第55章:枯れゆく大聖樹とエルフの隠れ里
第55章:枯れゆく大聖樹とエルフの隠れ里
大地の祖神トーラが学長室へ電撃降臨し、ドワーフの神話の真実が判明した翌日の午前中。
ルーセン工科大学の二十階建て校舎タワーの二階――学長室では、カロンがデスクで第一期生向けの「流体力学および管路網計算」の講義資料をまとめていた。隣のソファでは、相変わらず居座っている駄女神メリスが、大食堂からくすねてきた焼き菓子をポリポリとかじりながら、足をバタつかせている。
コンコン、と切迫したノックの音が響いた。
「カロン、いるかしら!?」
入ってきたのは、銀髪を揺らしたエルフのBランク冒険者、リアリスだった。
いつもなら軽妙な憎まれ口を叩いて現れる彼女だが、今日ばかりは尖った長い耳を伏せ、碧眼に隠しようのない深い憂色をたたえていた。手には、白銀の羽毛を持つ小型の鳥――エルフ族が緊急の遠距離通信に用いる『風伝鳥』が運んできたという、緑色の植物繊維で編まれた薄い書状が握りしめられている。
「リアリスさん、どうしました? そんなに慌てて」
カロンがペンを置いて促すと、リアリスは机に両手をつき、身を乗り出してきた。
「カロン、お願いがあるのよ。……私の故郷を、助けてほしいの!」
「故郷、ですか?」
「ええ。私の生まれ故郷である、エルフの郷『エレノア』よ。今、大変なことになっているの。半年近くもまともな雨が一滴も降っていなくて、町中の水源が干上がり、森の木々が枯れ果てかけているのよ。……そして何より、私たちの信仰と命の源である『大聖樹』までもが、枯死の危機に瀕しているの!」
リアリスの手元の書状には、母からの切迫した悲鳴のような言葉が綴られていた。
「大聖樹といえば、エルフの里に宿る神木ですね」
「そうなの! 大聖樹は五千年以上も生き続けている巨大な御神木で、里全体の結界を維持し、清らかな大気を生み出している私たちの守り神なのよ。でも、雨が降らないせいで根から水分を吸い上げられなくなって、青々としていた葉がどんどん茶色に変色して落ち始めているって……! 『このままでは数週間も持たずに大聖樹が枯れてしまう、里は崩壊する』って、里から救援の風伝鳥が飛んできたのよ!」
リアリスはすがるようにカロンの目を見つめた。
水力発電所を興し、水路を敷き、広大な新工房区に地下上下水道を完璧に通してみせたカロンの「水と土木の知識」と、規格外の魔力。彼女にとって、この絶望的な干ばつを打開できる唯一の希望がカロンであった。
カロンは腕を組み、工学者として地理的条件の確認に入った。
「そのエレノアという町は、ここからどれほどの距離にあるのですか?」
「ゲスハルト帝国の西隣にある森林国家、『ルートリード皇国』の南部に位置しているわ。ここルーセンから西へ、街道を徒歩で休みなく歩き続けてもおよそ八日……四百キロメートルほど離れた山あいの町よ」
「四百キロですか。……ですが、たしかルートリード皇国といえば……」
カロンが記憶を探ると、リアリスは気まずそうに目を伏せた。
「……ええ。私たちの国ルートリードは、極端な排他主義をとっていてね。他種族の出入りを厳しく制限しているの。特に、山を削り森を切り開いて鉄を鍛えるドワーフ族に対しては、数百年前から完全な『入国禁止令』が出されているのよ……」
「なるほど。私がドワーフの姿のまま国境を越えようとすれば、入国審査で即座に槍を突きつけられて追い返されるわけですね」
技術者として困っている人々を見捨てる気はないが、国家間の外交問題や入国法の壁を力尽くで突破するわけにもいかない。カロンが眉をひそめて考え込んでいた――まさにその時。
「なーんだ、そんな簡単なことで悩んでたの?」
サクサクとクッキーを噛み砕く音とともに、ソファから呑気な声が割り込んできた。
駄女神メリスが口元のクズをパッパと払いながら、カロンの前に歩み寄ってきたのだ。
「メリス様。国家の出入国管理法は、工学的にも政治的にも極めて厳格な問題ですよ」
「だからぁ! ドワーフが入国禁止なら、『人間』に変身して行けばいいじゃない!」
「は……? 変身?」
リアリスが呆れたようにツッコミを入れる。
「ちょっとメリス、いくらあんたが女神だからって、種族の骨格や外見を丸ごと作り変えるような高度な肉体変化魔法が、そう簡単に――」
「はい、変身〜☆」
メリスがカロンの額へ、ポンと人差し指を突っ込んだ。
ボフンッ……!!
