「国境関所」であった。
手前にある黒鉄の装甲板で補強された砦が、帝国の西端を守る国境警備砦。
そして、その向こう側――幅およそ五百メートルにおよぶ荒涼とした岩だらけの緩衝地帯を挟んだ対岸に、白亜の切石で築かれたアストル教国の巨大関所砦、通称「白亜の関」がそびえ立っていた。
「帝国側の第一ゲートに到着します」
助手席のガース隊長が告げると、カロンはエアブレーキを踏み、バスをゆっくりと減速させた。
帝国関所の跳ね橋の前には、巨大な鉄の槍衾と移動式バリケードが隙間なく並べられ、弓や魔導銃を構えた国境警備兵たちが厳戒態勢を敷いていた。
突然現れた青と白の巨大な鉄の怪物に、兵士たちの間に動揺が走る。
「止まれ! 何者だ! 現在、国境は全面閉鎖中である! いかなる車両の通行も許可できん!」
隊長格の重装歩兵が叫びながら歩み寄ってきた。
カロンが運転席の窓を下げると、助手席からガース隊長が顔を出し、懐から紫紺の絹張りの身分証と、真新しい新宰相ハインリヒ大公の署名が刻まれた特級通行証を提示した。
「東門警備隊長ガースである! 車内におわすは、帝国宰相ハインリヒ大公閣下の名代たるカロン学長、ならびに帝国を救い給うた至高の神々の皆様であられる! 直ちに開門せよ!」
「なっ……大公閣下の特使特急便……!? それに、あの噂のドワーフの学長様か!?」
守備隊長は書状の国璽と署名を検分し、一瞬で直立不動の敬礼を取った。
「失礼いたしました! すでに帝都のクーデター鎮圧の急報、ならびに昨夜のクロル村での盗賊団壊滅と住民救出の報は、伝書鳩と早馬にて受領しております! 帝国側のゲートは直ちに開放いたします!」
バリケードが手際よく左右に引かれ、跳ね橋が下ろされた。
カロンたちは一度バスを砦の中庭に停め、守備隊長に伴われて城壁の上の監視所へと上がった。
冷たい山風が吹き抜ける見張り台から、五百メートル先の教国側関所を見下ろす。
カロンは双眼鏡を覗き込み、眉をひそめた。
対岸の「白亜の関」は、重厚な白銀の主門が完全に固く閉ざされていた。
城壁の上には、純白の法衣の上に銀の胸当てを着けたアストル教国の聖堂騎士団が隙間なく並び、長弓や大型の固定式バリスタ、さらには紫色の不気味な光を帯びた攻城魔導砲までもが、こちら側へ照準を向けていた。
「……酷い警戒ぶりですね。まるで今にも大軍が押し寄せてくるのを待ち構えているようだ」
カロンが呟く。
守備隊長が苦々しげに吐き捨てた。
「ええ。昨夜、帝都のクーデター失敗の報が教国側にも届いたようでしてな。今朝未明から突如として門を完全に閉鎖し、通行証を持つ巡礼者や商人すら容赦なく追い払っております。あの正面突破を試みれば、五百メートルの開けた緩衝地帯で蜂の巣にされるのは確実です」
「正面から突っ込んで、あの門ごと吹き飛ばせばいいじゃない!」
後ろからヒョイと顔を出した駄女神メリスが、物騒極まりない提案をする。
しかし、カロンは即座に首を横に振った。
「ダメです。門を破壊すれば、教国との全面軍事衝突の口実を与えてしまいます。私たちはあくまで、内政の変革と教皇の無力化を目指す極秘任務なのですから」
「ふふ、ご安心ください、学長」
横で腕を組んでいたガース隊長が、不敵な笑みを浮かべた。
「言ったでしょう、私にはこの山脈のすべてが頭に入っていると。あの巨大関所を完全に迂回し、教国の領内へ直接抜けられる『秘密の古道』が存在します」
ガース隊長の案内のもと、一行は帝国砦の裏手にある、かつて鉱夫たちが使っていたという人目につかない坑道口へと移動した。
「カロン学長、ここから先は断崖絶壁と崩落現場が続く、完全な獣道です。あの立派なバスの巨体を通す道幅はありません」
ガースが申し訳なさそうに告げる。
「分かりました。車体は私の空間収納へ一時退避させます」
カロンがバスのボンネットに手をかざすと、青と白の巨大な車体は、青白い魔導光の粒子となってカロンの体積ストレージの中へと吸い込まれ、綺麗さっぱりと消失した。
