第65章:大地の神の降臨と領主の限界
第65章:大地の神の降臨と領主の限界
前世の同僚である「生物の佐藤教授」ことマルクスが、ルーセン工科大学の『応用生物・農芸化学科』初代学部長として就任の大演説をぶち上げてから一夜が明けた。
二十階建て校舎タワーの四階。
カロンがこの日のために徹夜で突貫整備した新設実験フロアには、すでに朝早くから白衣に身を包んだマルクスと、カロンが第一期生の中から選りすぐって助手として配属した三名の優秀な若き研究者たちの姿があった。
作業台の上には、カロンが「カロン・スチール」と高精度研磨ガラスで作り上げた倍率千倍の魔導光学顕微鏡、オートクレーブ(高圧蒸気滅菌器)、温度を一定に保つ培養恒温槽、そして無数のフラスコやシャーレが整然と並んでいる。
黒板の前に立ったマルクスは、銀縁眼鏡を指先で押し上げ、チョークを軽快に走らせた。
「諸君! 我が応用生物学科が当面の間、総力を挙げて取り組む研究課題は大きく分けて三つだ。しっかりノートを取ってくれたまえ」
助手の学生たちが、真剣な眼差しでペンを構える。
「第一に、『作物の収量を飛躍的に高める異世界有用微生物(根粒菌・菌根菌)の単離と実用化』だ。
この世界の農民たちは、土壌の肥沃さをただ『大地の精霊の機嫌』として片付けている。だが実態は違う。土壌中の微生物叢が有機物を分解し、窒素やリン酸を植物が吸収しやすい形へと変換しているのだ。このルーセン周辺の肥沃な黒土から、窒素固定能力の高い未知の優良菌株をスクリーニングし、バイオ肥料として実用化する」
学生たちが「精霊の機嫌ではなく、目に見えない小さな菌……!」と驚きの声を漏らす。
「第二に、『ペニシリンをはじめとする、抗生物質を産生する放線菌・糸状菌の探索』だ。
この世界では、切り傷の化膿や肺炎にかかれば、高額な神聖治癒魔法に頼るか、さもなくば神に祈りながら死を待つしかない。だが、アオカビ等の微生物が分泌する二次代謝産物――すなわち抗生物質を抽出し精製できれば、魔力を持たない一般の平民であっても、安価な粉薬を飲むだけで細菌感染症を完治させられる。これは医療の完全なる民主化だ!」
そしてマルクスは、チョークを一段と強く叩きつけた。
「第三に、『この世界特有の農作物病害の解明と、メンデルの法則に基づく科学的品種改良』だ!
立ち枯れ病、斑点細菌病、さび病……これら農民を飢餓へと追い込む病害の正体を光学顕微鏡で特定し、耐病性を持つ優良個体同士を掛け合わせる。数世代の選抜交配によって、病気に強く、糖度が高く、かつ単位面積あたりの収量が従来の三倍に達する『ルーセン交配種』を確立するのだ!」
助手の学生たちは、そのあまりにも壮大で論理的な研究ビジョンに息を呑み、そして熱狂に震えながら「はいっ、マルクス学部長!」と一斉に敬礼した。
実験室のドアの隙間からその光景をそっと覗き見ていたカロンは、満足そうに口元を綻ばせた。
(……素晴らしい。さすがは前世で幾つもの大型プロジェクトを率いてきた佐藤教授だ。教育者としても研究者としても、初日から完全に現場を掌握している。これで工科大学は、無機の物理工学だけでなく、有機の生命科学をも手に入れた。実に頼もしい限りだな)
カロンは友の逞しい背中に深く感銘を受け、自らの執務を片付けるために二階の学長室へと足を向けた。
しかし――。
このルーセンという街において、「平穏で建設的な日常」が二十四時間以上続くことなど、確率論的に万に一つも存在し得ないのが世の習いであった。
午後二時。
カロンが学長室で、マルクスから提出されたばかりの実験器具の追加予算申請書に承認印を押していた時、ドアが勢いよく開け放たれた。
マルクスもまた、土壌サンプルの分析データを持参して同席していた。
「カロン〜! 入るわよ〜!」
甲高い声とともに飛び込んできたのは、言わずと知れたトラブルメーカー――駄女神メリスであった。
手には大食堂の焼き立てクロワッサンを握りしめている。
カロンは即座に警戒態勢に入り、身構えた。
「メリス様。見ての通り、私たちは今、極めて重要な学術予算の審議中なのですが……」
「そんなのどうでもいいのよ! あのねカロン、それに新入りの佐藤!」
メリスはクロワッサンを飲み込み、得意満面のドヤ顔で両手を腰に当てた。
「佐藤がね、なんか土とか植物とか菌とかの研究を始めたって聞いたからさ! 私、考えたのよ。『土や植物のことなら、アイツに聞くのが一番手っ取り早いんじゃないかしら?』ってね!」
マルクスが怪訝そうに眼鏡を直した。
「アイツ……? どなたのことですか、メリス様」
「ふふん! 私のこの気遣いに感謝しなさいよね! ――おーい、入っていいわよ、トーラ!」
メリスがパチンと指を鳴らした瞬間。
ズズズズズ……ッッ!!
