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第67章:黄金の麦穂と泡立つ白ビール

第67章:黄金の麦穂と泡立つ白ビール


国王セルセデス3世一行が深紅のロイヤル電気自動車を駆り、満足して帝都グランツへと帰還してから数ヶ月。

厳しい冬の気配が遠のき、ライネス川の氷解水が水力発電所のタービンを勢いよく回す頃、ルーセンの街には生命の息吹に満ちた春が訪れていた。


新工房区の東側に広がるルーセン工科大学付属実験農場――通称「トーラ・マルクス圃場」では、見渡す限りの大地が眩いばかりの黄金色に輝いていた。

昨年、大地の神トーラ直伝の土壌改良法と、マルクス学部長が率いる応用生物学科による窒素固定菌のバイオ接種、そして品種選抜を経て蒔かれた「春小麦(スプリング・ウィート)」が、収穫の時期を迎えていたのである。


「よし、端から刈り取るぞ! 穂を落とすなよ!」


野太い胴震いするような号令を響かせていたのは、上半身裸に革のエプロンを締め、巨大な三日月形の鎌を軽々と振り回す大男――大地の至高神トーラであった。

その横では、バログ大親方を筆頭に、ガロニアから移住してきた熟練鍛冶師の親方衆五十余名が、筋骨隆々の腕に血管を浮き上がらせ、手慣れた手つきでザクッ、ザクッとリズミカルに麦の根元を刈り取っていた。


「祖神トーラ様、見てくだされ! 一粒一粒の身の詰まりが、去年の倍以上ありますぞ!」

「ガロニアの痩せた段々畑で採れる麦たあ大違いだ! 藁まで太くて弾力がありやがる!」


ドワーフの親方衆が歓声を上げる。

何百年も鉄槌を握り続けてきた彼らの手首の返しは、皮肉にも鎌を振るう農作業において驚異的な効率を発揮していた。


カロンは畦道に立ち、クリップボードに挟んだ収量測定データをチェックしながら、深く感嘆の息を漏らした。


「素晴らしい……。一反あたりの収穫量が、帝国平均の二・六倍に達している。茎の耐倒伏性も完璧で、春の嵐でも一株も倒れていない。マルクス君、君の微生物製剤とトーラ様の土壌改良の相乗効果は、完全に農学史を塗り替えるレベルだよ」


隣で白衣を羽織り、銀縁眼鏡を拭っていたマルクスが、満足げに微笑んだ。


「ええ、中山先生……おっと、カロン学長。トーラ様の神聖魔力で活性化された根粒菌が、土壌中の不溶性リン酸を完璧にキレート化して根に供給してくれたおかげです。これだけの高タンパク・高デンプンな春小麦が収穫できれば、パンの膨らみも劇的に向上しますし……」


マルクスは黄金色に波打つ麦畑を眩しそうに見つめ、ふと前世の研究室の記憶を思い起こすように、至極自然に、何気なくその一言を呟いた。


「――これだけの良質な小麦があれば、極上の『ビール』も造れますね。」


その瞬間。


ピキリ……と、広大な農場の空気が完全停止した。


ザクッ、ザクッ、と小気味よく響いていた五十本以上の鎌の音が、まるで指揮者がタクトを止めたオーケストラのように、寸分の狂いもなく一斉に途絶えたのである。


カロンの背筋に、氷水を背中から流し込まれたような戦慄が走った。


(……し、しまった……ッ!!)


カロンが青ざめてマルクスを振り返ったが、時すでに遅し。

畑のあちこちから、土煙を立ててドワーフの親方衆が首を巡らせていた。その瞳は、獲物を前にした飢えた狼のようにギラギラと血走り、赤銅色の鼻の穴をフガフガと激しく膨らませている。


「お……おい……今、なんと言った……?」

バログ大親方が、血の気の引くような重低音で呟いた。


「麦の……ビ……?」

父ガイルが鎌を取り落とす。


「ビ……ビールだとォォォォォッッ!?!?」


ドガァァァァンッッ!!!


