第63章:神々の甘味と財布の受難
第63章:神々の甘味と財布の受難
エレン見晴らしの丘に立つ三基の巨大風車が、心地よい神風を受けて安定した電力を街へ送り届けている翌朝。
秋晴れの清々しい青空が広がるルーセンの街を、カロンは銀髪のエルフの冒険者リアリス、そして淡いエメラルドグリーンの髪を揺らす小柄な少女――エルフの姿に受肉させられた風の主神シルフと共に歩いていた。
向かった先は、中央通りの領主邸である。
昨日は観光の途中で顔見世程度に立ち寄っただけだったが、事態は「向こう二十年間、風の神がルーセンの街に定住する」という、地方領主にとっては国家転覆級の超特大案件へと発展してしまっていた。正式な筋を通しておかなければ、後々どのような行政的・外交的混乱を招くか分かったものではない。
執事長セバスチャンの案内で通された執務室。
重厚なデスクの向こうで書類にペンを走らせていたハインリヒ侯爵は、現れた三人を見て穏やかな笑みを浮かべた。
「おお、カロン殿、リアリス殿。……して、そちらの可愛らしいお嬢さんも一緒か。昨日はバタバタしておったが、改めて風力発電の安定稼働には感謝申し上げるぞ」
カロンは神妙な面持ちで一歩前へ進み出ると、深々と頭を下げた。
「侯爵閣下。本日は、極めて重大……かつ、大変頭の痛いご報告とお手続きに上がりました」
「ん? 改まってどうしたのだね?」
カロンは、隣で不安そうに尖った耳をピコピコと揺らしているシルフを一瞥し、意を決して口を開いた。
「実は……昨日、シルフ様が天界へお戻りになろうとした際、メリス様の術式の暴走……いえ、設定ミスにより、このエルフの肉体変化に『二十年間の解除不能ロック』がかかってしまいました。結果として、シルフ様は向こう二十年間、神界へ戻ることが叶わず、このルーセンの住民として生活されることとなりました」
「………………………………」
執務室の空気が、瞬時に完全停止した。
ハインリヒ侯爵の手から、羽ペンがポトリと落ちた。
インクが執務机の高級羊皮紙へと音もなく黒い染みを広げていくが、侯爵はそれを見つめたまま、微動だにしない。
十秒。二十秒。あまりにも長すぎる沈黙の末、侯爵はゆっくりと顔を上げ、天井を仰ぎ見た。
「…………ははは」
乾いた、魂の抜けたような笑い声が漏れ出た。
「ははははは……! 神が……神が二人も定住する街、ルーセン……! 慈愛と豊穣の主神メリス様に続き、今度は風の主神シルフ様か……! 帝都グランツの神殿都市ですら成し得ぬ快挙ではないか……!」
侯爵はガバッと両手で頭を抱え、デスクの上に突っ伏した。
「……なぁ、カロン殿。もし帝都の王宮から『ルーセン領の近況を報告せよ』と問われたら、余は何と答えればよいのだ? 『はい、我が領地には現在、本物の女神様が二人ほど呑気に居候してカフェ巡りをしております』とでも書けというのか!? セルセデス3世陛下が卒倒されてしまうわ!!」
「閣下……心中お察し申し上げます。ですが、神の権能による不可抗力ゆえ、私にもどうしようもできず……」
「カロン殿、お互い苦労するねえ……」
「はい、閣下……まったくでございます……」
領主と学長。立場は違えど、人外の超常存在に振り回される中間管理職同士、二人は深く、魂の底から絞り出すような特大のため息を吐き出した。
ひとしきり絶望を噛み締めたハインリヒ侯爵は、ようやく気力を振り絞って顔を上げ、隣に立つ銀髪のエルフへと向き直った。
「……コホン。リアリス殿」
「は、はい、侯爵閣下!」
リアリスが背筋を伸ばす。
「風神シルフ様の身元引受人となり、自宅で保護してくれると聞いた。……エルフ族にとっての至高の御神祖様とはいえ、神のお世話など心労は並大抵のものではあるまい。すまぬが、よろしく頼む。彼女の面倒を見てやってくれ」
「勿体なきお言葉です、閣下。私たちエルフにとって、シルフ様をお守りすることは至高の誉れ。命に代えても快適にお過ごしいただけるよう、全力を尽くします」
リアリスが胸に手を当てて敬虔に答えると、足元にいたシルフがおずおずと侯爵を見上げ、スカートの裾をちょこんと摘んでお辞儀をした。
「あ、あの……ごめいわくをおかけして、ごめんなさい……。でも、風車の風は、まいにち一生懸命ふかせますから……」
その儚げで礼儀正しい姿に、ハインリヒ侯爵の表情がふわりと和らいだ。