二十階建てタワーの学長室全体を、まるで直下型地震のような重厚な地鳴りが揺るがした。
床のコンクリートがキシリと軋み、室内の気圧が一気に二倍に跳ね上がったかのような、圧倒的な大地の重圧が空間を満たす。
重厚な扉を潜って入ってきたのは――
身長二メートルを優に超える、神話の英雄ヘラクレスを彷彿とさせる筋骨隆々の巨躯。古代ギリシャの戦士のような白と茶のトーガをまとい、褐色の肌には鋼鉄のワイヤーのような筋肉が盛り上がり、琥珀色の双眸に悠久の大地の威厳をたたえた偉丈夫。
ドワーフ族が古来より崇め奉る、大地の至高神――トーラであった。
「……うむ。メリスに呼ばれて来てみたが、ここがカロンの学究の場か」
地鳴りのような重低音が、窓ガラスをビリビリと震わせる。
「………………………………」
マルクスは持っていた土壌サンプルの試験管を取り落としそうになり、口を金魚のようにパクパクと開閉させた。
目の前に立つ筋骨隆々の巨人が放つ神気は、昨日見た駄女神メリスのそれとは比較にならないほど重厚で、大地そのものの生体波動を放っていたからだ。
「な……ななな……ッ!? だ、大地の……神……!?」
マルクスは激しい眩暈を覚え、こめかみを押さえてふらりとよろめいた。
カロンは深々と天を仰ぎ、この日最初のため息をついた。
(……やれやれ。駄女神なりに佐藤君の研究を応援しようと気を使ったつもりなのだろうが……連れてくる相手のスケールが完全に狂っている……)
そんな二人の動揺を余所に、大地の神トーラは腕を組み、琥珀色の瞳を穏やかにマルクスへと向けた。
「其方が、メリスの不手際によって異世界よりこの地へ渡り、新たに生命の学問を拓こうとしておるマルクスだな」
「は、ははっ……! お、仰る通りでございます、トーラ様……!」
前世で無神論の近代科学者だったはずのマルクスも、本物の神の威厳を前にしては直立不動にならざるを得なかった。
トーラ神は角ばった顎髭を撫で、小さく微笑んだ。
「話は疾刻聞いておる。我が愛する大地の土壌、そこに息づく微小なる生命たち、そして草木が織りなす理を解き明かそうとしておるのだな。……実に素晴らしい。神の奇跡に縋るのみならず、土の性質を学び、作物を慈しもうとするその志、深く感服いたすぞ」
トーラは太い指先を一本立て、マルクスが知りたがっていたこの世界の生態系の根本原理を、澱みなく語り始めた。
「其方が探しておる『病を癒すカビ』……この世界の言葉では『青燐苔』と呼ばれる腐生菌の胞子だな。エレン山麓の湿潤なブナの倒木にのみ自生し、魔力を吸い上げて他者の侵食を拒む特異な排他物質を分泌する。
また、作物を枯らす病の正体は、大気中の魔素が淀んだ際に発生する微小な霊性寄生体だ。土壌に石灰と軽石の粉末を混ぜ、通気性を三割高めてやれば、土中の善なる微生物が活性化し、病の発生は自然と根絶されるであろう」
「な……!?」
マルクスは目を丸くした。
トーラ神が語った内容は、前世の近代農学における「好気性微生物の活性化」や「ペニシリウム属の生態環境」と、完全に一致していたからだ。
「す、すごい……! 神話の神でありながら、これほどまでに論理的かつ精緻な生物学の知見をお持ちだとは……!」
マルクスが感嘆の声を漏らすと、トーラ神は表情を引き締め、隣で呑気に爪の手入れをしているメリスを一瞥した。
「……そして、マルクスよ。我からも詫びねばならん。天界の同胞たるメリスが、其方の天寿を狂わせ、このような異郷へと放り投げた無礼……神々の長の一人として、誠に申し訳なく思っておる」
「えっ!? い、いえ、そんな、トーラ様が謝られることでは……!」
「いや、道理を通すのが我の神徳だ。……迷惑をかけた詫びの印として、其方に我が大地の祝福を授けよう」
トーラ神は屈み込み、分厚い岩のような掌を、マルクスの胸元へとそっと当てた。
ドォォォォォン……ッ!