これを目にした帝国守備隊員たちが「十トンの鉄の馬車が一瞬で消えた……」と顎を落としていたが、カロンにとってはもはや日常茶飯事であった。
「よし、徒歩で山越えを開始するぞ!」
ガースを先頭に、カロン、メリス、リアリス、トーラ、バログ大親方率いるドワーフ親方衆十名、そしてシルフの遠征隊が、険しい山道へと足を踏み入れた。
そこは、「道」と呼ぶことすら憚られる極悪な難所であった。
尖った岩石が剥き出しになった急勾配、一歩足を踏み外せば底なしのクレバスへと滑落する氷結地帯、そして頭上からは時折小石がパラパラと落ちてくる落石多発地帯。
大人でも油断すれば息が上がり、膝が笑い出す過酷な環境である。
そんな険路の道中、ひときわ異様で微笑ましい光景が繰り広げられていた。
「ふぇぇ……お山が白くて高いですぅ……」
「シルフよ、落ちぬよう我が首にしっかり捕まっておれ」
身長二メートルを超える筋骨隆々たる大地の神トーラが、その太い首筋に、十歳ほどのエルフの少女の姿をした風の神シルフを、まるで愛娘のようにおんぶして歩いていたのである。
トーラ神の足取りは、山道の岩盤と対話するかのように一歩一歩が完璧に安定しており、小石一つ踏み外すことがない。背中で揺られるシルフは、尖った耳をピコピコと揺らしながら、安心しきった様子でトーラの広い背中に顔をうずめていた。
「トーラ様、重くありませんか……?」
シルフがおずおずと尋ねると、トーラ神は豪快に笑った。
「ははは! 大地にとって、そよ風の重みなど無いに等しいわ。天界では引きこもってばかりでおったお主が、こうして地上の山を眺めておる姿を見るのは、我にとっても心地よいものよ」
「えへへ……トーラ様の背中、あったかいです……」
その微笑ましい姿を見守りながら、リアリスが目を細める。
「風の神様と大地の神様のおんぶ登道なんて、エルフ族の神話学者が見たら卒倒して神殿に絵画を奉納するレベルの奇跡ね」
「まったくだ。だが、あの駄女神だけは相変わらずだな」
カロンが溜息混じりに視線を前に向けると、先頭のガースの横を、メリスが「あ、高山植物見つけたー! 食べられるかしら!」と飛び跳ねるように登っていた。神の無尽蔵のスタミナは、もはや物理法則の埒外であった。
険しい山道を歩くこと、およそ十五キロメートル。
時間にして四時間余りの踏破を経て、一行はついに天蓋山脈の主峰を北側から完全に巻き込み、教国領内へと緩やかに下る広い尾根道へと出た。
眼下に広がるのは、教国の肥沃な西部平原。
そして、遥か後方の谷底には、いまだ頑丈に門を閉ざして帝国側を睨みつけている「白亜の関」の背後が、小さく見下ろせていた。
ガース隊長が岩の上に立ち、汗を拭いながら振り返った。
「やりました……! 国境関所の完全迂回に成功しましたぞ! ここはもう、アストル神聖教国の領内です!」
「大儀であった、ガース隊長。見事なナビゲートだ」
バログ大親方が分厚い手でガースの肩を叩く。
尾根道から少し下り、荷馬車が通れる広さの整備された山岳街道へと合流したところで、カロンは足を止めた。
「よし、ここから再びバスを出す。――展開!」
カロンが虚空へ手をかざすと、青と白のメガEVバスが、ドスンと重厚な地鳴りを立てて再びアスファルト状の砂利道の上に実体化した。
ドワーフ親方衆が「おお、やっぱりこのシートの座り心地が一番じゃ」と乗り込んでいく。
カロンが運転席に座り、メインスイッチに手をかけた――その時であった。
「あのね、カロンさん」
助手席の後ろから、エメラルドグリーンの髪を揺らすシルフが、小さな人差し指を立てて身を乗り出してきた。
「シルフ様、どうしましたか?」
「あのね……このまま大きな車で走ったら、教国の人たちにすぐ見つかっちゃいますよね? だから……わたしが、この車をまるごと、風でかくしてあげます!」
「え? バスをまるごと隠す……?」
シルフはふわりと両手を広げ、翡翠の瞳を神秘的に輝かせた。
「風さん、光さん……優しく曲がって、通り抜けてください……――『大気歪曲・天蓋隠蔽』」
サァァァァァッ……!
