第62章:シルフちゃん、駄女神にエルフの姿にされる
第62章:シルフちゃん、駄女神にエルフの姿にされる
エレン見晴らしの丘にそびえ立つ三基の巨大な風力発電タービンは、夕暮れの稼働開始から数日が経過した今も、極めて順調に白いブレードを回し続けていた。
通常、自然の風というものは気圧配置や気温差によって刻一刻と強さを変え、時には突風となって機器を痛め、時には無風となって沈黙する「不規則なゆらぎ」を抱えている。しかし、このルーセンの丘を撫でる風は違っていた。
まるで精密な機械で制御されているかのように、秒速八メートルから十メートルの心地よい順風が、昼夜を問わず一定のリズムでプロペラを押し続けていたのである。
おかげで、水力発電、地下蓄電魔石バンク、そして三基の風力発電所が連系した「ルーセン統合スマートグリッド」は驚異的な安定度を誇り、家庭や工房でエアコンが一斉に唸りを上げても、送電電圧計の針は二百ボルトの目盛りから微動だにしなかった。
ルーセン工科大学、二十階建て校舎タワーの二階――学長室。
カロンは執務机の上で、直近七十二時間の発電量ログと各変電所の負荷グラフを満足げに検分していた。
「うん、素晴らしいデータだ。風力単体で常時四百キロワットのベースロードを維持できている。これなら来週から予定している新工房区の第二期拡張工事の電力枠も、十分すぎるほど賄えるな」
工学者として、これほど心強いシミュレーション結果はない。
カロンが温かいハーブティーに手を伸ばし、ほっと一息ついた――まさにその瞬間であった。
バアアアアアンッ!!
ノックなどという文明的な手続きを完全に無視して、学長室の重厚なオーク材の扉が勢いよく蹴破らんばかりに開け放たれた。
「カロン〜! 入るわよ〜!」
甲高い呑気な声とともに乱入してきたのは、深緑色の魔法使いローブを前全開に着崩し、黄金の髪をサラサラとなびかせた居候の元凶――駄女神メリスであった。
手には大食堂から失敬してきたらしい焼きたてのクロワッサンを握りしめている。
カロンはカップをソーサーに戻し、深いため息をついた。
「メリス様。何度も言っていますが、ノックをしてください。ここは私の執務室であって、あなたのリビングではありませんよ」
「細かいことは気にしないの! それよりカロン、アンタ、すっごく感謝すべき人がいるでしょ!? ほら、あの風車! 一年中あんなに都合よくいい風が吹き続けてるの、誰のおかげだと思ってるのよ!」
「……まあ、あなたがシルフ様にお話しを通したからだと仰っていましたね」
「そうよ! だからね、今日はシルフちゃんにしっかりとお礼を言わせるために、連れてきてあげたわよ!」
「……は? 連れてきた?」
カロンが目を瞬かせた次の瞬間、メリスは自らの背後に向かって、ぐいっと腕を伸ばし、何かを無理やり引っ張り出した。
「ほら、シルフちゃん! 恥ずかしがってないで、前へ出なさい!」
「ひゃぅっ!? め、メリス様、引っ張らないでくださいぃ……!」
メリスの影から引きずり出されるようにして、おずおずと絨毯の上へ足を踏み出したのは――
カロンの予想を遥かに裏切る、ひどく小柄な少女であった。
そこに立っていたのは、人間の年齢で言えば十歳か十一歳程度にしか見えない、華奢で儚げな少女であった。
淡いエメラルドグリーンの透き通るような髪をふわりと肩口で揺らし、頭の両脇からは、リアリスのものよりもさらに繊細で細長いエルフ特有の尖った耳が、不安げにピコピコと垂れ下がっている。
翡翠のように澄んだ大きな瞳は涙目で潤み、身にまとっているのは風の精霊が織り上げたような薄緑色の布地を重ねたワンピースであった。
「あれがカロンよ」
メリスが雑に親指でカロンを指差す。
少女はビクッと肩を跳ね上げ、両手を胸の前でギュッと握りしめると、カロンを見上げてペコリと深々とお辞儀をした。
その声は、春のそよ風にかき消されてしまいそうなほど小さく、おっかなびっくりで震えていた。
「あ、あの……よ、よろしくおねがいします……。シ、シルフです……っ」
「……………………」
カロンは、眼前の少女と、これまでに聞いていた「天界の風を司る主神シルフ」という強大な存在のイメージを頭の中で照合し、激しい落差に数秒間フリーズした。