五十余名のドワーフ親方衆が、一斉に大地を踏み鳴らし、地鳴りのような絶叫を上げてマルクスへと殺到してきた。


「おい若造! 今の言葉は真かッ!?」

「この黄金の麦で、酒が……極上のエールが造れるのかッ!?」

「ただでさえ美味いルーセンの酒が、この神の麦で造られたら一体どうなっちまうんだ!?」

「造るぞ! 今すぐ造るぞ! 麦を刈り取ったら即座に醸造じゃァァァッ!!」


「ひ、ひぃぃっ!?」

押し寄せる毛むくじゃらの筋肉ダルマたちに囲まれ、マルクスは眼鏡をずり落としながら後ずさった。

ドワーフという種族にとって、「酒」は単なる嗜好品ではない。命の水であり、魂の燃料であり、宗教儀式そのものなのだ。彼らの前で「極上の酒が造れる」と口走ることは、火薬庫の真ん中で松明を振り回すに等しい自殺行為であった。


「ま、待ってください皆さん! ビール造りには発芽や糖化、発酵の設備が必要で、そんな簡単に今日明日で飲めるものじゃ――」


マルクスが必死に弁明しようとした、まさにその時。


「あーっ! 何それ何それ! 聞き捨てならないわね!!」


バサリと黄金の髪をなびかせ、農場の見学小屋から飛び出してきた者がいた。

両手に冷やしキュウリを持った、言わずと知れたトラブルの権化――駄女神メリスであった。


メリスはカロンの前に躍り出ると、キュウリをポリポリと齧りながら、爛々と輝く碧眼をカロンの顔に突きつけた。


「カロン! アンタ、新しいお酒を造る気なんでしょ!? あの神聖な麦で造るビールとか、絶対に美味しいに決まってるじゃない! ビール造るぞーっ! 今すぐ造りなさいよーっ!!」


「め、メリス様まで……!」

カロンはこめかみを押さえ、頭痛に耐えるように額を抑えた。


「メリス様、お酒の醸造は化学工学の結晶です。無菌管理、温度制御、酵母の選定……クリアすべき課題が山積みなのですよ」


「ケチケチしないの! アンタの工学と、マルクスの生物学があれば、四角い箱(エアコン)も造れたんだから、ビールの樽くらい一日でできるでしょ! ほら、大親方たちもこんなに目を輝かせてるじゃない!」


「そうだそうだ!」「カロン、渋るな!」「儂らの血肉のために麦を醸せッ!」

ドワーフたちの怒号のようなシュプレヒコールが農場に木霊する。


カロンは完全に退路を断たれた。

前世の理系教授としての血が「やるからには徹底的に高品質なものを造らねばならない」と疼き始めたのも事実であった。


カロンは大きくため息をつき、マルクスと視線を合わせた。


「……やれやれ。こうなっては、彼らが酒を飲むまで暴動が収まりそうにありませんね。マルクス君、覚悟を決めましょう」


「……ええ、中山…カロンさん。やると決まれば、ドイツのビール純粋令も驚くような、本物の『本流』を叩き込んでやりましょう!」


工学者カロンと生物学者マルクスが本気を出した時のスピードは、神々の想像すら遥かに超越していた。


二人が目指したのは、前世のドイツ・バイエルン地方で愛されてきた、小麦を五十パーセント以上使用して造られる伝統の上面発酵ビール――『ヴァイツェン(白ビール)』であった。

大麦麦芽のみで造る通常のピルスナーやラガーと異なり、小麦麦芽由来の豊かなタンパク質がもたらす白濁した美しい黄金色、きめ細かくクリーミーな泡立ち、そして特殊な酵母が醸し出すバナナやクローブのようなフルーティーで華やかなアロマが特徴の、極上のエールである。


「製麦(モルティング)から入るぞ!」


カロンは大学タワー地下の工作室をフル稼働させた。

収穫したばかりの春小麦の一部を水に浸し、マルクスがトーラから授かった『植物成長促進』の微細魔力をコントロールして、わずか数時間で均一に発芽させる。胚乳中のデンプン分解酵素(アミラーゼ)が最大に活性化した瞬間を見極め、カロンが設計した「熱風乾燥機」で低温焙燥して発芽を停止。余分な根をスクリーニングし、完璧な品質の「自家製小麦麦芽(ウィートモルト)」を一晩で作り上げた。