澄み切った清らかなそよ風が、バスの巨体を包み込むように渦を巻いた。
その瞬間、車外の光の屈折率が劇的に変化し、外から見ると、十トンの巨大なバスがまるで陽炎のように揺らめいたかと思うと、背景の山肌と完全に同化し、視覚的・魔導的・音響的に完全な透明状態となって消失したのである。
車内からは外の景色が普段通りに見えているが、外からはただの無人の山道にしか見えない。
「す、すごい……! 大気中の光子と音波を風の対流で完全に屈折させているのか……!?」
カロンが工学者として驚嘆の声を上げる。
シルフは誇らしげに尖った耳をパタパタと揺らし、カロンを見上げてへにゃりと笑った。
「えへへ……カロンさん。この魔法ね、光と風の波を合わせるだけだから……もうちょっとしたら、カロンさんも機械や魔法で覚えられると思いますよ!」
「私が……ですか?」
「うん! カロンさんの魔力、すっごく澄んでて綺麗だから、風の波長を合わせるのが上手なんです! 今度、教えてあげますね!」
「それは頼もしい。ぜひ研究させてもらいますよ、シルフ様」
カロンは微笑み、アクセルペダルを静かに踏み込んだ。
キィィィィン……と静かなモーター音を響かせながら、不可視のメガEVバスは、教国の緩やかな下り坂を疾走し始めた。
山岳地帯を抜け、平野部へと下ったバスは、教国の首都「聖都ルミナス」へ続く幹線街道を快調に進んでいた。
しかし、カロンたちの当面の目的地は、聖都ではなかった。
帝都を出立する前夜、新宰相ハインリヒ大公から手渡された一通の極秘親書。
その宛先は、国境から聖都へ至る街道の要衝に位置する城下町――「ブルネジ」を治める領主、ブルネジ伯爵であった。
「大公閣下の情報によれば、ブルネジ伯爵は教国内における『穏健改革派』の筆頭貴族だ。教皇庁による極端な宗教統制や、今回の帝国への内乱工作を激しく批判し、水面下で反教皇派の同志を募っているという。教都へ直接乗り込む前に、彼を味方に引き入れることが不可欠だ」
カロンの説明に、全員が頷く。
街道を走ること約二時間。
豊かな麦畑の向こうに、高い白壁と尖塔が立ち並ぶ美しい中規模都市、ブルネジの街が見えてきた。
町の外れの鬱蒼とした林道でバスを停め、カロンのストレージへ再び収納。
教国内で目立ちすぎるドワーフ軍団やトーラ神には、町の外の安全な木陰で待機してもらい、カロン、メリス、リアリス、シルフ、そして案内役のガース隊長の五名で、徒歩にて町へと潜入した。
シルフの風の加護により、衛兵の検問を難なくすり抜けた一行は、町の中央にそびえ立つ壮麗なブルネジ伯爵邸の正門前へと到達した。
「止まれ! 何者だ!」
白銀の槍を構えた二名の門番が、カロンたちを鋭く制止した。
身なりの良いエルフ(リアリスとシルフ)、旅装のドワーフ(カロン)、絶世の美女、そして屈強な人間の戦士。あまりにも統一感のない怪しすぎる集団であった。
ガース隊長が一歩前へ進み出た。
「ブルネジ伯爵閣下へ、ゲスハルト帝国宰相ハインリヒ大公閣下よりの至急の極秘親書をお届けに上がった。命に代えても、閣下ご本人へ直接手渡しせねばならぬ代物である」
ガースが差し出したのは、帝国宰相の黄金の刻印が押された黒漆の小箱であった。
門番の兵士は怪訝そうに眉をひそめ、小箱の紋章とカロンたちの顔を何度も見比べた。
「……帝国宰相の親書だと? 帝都では今、クーデターが起きているはず……いや、待て。ここで動くな。直ちに執事長へ確認を取る」
兵士の一人が小箱を持って屋敷の奥へと走っていった。
待つこと十分。
屋敷の重厚な鉄門がギギギと開き、白髪を撫で付けた老執事が、数名の精鋭護衛を従えて現れた。