派手な音とともに、大量の白い煙が学長室いっぱいに立ち込めた。
「ゲホッ、ゴホッ……! な、何ですか急に――」
煙を払いながら口を開いたカロンは、自分の声がいつもより少し高く、響きが変わっていることに気がついた。
さらに、視界の高さが明らかに違う。いつも見上げていたリアリスの顔が、ほぼ水平――いや、わずかに見下ろす位置にある。手を見ると、太く無骨で短かったドワーフの指先が、適度に節くれ立ちつつもすらりと伸びた人間の手の甲へと変わっていた。
姿見の鏡の前に立つと、そこに映っていたのは――
身長およそ百七十五センチ、短く整えられた黒髪に、知的な光を宿した穏やかな目元。前世の中山教授が三十代半ばだった頃の面影を色濃く残した、落ち着いた佇まいの人間の男性であった。
「……あ、足が長い。重心の位置がまったく違いますね」
カロンが膝を曲げ伸ばしして身体バランスを確かめていると、背後でリアリスが顎が外れそうなほど口を開けて絶句していた。
「……あ、ありえないわ。骨格どころか、生体波動まで完全に人間のそれになっている……。この駄女神、こういう時だけ無駄に神様らしい権能を発揮するんだから……!」
メリスは腰に手を当ててドヤ顔で胸を張った。
「ふふん! これでも主神ですからね! 神聖力による完全偽装よ。よっぽどの上位神か魔王クラスの鑑定眼でもない限り、絶対にドワーフだとは見破れないわ! 効果は一ヶ月くらい持つから、安心していってらっしゃーい!」
「いえ、メリス様。あなたも当然同行するのですよ」
「えっ!? なんでよ! 私、お留守番して学食のデザート全種類制覇する予定なんだけど!」
「大聖樹の異変に神聖な原因が絡んでいた場合、あなたの力が必要になるかもしれません。それに、あなたを一人ルーセンに残していったら、今度は大学の敷地を丸ごと吹き飛ばしかねませんからね」
「むぅぅ……カロンのケチ! 過保護!」
こうして、ボルト副学長へ「緊急の現地調査のため、数日間不在にする」旨の引継ぎを済ませ、翌朝未明、カロンたちはルーセンを出発することとなった。
翌朝、東の空が白み始めた早朝。
カロン、リアリス、そして「美味しいエルフのお菓子を奢りなさいよね!」と駄々をこねるメリスの三人は、学長タワー地下ガレージに配備された、例の銀色に輝く電気自動車(EV)試作一号車へと乗り込んだ。
前回のダンジョン出撃で実証された「新型雷魔石バッテリーパック」が床下に鎮座しており、航続距離もトルクも桁外れに強化されている。
キィィィン……!
カロンがアクセルを踏み込むと、銀色の車体は早朝の西門を滑らかに通過し、西へと延びる大陸横断街道へと躍り出た。
時速六十キロから七十キロを維持したまま、冬の冷たい風を切り裂いて舗装街道をひた走る。
通常の乗合馬車であれば、日に四十キロ進むのが限界の長旅である。四百キロの道の破など、途中の宿場町で何度も馬を替えながら一週間以上を要する過酷な旅路程だった。
しかし、カロンのEVは疲れを知らない。サスペンションが未舗装路の突き上げを完璧にいなし、わずか半日ほど走り続けた正午過ぎには、木々の植生が針葉樹から深い原生林へと移り変わり、前方に巨大な石造りの砦が見えてきた。
ゲスハルト帝国とルートリード皇国を隔てる、『国境検問所』である。
「国境の手前よ、カロン。車を降りましょう」
リアリスの指示で、カロンは街道脇の木陰に車を滑り込ませ、車を停めた。。
車を降りたリアリスは、息を吐きながら改めて銀色の車体を見つめ、驚嘆の声を漏らした。
「……改めて実感するけれど、この車、本当に信じられないくらい早いわね。馬車の旅なら三日かかる距離を、朝出発して昼過ぎに着いちゃうなんて……」
カロンは車を収納した。