「いやいや、シルフ様。貴女様が悪いわけではないのは重々承知しておりますよ。悪いのはすべて、あの金髪の――おっと、滅相もない。どうぞ、我がルーセンを第二の故郷と思って、気兼ねなくお過ごしください。何か困ったことがあれば、領主邸が全面的に支援いたしましょう」
「ふぇ……! ありがとうございます、領主さま……!」
シルフがへにゃりと安堵の笑みを浮かべ、住民登録の儀礼は滞りなく完了したのであった。
領主邸を出て、初秋の柔らかな日差しが降り注ぐ中央通りへと戻ってきた三人。
シルフはすっかり緊張が解けたのか、リアリスの手を両手でギュッと握りしめ、楽しそうに足取りを弾ませていた。
「リアリスさん、領主さま、とっても優しそうな人でした……!」
「ええ、ハインリヒ侯爵は話の分かる素晴らしい領主様よ。……カロンのせいで、いつも胃を痛めているみたいだけどね」
「人聞きの悪いことを言わないでください。胃痛の元凶の大半は、私の頭上から降ってくるトラブルのせいですよ」
カロンが苦笑いで訂正する。
リアリスはクスクスと笑い、シルフを見下ろした。
「さて、シルフ様。無事に手続きも終わりましたし、昨日お約束した通り、街で一番人気のカフェへ『パフェ』を食べに行きましょうか。新工房区の近くに、最近オープンしたばかりの評判のテラスカフェがあるのよ」
「ぱふぇ……! 昨日食べた、あの冷たくて甘くてフルーツがいっぱいの……!?」
シルフの翡翠の瞳がパァァッと輝き、尖った耳が嬉しそうにパタパタと羽ばたいた。
「ええ。カロンもついて来るでしょう?」
「そうですね。私も朝から書類仕事ばかりで頭を使いましたから、冷たいアイスコーヒーでも一杯いただきましょうか」
三人は和やかに並んで通りを進んだ。
路面電車がガタゴトと鐘を鳴らして走り抜け、道行く市民たちが新しく設置された街頭スピーカーの音楽に耳を傾けている。平和そのものの光景であった。
歩くこと約五分。
目指すカフェの瀟洒な白壁と、パラソルが並ぶオープンテラスが見えてきた――まさにその時。
「…………ん?」
カロンの鋭敏な危機察知能力が、ピクリと警報を鳴らした。
テラス席の一角。
周囲の客たちが遠巻きに引きつった表情で見守る中、異様な存在感を放つ「山」が視界に飛び込んできたのだ。
そこには――
机の上に、食べ終わった背の高いガラスパフェグラスが、まるで城壁のバリケードのように所狭しと林立していた。
ざっと数えても三十、四十……いや、五十個以上。そのガラスのタワーの向こう側から、聞き覚えのありすぎる、傲慢で甲高い美声がカフェ中に響き渡っていた。
「店員さーん! これじゃ全然足りないわよ! 追加で、あのマンゴーと特製生クリームのパフェ、もう十個ちょうだい!! あ、上に乗せるサクランボは全部二倍盛りにしてね!」
「ひ、ひぃぃ……! か、かしこまりました、直ちにぃぃ……!」
青ざめた店員が厨房へと転がり込んでいく。
黄金の髪を揺らし、スプーンを右手に握りしめ、口の周りに純白のクリームをべったりとつけたその人物――
紛れもなく、駄女神メリスその人であった。
「「「……………………」」」
三人の足が、完全に同時停止した。
カロン、リアリス、そしてシルフの三人は、視線を交わすこともなく、無言の阿吽の呼吸で――
クルリと百八十度踵を返し、足音を忍ばせて猛スピードで逆方向へと歩き出した。
「見なかった……私たちは何も見なかったわ……」
リアリスが青ざめた顔で呟く。
「ええ、幻覚です。あんな凶悪な甘味暴食モンスターに関わってはなりません」
カロンも早足で路地裏へと滑り込む。
「ふぇぇ……っ、め、メリス様、お皿が山になってました……っ、見つかったら全部奪われちゃいますぅ……っ」
シルフも小さな足を必死に動かし、二人の後ろを小走りでついてくる。
命からがら(主に財布と精神の平穏を守るため)テラスカフェの視界から脱出した三人は、大通りから三本ほど外れた、静かな職人街の裏通りにある小さな隠れ家風の純喫茶へと逃げ込んだ。
冷房の効いた静かな店内の隅のテーブル席。
運ばれてきたのは、透明なガラスの器に季節のブドウとイチゴ、そして濃厚なミルクアイスが美しく盛り付けられた、上品なフルーツパフェ二つと、カロンの頼んだ深い漆黒のアイスコーヒーであった。
「わぁぁ……っ! きれい……っ!」
シルフが目を輝かせ、小さな銀のスプーンを両手で握りしめた。
一口すくって口に含むと、ふにゃりと頬を緩ませ、全身を蕩けさせる。
「おいひい……っ! あまくて、つめたくて……幸せですぅ……!」