続いて、新工房区の一角に専用の醸造所――『ルーセン工科大学・バイオ発酵実験棟』の建設が始まった。


「材料はもちろん、我が『カロン・スチール』だ!」


カロンの指示のもと、ドワーフの親方衆が嬉々としてハンマーを振るい、油圧プレス機を動かした。

完成したのは、中世の木樽とは根本的に衛生度が異なる、ピカピカに磨き上げられたステンレス張りの醸造プラントであった。


仕込槽(マッシュタン):温度センサーと攪拌スクリューを備え、麦汁のデンプンを糖へと変える多段階の糖化温度(マイシェプログラム)を自動制御。


麦汁濾過槽(ロイタータン):微細なスリットスクリーンにより、麦芽の殻を自然のフィルターベッドとして利用し、濁りのない透き通った麦汁を抽出。


煮沸釜(ケトル):高周波誘導加熱(IH)ヒーターを底面に配置し、短時間で一気にグラグラと沸騰させてタンパク質を凝固。


プレート式熱交換冷却器:煮沸を終えた百度の麦汁を、冷水パイプと対向流接触させることで、雑菌が繁殖する隙を与えず、わずか数分で酵母の至適温度である二十度まで急速冷却。


円錐形密閉型発酵タンク:外壁にジャケット冷却配管を巡らせ、エアコンの技術を応用したチラーユニットで、発酵熱による温度上昇をコンマ一度単位で厳密に制御。


「す、すげえ……! 酒造りの樽に、鉄と電気の管が網の目のように張り巡らされてやがる……!」

バログ大親方が、ピカピカに輝くタンクの側面に顔を映し、感嘆の声を漏らした。


「これなら雑菌汚染(コンタミネーション)のリスクはゼロ、発酵温度の狂いも生じません」

マルクスが白衣の腕を捲り上げ、フラスコを掲げた。


「そして心臓部となる酵母(イースト)だ。ルーセン周辺の野生酵母の中から、フルーティーなエステル香を大量に産生する優良な上面発酵酵母(サッカロマイセス・セレヴィシエ)を純粋分離した。……だが、カロン学長。一つだけ、決定的な素材が足りません」


マルクスが眉をひそめた。


「『ホップ』です。ビールの爽やかな苦味、心地よい清涼感、そして泡持ちと防腐性を担保するホップ(西洋唐花草)の花弁がなければ、ただの甘ったるい麦汁酒になってしまいます」


「うむ……このあたりの市場で流通しているのは、香草を適当に混ぜた古いグルートエール用の雑草ばかりですからね……」


カロンが腕を組んで考え込んだ、その時であった。


「ホップか。それなら、我の庭に幾らでも生えておるぞ」


どっしりとした重低音が、醸造所の入り口から響いた。

大地の神トーラが、スコップを肩に担ぎ、頭についた麦わらを払いながら入ってきたのである。


「トーラ様! ホップの自生地をご存知なのですか!?」

カロンが弾かれたように顔を上げた。


トーラ神は豪快に笑い、顎髭を揺らした。

「当たり前だ。大地に根を張る植物で、我の知らぬものなど存在せぬ。エレン山脈の南側斜面、清らかな雪解け水が染み出す湿地帯の石垣に、蔓性の苦い緑の毬花(まりばな)をつける草が群生しておる。昔、喉を潤すために齧ったことがあるが、独特の芳香と心地よい苦味があったわ」


「それです! まさに野生のホップ(フムルス・ルプルス)の自生環境そのものです!」

マルクスが歓喜の声を上げた。


「よし! 全軍、エレン山へ出撃じゃァァッ!!」

バログ大親方が戦槌を掲げて叫ぶ。


カロンは即座に大型電気トラックを出動させ、トーラ神をナビゲーターとして、マルクス、ドワーフの採取部隊、そして「ピクニックね!」と勝手によじ登ってきたメリスを乗せて、エレン山麓の谷間へと急行した。