検問所へと徒歩で近づくと、厳重な木製の遮断機と、弓や槍を携えた衛兵たちが詰めていた。
ゲスハルト帝国側の出国手続きは極めて簡素であり、冒険者証を提示して指名手配書と顔を見比べるだけで、ものの数分で通過を許可された。この世界には前世のようなパスポート制度はなく、国家間の移動は指名手配犯の照合と通行税の支払いで済むスタイルが一般的だったのだ。
そして、いよいよルートリード皇国の入国ゲートへと進む。
関門を守っていたのは、すらりとした長身に、透き通るような白い肌、そして頭の両脇から長く伸びた尖った耳を持つ、若きエルフの男女の兵士たちであった。緑と銀の装飾が施された優美な軽鎧をまとい、腰には細身の魔導剣を佩いている。
(おお……本物のエルフの軍隊か。リアリスさん以外でこれほどまとまったエルフを見るのは初めてだな。やはり、ここは異世界なのだと実感する)
カロンが内心で感嘆していると、エルフの男性兵士が冷徹な眼差しで歩み寄ってきた。
「止まれ。ルートリード皇国へ入国する目的を述べよ」
リアリスが一歩前へ進み出て、懐から緑色に輝くエルフの身分証(里の証)を提示した。
「里からの急報を受けて帰郷した、エレノア出身の冒険者リアリスよ。……後ろの二人は、私の連れ。干ばつに詳しい人間の水利魔導士と、その連れ合いよ」
兵士はリアリスの身分証をルーペで確認し、続いてカロンの顔をまじまじと見つめた。
手配書の分厚い束をめくり、顔を照合していく。
カロンは背筋を伸ばし、人間の学者らしい穏やかな笑みを浮かべていた。メリスの神聖偽装は完璧であり、兵士がいくら目を凝らしても、目の前にいるのは「知的な三十代半ばの人間の男性」にしか見えなかった。
「……身元に問題はないな。ドワーフの密入国者でもないようだ。だが人間よ、森の掟を忘れるな。木々を無闇に傷つけたり、火気を乱用することは禁じられている」
「承知しております。森の調和を乱すような真似はいたしません」
カロンが礼儀正しく一礼すると、兵士は遮断機を跳ね上げた。
「通ってよし。同胞リアリスよ、里の大聖樹の無事を祈っているぞ」
こうして、ドワーフ立ち入り禁止の排他的なエルフの国境を、カロンたちは何食わぬ顔で完全に突破したのであった。
国境を越え、兵士たちの視界から完全に外れた森の奥深くで、カロンたちは再び電気自動車へと乗り込んだ。
ここからはルートリード皇国の国内領土である。
未舗装ながらも苔むした美しい古道が続いていたが、西へ進むにつれて、窓の外の景色は目に見えて痛ましいものへと変貌していった。
生い茂っていたはずの深い緑の木々は葉を落として茶色く干からび、足元を覆う下草は枯れ草となってカサカサと音を立てている。川の流れていたはずの小川の跡は完全に干上がり、ひび割れた白い川底を晒していた。
「ひどい……手紙で聞いていた以上だわ。森の精霊たちの気配が、ほとんど感じられない……」
リアリスが窓に手を当て、痛ましそうに呟く。
カロンがアクセルを踏み続け、西の山あいに夕日が沈み、満天の星が夜空を覆う頃――
前方の盆地に、幻想的な白木と巨木で組まれた優美な街並みが見えてきた。
リアリスの故郷――エルフの郷『エレノア』であった。
車を森の外れの茂みに隠し、三人は夜の帳が下りた町へと足を踏み入れた。
本来であれば、街中を巡る美しい水路に清らかな水がせせらぎ、発光苔が水面を青く照らし出す風光明媚な隠れ里であるはずだった。しかし今、水路には一滴の水もなく、枯れ葉が吹き溜まり、行き交うエルフの住民たちの表情も一様にやつれ、暗く沈んでいた。
「……本当に、一日で着いちゃったわね」
リアリスは故郷の門をくぐりながら、呆然としたように呟いた。