「……遠方よりのお越し、痛み入ります。伯爵閣下が直接お会いになるとのこと。どうぞ、奥の応接室へ」
通されたのは、教国特有の宗教画やステンドグラスで飾られた、格式高い応接間であった。
暖炉の前には、豪奢なベルベットの長椅子に腰掛けた、五十代半ばの貴族の男――ブルネジ伯爵が待っていた。
細面の知的な顔立ち、仕立ての良いいぶし銀のローブ。
しかし、その顔色は土気色に淀み、目の下には濃い隈が刻まれ、胸元を押さえながら苦しげに肩を上下させていた。
「ゲホッ……ゴホッ……! ……すまぬな、見苦しいところを。……私がブルネジだ。帝国のハインリヒ大公からの使者とは、そなたたちのことかね?」
伯爵の声は、掠れて今にも途切れそうであった。
カロンが進み出て、工科学長としての礼儀正しい一礼を捧げた。
「初めまして、ブルネジ伯爵閣下。私はルーセン工科大学の学長、カロンと申します。……単刀直入にお伝えいたします。帝都で発生した軍事クーデターは、昨日未明、我が方によって完全に鎮圧されました」
「……何……!?」
伯爵が目を見開いた。
カロンは、帝都での戦闘の経緯、アストル教の潜入部隊が全滅したこと、主犯のクロイツァー侯爵邸から教皇直筆のクーデター教唆の密書が発見されたこと、そしてハインリヒ大公が帝国宰相に任命された事実を、理路整然と淡々と語り聞かせた。
ブルネジ伯爵は深いため息をつき、頭を抱えた。
「……やはり失敗したか。愚かな……! 教皇庁の狂信者どもめ、他国の内乱を煽って傀儡に仕立てるなどという短絡的な凶行、成功するはずがないとあれほど諫めたというのに……! 帝国に三柱もの本物の主神が降臨されたという噂は、我が耳にも届いておる。その神々を敵に回すなど、正気の沙汰ではない……」
「あら、噂を聞いてるなら話が早いわね!」
後ろでふんぞり返っていた駄女神メリスが、これ見よがしに豊かな胸を張った。
「その『三柱の主神』のうちの至高のリーダー、慈愛と豊穣の主神メリス様とは、他ならぬこの私のことよ! 崇め奉りなさい!」
「………………………………」
ブルネジ伯爵は、メリスをジロリと一瞥し、何事もなかったかのように視線をカロンへと戻した。
「……コホン。カロン殿、そちらの連れの女性は少々頭がおめでたいようだが……」
「ちょっとおおおっ!? 無視!? 本物の神様を完全スルーしたわねこのおじさん!!」
メリスが地団駄を踏んで抗議するが、あまりにも尊大で世俗的な態度ゆえ、伯爵からすれば「神を騙る質の悪い道化」にしか見えなかったのである。
その時であった。
「ゲホッ……ゴホッ! オエッ……!」
ブルネジ伯爵が突如として激しい発作に襲われ、血痰を吐きそうになりながら胸を掻きむしって前屈みに倒れ込んだ。
周囲の護衛兵たちが血相を変えて駆け寄る。
「閣下! 発作が……! 早く吸入薬を!」
「待ってください」
凛とした少女の声が響いた。
トコトコと歩み出てきたのは、エルフの姿をしたシルフであった。
シルフは伯爵の膝元に歩み寄ると、小さな両手を伯爵の胸元へとそっとかざした。
翡翠の瞳に、慈愛に満ちた神聖な光が宿る。
「……くるしかったですね。肺の中に、黒いカビの毒がいっぱい溜まって……息が吸えなくなってました……」
シルフが小さく息を吹きかけると、柔らかなエメラルドグリーンの微風が伯爵の喉から肺胞の奥深くまで染み渡っていった。
風の神の権能――『大気浄化・呼吸器根治』。
肺組織を蝕んでいた慢性気管支炎の病巣とカビ毒が一瞬にして分子レベルで分解され、清らかな酸素が全身の血液へと行き渡った。