トーラ神の案内で辿り着いたのは、エレン見晴らしの丘の遥か奥、苔むした巨岩の間から清流が湧き出る秘境であった。

切り立った斜面に、無数の緑色の蔓植物が巻き付き、鈴なりの薄緑色の松かさに似た小さな毬花が、風に揺れて爽やかな柑橘類に似た芳香を放っていた。


「あった……! 見事な野生種だ!」

マルクスが手にとって割ると、中から黄色いルプリンの粒が溢れ出し、鮮烈なハーブとレモンの香りが鼻腔をくすぐった。


「野郎ども、摘め! 一粒残らず摘み取るんじゃァッ!」

ドワーフたちが手押し車に山盛りのホップを摘み集め、わずか半日で数カ月分に相当する極上のアロマホップが確保されたのである。


醸造所へ戻ったカロンたちは、直ちに最終仕込み工程に入った。


麦芽をローラーミルで粗挽きし、六十五度のお湯とともに仕込槽へ投入。デンプンが糖化して甘い麦汁へと変わっていく。

濾過槽で麦芽カスを取り除き、透明な黄金色の麦汁を煮沸釜へと移送。

高周波IHヒーターが唸りを上げ、麦汁がグラグラと沸騰し始めたところで、採取してきたばかりの新鮮な生ホップを投入した。


ジュワァァァァッ……!


煮沸釜の蒸気抜きパイプから、麦の芳ばしい甘い香りと、ホップの青々とした清々しい苦味の香りが混ざり合い、ルーセンの空へと立ち上った。

新工房区の職人たちが「なんだこの美味そうな匂いは……!?」と窓を開けて鼻をクンクンさせている。


「煮沸完了! 熱交換器、冷却水バルブ全開!」


カロンの操作により、煮沸麦汁は瞬時に二十度まで急速冷却され、密閉式発酵タンクへと送り込まれた。

そこへ、マルクスが培養した純粋酵母液をピッチング(投入)。


「発酵ジャケット温度、二十一度に設定。これより主発酵を開始する!」


密閉タンクのエアーロックから、ポコッ……ポコポコポコ……と、炭酸ガスがリズミカルに泡立つ音が響き始めた。

酵母が麦汁の糖分を貪欲に食べ、アルコールと炭酸ガス、そしてヴァイツェン特有の芳醇なエステル香を生み出している証拠であった。


「……ここから主発酵に四日、低温熟成に一週間だ。親方衆、酒の神髄は『待つこと』にありますよ」

カロンが告げると、バログ大親方はタンクに頬をすり寄せ、愛おしそうに呟いた。


「おお……待つとも、いくらでも待つとも! 鉄を焼き入れする時と同じじゃ。最高の瞬間を待つ時間こそが、男の至福というものよ……!」


親方衆は交代でタンクの前に座り込み、ポコポコと鳴る気泡の音を子守唄のように聞きながら、一週間の熟成期間を過ごしたのであった。


そして、仕込みから十日後の夕暮れ。

熟成タンクの圧力計が、自然発生した炭酸ガスによって所定の内圧に達し、チラー冷却によって酵母がタンク底へと沈降した。


「……全工程、完了だ。炭酸ガス含有量、アルコール度数五・五パーセント、すべて計算通りだ」

カロンがテスターの数値を読み上げ、バルブのロックを解除した。


醸造所の前には、収穫を終えたエプロン姿のトーラ神、白衣のマルクス、リアリスと手を繋いだシルフ、そして今にも涎を垂らしそうな駄女神メリスと五十名のドワーフ親方衆、さらに噂を聞きつけて駆けつけてきたハインリヒ大公とセバスチャンまでもが、固唾を呑んで詰めかけていた。