「ふふ、良かったわね、シルフ様。あんな下品なドカ食いをする駄女神とは違って、甘味というものはこうして静かに、味わっていただくものよ」
リアリスも優雅にパフェを口に運び、満足げに目を細めた。
カロンは冷えたアイスコーヒーのグラスを傾け、ストローで一口吸い込んだ。
キリリとした心地よい苦味と香ばしさが、日頃のストレスで疲弊した頭脳をすっきりと冷やしてくれる。
(……やれやれ。あちらのカフェの惨状は見なかったことにしたいが、あの山のようなパフェの伝票がどこへ回ってくるのか、考えただけでも胃が痛むな……)
黒い液体を見つめながら、カロンは心の中で密かに不吉な予感を抱くのであった。
喫茶店を出た後、リアリスとシルフに別れを告げたカロンは、二十階建て校舎タワーの二階――学長室へと戻ってきた。
執務机の上には、カロンが午前中席を外していた間に、大学事務局から運ばれてきた書類の束が、それこそ先ほどのパフェグラスのように高く積み上がっていた。
「……ううむ、壮観だな」
カロンは作業着の袖を捲り上げ、革張りの椅子に腰を下ろした。
ここ数日、ガロニアからのドワーフ大移住への対応、帝都の査察官ギュンターに対する鉛シールド防衛戦、そして昨日の風力発電の突貫工事とシルフの受肉騒動と、立て続けに発生したトラブルの火消しに追われ、本来の学長としてのデスクワークが完全に滞っていたのだ。
カロンは一枚一枚、丁寧に書類に目を通していった。
『人造蓄電魔石・第二世代量産ラインにおける結晶欠陥率の推移報告(先端エネルギー工学研究室)』
『カロン・スチールを用いた薄肉高圧パイプの引張破断試験結果(金属材料工学研究室)』
『ルーセン旧市街における下水道第二期管路網の敷設計画図(都市環境工学研究室)』
『第二期留学生受入試験の志願者名簿および審査基準案(大学事務局)』
どれも、カロンが蒔いた近代工学の種が、学生たちや教員たちの手によって見事に芽吹き、急速に成長していることを示す素晴らしい研究成果ばかりであった。
前世の中山教授時代を思い起こさせる、アカデミックで知的な充実感。
「よし、この配合比率は承認。配管の肉厚公差はコンマ零五ミリに厳格化するように差し戻し。留学生枠はガロニアの枠をさらに五名拡大、と……」
カロンは木製の承認印をテンポよく押し、決裁書類の山を片付けていった。
窓の外では、シルフの恵みの風を受け、エレンの丘の風車が規則正しいリズムで白い影を落としている。
平和で、知的で、建設的な時間。このまま平穏な夕暮れを迎えられるはずであった。
――そう、あの女がやって来るまでは。
午後五時過ぎ。
夕暮れの茜色の光が学長室の窓を赤く染め始めた頃。
ガチャリ。
案の定、ノックもなしにドアが開いた。
「カロン〜! いるんでしょ〜!」
入ってきたのは、お腹のあたりを満足げにポンポンと叩きながら、上機嫌で鼻歌を歌う駄女神メリスであった。
口元には、先ほどテラス席で見かけた時と同じ、微かな生クリームの痕跡が残っている。
カロンは書類から目を離さず、平然とペンを動かした。
「メリス様。今、非常に重要な予算申請書を査定中ですので、話なら後にして――」
「あのねカロン! すっごく良いことを教えてあげるわ!」
メリスはカロンの言葉を完全に遮り、机の上に身を乗り出してきた。
「私ね、今日、新工房区の近くですっごく美味しいパフェを出す、最高のカフェを見つけちゃったのよ! 果物がどっさり乗ってて、アイスが濃厚で、もう天界の果実も裸足で逃げ出すレベルの絶品なの! カロンにもぜひ味見させてあげようと思って、連れて行ってあげるわ!」
「……いえ、結構です。私は甘いものはそれほど――」
「遠慮しなくていいのよ! ほら、行くわよ!」
グイッ!と襟首を怪力で引っ張られ、カロンは椅子から引きずり出された。
逆らえば学長室のドア枠ごと破壊されかねない。カロンは深いため息をつき、諦めて立ち上がった。
(……まあ、大体の予想はつくがな)
五分後。
連れて行かれたのは、やはり先ほどカロンたちが全力で回れ右をして逃げ出した、あの白壁のテラスカフェであった。
夕暮れ時とあって客足は落ち着いていたが、店先のレジカウンターの奥で、店長らしき男性が頭を抱えて激しく震えていた。
メリスがズケズケと店へ足を踏み入れると、店長はビクゥッ!と跳ね起き、まるで死刑執行人を迎えるような絶望の表情を浮かべた。