ヘラクレスのような大地の神トーラや、堂々たる美貌(中身は駄女神)のメリスを見てきただけに、風の神というからにはもっと疾風怒濤の烈神か、気位の高い大人の精霊女王のような姿を想像していたのだ。
カロンは姿勢を正し、できるだけ威圧感を与えないよう穏やかな声で頭を下げた。
「これはご丁寧に……はじめまして、シルフ様。私がルーセン工科大学の学長を務めております、カロンです。エレン見晴らしの丘の風車につきましては、大変なご加護をいただき、心より感謝申し上げます」
「ふぇ……っ、い、いえ……そんな、畏まらないでください……っ! メリス様に『風を吹かせないと神殿の果物を全部食べ尽くすわよ』って脅されただけなので……っ」
「おいおい……」
カロンはジト目でメリスを睨みつけた。
「シルフ様。いつもこの駄女神に振り回されて、本当に大変でしょう?」
「だ、誰が駄女神よ! 一応怒るわよ!?」
メリスが頬を膨らませて抗議の声を上げる。
しかし、カロンはそれを無視してシルフを観察した。
生体スキャナーのように魔力波長を読み取ってみると、その波形は紛れもなくルートリード皇国で出会った「森のエルフ」の生体情報そのものであった。
「ところでメリス様。シルフ様は風の主神のはずですが……なぜ、エルフの少女の姿をしておられるのですか?」
カロンが尋ねると、メリスは途端に得意げな顔になり、これ見よがしに豊満な胸を張った。
「ふふ〜ん! いい質問ねカロン! 私ね、この世界に神様を降臨させる時、神の魂を人間やエルフ、ドワーフの肉体の姿として完璧に再現・具現化させるのがすっごく上手なのよ! ほら、アンタを変身させた時も完璧だったでしょ?」
「……ええ、それは認めますが」
「シルフちゃん、天界でずっと引きこもって本ばかり読んでて退屈そうだったからね。風を司るならエルフの耳が一番似合うと思って、私が特別にエルフの美少女の姿を作ってあげて、地上へ引っ張り出してきたのよ! 感謝しなさいよね!」
メリスが胸を張る横で、シルフは涙目でふるふると首を横に振っていた。
「か、感謝なんてしてません……っ! わたし、お部屋でお昼寝してたのに、メリス様がいきなり飛び込んできて、変な呪文をかけられて、気がついたらこのお耳とお洋服になってて……そのまま無理矢理ルーセンに引っ張ってこられたんですぅ……っ!」
「あちゃあ……」
カロンは深く、深いため息をついた。
要するに、ただの神界からの拉致監禁であった。
しかし、すでに地上へ降りてきてしまった以上、放置するわけにもいかない。
風力発電の安定稼働という途方もない恩義があるのは事実なのだ。
「シルフ様。せっかくルーセンへお越しくださったのです。粗忽な駄女神の非礼をお詫びするとともに、この街をご案内いたしましょう。あなたの風がどのように街を動かしているか、ぜひご覧になってください」
カロンが温かく微笑みかけると、シルフはおっかなびっくり顔を上げ、翡翠の瞳をパチクリと瞬かせた。
「ま、街の案内……ですか? ……あ、あの、美味しいお菓子とか……ありますか……?」
「ええ、大食堂のアップルパイも、新工房区の焼きたてクッキーも、いくらでもご馳走しますよ」
「ふぇ……! は、はいっ! よろしくお願いします、カロンさん……っ!」
小柄なエルフの風神は、ようやく少しだけ緊張を解き、へにゃりと可愛らしい笑みを浮かべたのであった。
カロンは銀色の電気自動車(EV)を出し、シルフを助手席に、メリスを後部座席に乗せて、ルーセンの街の案内へと出発した。
車が滑らかに走り出すと、シルフは窓に両手をペタッとくっつけ、丸い目をキラキラと輝かせた。
「す、すごいです……! 馬もいないのに、風みたいにすーって走ってます……!」
「私の工学が生み出した電気自動車ですよ。あなたの風から生まれた電力が、この車のバッテリーにも蓄えられているのです」
カロンが説明すると、シルフは誇らしげに尖った耳をピコピコと揺らした。
【一箇所目:領主の館】
まず向かったのは、中央通りの領主邸であった。
他国の要人――ましてや天界の神が地上に滞在する以上、領主であるハインリヒ侯爵へ仁義を通しておくのは必須であったからだ。