カロンは、自らガラス工房で特注させた、背が高く中央が少しくびれた専用の「ヴァイツェングラス」をサーバーの注ぎ口の下に構えた。


コックが、静かに手前に引かれる。


トトトトト……ッ。


注ぎ口から流れ出したのは――

澄み切った黄金色の中に、小麦由来の繊細な白濁をたたえた、まるで夕暮れの陽光をそのまま閉じ込めたかのような美しい液体であった。

グラスの底から、極めて微細な炭酸の泡が幾重にも立ち上り、液面には純白の、まるで生クリームのように濃密でクリーミーな泡の冠が、こんもりと盛り上がっていく。


フワリ……。


注ぎ終えた瞬間、醸造所全体に、熟したバナナとクローブ、そして新鮮な柑橘類が織りなす、これまでのこの世界のいかなる酒にも存在しなかった、神聖なまでに華やかなアロマが爆発的に広がった。


「な……なんという香りじゃ……!」

バログ大親方が鼻をピクピクと震わせ、目を限界まで見開いた。


「これが、現代工学とバイオテクノロジーの結晶――『ルーセン・プレミアム・ヴァイツェン(小麦白ビール)』です」


カロンがグラスを掲げると、バログ大親方に最初のグラスが手渡された。


大親方は震える両手でグラスを受け取ると、こんもりとした純白の泡に髭を埋め、一気に喉へと流し込んだ。


ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ……ぷはぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!


大親方はその場に仁王立ちし、グラスを握りしめたまま、雷に打たれたかのように天を仰いだ。

大粒の涙が、三つ編みの白髭を伝ってボロボロと地面へと零れ落ちる。


「う……う、美味い……ッ!! なんじゃこの酒はァァァッ!! 口に含んだ瞬間、花のような果物のような香りが鼻を突き抜け……喉を通る時は綿飴のように滑らかで……後味にはホップの爽やかな苦味がスッと引いていく……! 今まで儂らが飲んできたエールは、ただの濁った泥水じゃったのかッ!?」


大親方の咆哮を聞いた瞬間、ドワーフたちが雪崩を打ってサーバーへと殺到した。


「儂にもくれ!」「ジョッキに並々と注げッ!」

次々と注がれる黄金の白ビール。


「美味い! 信じられん軽やかさだ!」

「胃の中に吸い込まれるように何杯でも入っていくぞ!」

「神の酒じゃ……! 生きてて良かったァァッ!!」


五十名の親方衆が抱き合い、飛び跳ね、広場は一瞬にして熱狂の坩堝と化した。


「ちょっとアンタたち、どきなさいよ! 私の分がないじゃない!」


人垣を力尽くで押し割り、サーバーの前に躍り出たのは駄女神メリスであった。

メリスはカロンから特大のピッチャーをひったくると、泡立つビールを豪快に喉へと注ぎ込んだ。


ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ……!


「んっはぁぁぁぁ〜〜っっ!! 美味しいぃぃぃぃっ!! 冷たくてフルーティーで、天界のネクタルより百倍美味しいじゃないのこれ!! カロン、最高! アンタ本当に天才よ!!」


メリスは満面の笑顔でピッチャーを掲げ、大食堂のテーブルへと飛び乗って歌い始めた。


その隣では、大地の神トーラが、木製の巨大な杯に注がれたビールを静かに干していた。

トーラ神は口元の泡を拭い、感慨深げに黄金色の液体を見つめた。


「……うむ。我が愛する大地の土が育んだ麦が、人の子の知恵によってこのような至高の恵みへと昇華されるとはな。……マルクス、カロン。見事だ。大地も大いに喜んでおるぞ」


「ありがとうございます、トーラ様!」

マルクスもグラスを傾け、前世の居酒屋を思い出すように至福の表情を浮かべていた。


さらに、ハインリヒ大公もセバスチャンからグラスを受け取り、一口含むなり目を丸くして感嘆の声を上げた。

「す、素晴らしい……! このフルーティーで上品な味わい、帝都の貴族たちに出せば金貨が唸るように集まるぞ! ルーセンの新たな特産品として、直ちに専売特許を登録せねばならん!」