「ひ、ひぃぃ……! お、お客様、もう果物の在庫が一切ございませんで……!」
「あ、もうパフェはいいわよ! お腹いっぱいだし!」
メリスはケロリと言い放ち、後ろに引きずってきたカロンをドンと前に押し出した。
「ほら店長さん、この人が私のスポンサーのカロンよ! ちょっとツケが溜まってるから、この人に全部払ってもらってちょうだい!」
「………………………………」
カロンのこめかみが、ピキピキと激しく音を立てた。
胃の奥底から、チクチクとした針で刺されるような鋭い痛みが這い上がってくる。
カロンは虚ろな目を店長へと向けた。
「……店長さん。恐縮ですが、伝票を拝見してもよろしいでしょうか」
「は、はい……っ! こちらの、この束でございます……!」
店長が恐る恐る差し出してきたのは、分厚い羊皮紙の伝票の束であった。
一番上の合計欄に記されていた数字を目にした瞬間、カロンの視界が一瞬だけ白く明滅した。
『特製メガ盛りマンゴーパフェ:四十杯』
『極上ベリーショコラパフェ:三十五杯』
『シャインマスカット・デラックス:二十五杯』
『季節の完熟白桃タワーパフェ:二十杯』
【合計:百二十杯】
「ひゃ……百二十杯……!?」
カロンの喉から、掠れた悲鳴が漏れた。
百二十杯。大人の男性が三人がかりで一ヶ月かけて食べるような甘味の総量を、この金髪の駄女神は、わずか半日の間にたった一人で胃袋へ流し込んだというのか。神の肉体構造はいったいどうなっているのか。生体エネルギー保存の法則はどこへ消え去ったのか。
「ねえカロン、早く払ってあげなさいよ。私、顔パスで食べさせてもらったんだから!」
メリスが何食わぬ顔で急かしてくる。
カロンは額を押さえ、震える手で懐からギルド発行の金貨入れを取り出した。
一枚で一ヶ月の生活費に匹敵する帝国金貨が、店長のトレイの上へと次々と吸い込まれていく。
ジャラジャラジャラ……。
硬貨の鳴る乾いた音が、カロンの魂を削り取っていくようであった。
「……ま、毎度ありがとうございますぅぅ……! 神様、仏様、カロン学長様ぁぁ……!」
涙を流して感謝する店長に見送られ、カロンは完全に魂の抜けた足取りで店を出たのであった。
日が完全に沈み、ルーセンの街にカロンの敷設した温かな街灯が灯る頃。
カロンは、自身がオーナーを務める大聖堂裏手のアパートへと、幽霊のような足取りで戻ってきた。
一階の大食堂。
扉を開けると、ガラガラという心地よい音とともに、香ばしい焼き肉とニンニクの匂い、そして冷房の効いた快適な冷気がカロンを迎えてくれた。
「おかえり、大家さん! 今日も遅くまでご苦労様!」
厨房から、女将さんが人懐っこい笑顔で顔を出してくれた。
「……ただいま戻りました、女将さん。……いつもの日替わり定食をお願いできますか」
カロンはカウンターの隅の席に力なく腰を下ろした。
周囲を見渡すと、一日の仕事を終えた新工房区の職人たちや、工科大学のドワーフ留学生たちが、ジョッキを打ち鳴らしながら上機嫌でエールを呷っている。
「ぷはぁっ! やっぱり仕事終わりの一杯は最高だな!」
「嫌な上司の小言も、酒を飲めば綺麗さっぱり忘れられるぜ!」
楽しそうに笑い合う彼らの姿を、カロンは底知れぬ羨望の眼差しで見つめた。
(酒か……。酒が飲めれば、あの理不尽なパフェ百二十杯の記憶も、駄女神の数々の暴挙も、すべてアルコールの彼方へと綺麗さっぱり洗い流せるものを……)
しかし、前世の中山教授時代からそうであったように、転生したこのドワーフの肉体になっても、カロンはアルコールを分解する酵素が遺伝子レベルで決定的に欠落していた。
少量でも口に含めば、全身が真っ赤に腫れ上がり、激しい頭痛と吐き気で丸二日は寝込む羽目になる。ドワーフという酒豪の種族に生まれ変わりながら、決定的な下戸。神の皮肉としか思えない体質であった。
「はい、大家さんお待ち遠さま! 特製ミノタウロス肉の生姜焼き定食だよ!」
女将さんが運んできてくれたのは、山盛りの炊きたてご飯と、香ばしいタレをまとった肉厚の生姜焼き、具沢山の根菜スープ、そして――
「……それと、いつもの木の実ジュースです」
カロンはため息とともに、氷の浮かんだ紫色の木の実ジュースを一気に呷った。
甘酸っぱい果汁が喉を駆け抜けるが、アルコールのような陶酔感など微塵もない。意識はどこまでも冷徹に冴え渡り、昼間のパフェの伝票の数字が脳裏に鮮明に蘇ってくるだけであった。
そこへ――
ドスドスドスッ!