「普通なら八日かかる旅よ? それが、朝ルーセンを出て、夜には自分の生まれた町を歩いているなんて……信じられないわ」
「工学が生み出した内燃……いえ、電気動力の勝利ですね」
カロンが笑みを浮かべる。
「さて、宿を探しましょうか。長旅でメリス様もお腹を空かせていますし」
カロンが提案したものの、町の中央広場にある数軒の旅籠を回ってみた結果は散々だった。
「申し訳ありません、水不足で宿泊客を受け入れられないのです」「部屋の清掃用の水すら足りず、満室でお断りしております」と、どこへ行っても断られてしまったのだ。
途方に暮れるカロンに、リアリスが肩をすくめて言った。
「仕方ないわね。……私の実家へ行きましょう。母一人で暮らしている家だから、部屋は余っているわ」
案内されたのは、町外れの小高い丘に立つ、生きた大木の幹をくり抜いて建てられた趣のある木造平屋の屋敷であった。
トントン、とリアリスが扉を叩く。
「お母さん、ただいま。帰ったわよ!」
鍵が外され、ギィと扉が開いた。
「リアリス……! 無事に戻ってくれたのね!」
現れた女性の姿を見た瞬間、カロンは思わず目を瞬かせた。
そこに立っていたのは、リアリスと同じ透き通るような白銀の髪を背中まで伸ばした、どう見ても二十代後半から三十歳前後にしか見えない若々しい絶世のエルフの美女であった。しなやかな肢体、皺一つない瑞々しい肌。リアリスの姉と言われてもまったく違和感がない。
リアリスがカロンの視線に気づき、苦笑しながら紹介した。
「カロン、紹介するわ。私の母のリリスよ。……あ、見た目は若く見えるかもしれないけれど、母は今年で四百八十五歳になるのよ」
「よ、四百八十五歳……!?」
カロンは内心で絶句した。エルフが長寿の種族であることは知識として知っていたが、四百八十五歳にして三十前後の美貌を保ち続けている現実に直面すると、生命工学的な常識が完全に吹き飛んでしまう。
母リリスは優美に微笑み、胸に手を当てて一礼した。
「娘がお世話になっております。人間の魔導士様とお連れのお嬢様ですね。このような枯れ果てた里へようこそお越しくださいました。粗末な家ですが、どうぞお入りください」
その夜は、リアリスの部屋の隣にある客間をカロンが使い、メリスは「私、リアリスの部屋で寝るわ〜!」と勝手にベッドへ潜り込んでいった。
移動の疲労もあり、カロンは静かな森の夜の中へと穏やかに意識を沈めていった。
翌朝、小鳥のさえずりとともに目を覚ましたカロンがリビングへ向かうと、食卓には朝食が用意されていた。
しかし、テーブルの上に並んでいたのは――
カチカチに乾燥して表面がひび割れた粗末な麦パンが三切れと、浅い木製の皿に注がれた、底が透けて見えるほど僅かな濁った水だけであった。
エルフの母リリスが、すまなそうに眉尻を下げて手を合わせた。
「旅の皆様に、このような粗末なものしかお出しできず、本当に申し訳ありません……。現在、エレノアの町中の水路は完全に干上がり、町の中央にある深層井戸二箇所から、一世帯につき日に手桶一杯の水しか配給されないのです。貴重な水を無駄にできず、パンをふやかすことすら叶いませんで……」
見れば、キッチンの隅に置かれた大きな素焼きの水瓶五つは、すべて底までカラカラに乾ききっていた。
(水路が止まり、井戸水の配給生活か……。これは想像以上に衛生環境も生命維持も限界に近いな)
カロンは席を立つと、キッチンの水瓶の前へと歩み寄った。
「カロン?」
リアリスが見つめる中、カロンは空の水瓶の口へと右手をかざした。
「人間の姿になっても、体内の魔導回路に異常はありませんね。……『ウォータースプレー(清水噴流・流量制御モード)』」
ドババババババッ……!!