執務室に通されると、胃潰瘍から全快して公務に励んでいたハインリヒ侯爵が、笑顔でカロンを出迎えた。
「おお、カロン殿! 風力発電の成功、見事であったな! して、そちらの可愛らしいエルフのお嬢さんは……?」
カロンは咳払いをし、小声で切り出した。
「侯爵閣下。……驚かずに聞いてください。こちらのお方は、我が領の風車に風を恵んでくださっている、風の主神・シルフ様です」
「………………は?」
侯爵の笑顔がピキリと凍りついた。
シルフがおずおずと「し、シルフです……よろしくお願いします……」とスカートの端を摘んでお辞儀をする。
ハインリヒ侯爵は自らの額を右手で押さえ、隣のセバスチャンを振り返った。
「……セバスチャン」
「は、はい、閣下」
「……我が領主邸には、なぜこうも次から次へと本物の神がホイホイとやって来るのだ……? しかも今度はエルフの幼女だと……?」
「……神々の憩いの場として、ルーセンが天界で有名になっているのかもしれません……」
侯爵は引きつった笑いを浮かべ、胃のあたりをそっと撫でながら「よ、ようこそルーセンへ……」と深々と頭を下げるのが精一杯であった。
【二箇所目:冒険者ギルド】
続いて立ち寄ったのは、街の中央にある冒険者ギルド本部であった。
車を降りてギルドの酒場フロアへ入ると、書類の整理をしていたエルフのBランク冒険者・リアリスと、カウンターの奥にいたギルドマスターのギルバートが出迎えてくれた。
「あらカロン、いらっしゃ……い?」
リアリスの視線が、カロンの後ろから顔を覗かせたシルフに吸い寄せられた。
その瞬間、リアリスの全身の毛穴が逆立ち、持っていたギルドの報告書がバサバサと床へ滑り落ちた。
エルフ族は生まれながらにして風と大気、森の精霊を深く信仰する種族である。
リアリスの鋭敏な精霊感覚が、眼前の小柄な少女から放たれる、あまりにも純粋で、あまりにも広大無辺な「風の根源の波動」を瞬時に捉えてしまったのだ。
「カロン……そ、その子は……一体……?」
震える声で尋ねるリアリスに、後方からメリスがドヤ顔で割り込んできた。
「ふふん! エルフのリアリス、光栄に思いなさい! この子はね、アンタたちエルフが何万年も前から拝み倒してる、正真正銘の『風の神シルフちゃん』よ! 私がエルフの姿にして連れてきてあげたの!」
「な……ななな……ッ!?」
リアリスは顔面を蒼白にし、次の瞬間、まるで雷に打たれたかのように床へと両膝をつき、絨毯に額を擦り付けて平伏した。
「お、おお……風の御神祖様……大気と息吹の至高神様……!! な、何たる不敬、何たる奇跡……! 我らエルフ族の祈りをお聞き届けくださり、このような卑小なる地上へ御身をお現しくださるとは……!!」
百戦錬磨の敏腕冒険者リアリスが、見たこともないほどの敬虔さでワナワナと震え、崇拝の涙を流している。
その隣で、巨漢のギルバートも「おいおいマジかよ……カロンの旦那、今度は風の神様を連れてきやがったのか……」と顎が外れそうな顔で固まっていた。
シルフはおろおろと両手を振った。
「ふぇぇ……っ!? あ、頭を上げてくださいぃ……! そんなに畏まられると、わたし、どうしていいか分からなくなっちゃいますぅ……っ!」
【三箇所目:メリス教会】
「さあ、次は私の教会よ!」
メリスが意気揚々と一行を案内したのは、下町にあるルーセン教会であった。
大聖堂の礼拝堂では、トーマス神父が孤児たちと一緒に掃除をしていたが、メリスがドカドカと入ってくるなり、祭壇の前で仁王立ちした。
「トーマス神父! 見て見て! 風の神シルフちゃんを連れてきてあげたわよ! 私の像の隣に、シルフちゃんの像も並べて崇めてもいいわよ!」
「め、メリス様……!?」
トーマス神父は雑巾を取り落とし、怯える小鹿のようにメリスの後ろに隠れているシルフを見て、深く頭を抱えた。
「あ、あの……メリス様。当教会はメリス教の教会でございまして、主神であらせられるメリス様以外の神の像を本堂に並べますと、帝都の教義上、重大な宗派対立を招く恐れが……。それに、他宗教の主神を勝手にマスコットのように連れ回すのは、いかがなものかと……」
「え〜〜っ! ケチ! 神父のくせに頭が硬いわね!」