柔らかな、しかしどこまでも深淵な琥珀色の神聖光が、マルクスの全身を包み込んだ。
マルクスの体内の魔導回路が劇的に書き換えられ、大地の記憶が細胞の一つ一つへと流れ込んでいく。
「ぐ……おおおっ……!?」
光が収まった時、マルクスは自らの両手を信じられない面持ちで見つめた。
頭の中に、触れた土壌の成分や微生物の活動が手に取るように可視化される感覚。
足元の植木鉢の観葉植物へ手をかざせば、細胞分裂が爆発的に活性化し、見る見るうちに青々とした新芽が吹き出し、花を咲かせた。
「な、なんだこれは……!? 植物の成長促進……!? それに、生物の感情を読み取って使役するテイム能力……作物の病原菌を瞬時に見破り、最適な薬効成分を調合する生合成能力まで……!?」
近代科学者としてのマルクスの常識を遥かに凌駕する、まさに「バイオテクノロジーのチート権能」の数々。
トーラ神は満足そうに頷き、豪快に笑った。
「うむ! これでお主の研究も大いに捗るであろう。……そしてな、カロン、マルクスよ」
トーラ神は腕を組み、とんでもない爆弾発言を事も無げに口にした。
「我も、このルーセンの街がすっかり気に入った。以前訪れた際の大聖堂裏のメガタワー、そしてカロンの造った新工房区の街並み……大地と鉄が見事に調和しておる。……ゆえに、我もしばらく天界を離れ、この街に留まってマルクスの研究を直接サポートすることにしたぞ」
「………………………………」
「………………………………」
学長室に、再び完全なる静寂が訪れた。
カロンは頭を抱え、マルクスは魂が抜けたように口を開けて固まった。
この大地の主神トーラという男、見た目はヘラクレスのように厳格で恐ろしげだが、その実態は不器用なまでに心優しく、真面目で、困っている者を放っておけない「超・面倒見の良いお節介気質」だったのである。
「……あ、あの、トーラ様? 神界のお仕事の方はよろしいのですか……?」
カロンが引きつった笑いで尋ねると、トーラ神は至極平然と言い放った。
「構わん。天界の会議など、形式ばかりで退屈極まりないからの。それよりも、地上で若者が土と作物のために汗を流すのを手伝う方が、よほど大地の神としての本懐というものよ! わはははは!」
豪快に笑う大地の神。
そして隣では、駄女神メリスが「やったー! トーラも仲間ね! 学食のステーキ奢ってあげるわ!」と勝手に盛り上がっていた。
カロンのこめかみが、ピキピキと激しい音を立てた。
(……まずい。これは、昨日どころの騒ぎではないぞ……。風の神シルフ様に続いて、今度は大地の主神トーラ様まで定住だと……!?)