リアリスもシルフに「シルフ様はお酒はダメですからね」と言い聞かせながら、自らはグラスを美味しそうに傾けて喉を鳴らしていた。シルフはカロンが特別に造った炭酸麦芽ジュース(ノンアルコール)を「あわあわしてて美味しいですぅ」と嬉しそうに飲んでいる。


街中が、神々が、大公が、ドワーフたちが、笑顔と歓喜に包まれていた。


……ただ一人を除いて。


醸造所の片隅。

熱狂の宴から数歩離れた作業台の縁に腰掛け、カロンは一人、冷え切った自作の「アイスコーヒー」のグラスを弄んでいた。


ストローでチビチビと苦い液体を吸い上げながら、カロンは深いため息をついた。


(……はぁ。どうして私は、ドワーフという酒豪の種族に生まれ変わりながら、アルコール分解酵素が完全にゼロの下戸なのだろうか……)


前世の中山教授時代から、学会の懇親会でも一人だけウーロン茶を飲んでいた男である。

自らの手で、流体力学と熱力学、そしてバイオ工学の粋を結集して世界最高峰の白ビールを完成させ、神々すらも唸らせる大成功を収めたというのに――自分自身はその味を、アルコールによる陶酔とともに味わうことが金輪際叶わないのだ。一口でも飲めば、救急搬送(この世界なら神聖治癒室行き)確定である。


「カロン〜! 何一人で黄昏れてるのよ! ほら、アンタももっと飲みなさいよ〜!」

顔を真っ赤にして上機嫌になったメリスが、ビールを並々と湛えたピッチャーを持って絡んできた。


「いりません。私は体質的に飲めないと言っているでしょう。あっちへ行ってください」

カロンが冷たくあしらうと、メリスは「ちぇっ、相変わらずノリが悪いんだから!」と、そのピッチャーを自分で一気に飲み干してしまった。


そこへ、ジョッキを手にした父ガイルが、千鳥足で歩み寄ってきた。

父親はカロンの隣にドカリと腰を下ろすと、カロンの肩を力強く叩いた。


「……カロン」


「……何ですか、父さん」


「お前は……偉いよ」


ガイルは目を細め、広場で踊り狂うバログ大親方やトーラ神を見つめた。


「自分は一滴も飲めねえってのに……儂らドワーフのために、こんな神様が腰を抜かすような美味い酒を造ってくれたんだ。……お前が酒を飲めないのはドワーフとしては哀しいが、職人としては、お前は世界一の孝行息子だ。親父は誇らしいぜ」


「……父さん」


カロンは少しだけ照れくさそうに視線を逸らし、手元のアイスコーヒーを一口飲んだ。

下戸の悲哀は消えないが、父親のその一言だけで、徹夜でプラントを設計した苦労が報われたような気がした。


夜が深まっても、新工房区の宴は終わる気配を見せなかった。


エレン見晴らしの丘の三基の風力タービンが、シルフの優しい風を受けて静かに回り、街中の電灯に温かな明かりを供給し続けている。

その光の下で、ドワーフたちの歌う重厚な鍛冶の歌と、メリスの陽気な笑い声、そしてグラス同士が打ち合わされる澄んだ音が、春の夜空へとどこまでも響き渡っていた。


「水力と風力で街を動かし、土と微生物で豊かな麦を育て、工学の力で最高の一杯を醸す……」


カロンは空を見上げた。

満天の星々が、漆黒の夜空で瞬いている。


神々が定住し、前世の同僚が集い、頑固な職人たちが笑顔で杯を交わすこの街。

トラブルの種は尽きず、明日になればまた新たな難題が持ち上がることだろう。だが、科学と工学の知恵が人々を繋ぎ、豊かな暮らしを創り出していくこの確かな前進の手応えがある限り、どんな困難も乗り越えていけるはずだ。


「さあ……明日はビール酵母の搾りかすを使った、家畜飼料とペニシリン培養液の回収ラインの設計だな」


カロンは小さく笑い、最後のアイスコーヒーを飲み干すと、賑やかな歓声に包まれながら、明日への活力に満ちた確かな一歩を踏み出していったのであった。

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