駄女神が不満たらたらに文句を垂れ、トーマス神父が胃を押さえて困り果てるという、いつもの光景が繰り広げられた。
【四箇所目:東門の警備詰所】
最後に訪れたのは、街の防衛の要である東門であった。
詰所で書類の決裁をしていたガース隊長は、カロンの姿を見るなり「お疲れ様です、学長!」と敬礼した。
しかし、カロンの隣にいる金髪の駄女神メリスと、その手を握っているエメラルドグリーンの髪のエルフの少女を目にした瞬間、ガース隊長の表情が劇的に引きつった。
「が、学長……。確認ですが、その連れておられるお嬢さんは……?」
「東門の警備ご苦労様です、ガース隊長。……ええと、風力発電の風を吹かせてくださっている、風の神シルフ様です」
「また神様を連れてきたんですかァァァッ!?!?」
ガース隊長の魂の絶叫が東門の城壁に木霊した。
「前回の使節団石化事件といい、国王一家の避難といい、この街の東門は一体どうなっているんですか! 神様のフリーパス関所じゃないんですよ!?」
「まあまあ、門を突破して暴れるわけではありませんから」
カロンが苦笑いで宥め、シルフにはガース隊長から差し入れられた干しアンズを握らせてあげたのであった。
ルーセンの主要各所を巡り、新工房区のカフェで特製の冷たいベリーパフェを堪能した頃には、西の空が美しい茜色と紫色のグラデーションに染まり始めていた。
三人は、大学キャンパスの北側に広がるエレン見晴らしの丘へと戻ってきた。
夕暮れの風を受け、三基の巨大な風車がヒュオオオォォンと心地よい音を立てて回っている。
シルフはパフェのガラススプーンを名残惜しそうに置くと、カロンを見上げてふわりと微笑んだ。
「カロンさん、今日は本当にありがとうございました……! 車も楽しかったですし、お菓子もすっごく美味しくて……それに、わたしの風が、こんなにたくさんの人たちの明かりや涼しさになってるんだって分かって、すごく嬉しかったです……!」
「そう言っていただけると、技術者冥利に尽きますよ、シルフ様」
カロンが目を細める。
「はい! 風はこれからもずーっと、しっかり吹かせておきますね! ……それじゃあ、暗くなる前に神界のお部屋へ戻ります。メリス様、元の姿に戻してください!」
シルフが両手を広げ、メリスを見つめた。
「はーい、お疲れ様シルフちゃん! じゃあ変身を解いてあげるわね〜」
メリスは軽くパチンと指を鳴らした。
フッ……。
微かな神聖光の粒子がシルフの身体を包み込む。
……包み込む、が。
パシュン……。
気の抜けたような音が響き、光の粒子は何事もなかったかのように霧散した。
シルフの姿は、十歳ほどのエルフの少女のまま、尖った耳もワンピースも何一つ変わっていなかった。
「……あれ?」
メリスが首を傾げた。
「ふぇ……? め、メリス様……? 戻ってないです……?」
シルフが自らの小さな手のひらをペタペタと見つめる。
カロンの背筋に、嫌な冷や汗がスッと流れた。
「……メリス様。まさかとは思いますが……」
「あ、あれぇ〜? おかしいわね。もう一回……『リバース・トランス・オープン』!」
メリスが両手をかざして神聖力を注ぎ込む。
しかし、シルフの肉体を覆うエルフの生体殻はビクともせず、逆にカチリと強固なロック音のような魔導反発が鳴り響いた。
メリスはその場に正座し、冷汗をタラタラと流しながら、自らの指先をじっと見つめた。
そして、人差し指と親指で小さく隙間を作り、引きつった笑みを浮かべた。
「あ、あははは……! や、やっちゃった……☆」
「「やっちゃった、とは何ですかッ!?」」
カロンとシルフの叫びが重なった。
メリスはおずおずと視線を逸らしながら、早口で白状した。
「あのね……シルフちゃんのエルフの肉体を作るときにね、途中で消えちゃったら困るからって……『持続強化術式』を三重に重ねがけしたのよ。そしたらね……術式のパラメーターの桁を二つほど間違えちゃって……」
カロンの眉間が引きつった。
「……それで? 解呪までの持続時間は、一体どれほどなのですか?」
メリスは両手の指を折り、震える声で言った。
「に……二十年……」
「………………………………」
丘の上に、完全なる静寂が落ちた。