「……ッ!? ……ハ……ッ、スゥゥゥゥ……ッ!!」
ブルネジ伯爵は、目を大きく見開き、信じられない深さで新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
十年以上もの間、重い鉛の塊を詰め込まれていたかのような胸の激痛と圧迫感が、跡形もなく消え去っていた。
「な……息が……胸が……痛くない……!? あの不治と恐れられた『黒肺病』が……一瞬で……!?」
伯爵は自らの両手を見つめ、続いて目の前に立つ、緑の髪の小さな少女を見上げた。
少女の全身から立ち上る、途方もなく清らかで広大無辺な「世界の息吹そのもの」の波動。
ブルネジ伯爵はガバッと長椅子から滑り落ち、床に両膝と額を擦り付けて平伏した。
「お……おお……っ! 本物の……本物の神霊様だ……! 疑って申し訳ございませんでした……! このブルネジ、貴方様の御神徳に、魂の底より平伏いたします……!!」
態度が一八〇度激変し、涙を流して感謝する伯爵。
その横で、メリスが「ちょっと! シルフちゃんばかりチヤホヤされて不公平よ!」と口を尖らせていたが、シルフは「ふぇ……よ、よくなってよかったですぅ……」と恥ずかしそうに耳を窄めていた。
神の奇跡を目の当たりにし、完全にカロンたちを信用したブルネジ伯爵は、護衛たちを部屋から退出させ、秘密の会談へと入った。
カロンは、自らの瞳の奥で『アナライズ・ダーク』を展開し、眼前の伯爵の深層心理と魔力バイタルを極秘裏にスキャンした。
(……心拍数、脳波、魔力流、すべて正常。私利私欲や権力欲の波形は極めて薄い。あるのは、この荒廃した祖国を憂う純粋な愛国心と、領民を守りたいという誠実な意志だけだ。……信用できる)
カロンは居住まいを正し、核心を切り出した。
「ブルネジ伯爵。単刀直入に申し上げます。アストル教国の教皇を中心とする狂信派は、我が帝国の領土を侵し、クロル村の民を虐殺・略奪するという、決して許されざる一線を越えました。私たちはこれより聖都へ乗り込み、教皇庁の首脳陣に対し、それ相応の裁き――『神罰』を下し、現政権を完全に解体いたします」
伯爵の肩がピクリと跳ねた。
「しかし、私たちはこの国を滅ぼしたいわけでも、帝国の属国にしたいわけでもありません。狂信派が排除された後……貴方たち穏健改革派の貴族が中心となり、民の信教の自由を保障し、帝国と恒久的な平和条約を結ぶ『新政府』を樹立していただきたいのです。……この国を、貴方の手で治めてはいただけませんか?」
重い沈黙が応接室を包んだ。
一国の最高指導者となる重責。しかし、ブルネジ伯爵の瞳に宿ったのは、恐れではなく、覚悟の光であった。
「……相分かった。教皇庁の暴走を止められず、民を塗炭の苦しみに突き落としてきたのは、我ら貴族の不甲斐なさゆえ。……狂信の鎖を断ち切り、この国を本来の光ある場所へと導くためなら、この命、喜んで捧げよう!」
密約は、固い握手とともに成立した。
その日の夕刻。
ブルネジ伯爵邸の大広間では、一行を歓迎するための豪奢な晩餐会が催された。
教国の特産である香草風味の子羊のローストや、白身魚のパイ包み焼き、熟成チーズが並び、駄女神メリスは「美味しいじゃない! やっぱり話の分かる貴族は最高ね!」と歓喜の悲鳴を上げて皿を平らげていた。
そして食後、伯爵はおずおずと、しかし切実な眼差しでカロンたちへ頭を下げた。
「……不躾なお願いとは承知しております。しかし……もし叶うならば、奥の寝室で長年伏せっております、我が妻を……見てはいただけないでしょうか」