胃の奥底から、かつてない強烈な激痛が這い上がってくるのを、カロンは必死に耐えるしかなかった。
その日の夕方。
カロンはマルクス、そして人間の農民風の粗末なチュニックを着て神気を抑えたトーラ神を伴い、中央通りの領主邸へと向かった。
当然ながら、街の統治者たるハインリヒ侯爵への報告を怠るわけにはいかないからだ。
執事長セバスチャンの案内で通された領主執務室。
昨日のシルフの住民登録のショックからようやく立ち直り、穏やかに温かい紅茶をすすっていたハインリヒ侯爵は、カロンたちの後ろに立つ二メートル超の巨漢を目にした瞬間、ピクリと眉を跳ね上げた。
「……カロン殿。昨日に引き続き、今度はどのような用件かね? そちらの、いかにも歴戦の戦士のような屈強な御仁は……?」
カロンは深呼吸をし、極めて慎重に、言葉を選びながら切り出した。
「侯爵閣下。……どうか、心臓を強く持ってお聞きください。こちらのお方は……ドワーフ族が古来より崇め、大地と鉱物と農業を司る至高神――大地の神トーラ様です」
カチャン……。
ハインリヒ侯爵の手から、ティーカップが音を立ててソーサーへと落ちた。
紅茶がパシャリと書類の上に跳ね飛んだが、侯爵は微動だにしない。
カロンは淡々と、しかし容赦なく言葉を続けた。
「トーラ様は、新設された応用生物学科のマルクス学部長の研究を深く嘉され、その研究を支援するため――『しばらくの間、このルーセンの街に滞在・定住する』ことを決定されました。……つきましては、昨日同様、住民登録の手続きを――」
「………………………………」
ハインリヒ侯爵は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、執務室の大きな窓の前に歩み寄り、夕暮れのルーセンの街並みをぼんやりと見つめた。
その口から漏れ出たのは、狂気すら孕んだ、乾ききった呟きであった。
「……もう、何でもありだな」
「閣下……」
侯爵は振り返り、両手を広げて力なく笑った。
「整理しよう。……カロン殿の部屋には、慈愛と豊穣の主神メリス様が居候しておる。リアリス殿の屋敷には、風の主神シルフ様が同居しておる。そして今度は……マルクス殿の研究室に、大地の主神トーラ様が滞在される、と」
侯爵は自らのこめかみを両手でグリグリと揉みしだき、掠れた声で叫んだ。
「余は……余は一体、何の街の領主をやっておるのだ!? 神が一人どころか、三柱も同時に居座る街の領主など、神話の時代から数えても大陸の歴史上、誰一人として経験した者がおらんわッ!!」
侯爵はカロンの前に詰め寄り、その両肩を掴んで激しく揺さぶった。
「なぁカロン殿! 教えてくれ! 帝都のセルセデス3世陛下に何と報告すればよい!? 『我がルーセン領は、天界の神々のシェアハウスとなりました』とでも上奏文を送れというのか!? この神だらけの街を、地方の一貴族に過ぎぬ余が、一体どうやって治めていけばいいというのだァァッ!!」
「閣下、落ち着いてください! 肩が外れます!」
カロンが必死に宥めると、後ろに控えていたトーラ神が、神々しい琥珀色の瞳を細めて口を開いた。
「ハインリヒ侯爵とやら。案ずるな。我はメリスのように無用な騒ぎを起こす気はない。街の片隅で土を耕し、青年の研究を手伝うだけの一介の農夫として過ごす所存だ。其方の施政に口を挟むような真似は決してせぬ」
「お、大地の神様が……一介の農夫……」
ハインリヒ侯爵は白目を剥きかけ、ふらふらとソファへと倒れ込んだ。
「……カロン殿」
「はい、閣下」
「……胃薬の……一番強いやつを……余の寝室に一樽届けてくれ……」
カロンはただただ、引きつった苦笑いを浮かべて頷くしかなかった。
領主邸での修羅場をなんとか乗り切り、トーラ神の宿泊先をマルクスの宿屋の隣室に手配して、疲労困憊で一夜が明けた――翌朝のことである。
東門から、再びルーセンの街を揺るがすけたたましい地鳴りが響き渡った。
『学長! 東門詰所のガースです! またです! また鉱山都市ガロニアから、武装したドワーフの集団が大挙して押し寄せてきましたッ!!』