カロンの頭の中で、何かがブチリと音を立てて千切れかけた。
「に……二十年……? 二十日ではなく……?」
「う、うん。神界の暦じゃなくて、地上の暦で……きっかり二十年間は、このエルフの肉体から魂を分離できないし、神界のゲートを潜ることもできなくなっちゃった……てへっ☆」
「てへっ、じゃないでしょうがああああぁぁぁっっっ!!!!」
カロンの怒声が、エレンの丘を揺るがした。
「二十年間、神界に戻れない!? 神の肉体変化のロックを二十年もかけるなんて、一体どんなデタラメな魔導回路を組んだらそうなるんですか!!」
そして――。
シルフの翡翠の瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ出した。
「ふ、ふぇぇ……っ……! お、お部屋に帰れない……? わたしのベッドも……読んでた本も……二十年も戻れないの……? う、うわぁぁぁぁぁぁんっっ!! おうちに帰りたいよぉぉぉぉっ!!」
シルフはその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆って声を上げて泣き出してしまった。
大粒の涙がポタポタと草むらを濡らし、彼女の激しい動揺に呼応するかのように、周囲の風がヒュルルルルッと悲しげに渦を巻き始める。
カロンは慌てて膝をつき、ハンカチを取り出した。
「あ、シルフ様、泣かないでください! 私が大学の設備を使って、なんとか術式の強制解除の魔導回路を研究しますから! 大丈夫です、必ず方法を見つけますから……!」
カロンが必死に慰めようとした、まさにその時。
後ろにいた駄女神メリスが、腕を組み、信じがたいほど呑気な調子で口を挟んだのである。
「もう〜、シルフちゃんったら泣き虫なんだから! いいじゃないの、二十年くらい! 神様にとっての二十年なんて、人間の二週間くらいの一瞬よ? もうちょっと地上を観光できてよかったじゃない! 美味しいパフェも毎日食べられるのよ?」
「「………………………………」」
カロンの血管が、額の上で青黒く浮き上がった。
そして、その言葉を聞いたシルフは――
「ひっぐ……っ、め、メリス様のバカぁぁぁぁぁぁっっっ!! 観光なんてしたくないぃぃぃっ! お昼寝したいのにぃぃぃっ!! うわああああああああんっっ!!」
火に油どころか、マグマを直接注ぎ込まれたかのように、シルフの号泣は三倍の音量へと跳ね上がった。
「ちょっとメリス!! あんた、いい加減にしなさいよッッ!!」
怒気を含んだ凛とした声とともに、夕暮れの小道を駆け上がってきた者がいた。
銀髪を風になびかせたエルフの冒険者――リアリスであった。
昼間にギルドでシルフと対面して以来、気になって後を追ってきたらしい。
リアリスは猛烈な勢いでメリスの頭に拳骨を叩き込んだ。
ゴガッ!!
「いったぁぁぁぁいっ!? な、何するのよリアリス、主神に対する不敬罪よ!?」
頭を押さえて涙目になるメリスを睨み倒し、リアリスはすぐさま地面に座り込むシルフの元へ駆け寄った。
「シルフ様……! 風の御神祖様……!」
リアリスは膝をつき、泣きじゃくる小柄なシルフの身体を、壊れ物を扱うかのように優しく、温かく両腕で抱きしめた。
「ふぇ……っ、ぐすっ……リアリス……さん……?」
「大丈夫です、シルフ様。泣かないでください……。私たちエルフ族は、数千年、数万年の昔から、あなたが吹かせてくださる恵みの風に守られて生きてきました。森の木々が歌うのも、大聖樹が瑞々しい葉を揺らすのも、すべてあなたが風を届けてくださっていたからです……」
リアリスは自らの額を、シルフの小さな額へとそっと重ね合わせた。
エルフ族における、最も深い親愛と敬意を示す神聖な誓いの所作であった。
「あなたが地上におられる間、今度は私たちエルフが、命に代えてもあなたをお守りいたします。住む場所も、温かいご飯も、柔らかなベッドも、本も、美味しいお菓子も……私がすべてご用意いたします。ですから……どうか、泣かないでくださいまし……」
リアリスの真摯で慈愛に満ちた言葉と、温かな抱擁。
そのぬくもりに包まれるうちに、シルフのしゃくりあげるような泣き声は次第に小さくなり、ヒュルルと荒れていた風も、穏やかな凪へと戻っていった。