カロンの手のひらから、清らかな澄み切った冷水が勢いよく噴射された。
見る見るうちに巨大な素焼きの水瓶が満たされていき、カロンは次々と隣の水瓶へと手をかざし、わずか三十秒のうちに、五つの巨大な水瓶すべてを溢れんばかりの純度百パーセントの清浄水で満たしてみせた。
リリスは目を丸くし、口元を押さえてへたり込みそうになった。
「ま、まあ……! 何という清らかで豊かなお水……! 一滴の濁りもなく、森の湧き水のように甘やかな香りすらいたします……! 魔導士様、ありがとうございます、ありがとうございます……!」
四百八十五歳の母が涙を流して感謝する横で、リアリスがカロンの耳元へ口を寄せ、小声で囁いた。
「……カロン。人間の姿に変身させられても、あのデタラメな水魔法はそのまま使えるのね」
「ええ。術式の起動パラメーターは魂の記憶に直結していますからね。肉体の形状が変わっても、魔導の出力には何の影響もありませんよ」
カロンが何食わぬ顔で答えると、リアリスは深くため息をつき、しかしその瞳には深い安堵の色が浮かんでいた。
満たされた豊かな水で淹れたての野草茶と、ふっくらと戻したパンを美味しく平らげた後、三人は今回の最大の目的地である『大聖樹』へと向かった。
エレノアの中央にそびえ立つ聖域。
周囲を高い木製の柵で囲まれた広大な神域の真ん中に、それは立っていた。
エルフ族の守り神――『大聖樹』である。
幹の太さは大人が二十人手をつないでも足りないほどに巨大で、樹高は三十メートル以上。天を覆い尽くすように広がる枝振りは、まさに神話の巨木そのものであった。
しかし――本来であれば眩いエメラルドグリーンに輝いているはずの無数の葉は、大半が茶色く縮れて変色し、寒風が吹くたびにハラハラと大量の葉が地面へと零れ落ちていた。
幹の表皮は乾ききってひび割れ、大聖樹が発するべき生命の波動は、今にも消え入りそうなほどに弱々しく脈打っていた。
周囲には、何十人ものエルフの神官や住民たちが集まり、涙を流しながら祈りを捧げていたが、大聖樹の枯死を食い止める手立ては誰にもなかった。
カロンは柵に手をかけ、大聖樹の根元、土壌の含水率、そして大気の湿度を工学者として鋭く分析した。
(根が張っている深さは地下数十メートルにおよぶ。地表にバケツで水を数杯撒いたところで、焼け石に水だ。広大な神域の土壌全体に、地下深くまで浸透するほどの圧倒的な水分量を供給しなければ、この巨木を救うことはできない)
カロンは隣のリアリスを振り返った。
「リアリスさん。エルフの精霊魔法で、この神域の上空に雨雲を呼び寄せることはできませんか?」
リアリスは困ったように首を横に振った。
「無理よ。里の上級神官たちが何日も雨乞いの神聖儀式を続けているけれど、大気全体の湿度が低すぎて雲すら発生しないの。自然の雨を降らせるには、絶対的な水蒸気量が足りないわ」
「なるほど。ならば――人工的に雲を発生させ、力尽くで雨を降らせるしかありませんね」
カロンは広場の開けた場所へ歩み出ると、両手を高く天へと掲げた。
「えっ……? カロン、何を――!?」
リアリスが制止する間もなく、カロンは体内の全魔力を駆動させた。
前世の中山教授の頭脳が、熱力学と気象工学の計算を瞬時に弾き出す。
上空二百メートルの冷気層へ向けて、超高圧の微細水粒子を大量に打ち込み、大気を強制冷却して飽和水蒸気量を突破させる。
「天に昇りて雲となれ、大地を潤す恵みとなれ――『ウォータースプレー・レベル6』――垂直超高圧噴射ッ!!」
ドォォォォォォォンッッ!!!
カロンの両手から、超大型ロケットの噴射炎のような、途方もない激流の柱が天を突くように垂直に撃ち出された。
数千リットル、数万リットルにおよぶ純水が、一瞬で上空数百メートルの彼方へと打ち上げられ、大気の中で微細な霧となって拡散していく。
冷気と衝突した水蒸気が急速に凝結し、青空だった神域の頭上に、みるみるうちに巨大な黒々とした雨雲が渦を巻き始めた。
そして――。
ザアアアアアアアアアッッ!!!!