「な、何だって……!?」
カロンは跳ね起き、学長タワーのエントランスへと急行した。
門前へ駆けつけると、そこには先週の避暑騒動を遥かに超える、異様な熱気と殺気(?)を帯びたドワーフたちの姿があった。
先頭に立っていたのは、カロンの父ガイル。
そしてその後ろには、白銀の髭を逆立たせたバログ大親方をはじめとする、ガロニア鍛冶ギルドの長老衆、熟練親方衆、総勢五十名を超える重鎮たちが、全員正装の革鎧をまとい、手には神聖な儀礼用のミスリル槌を握りしめていた。
「父さん!? バログ大親方!? 一体どうしたのですか、先週帰ったばかりなのに!」
カロンが叫ぶと、ガイルが血相を変えてカロンの胸ぐらを掴んできた。
「カロン! お前、親父に隠し事をしていやがったな!」
「えっ……!? な、何をですか!?」
バログ大親方がドスドスと前に踏み出し、地鳴りのような怒号を響かせた。
「誤魔化すな、カロン! ガロニアの神殿の水晶玉に、先ほど天界からの凄まじい大地の神気が感知されたのじゃ! 神託の波長を辿れば、その発生源は間違いなくこのルーセン! 我らドワーフ族が何千年も崇め奉る鍛冶と大地の祖神――『偉大なるトール様』が、この街に降臨されたのであろうッ!!」
親方衆が一斉に武器を掲げて歓声を上げる。
「我らは決めたぞ! 祖神様がおわすこのルーセンこそが、ドワーフの真の聖地! ガロニアの炉を畳み、我ら親方衆全員、今日からこのルーセンへ完全移住するッ!!」
「「「うおおおおおおおおっっ!!」」」
「ぜ、全員移住ぅぅぅっ!?」
カロンは顎が外れそうになった。ガロニアの最高指導層が全員ルーセンへ引っ越してくるなど、国家間の力関係が根底からひっくり返る大事件である。
その時――。
「……何を朝から騒いでおるのだ、騒々しい」
校舎タワーのエントランスから、のっしのっしと歩み出てきた者があった。
作業着のチュニックをまとい、手にはマルクスの研究室から持ってきた土壌分析用のスコップを持った巨漢――トーラ神であった。
その瞬間、ガロニアのドワーフ親方衆の動きが、ピタリと完全停止した。
目の前に現れた巨躯から放たれる、天地を揺るがすほどの圧倒的な大地の波動。
ドワーフの魂の奥底に刻み込まれた、原初の記憶。
バログ大親方は両目から大粒の涙をボロボロとこぼし、ミスリル槌を投げ捨てて石畳の上へ五体投地で平伏した。
「お……おおお……っ!! 祖神様……! 偉大なる鍛冶の祖神、トール様ァァァッ!! 愚かな子孫どもめが、お目通りに預かりましてございまする……!!」
五十名を超える親方衆が一斉にドワーフ式平伏を行い、タワーの前は異様な宗教的狂乱の空間と化した。
しかし――。
トーラ神は眉をひそめ、スコップを肩に担ぎ直すと、至極平然と言い放った。
「……面を上げよ、我が愛しきドワーフたちよ。其方たちの忠誠は嬉しいが、一つだけ訂正せねばならん」
「は、ははーっ! 何なりとお言いつけを!」
バログ大親方が額を擦り付ける。
「我の真の御名は、トールではない。『大地の神トーラ』だ。其方たちがトールと呼んで敬うのは許しておるが、本来の神格は鍛冶のみならず、土壌と農業を司る神なのだ」
「………………………………え?」
バログ大親方の動きが止まった。
長老たちも、親方たちも、ぽかんと口を開けて顔を上げた。
「と……トーラ……様……? トール様ではなく……? しかも、専門は鍛冶ではなく……農業……?」
何百年もの間、金床を叩き、鉄の神と信じて崇め続けてきた祖神の口から直接告げられた、残酷なる神話の真実。
トーラ神は追い討ちをかけるように、穏やかに微笑んで続けた。
「うむ。ゆえに我は今、このルーセンで若き学者マルクスと共に、作物の収量を増やすための『堆肥砂利の研究』と『土壌改良』に励んでおるのだ。其方たちも移住してきたのなら、ちょうどよい。鍬と鋤を持ち、共に畑を耕そうではないか」
「「「………………………………」」」
ドワーフ親方衆の顔から、急速に血の気が引いていった。
全身がカチコチに硬直したかと思うと――
バタッ……バタバタバタッ……!!