シルフは袖で涙を拭い、ぽつりと呟いた。
「……ほんとうに……美味しいお菓子……くれるの……?」
「はい。毎日、街で一番美味しいアップルパイとハーブティーをお焼きします」
リアリスが優しく微笑むと、シルフはコクンと小さく頷き、リアリスの胸元にコテンと頭を預けた。
その光景を見守っていたカロンは、心底から胸を撫で下ろした。
(……よかった。リアリスさんが来てくれて本当に助かった……)
しかし、安堵したのも束の間、カロンの現実的なエンジニア思考が、次の問題を弾き出した。
カロンは咳払いをし、リアリスへと歩み寄った。
「リアリスさん。……そこで、ご相談なのですが」
「何かしら、カロン?」
「シルフ様の滞在先についてです。……私の経営するアパートの部屋に泊まっていただくという手も考えたのですが、客観的に見て、『ドワーフの男の独身アパートに、十歳そこそこのエルフの幼女が同居する』というのは、風紀的にも社会通念的にも、極めてマズい誤解を招く危険性があります」
カロンが至極真面目な顔で語る。
(……それに本音を言えば、すでにアパートにはあのワガママ放題の駄女神メリスという巨大なトラブルメーカーが居座っているのだ。これ以上、神様のお世話など引き受けたら、私の胃壁が今度こそ完全に融解してしまう!)
カロンの切実な心の叫びを察したのか、リアリスは苦笑いを浮かべ、シルフを抱き抱えたまま立ち上がった。
「分かっているわよ、カロン。あなたにこれ以上押し付けたら、ハインリヒ侯爵より先にあなたが過労で倒れちゃうものね。……それに、エルフ族の守り神であるシルフ様を、ドワーフのむさ苦しい部屋に預けるわけにはいかないわ」
リアリスは胸を張り、力強く告げた。
「シルフ様は、私が中央区で借りている一軒家でお預かりします。私の家なら部屋も余っているし、防犯の結界も張ってあるわ。何より、同胞であるエルフの私が面倒を見るのが一番自然でしょう?」
「ふぇ……リアリスさんと、いっしょ……?」
シルフが見上げる。
「ええ、シルフ様。狭い家ですけれど、居心地の良さだけは保証しますわ」
リアリスが微笑むと、シルフは安心したように尖った耳を小さくパタパタと揺らした。
その横で、駄女神メリスが「あ、ずるーい! じゃあ私もリアリスの家に行こうかしら〜!」と割り込んできたが、リアリスとカロンの二人が同時に「「あんたは絶対に来るな!!」」と一喝し、メリスは「ちぇっ……」と唇を尖らせた。
こうして、駄女神メリスのデタラメな術式暴走によって引き起こされた「風神地上幽閉事件」は、リアリスの家での居候生活という形で、奇妙な決着を見ることとなった。
丘を吹き抜ける風車の下。
三基の巨大な白いタービンは、シルフの機嫌が直ったことで、再び美しく、力強くブレードを回転させ始めた。
夕闇が降りてきたルーセンの街へ向けて、街灯の温かな明かりがポツポツと灯り出していく。
その光の一つ一つが、風の神の息吹によって支えられている。
リアリスの手を握って坂道を歩くシルフが、ふと立ち止まり、カロンを振り返った。
「カロンさん!」
「はい、シルフ様?」
「あのね……風車の風、これからもずーっと、一生懸命吹かせますね! だから……また、あの美味しいパフェ、食べに連れていってください!」
無邪気に笑う緑髪の少女神。
カロンはその姿に、思わず口元を緩めた。
「ええ、約束しますよ、シルフ様。あなたがこの街にいてくださる限り、ルーセンの灯火が消えることはありませんから」
カロンが一礼すると、シルフは嬉しそうに手を振り、リアリスと共に街の温かな灯火の中へと帰っていった。
隣では、メリスが「さーて、私も学食で晩ご飯食べよーっと!」と呑気に歩き出している。
カロンは夜空を見上げた。
エレンの丘を渡る風が、優しく、暖かく、学園都市の屋根を撫でていく。
二十年という長い年月の神の滞在。
それがこの街にどのような未来をもたらすのかは分からない。
しかし、神に見守られ、駄女神に頭を抱え、そして仲間たちと共に前進するカロンの工学の都は、今日もまた一つ、かけがえのない絆をその胸に抱きながら、力強い夜の歩みを刻み始めていたのであった。