案内された寝室のベッドには、痩せ細り、呼吸も絶え絶えになった伯爵夫人が横たわっていた。重い心臓の病に侵され、帝国の高位魔法医でも匙を投げた末期状態であった。
その姿を見たメリスが、珍しく神妙な顔つきで歩み寄った。
「まったく、アンタたち人間は脆いわね。美味しいものを食べて元気にならなきゃ駄目でしょ」
メリスがそっと夫人の胸の上に温かな掌を乗せ、眩い黄金の神聖光を流し込んだ。
『慈愛と豊穣』の主神が放つ、原初の生命活性化の奇跡。
トクン……トクン……と、弱り切っていた夫人の心臓が力強い脈動を取り戻し、青白かった頬に薔薇色の血色がパーッと差した。
夫人がゆっくりと目を開け、「……あなた……?」と呟いた瞬間――
ブルネジ伯爵は床に崩れ落ち、大粒の涙をボロボロと流して号泣した。
「ああ……妻よ……! 神よ……真なる慈愛の神よ……! ありがとうございます……! ありがとうございます……!!」
メリスはドヤ顔で胸を反らせ、「ふふん、私の本気を見直したかしら!」と上機嫌になり、屋敷中が深い歓喜と祈りに包まれたのであった。
翌朝。
抜けるような春晴れの青空の下、カロンたちはブルネジ伯爵の手厚い見送りを受け、町を出発した。
伯爵はすでに教都内の改革派貴族たちへ向けて極秘の暗号早馬を飛ばし、カロンたちの突入に呼応して聖都の各門や重要拠点を掌握する準備を整えてくれていた。
町の外れの林道で、カロンは再びメガEVバスをストレージから召喚。
全員が乗り込むと、シルフが再び愛らしい両手をかざした。
「風さん、光さん……また、みんなを隠してください……――『大気歪曲・天蓋隠蔽』!」
サァァァァッ……と、十トンの青白きバスは再び空間の歪みの中に溶け込み、完全なる不可視の幻影をまとった。
「発車するぞ!」
カロンがアクセルを踏み込む。
山岳地帯を抜けた教国内部の幹線道路は、驚くほど平坦に整備されていた。
街道には、聖都へ向かう巡礼者の列や、物資を運ぶ荷馬車が数多く行き交っていたが、シルフの風の加護により、バスの走行風もロードノイズも完全に相殺されていた。
カロンは巧みなステアリング操作で、馬車や旅人の隙間を縫うように、時速七十キロの高速巡航で駆け抜けていく。
行き交う人々は、自分のすぐ隣を巨大な風の塊が通り抜けたことに首を傾げるばかりで、誰一人としてバスの存在に気づく者はいなかった。
平坦な道を疾走すること、およそ五時間。
昼過ぎの太陽が天頂を少し西へ傾けた頃、前方の地平線に、目も眩むような白銀の光条が立ち上った。
それは、見渡す限りの広大な盆地の中央に築かれた、教国の心臓部。
何重もの巨大な白亜の防壁と、天を突き刺す無数の白亜の尖塔群。
そしてその中央にそびえ立つ、世界最大の宗教建築――アストル大聖堂と教皇庁。
アストル神聖教国の首都、「聖都ルミナス」であった。
「……着きましたね」
助手席のガース隊長が、拳を握りしめて前方を睨み据えた。
運転席のカロンは、静かに減速しながら、アナライズ・ダークの視界で聖都の上空を見上げた。
街全体を覆うように、紫色の禍々しい超高密度の防衛魔導結界が、ドーム状に張り巡らされているのが見えた。
「敵の総本山か。……派手な歓迎をしてくれそうだな」
カロンが呟くと、最前列のメリスが八重歯をキラリと光らせ、指をポキリと鳴らした。
「さあ、乗り込むわよ! 偽物の神様を騙るペテン師の教皇に、本物の神罰ってやつを骨の髄まで叩き込んであげるわ!!」
不可視のメガEVバスは、邪教の暗雲が渦巻く聖都の城門へ向けて、音もなく、しかし力強く最後の進撃を開始したのであった。