天が割れたかのような、凄まじい豪雨――まるで熱帯のスコールのような猛烈な土砂降りの雨が、大聖樹と広場全体へと降り注ぎ始めたのである。
「きゃあっ!?」
リアリスとメリスが咄嗟にフードを被る。
乾ききっていた広場の土が、一瞬で豊かな雨水を吸い込んで黒々と湿り気を帯びていく。
三十メートルを超える大聖樹の全身を、滝のような清らかな雨が洗い流し、枯れかけていた樹皮が潤いを取り戻して瑞々しい光を放ち始めた。
「あ……雨だ……! 雨が降ってきたぞォォォッ!!」
「大聖樹様が……大聖樹様が息を吹き返された!!」
広場にいたエルフの神官や住民たちが、ずぶ濡れになりながら天を仰ぎ、抱き合って涙を流して歓喜の叫びを上げた。子供たちが水たまりを跳ね回り、歓喜の歌声が雨音に混ざり合って響き渡る。
雨に打たれながら、リアリスが呆れたように、しかし満面の笑みを浮かべて叫んだ。
「カロン! 相変わらずやりすぎよ! でも……最高だわ!!」
カロンは魔力をコントロールし、約一時間にわたって集中豪雨を降らせ続けた。
乾ききっていた町の石造りの水路に、並々と清らかな水がゴウゴウと流れ出し、神域全体の土壌が地下深くまで完全に飽和水銀に達したのを見届けてから、カロンはゆっくりと魔法を停止させた。
雨雲が晴れ渡り、雲の隙間から差し込んだ暖かな陽光が、水滴をまとってエメラルドグリーンに輝きを取り戻した大聖樹を神々しく照らし出した。
大聖樹が奇跡の復活を遂げ、町中が狂乱の喜びに包まれる中、カロンは作業用の上着を絞りながら、冷静に周囲を観察していた。
「……ふう。これでひとまず、大聖樹の枯死という最悪の事態は回避できましたね」
「ありがとう、カロン。里の全員を代表して感謝するわ」
リアリスが心からの礼を述べる。
しかし、カロンの表情は決して晴れやかなものではなかった。
カロンは町の水路を見つめ、静かに首を横に振った。
「喜ぶのはまだ早いですよ、リアリスさん。今降らせた雨は、あくまで私の魔力による一時的な対症療法に過ぎません。私がこの町に一生住み着いて、毎日雨を降らせ続けるわけにはいかないでしょう」
「……そうね。根本的な原因を突き止めなきゃ、また数週間で干上がってしまうわ」
「その通りです。工学において最も重要なのは、現象の裏にある『根本原因の究明と恒久対策』です。なぜ、この地域一帯に半年も雨が降らなくなったのか。なぜ、水源からの水の供給が断たれてしまったのかを調査しなければなりません」
リアリスは力強く頷いた。
「分かったわ。里の冒険者ギルドへ行きましょう。あそこなら、周辺の山や森の最新情報が集まっているはずよ」
三人は町の中央広場にある、ツタと木組みで建てられたエレノアの冒険者ギルドへと向かった。
ギルド本部の規模はルーセンのそれに比べれば半分ほどであったが、館内は干ばつによる魔物の凶暴化や水源調査の依頼で、武装した大勢のエルフの冒険者たちでごった返していた。
リアリスが受付の職員に身分証を示し、ここ数ヶ月の水源の動向について詳細な聞き込みを行った。
数分後、戻ってきたリアリスの表情は険しいものだった。
「カロン、有力な情報が手に入ったわ」
リアリスはギルドの壁に貼られた地図の一角――エレノアの町の遥か北東にそびえ立つ、険しい雪山を指差した。
「この町を潤し、大聖樹の地下水脈を満たしていた主水源は、かつて『エレノア川』と呼ばれた清流だったの。その川の源流は、あの険しい霊峰『エレン山』の氷河と湧き水から流れてきていたのよ」
「その川が、完全に干上がっているのですね」
「そうなの! 三ヶ月ほど前から、エレン山からの水量が激減して、今では完全に水流が途絶えてしまったらしいわ。ギルドからも何組かの斥候パーティが水源調査に向かったらしいんだけれど……エレン山の中腹で強力な火属性の魔獣に襲われて、誰も山頂の源流まで辿り着けていないそうなのよ」
カロンの目が、工学者としての鋭い光を宿した。
「川の水が突然止まり、周囲の山に火属性の魔獣が現れた……。気象の異常乾燥と河川の遮断、両方の辻褄が合いますね。エレン山の源流で、何者かが水流を堰き止めているか、あるいは大規模な熱源によって水源そのものが蒸発させられている可能性があります」
カロンは迷うことなく踵を返した。
「行きましょう。干上がったエレノア川の川底を辿り、源流たるエレン山へ向かいます。そこに、この異常気象のすべての答えがあるはずです」
「ええ、行きましょう!」
リアリスが弓を握り直し、隣でメリスも「山登りね! お弁当持っていこう!」と元気いっぱいに手を挙げた。
枯死の淵から蘇った大聖樹に見送られ、カロンたちは大地の渇きを癒す恒久の答えを求めて、霊峰エレン山へと力強い一歩を踏み出していったのであった。