ドミノ倒しのように、バログ大親方をはじめとする五十名以上の屈強な熟練鍛冶師たちが、先祖代々の信仰体系の完全崩壊による激しい精神的ショックに耐えきれず、白目を剥いて泡を吹き、その場にバタバタと卒倒していったのである。
「お、親方衆ーーーッ!?」
父ガイルの悲鳴が響き渡る。
そこへ――「東門をドワーフの大軍団が突破した」という緊急警報を聞きつけ、護衛を引き連れて馬車で駆けつけてきたハインリヒ侯爵がいた。
馬車から飛び降りた侯爵の目に飛び込んできたのは――
タワー前の広場一面に、泡を吹いて転がっている数十名のドワーフの重鎮たち。
スコップを片手に「む? どうしたのだ、皆急に倒れて?」と首を傾げている大地の神トーラ。
頭を抱えて卒倒した親方たちを介抱しているカロンとマルクス。
そして、その惨状の真ん中で、大食堂の焼きたてパイを片手に現れた駄女神メリスが、呑気に言い放った一言であった。
「あはは〜! みんなトーラに会えて感激のあまり気絶しちゃったのね! じゃあ、目が覚めたら全員で私の教会の掃除でもさせましょ〜☆」
ピキリ……。
ハインリヒ侯爵の頭の中で、何かが完全に音を立てて砕け散った。
侯爵は天を仰ぎ、虚ろな笑みを浮かべた。
「……あは……あはははは……。神が三人……気絶したドワーフが五十人……。もう……余のキャパシティは……限界突破だ……」
ドサァッ……!!
「か、閣下ァァァァァァッッ!!!!」
セバスチャンの悲痛な絶叫が、秋晴れのルーセンの空へと木霊した。
心労と胃痛の極限に達した領主ハインリヒ侯爵は、ついに立ったまま意識を失い、絨毯の上に崩れ落ちるように完全に卒倒してしまったのである。
「セバスチャンさん、閣下を運んで! マルクス君、解熱と強壮の薬草を! ボルト先生、親方衆を講堂のベッドへ収容してください!」
カロンの怒号のような指示が飛び交い、ルーセン工科大学は未曾有の救護センターへと早変わりした。
夕暮れ時。
校舎タワーの一階大講堂には、簡易ベッドがずらりと並べられ、意識を取り戻したドワーフの親方衆が、毛布にくるまって呆然と天井を見上げていた。
「……トーラ様……農業の神様……。儂らの何百年は何だったんじゃ……」
涙を流すバログ大親方の枕元に、カロンが開発した胃薬と、マルクスが調合した精神安定ハーブティーが配られていく。
一方、最上階のゲストルームでは、点滴を打たれたハインリヒ侯爵が、弱々しい息の下でカロンの手を握りしめていた。
「……カロン殿……。余はもう……何が起きても驚かんぞ……。明日、天界の主神全員がピクニックに来たとしても……笑顔で迎え入れてやる……」
「閣下、喋らないでください。安静が第一です……」
カロンは申し訳なさで胸を痛めながら、点滴の流量を微調整した。
騒乱の一日が終わり、夜の静寂がキャンパスを包み込む頃。
カロンとマルクスは、四階の応用生物学研究室の窓辺に並び立っていた。
実験室のデスクには、トーラ神が置いていったという、エレン山麓の特異な放線菌を含む土壌サンプルが、静かにシャーレの中で培養されていた。
「……凄まじい一日でしたね、カロン学長」
マルクスが苦笑いを浮かべ、眼鏡を拭った。
「ああ。君の初講義の翌日に、神の降臨と領主の卒倒がセットでついてくるとは思わなかったよ」
カロンも深く息を吐き出した。
しかし、マルクスの瞳には、確固たる知的な光が灯っていた。
「ですが、トーラ様からいただいた知見とこの菌株……本物ですよ。予備培養の段階で、ブドウ球菌に対する明らかな阻止円が確認できました。……ペニシリンの単離、予想よりも数ヶ月早く達成できそうです」
「そうか……! それは素晴らしいニュースだ」
カロンは窓の外を見下ろした。
街灯の光が優しく街を照らし、エレン見晴らしの丘では、シルフの神風を受けて三基の風車が力強く回っている。
そして、新工房区の畑の向こうでは、粗末な小屋に入っていった大地の神トーラが、明日からの土壌改良を心待ちにするように、静かな大地と対話している気配が伝わってきた。
神々が住まい、異世界の知恵と前世の科学が交錯する、世界で唯一無二の学園都市ルーセン。
胃の痛みとトラブルは尽きそうにないが、この街が紡ぎ出す未来の可能性は、今や誰にも止められないほどに眩く輝いていた。
「さあ……明日はドワーフの親方たちに、トラクターと農機具の製造ラインを手伝ってもらうとしようか」
カロンが不敵に微笑むと、マルクスもまた「ええ、最高のバイオ農機を作りましょう」と力強く頷いた。
混沌と熱狂を飲み込みながら、ルーセンの工学と生命の躍進は、また新たな夜明けへと向かって力強く歩みを進めていくのであった。