「女将さーん! こっちにもご飯ちょうだい!」
一番奥のボックス席から、呑気極まりない声が響いた。
見れば、先ほどパフェを百二十杯平らげたはずの駄女神メリスが、テーブルの上に両肘をついて待機していた。
そして、運ばれてきたのは――
「はいよ! カロンの旦那直伝、『特製ダブルパティ・メガチーズバーガー』六人前だよ!」
両手で抱えるほど巨大な、焼きたてのバンズに分厚い粗挽き牛肉パティが二枚、濃厚なチェダーチーズとレタス、トマトが挟まれた巨大ハンバーガーが、大皿の上にタワーのように六個、ドカンと鎮座していた。カロンが前世の知識を食堂の女将に伝授して名物となった、超高カロリーのファストフードである。
メリスはパフェのことなど綺麗さっぱり忘れたかのように、両手でバーガーを鷲掴みにすると、アゴが外れんばかりに大口を開けてかぶりついた。
「んぐっ、もぐもぐもぐ……! ん〜〜っ! やっぱり甘いものの後は、しょっぱいお肉に限るわね! このチーズのトロトロ感がたまらないわ!」
ペロリと一つ目を完食し、二つ目、三つ目へと猛烈なスピードで吸い込まれていくハンバーガー。
カウンターの隅で、カロンはジュースのグラスを握りしめたまま、虚無の表情でその光景を見つめていた。
(……パフェ百二十杯の直後に、メガバーガー六個……。彼女の胃袋の内部には、ブラックホールか何かの亜空間ゲートが開いているのだろうか……)
女将さんが伝票を手に、申し訳なさそうにカロンの元へとやって来た。
「あの……大家さん。メリス様のお食事代、ツケでまとめておいてよろしいかい……?」
「……ええ。もちろん、私がすべて支払います……」
カロンは力なく頷き、再び財布の紐を緩めるのであった。
大食堂での食事が終わり、満足げに腹をさすりながら二階へ上がっていったメリスを見送った後、カロンは一人、アパートの外へと出た。
夜のルーセンの街。
澄み切った秋の夜風が、火照った頬を心地よく冷ましていく。
見上げれば、エレン見晴らしの丘の頂で、三基の風力発電機が月光を浴びて静かに、力強く回転を続けていた。
あの風車が回っている限り、街中の電灯は灯り続け、冷蔵庫は冷え、人々の穏やかな暮らしが守られる。
そして、中央区の静かな住宅街の方向を見やる。
今頃、リアリスの家では、シルフが温かなベッドに潜り込み、エルフの守護者に見守られながら、穏やかな寝息を立てていることだろう。
(……まあ、いいか)
カロンは夜空の満天の星を見上げ、小さく息を吐いた。
財布の中身は随分と軽くなってしまったし、胃の痛みは相変わらず消えそうにない。
明日になれば、また新しい講義の準備と、研究開発の課題、そしてあの駄女神が引き起こすであろう新たなトラブルが待ち受けているに違いない。
だが――
自分が手に入れた工学の知恵が、街を救い、人々を潤し、そして神々すらをも巻き込んで、この世界を確実に前へと進めている。
その実感だけは、いかなる美酒よりも深く、カロンの胸を満たしていた。
「さあ……部屋に戻って、明日の講義の資料を仕上げるとしよう」
カロンは作業着のポケットに手を突っ込み、心地よい疲労感とともに、温かな灯火が待つ我が家へと足を踏み入れていった。
こうして、工学者カロンの、騒がしくもかけがえのない一日が、静かに幕を閉じていくのであった。




